井見
2026-01-26 22:07:04
13765文字
Public ライドウ二次
 

☕️🚬☕️3本セット

頒布中の『青い眼差し』より、表題作を含めた3本を抜粋してお届けします。
静かな夜に穏やかなひとときを。

▶︎頒布はこちらから


青い眼差し


 鳴海はカップに口をつける。その動きの隙に、ちらりとライドウの様子を窺う。
 久々に落ち着きを取り戻した今日。ライドウは久しぶりに学校へ行くらしく、学生鞄を長椅子に準備していた。きっと既に登校の準備は済ませているのだろう。いわゆるちゃんとした朝の姿を迎えたライドウは、大人しく食パンを齧りながら、ぼんやりと皿の模様でも見つめている。いつもどおり、と言いたいところだったが、探偵社に流れる空気はいつにも増して重かった。
 ライドウの口数が少ないことは、今に始まったことではない。朝に「おはようございます」と言ったきり、ひたすらに無言。「今日から安売り始まるらしいぜ」なんて言ったところで、「そうですか」で終わる。いつかしたことのあるやりとり。思い出すのは初めてライドウがやってきた頃のことだった。
 探偵社、帝都へやってきたばかりのライドウは、拾ってきた猫のように他人行儀で、最低限の交流が精一杯だった。ちょっとしたぼやきなんかは空に放られたまま、きちんと疑問文で話しかけなければ会話は続かない。場を温めるだけの世間話、中身のない雑談、そんなものはライドウの人生には無かったのだろう。だがそれも、あくまで知らなかった、慣れていなかったゆえの無口さだ。
 目の前に座っているこのライドウは違う。帝都に来てからも長くはないが、若さゆえの柔軟性か、日々の指導の甲斐あって随分と世俗に染まった。自分から話し出すことは少なくても、話しかけられた内容に対して、会話を続けるような返事ができる。鳴海調べでは八割ほどの成功率を誇った。
 しかし近頃は、ライドウとの会話は続かない。例えば今日も、開いた新聞を肴に、
「おっ、ライドウ聞けよ、いい知らせだ。
 なんとあそこのパーラーに新作が出るんだと」
 こうして水を向けみても、
「いいですね」
 終わりである。そこはこう、どんなのが出るんですか、とかなんとかあるだろ。そんな指摘は既に何度もしたことがあるし、最近のライドウならばできるはずだった。
 だのに当のライドウは興味なさげなのである。せっかくの甘いものの情報でもあるのに。これはどう見ても、会話をしたくない、できるならさっさと終わらせたい、という意志表示だろう。
 鳴海はカップをゆっくりと置いた。
 会話を拒否する理由は何だろう。知らない内に自分が何かをしていて、ライドウを怒らせている、ということが一番思い当たる。だがそれならライドウはきっぱり物を言うはずだ。「鳴海さん、またツケの件で自分が怒られたのですが」などとまで丁寧に報告してくるほどの奴が、こんな回りくどい主張はしない。
 少しの助けを求めて、鳴海はちらりと背後を振り返った。窓辺に丸まるゴウトは、鳴海の視線を受けて「にゃあ」と鳴く。だが鳴海にはゴウトの言葉はわからない。
 続けてゴウトはそのまま鳴海からライドウへ視線を動かして、また新しく「みゃおん」と鳴いた。
「そうだな……
 ライドウは呟く。いやゴウトに返事をする。
 そのまま少し慌てた様子で、台所に皿とカップを下げに行った。なるほど時計を見てみれば、いつもよりも少し遅い時間か。さしずめ「遅刻するぞ」とでも言ったのだろう、と鳴海はゴウトを再び振り返る。
「なあゴウトちゃん、」
 会話にならないと知りながら話しかけようとして、
 がしゃん、と破砕音が響いた。
 皿でも割ったか。そんな音だ。急いで台所まで様子を見に行くと、やはり足元には散乱する欠片たち。食パンを載せていた皿が粉々になっていた。その中央でライドウは、いつものとおり表情を変えずに、しかし破片の上に呆然と立ち尽くしている。宙に持ち上げられたままの両腕。どうしよう、という困惑。
「大丈夫か、ライドウ?」
 二重の意味だった。
 破片に手を切った様子はない。踏んづけてもいないだろう、ライドウは微動だにしない。怪我はなさそうだ。
 だがライドウが手を滑らせるなんて聞いたことも見たこともない。これはやはり、どこか調子が悪いのか。人と話したくなくなる時は、得てして人と話している場合じゃない、自分のことで手一杯な時だ。
「すみません、直ぐに片付けます」
 鳴海の声に我に返ったライドウは、慌てて用具入れから箒と塵取りを出した。鳴海はその二つをなめらかに奪い取る。
「いいよ、てきとうにやっとくから。
 それより遅刻しそうなんじゃないの? 行ってこいよ」
 言いながら塵取りを床に放り、散り散りの破片を箒で簡単に集めてしまう。これで安心して台所から出られるだろう。
「いえ、自分が落としたので」
 ライドウは鳴海の持つ箒に手を伸ばすが、鳴海はひらりと身をかわした。そしてライドウの手を引いて、台所から追い出す。
「はい、行ってらっしゃい。上司命令ね、上司命令」
 そう言ってしまえば、ライドウも反駁できない。鳴海は便利な言葉をここぞとばかりに振り回したあと、背中をぽんと押した。
 本当は登校もよした方がいいのでは、と言いたくなるのだが、このライドウが大人しく寝室に戻るとは思えなかった。とりあえず〝普通〟の一日を送らせて、少し様子を見ようと鳴海は算段づけながら、学生鞄を肩にかけたライドウを見送った。

   *
 
 
そして時は體育(たいいく)の授業前である。
 常日頃学生服を纏うさしものライドウも、この授業に出席するならば着替えなくてはならない。どんな授業よりも注意すべきこの儀式を、ライドウは当日まですっかり失念していた。しかし準備は抜かりなく、体操服の用意はできている。さて、と着替えようとして、
「葛󠄀葉君、ちょっと……!」
 と隣で着替えていた誰かがライドウの名を呼んだ。声色は切羽詰まっているが、周りに配慮して絞られていた。
 菊池だったか近藤だったか、その級友に、ライドウはどうした、と首を傾げた。
「襯衣(シャツ)がその、染み……
 余程慌てているらしく、上手く言葉になっていない。何故かライドウの背に一歩近づいて、
 ライドウは腰を捻って、級友が言葉の代わりに指差した位置、右手側の背中のあたりを確認した。
 やってしまった。
 襯衣の背中は薄い褐色の染みがじわりと広がっていた。しかもその中央には、急拵えで繕った穴も剥き出しだ。いくらぼろを着回しているとしても、普通の着用でこうはならない。汚された挙句破かれたような様相、どう見ても物騒な何かが起きていた。
 そして勿論、何かがあったのだ。この場所で思い出すのは悪魔との激しい戦闘。ライドウの身に襲いかかった熱波は、服の素材のおかげで発火こそ抑えられたものの、内部の皮膚を強かに焼いた。焼け爛れた皮膚は襯衣に張り付いてしまって、なんとか物は洗い落としても染みだけは取れない。あまりに酷いところは切り落として、仮の布を当ててはいるが、それ以上修理する気にもなれずに放置している。どうせ直ぐにまた汚れるのだ。着られればよいだろうと線を引くようになったのは、つい最近のことだった。
 それも普段であれば問題ない。どれだけ襯衣の身頃が汚れていても、上着を脱がなければ明らかにならない。しかし今日は着替えがあった。それを失念したまま、このぼろの襯衣を着てきてしまった。いつも時間割を念頭に入れているはずなのに、今日は駄目だった。思えば朝から全てが駄目だ。
「大丈夫かい? 何か怪我とか、必要なら保健室に……
 案ずるような声に、ライドウは一瞬目を伏せてから、その襯衣を直ぐに脱いでしまった。隠すように素早く畳みつつ、恐怖を顔に貼り付けた級友に言い訳をする。
「前に珈琲を倒してしまってな。
 中々に熱かった」
 真っ赤な嘘だが、まさか真実も言えまい。
 襯衣がどれだけぼろきれのようでも、中の肉体に傷は残っていないのだから、この菊池君だかの悍ましい想像の続きはない。襯衣が汚れている、それだけが事実だ。
「見られてしまっては恥ずかしい。
 どうか吹聴しないでくれ」
 し、と人差し指を口に当てる。
「あ、ああ……葛󠄀葉君もそういうことがあるんだな。
 僕も昨日茶を零してしまって、ノートが茶色に染まってしまった」
 級友はほっとしたような顔で、ライドウに答える。ライドウは、
「互いに気をつけよう」
 なんて当たり障りのないことを言い、会話を無理やり終わらせた。  
 
   *
 
 悪魔の使える魔法で最も便利なものは、治癒の魔法だ。ライドウはそう断言する。
 炎も氷もいつか技術が再現しようが、治癒だけはこうはならない。悪魔が一度魔法を唱えれば、血を流しても肉が削げても、次の瞬間には全てが無かったことになる。
 だからライドウの体にも、傷はあまり残っていない。いま僅かに残っている傷跡は、どれも仲魔を使うまでもない小さな外傷や、あるいは呪いを帯びるといった特別な傷。それくらいであれば、傷を誰かに指摘されても、少し派手に転んだ、などと言い訳できる。肉体だけ見ればふつうの人間と言い切ってもよい。
 
 しかし体が忘れてしまっても、脳は覚えている。

 料理の如く丁寧に、氷の息吹が貫き、火柱が舐めあげた皮膚の温度を。
 これで刀も拳銃も持てまいと、菓子のように軽々と骨の折られる音を。
 刃こぼれだらけの刃物が無理やり肉を裂き、肋骨の表面を擦る感触を。
 
 ‪──痛い。全身が。

 思わずライドウは目を開いた。暗い天井。探偵社に誂えられた自室。全身に汗が滲んでいる。
 いま傷を与えられた訳ではないのに、思い出したように体が痛みを訴えている。
 治癒の魔法も、痛みだけは拭えない。治るのは傷があったという事実だけで、発せられた刺激は消えない。 
 戦っている最中はすっかり忘れていられた。何気ない会話を交わす間も無視していられた。思考の隙間さえ無くしてしまえば、痛みがつけ入る余地はなかった。
 逆に言えば、思考が解けていくこの瞬間、眠りにつこうとする夜が最も厄介だった。
 運が良ければ何事もなく眠れる。気絶するくらい疲れ果てていてもいい。しかし駄目な時は駄目だった。一つ始まると連鎖だ。そういえばここも痛いのだった、とでも言うように、すでにすっかり治った肉体がまるで瀕死の叫びを漏らす。溜まった負債を徴収するがごとく、痛みを思い出させてくる。痛いだけで、何かできることもない。まるで意味が無い。
 痛みは耐え忍ぶしかない。それには慣れている。慣れている、が、今まで無視した全ての痛みが順繰りに襲いかかってくるのは、流石に困りものだ。
 は、と短い息が漏れた。
 額から汗が垂れた。
 拭おうと腕を持ち上げて、二の腕に激痛が走った。刀を持つ腕はよく狙われる。巨蟲の鉤爪が深く刺さって、仲魔にその脚ごと切り落とさせた。あれはよくなかった。避けられるはずだった。そんな戦いの反省すら追いかけてくる。
 考えるのをやめよう、と念じる。それができたら苦労はなかった。精神を鎮めるほどに、全ては鮮烈に蘇る。時計の針の進む音だけが未来に進む。  
 眠れない。眠れないのだ。
 ここ数日が無意味に溶けていた。
 原因はおそらく、槻賀多村の事件が一息ついたのだと思ってしまったことだろう。例えどんな大事件に一区切りがついたように思えても、この任に収束はない、はずなのに、痛覚は無慈悲に音を上げる。
 
 ライドウは諦めて身を起こした。無駄な時間を床の上で過ごすくらいならば、起きて夜明けを待つ方が少しはましだと思った。
 寝巻きのまま部屋の外に出る。学生服を着ないまま探偵社をうろつく経験は少なく、馴染みの場所も少し様子が違って見える。薄暗い廊下に一歩踏み出すと、スリッパが木の床を踏んだ。革靴と違って足音はしないが、体重をかけるとどうしても軋んで音を鳴らす。どれだけ注意をしていても、僅かにみし、といった。仕方がなかった。
 闇の中を進んで、台所へと行き着く。夜半でも水道は通っている。水を飲み、汗の滲んだ顔も洗った。すっかりと目が覚めたように思えた。
 ライドウは灯りをつけないまま、探偵社を彷徨った。自室に帰ってもすることがなかった。そう思うと、足は自然といつもの応接間へ向かっていた。
 普段は扉のすぐ近くにいるために、手すりを背にして立っている。しかし今は来客があるはずもないから、長椅子に腰掛けた。一人で座るにはかなり大きく、鳴海はここに横になることもあった。そういえば自分が気を失った際もここに寝かされていたか、とライドウは思い出した。途端に力が抜けて、背もたれに体を預けた。
 天井から吊られた飾り電燈がよく見える。埃はまめに掃いているが、そろそろ外して本格的な掃除をしないといけない。煙草の煙がすぐに汚してしまうから、見えにくいところが知らないうちに真っ黒になっている。いつやろうか。明るい日の方がいい。……そんなどうでもいいことを考えている方が、気が紛れた。
 電気をつけないままの部屋は暗いが、所長席の背にある大窓から外の明かりが漏れてくる。川沿いに設けられた電燈が探偵社を見上げているのはいつものとおりだが、それよりも今日は少し外が見えやすい。ライドウは大窓から月を探した。今日は満月に近く、闇ながらも明るい夜だった。大窓に額をくっつけると、ガラスに体温が奪われて、頭が冷えた。
 そのまま大窓を少し開けた。開けるのにはコツが必要で、ここを引きながら押すんだ、という実演を受けたことを思い出した。その記憶通りにすると、大窓はすんなりと開いた。よく冷めた夜風が、少し火照った頬を掠めて気持ちがよかった。
 普段この大窓は滅多に開けない。所長席に座っていると、窓からの風が直に当たって少し寒いらしいのと、一度請求書が風にばら撒かれて困ったこともあった。日が照っている暑い日は開けることもあったが、それほどに暑くなったのはだいぶ前のことだった。
 ライドウは夜風を背に、探偵社を振り返った。誰も座っていない所長席を、後ろから眺めた。その席から見える景色を、ライドウは確かめた。
 
 すると、ちょうどライドウの心の内を読むかのように、床の軋む音がした。噂をすれば影が差すとは言うが、とライドウは少し驚いた。
 扉が開くのを待つ時間はなかった。
「夜更かしさんだねえ、ライドウ」
 ふわ、と漏れる欠伸と共に現れるのは、やはり鳴海だ。
「ゴウトちゃんが、思いっきり俺の顔踏んづけてってさあ。俺の部屋に来るなんて珍しい……しかも起きたら逃げられてるし。こっちにゴウトちゃん来てる?」
「いえ……
「どこ行ったのかねえ。ま、いいけどね……
 鳴海は自室に戻る様子はなく、むしろぺたぺたとスリッパを擦りながら所長席の方へ寄ってくる。ライドウは逆に長椅子の方へ後退した。自分の部屋に戻ろうかと思ったが、戻ったところで、である。
 鳴海はいつもの通り所長席にかけ、悠然と肘をついた。
 ライドウは普段の柵の前でなく、長椅子にかける。わざわざ椅子からいつもの場所まで移動するのは不自然だったし、立っているのも億劫だった。
 しかしなんとなくこの構図は、依頼人の気分になって、ライドウはごくりと唾を鳴らした。
 鳴海はライドウを凝と見ていた。見透かされていた。
……ライドウ、ここのところよく眠れていないだろ?」
 ライドウは身動ぎをした。
「そりゃあ健全な青少年なら、眠れぬ夜の一つや二つあるだろうけど……お前は具合が違うな」
 気づかれていた。今日の失態を思えば驚くことでもないのだが、不調を指摘されるのは情けない。
「眠るって不思議だよな、本当に疲れてるって感じてても、無理な時はとんと無理だ」
 鳴海はことりと首を傾げる。眠たげな眼差しに隠すように、ライドウの内を探っていた。
……鳴海さんは、そういう時、どうしますか」
「時間があれば原因を探って対処すべきだろうな。時間も余裕も無ければ、酒や薬か何かで無理やり眠る……当然良くないぜ、お前はやっちゃいけないな」
 きいと椅子が回った。鳴海が足を組み替えていた。
 どうする、と聞かれているのだとライドウはわかった。眠れない理由を話せとは言わないが、話したいなら話せばいい。話せないような理由なら、あるいは話したくないのなら、おやすみなさいとこの場を去ればいい。その選択が与えられていた。
 ライドウは、小さく口を開いた。
「体が……痛むのです。それで、眠れない」
 その言葉を皮切りに、ライドウはぽつぽつと現状を説明した。傷は一つも残らず治っているのに、眠ろうとする間際に限って思い出したように無いはずの傷が痛む。
 口に出してしまえば、何と滑稽で惰弱な弱音だろうと思った。
 鳴海は笑わなかった。
「何かあるわけじゃないんだな? 痛いっていうだけで、実は本当に骨が折れてる、とか」
「ありません。感覚だけが、残っていて」
「そりゃよかった……いやよくないが。それで眠れないんじゃ、世話がない。
 今も辛いか?」
「いえ……
……じゃあ、眠ることが問題な訳か」
 ふむ、と考え込むように鳴海は口元を覆う。ライドウから外れた視線は、自分自身に向けられていた。
「傷がたちどころに治っても、痛くないわけじゃないんだろ?
 眠る前、落ち着いた時、ようやくあれは痛かったなって思い出せる……。ライドウとは比べものにならないだろうが、俺にもそういうことはあるさ。
 要らないことだと思うだろうが、そうやって偶には整理しないと、いつか何もかもわからなくなる」
 ライドウは口を引き結んだ。
「でもそれでお前が辛いんじゃ元も子もない。眠れないなんて度が過ぎる。
 なんでだろうなあ。休んじゃいけない、とか思っちゃっているのかね」
「休んじゃいけない……
 思わず復唱するが、ぴんとこない。
「ライドウは頑張り屋さんだからねぇ。
 まだまだ気が抜けないぞ、と思いたいけど、本当はやっぱり疲れてる……みたいな?
 無理もない、あんだけ働いてくれたんだからさ」
……でも、休みたいです」
 休めるのなら休みたいと思っているし、既に日常に支障が生じかけている。実際自分が何を考えているのか、ライドウ自身わからなかった。
「そうだなぁ。休んでいいんだ、って思うことか……
 ライドウの落ち着くことは? 何かあるか」
「落ち着くこと、ですか」
 落ち着く。思わずほっと息を吐く瞬間。
 長い一日をライドウは思い返した。目覚めてから、この部屋に来る時。学校や依頼のために探偵社を出て、そして帰ってくる時。
「煙草の匂い……が、すると、帰ってきたなと……思います」
 鳴海は、そう、と相槌をうつと、机に放られたままの煙草を一本咥えて、火をつけた。
 暗闇に慣れたライドウの目には、マッチ棒の燃える灯りは眩しかったが、不快ではなかった。直ぐに消されてしまう火は、小さな花火のようでもあった。
 鳴海はタバコをゆったりと吸い込んで、紫煙を勿体ぶるように放した。
 部屋に煙草の匂いが広がる。ライドウはその匂いを確かめた。かつてはどうしてこんなものを吸うのだろうと思っていたが、ライドウにとってもう既に在って当然の匂いになっていた。
 鳴海はそのまま立ち上がって、ライドウへ距離を詰めた。ライドウの座る隣に、鷹揚に腰掛けた。
 指に煙草を挟みつつ、鳴海は子供っぽく笑う。
「講義中って、寝ちゃいけないって思ってても寧ろ眠くなるだろ。それをやろうぜ」
 ライドウは首を傾げた。
「眠くはなりませんが……
「なるんだよ。お前もなる。いや……まあ、適当だけどさ。
 くだらない話、してやるよ。とても起きて聞いてちゃいられないくらいの」
 ……これは昨日タヱちゃんに聞いた話だけど……
 否も応もなく、鳴海は話し始める。その間も、紫煙が部屋を舞った。
 ライドウは再び深く息を吸った。知っている、同じ匂いだった。
 鳴海は長椅子の背もたれに腕を伸ばしながら、反対の手で煙草を支えて、つらつらと話を続ける。新聞の一記事にもならないような、本当にどうでもいいことばかりだ。あの通りの野良猫が子を産んだのは知らなかった。
 どこからこんなに言葉が出てくるのだろう、とライドウは不思議に思った。そしてどこからが作り話なのか、もしかしたら全部が本当なのか。ライドウには判別もつけられない。判別する必要もない。全ては自分のために紡がれている言葉だった。
 無理に眠ることを考えるよりも、ずっと良かった。床の上で魘されるよりずっと温かく、心地いい。このまま夜を明かしてしまって、夢見心地で次の日を迎えてもいい。ライドウはそんな風に願った。
 ……だが、そうはならなかった。
 次第に鳴海は声のトーンを落としていく。そして鳴海が口を閉じてしまえば、もうこの部屋の音は一つだけになる。
 規則的なゆったりとした呼吸音。力なく傾いたライドウの身体は重かった。
 鳴海は煙草を咥え直して、深く吸い込んだ。
 穏やかに吐かれた煙は、静かに天井へ上っていった。


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