井見
2026-01-26 22:07:04
13765文字
Public ライドウ二次
 

☕️🚬☕️3本セット

頒布中の『青い眼差し』より、表題作を含めた3本を抜粋してお届けします。
静かな夜に穏やかなひとときを。

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淹れたての珈琲


 鳴海がいない日というのは珍しくはなかった。バアに行ったりカフェーに行ったり、行き先には事欠かない男である。ひ弱な青年であれば心配もしようが、鳴海は大の大人の大男、自分一人くらいどうとでも面倒を見られるのだと知っているから、例え夜半、連絡一つ寄越さず探偵社へと帰ってこなくともさして気にすることはない。とはいえ人間一人しかいない探偵社は少し広く感じる。
『全く、奴はどこで油を売っているのか。またいつもの浪費癖か』
 どこか苛立たしげに鼻を鳴らすのはゴウトだ。嫌がらせか無意識か、今座る者のいない豪華で立派な所長席を陣取っている。
『うぬもうぬだ、こんな夜更まで一体何をしている? 宿題でも溜めていたか』
「いや、少し調べ物を」
 手にしているのは教科書である。しかし学校で使うものではない。ゴウトはぴょんと椅子から跳ねると、僕の座る長椅子に飛び乗って、本の内容を覗いた。
……ほう。どうせなら実践すればよかろう』
 確かに。僕は肯く。
 鳴海は珈琲をよく淹れるが、普段雑用は軒並み任せてくるというのに、こればかりは譲らない。それが却って僕の興味を掻き立てた。
 さて、と台所へ行き棚を開ける。今週は鳴海もタヱもあまり珈琲を飲まなかった。というより鳴海が探偵社を空ける日が多かった。ゴウトの言う通り、やはり豪遊でもしているのか。それにしては顔が少し暗かったように思えるが、自分が踏み入ることでもない。
 僕はその余った豆の詰まった袋を手に取る。珈琲豆は主に産地によっていくつも種類があって、鳴海はそれら異なる豆を自分の好みに混合させたものを店で注文していた。そして中身もわからず使いに寄越されるのが僕である。これが果たして珈琲として美味いのか不味いのか僕には計り知れない。僕にとって珈琲とはこの味であるとしか言えない。
 豆の袋を開くと珈琲らしき香がぷんと湧き立つが、随分前に購入したものであるから、鳴海に言わせれば「これじゃ駄目駄目だな」というやつなのだろう。思いつつ豆をカップ一杯、いや一応を念じて二杯分ミルに入れる。取手をぐるぐると回転させれば忽ち香気が立ち上る。やはり僕にはこれで充分に思える。
 珈琲を淹れる道具は数多くあるが、大掛かりでも面倒なので、戸棚の手前にあったパーコレーターを引き抜いた。バスケットの中に粗挽いた粉を入れておく。さすがは帝都最新のビルヂングと言うべきか、蛇口をひねれば水が出てくる。ケトルの中に注ぎ入れれば後は湯にするだけだ。
 ゴウトは居間でのんびりとしている。目を付けられはしまい。ポケットに入れておいた管を取り出して喚びだせば、現れるのはウコバクだ。し、と口に指を当てておけば、彼は小声で応じた。
『こいつをあっためて欲しいのかい?』
「頼む」
 ウコバコは片手にパーコレーターを持つと、底をその自慢の炎で熱した。すぐに水はぼこぼこと泡立ち沸騰する。一度止めてもらって、粉の入ったストレーナーを取り付け、今度は小さな炎でゆっくりと温めるよう頼んだ。次第につまみが色付く。電化で良いのではと常々思っていはいたが、確かに趣というものもあるのかも知れない、と心の中の鳴海の言葉に同意した。
 と、丁度探偵社の重い扉が動く音がする。ウコバクに礼をしつつ戻らせて、パーコレーター片手に扉へ出向いた。
「ただいま。明るいからもしやとは思ったけど……ライドウ、夜更かしはいけないぜ」
 鳴海には酔いなどによる上機嫌さは見られなかった。少しくたびれた様子で、冗談めかして、あるいは誤魔化すように笑っている。そのまま鳴海の視線は僕の手元へ移った。
「それ、お前が淹れたのか?」
「はい。すみません、勝手に使って」
「いや、そんなこと構わないけど……へえ、お前がねえ」
 呟くように言いながら、帽子と上着を戸口のハンガーにかけ、いつもの応接間兼居間へと向かう鳴海を追いかける。「ゴウトちゃんもただいま」と手を伸ばし叩かれる様子はすっかり普段の鳴海だ。
 僕はパーコレーターを机に置き、戸棚から普段使いのカップとソーサーを二つ並べる。一つは長机に、一つは鳴海の座る所長席に。
「あれ、俺の分もあるの」
「丁度。二杯分作ったので」
「ライドウにしちゃ気が利く。もしかして俺を待っててくれてたり?」
「するかもしれませんね」
 鳴海のカップへパーコレーターから珈琲を注ぐ。香りは湧き立つが普段のものとは少し違うか。まだ僕も一口も飲んでいないから味が全くわからない。
 いただきますと遠慮なく口を付ける鳴海に遅れて、僕も自分の分を注いで飲んだ。
 少し苦味が強い。あれだけ雑に作ったのだから当然でもある。鳴海は神妙な顔をしていて、僕は思わず「鳴海さん」と呼び掛けた。不味いなら不味いと言ってくれた方が有難い。
 鳴海はぎしりと所長用の椅子に身を預けた。
「いや、初めて自分で珈琲淹れた時のこと、思い出してさ。
 ありゃすっごく不味かったな。濃すぎたのかなぁ、苦いばっかで、香りも全部とんじゃっててさ……泥水といい勝負だった。ライドウが初めてでこれなら、あの頃の俺より断然勝ってるなって」
 鳴海が昔のことを口にするのはあまり無いことだった。僕は返答に一瞬困ったが、前に聞いた返しを思い出した。
「先生が良いからですかね」
「お。言うようになったじゃないの」
 ニヤリと笑う。いつも通りの肩肘を張らない笑顔に、僕は少し安堵した。
「せっかくだし、俺を唸らせるくらいとびきり美味い珈琲を淹れられるようになってくれよ。お前物覚え早いしさ」
「なら、もう少し先生のご教授が欲しいです」
「鳴海先生に任せなさい。
 まずはこのパーコレーターを使う時のコツについてだな……
 夜はまだまだ続きそうで、ゴウトが呆れたように鳴いた。部屋に満ちた珈琲の香りが、不思議なほど芳しかった。




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