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honeyhoneylaboratory
2026-01-25 17:46:01
14032文字
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忌書堂五条へようこそ
愛しの教え子VR2026での無配です。レンタル呪具屋の店主五条と、高専新入生の恵のお話。
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第二章 返声箱
忌書堂の戸が閉まった後、嫌な静けさが残った。
湿った紙の匂い。焦げたような呪力の残滓。そして、恵の胸に残る重い塊。静寂の中で、恵の呼吸音だけが妙に大きく聞こえる。心臓が規則正しく打つたびに、胸の奥から何かが這い上がってくるような感覚がある。
「はー
……
どうしよっかなー」
五条は頭の後ろで手を組み、天井を仰いだ。いつもの調子なら「ま、なんとかなるっしょ」で笑い飛ばすところだろう。
けれど、落ちてきた言葉は違った。
「
……
やらかした、かもな」
五条悟が、珍しく軽口を叩かない声で言った。その言葉には、非難も説教も含まれていない。ただ事実を述べているだけだ。それがかえって、恵の胸に刺さる。もし五条が怒鳴ったり、責めたりしてくれたなら、恵はもっと楽だったかもしれない。でも五条は、ただそこに立って、恵が自分で答えを見つけるのを待っている。
恵は、カウンターの上に置かれた呪具を見つめていた。視界が揺れる。呼吸が浅い。自分の判断が、誰かを傷つけた。その現実が、ゆっくりと全身に染み込んでくる。指先が冷たい。喉の奥が渇いている。でも、水を飲む気にもなれない。
それは、小さな木製の箱だった。蓋には幼い字で名前が彫られている。彫った人物の手つきが不慣れだったのか文字の線は震えていて、深さも不揃いだ。きっと、大切な誰かのために一生懸命彫ったのだろう。その痕跡が、今となっては恵の罪悪感をより深くする。
『返声箱(かえしばこ)』
持ち主が受けた言葉を、同じ重さで相手に返す呪具だ。呪いとしては弱い。だが感情に触れる分、扱いが難しい。恵はそのことをわかっていたはずだった。わかっていたのだが、貸してしまった。なぜか。守りたかったからだ。救いたかったからだ。でもその優しさが、結果として別の誰かを傷つける結果となった。
「
……
俺が、貸すって言いました」
口に出してみれば、自分の声は思ったよりも冷静だった。感情を押し殺しているのか、それとも現実感がまだ追いついていないのか、自分でもよくわからない。
ただ事実を口にすることだけが、今恵にできる唯一のことだった。言葉にしなければ、この失敗は現実にならない。そんな幼稚な逃避だけは避けたい。恵の、せめてもの気持ちだった。
「うん」
五条は恵を否定しなかった。そして、肯定もしなかった。ただそこにいる。その静かな存在が、恵に逃げ場を失わせると同時に、崩れ落ちることも許さない。五条の視線は恵を見ているようで、同時に遠い過去の何かを見ているようでもあった。
「で、結果がこれ」
帳簿が指先で軽く叩かれる。乾いた音が店内に響いた。その音は恵の鼓膜を通り抜けて、直接脳を揺さぶった。
《貸出先:高校生男子
使用目的:いじめの抑止
結果:対象生徒の精神不安定化、家庭問題発覚、二次被害》
恵は奥歯を噛んだ。帳簿の上のインクが生々しい現実を突きつけてくる。精神不安定化。家庭問題発覚。二次被害。それらの言葉の向こう側には、確実に苦しんでいる人間がいた。
救おうとした一人の代わりに、別の誰かが傷つく。相対化すれば誰かが苦しんでいるという図式に変わりはない。都合よくすべての人を助けることなどできないのは知っているが、それをわかったうえで一人を助けるのと、一人を助けたあとでやっと周りが見えるのとでは全然違う。恵の呪術師としての未熟さは明らかだった。
その客が来たのは、三日前のことだった。
高校生だった。一家で窓をやっていることから呪術界と繋がりがあり、この店のことを知ったという。
彼は、制服姿で目を伏せて「もう限界なんです」と言った。誰かに救いを求める最後の叫びのような、それでいてもう何も期待していないような、聞いているこちらが不安になる声だった。丸まった肩と背中が、まるで世界の重みを一人で背負っているようにも見えた。
無視、嘲笑、暴言。日常的で陰湿な呪いだ。少年が語る学校生活は、恵が想像していた以上に胸糞悪いものだった。朝、教室に入る瞬間の緊張。昼休み、トイレの個室に籠って一人で食べる弁当。見えない何かのように扱われたかと思えば、誰かのうっ憤を晴らすための捌け口になる。
中学まで普通の公立に通っていた恵には、学校という場所の独特な空気がよくわかった。暴走する集団心理、異質を認めない排他性。あそこでは、大人ですら害悪になりうる。
聞くに堪えなかったのだ。だから、すぐに判断してしまった。
「相手に同じ言葉を返せば、いじめはやむかもしれない」
そう思ったのだ。いじめに苦しんでいる彼を救いたい。その一心で、恵は呪具を差し出した。少年の目には、希望の光が灯った。その瞬間を見て、恵は自分が正しいことをしたと満足した。でも、それは間違いだった。
五条はあのとき何も言わなかった。恵を止めなかった。自分で選び、自分で責任を取るという一連の過程を、ただ無言で見守っていたのだ。五条の沈黙は恵への信頼でもあり、同時に、失敗する自由と痛みとを与えることでもあった。
「なんで止めてくれなかったんですか」
恵は唇を噛んだ。悔しかった。でも、五条が止めなかったわけを尋ねたのは責任転嫁ではなく、ただ知りたかったからだった。五条はあのとき何を考えていたのか。この結果を予想していたのか。もし予想していたなら、恵を止めないことで起こり得る事柄についてはどう対処するつもりだったのか。
恵の言葉を聞いて、五条は少し困ったように笑った。その笑みには皮肉も嘲笑も含まれていない。ただ、どう答えようと考えているような、そんな間があった。
五条は窓の外に一瞬視線を流してから、恵を見据えた。
「止めなきゃいけなかった?」
「
……
」
「恵」
名前を呼ぶ声が低くなった。五条の纏う空気が変わる。恵は、無意識に背筋を伸ばした。軽薄に振る舞うことの多い人だが、五条はやはり経験を積んだ大人であり、師なのである。
「君は、守りたかった」
否定ではなく、五条は恵の動機を正確に言語化した。それは確かに、恵の心の大部分を占めていた感情だった。守りたかった。救いたかった。誰かが苦しんでいるのを、見過ごしたくなかった。
「でもね」
五条は言いながら返声箱を持ち上げる。小さな木の箱が、五条の長い指の間で揺れた。その動作は、まるで壊れ物を扱うように優しく慎重だった。
「この呪具は、『正論』を武器にする」
箱の中から、かすかな声が漏れた。誰かの泣き声。一人の声ではなかった。何重にも重なったそれはそのうちセミの羽音のように空気を揺らす。いじめられていた少年のものだろうか。それとも、呪具の力で追い詰められた加害者のものだろうか。恵には、判別がつかなかった。どの声も、同じだけ苦しそうで、同じだけ絶望的だった。
「いじめてた側だって、壊れてしまう可能性がある。それを、君は想定してた?」
恵は答えられなかった。だって、想定していなかったのだ。いじめている側が壊れるという発想自体が、恵の中に存在していなかった。被害者を救うことだけに意識が向いていて、加害者の行く末など考えもしなかった。加害者は悪いことをした。善人じゃない。だから、何が起きても仕方ない。そんな単純な図式が、恵の中にはあったかもしれない。
「彼らは悪いことをした。なんでだと思う? 未完成だからっていうのは、理由のひとつかもしれない」
五条は静かに続けた。その声音には、何か遠い記憶を辿っているような響きがあった。まるで、過去の自分が見てきたかのような。
「壊れた未完成品は、周囲を巻き込むんだ」
実際、そうなった。呪具の影響で精神的に追い詰められた加害生徒は、家庭内で暴れ、結果として別の人間を傷つけた。
呪術師は、目の前の人ただ一人を救うためだけに動いてはいけない。結果を予想して、起きうる事象に対してどう振る舞うのか、対処するのか見捨てるのか、見捨てるならなぜ見捨てるのか。そういうことまで考えたうえで、介入する。空間的、そして時間的な視野の広さがなければいけない。
「
……
俺、」
恵の声が、わずかに震えた。喉の奥に何かが詰まっているような感覚。それでも、言葉を絞り出す。
「正しいと思った」
「うん」
「救ったつもりでした」
「うん」
項垂れて床を見つめる恵に、五条はそこで初めて、はっきりと言った。
「失敗だね」
短い言葉だった。逃げ場はない。恵の胸に、その言葉が突き刺さる。でも不思議と楽になった気もした。曖昧にされるより、はっきり失敗だと言われる方がいい。失敗を失敗として認めなければ次には進めない。
「でもね」
五条の言葉は続いた。サングラスに隠れてその瞳は見えないが、彼の視線が恵を捉えているのはわかる。重いが、冷たくはない。
「これは、取り返しのつかない失敗じゃない」
「
……
そんな保証、どこに」
「ないよ」
恵の声に被せるように、五条が言う。五条は嘘をつかない。つまり、取り返しがつくかどうかは、これからの恵の行動次第だということだろう。失敗をどう受け止め、どう活かすか。それが、呪術師としての成長を決めるのだ。
「だから恵、覚えなさい」
五条は、恵の額を指で弾いた。痛かった。でも、その痛みが恵の意識を現実に引き戻す。
「呪具ってのはね、正義感とめーっちゃ相性が悪いわけ。まっすぐで正しい気持ちほど刃になる」
泣きたかった。悔しさ。自分への怒り。もう二度と同じ失敗はしたくないと思った。それらが混ざり合って、胸の中で渦を巻いている。目頭が熱い。唇が震える。でも、絶対に泣くもんかと踏ん張った。
恵は、自分の気持ちから目を逸らさなかった。逃げたい。ごまかしたい。でもそうしたら、自分はまた同じ失敗をするだろう。軽率に間違える。自分の選択の結果に鈍感になる。そんな自分は嫌いだ。
「
……
次は」
声が掠れる。それでも、恵は言葉を紡いだ。
「もっと、考えます。ちゃんと、よく考える」
五条はしばらく黙っていた。窓の外を見るその表情は、とても静かだ。いつの間にか雨が降り始めていた。窓ガラスを伝う雨粒が、店内の光を歪めている。まっすぐにしか走れないはずの光ですらこうなのだ。道標があってなお道を逸れてしまう人間という存在は、未成熟で不確かなものの象徴なのかもしれない。
「そうしな」
五条は静かに言った。
「君がもし今誰かを傷つけたって自覚していて、それを悔いているのなら、君はまだ呪術師を諦めないでいい」
五条は返声箱を萌黄色の布で包むと、恵が見ている前で鍵付きの棚にそっと戻した。次にこの呪具が棚から出されるとき、自分はきっと今日のことを思い出すだろう。
「でも、僕と約束して」
「約束?」
「うん、約束」
恵が頷くと、五条は続けた。
「失敗を隠さないこと」
「はい」
「そのときの気持ちを忘れないこと」
「はい」
「それから、一人で背負わないこと」
五条は最後に少しだけ声を和らげた。優しいけれど、どこか寂しそうな声だった。恵にはこう言ったけれど、自分はずっと一人で背負ってきたのだろうなと思った。
だから五条はこんなにも優しく、こんなにも厳しい。失敗の痛みを知っているから、恵に同じ道を歩ませたくない。でも、失敗から学ぶことの大切さも知っているから、あえて止めなかった。きっと、そういうことなのだ。
日は、随分前に暮れていた。けれども忌書堂の明かりは灯ったままだ。外はすっかり暗くなり、たまに聞こえるのは路地を家路に急ぐ人の靴の音。店内には、古書の匂いと淹れたての茶の香りが漂っている。
五条が愛用するガラスペンをインクに浸すと、恵は帳簿の余白にこう書いた。
※守りたい気持ちが、他者を壊すことがある。
書き終えたあと、ペンを置いて深く息を吐いた。胸の奥の重さはまだ消えない。でも、その重さを背負う覚悟は少しだけついた気がする。
この重さは、恵が呪術師として生きていく限りずっと持ち続けなければならないものだ。
ふっと手元が暗くなり、見上げたら五条がいた。
「五条さん」
「遅くなっちゃったね。雨も降ってるし、今日はここに泊まったら」
慌てて時計を見れば、もう二十二時を過ぎていた。忌書堂から恵が入寮している高専までは、電車を乗り継いで一時間半はかかる。
「夜蛾さんには言っといたから」
「
……
ありがとうございます」
大人同士でそう決めてくれたならそれでいいかと頭を下げた。
「ねえ、恵。今回君は、難しい方を選んだね」
恵は答えなかった。いや、答えられなかった。何を言えばいいのかわからなかったからだ。貸す選択と、貸さない選択。『貸さない』を選ぶのは、ある意味では楽なことだ。だって責任を負わなくて済む。けれど、恵は『貸す』を選んだ。そういう意味では、確かに恵の選択は「難しい方」だったろう。
よくわからずに首を傾げた恵に、五条は軽く笑った。
「失敗しちゃったけどさ、恵は本気でやったでしょ?」
「ほんき
……
、でした」
「ちゃんと選べて偉かったね」
思いがけず褒められて、顔が熱くなった。まるで子ども扱いだったのに、その甘やかした言葉こそ欲しかったというように気持ちが柔らかくなる。うっかり泣きそうになって洟を啜れば、五条は大きな掌で恵の頭をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
「次はもっと上手くできるさ。よーしよしよし、今日はサービスでいっぱい頭ナデナデしちゃう。追加料金は心の成長で払ってくれればいいよ」
手の甲で滲んだ涙をぬぐい、恵は大きく頷いた。失敗の重さは消えない。でも、その重さを持ったまま前に進むことはできる。だって、五条はそうしてきたのだから。
夜更け、五条が用意してくれた食事を向かい合って食べた。柔らかく煮たうどんは、恵の胃を優しく温めてくれた。
続く。
[こうして恵は、忌書堂店主の五条の下で呪術師としての姿勢を学ぶことになりました。原作軸から少しズレた世界観の五伏です。6月のイベントで本にする予定です]
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