スプーンひと匙分のお話を

✦作品集
 ミニイベント「マリアージュにはひと匙のお名前を」



Ep.2 チェス

 すっと、席を立つ男は、別のテーブルに見覚えのある女性の姿を見付ける。
 そわ、としながらも周囲を見るその姿は、男が初めて受けた彼女の印象そのものであり、視界に入れば気にせずにはいられない気質でもあり、そのテーブルに近付く。
「楽しんでおられますか?」
 そう男が声を掛ければ、穏やかな波のような髪が揺れ、ぱっと上がる視線は男を見て緩やかにその双眸を下げる。
「はい、わたくしの知らないゲームが多く、とても楽しんでおります」
「それは良かった。レディさえよろしければ、ここで互いに名を呼び合う為にもゲームに参加されますか?」
「ええ、喜んでお受けいたしますわ」
「良かった」
 にこやかに微笑みながら、テーブルの上を見れば目の前にあるのはチェス。
「レディは、こちらのルールはお分かりですか?」
「ええ、存じております」
 人とあまりこういったことを行いませんので強くはありませんが、と、加えて謙虚さを示す彼女に男は余興ですから、と微笑み向かいの席に座る。
 チェスのルールは至って単純。相手のキングを取るだけだ。ポーン、ナイト、ビショップ、ルーク、クイーン、キングの六種類の駒の役割と動かし方があり、それによる戦略を練って行う盤上戦と言えば分かりやすいだろう。頭脳戦だと言われればもちろんそうだが、案外突拍子もない手がその先で正解を導くので分からなかったりもする。
 手を打ちながら、歓談をしつつ緩やかな時間が流れる。元々互いに見知っているからこそ、過度な緊張をしていないのが分かる。それに、座っているからあまり分からないが、互いに杖を所持しており、第三の足を持つ者同士の気安さももしかしたらあるのかもしれない。
 そのような中で、チェックメイトの声が掛かる。
「まあ、負けてしまいました」
「ティア嬢もなかなかの腕でしたよ。定石をお教えしたら頭角を表しそうです」
「いえ、わたくしなんてそんな」
 そう言いながら眉を下げるティア・フォンターナに、男は自分の口元に指を立てて言葉をひそめる。
「あまりご自身を卑下されない方がいい。私は、世辞は不得手ですから」
 そう言って片目をつぶりウィンクの仕草をする男に、ティアは困ったような、それでも僅かに嬉しそうな表情を溢す。その後、胸の前でぽんと何かを思い付いたように手のひらを合わせる。
「そうです。先ほど食べたチョコレートがとても美味しく、クリスティアン様は甘いものお好きですか?」
 先程とは違う彼女の笑顔に、クリスティアンと呼ばれた男もいつもの笑みを向ける。
「甘いものは好きです。それに、ティア嬢の誘いなら乗らないわけにいきませんね?」
「クリスティアン様も甘いものがお好きなのですね。よろしければ是非わたくしのおすすめのスイーツを召し上がっていただきたいです」
 クリスティアンの諾の言葉に嬉しそうに応えるティアは、このサロンの中の穏やかな空気に似ている気がする。
「ティア嬢のおすすめは、間違いがなさそうだ……折角です。私の方からもおすすめさせてください」
 すっと立ち上がり、流れるように洗練された動作でティアの横に立ち「お手を」と差し出すクリスティアンの手をティアは笑顔で取る。
「是非、クリスティアン様のおすすめも頂きます」
「ショコラに合う紅茶も、淹れて頂きましょう」
 水面に可憐な花が咲いたような笑顔だなと、男は思いながら。そのまま彼女の足を思いゆっくりと立ち上がらせ、ショコラトリーがあるテーブルへエスコートをしながら移動をする。