わからん
2026-01-11 19:59:08
34334文字
Public くさひぐ
 

【篤寛】猫又

猫又と入れ替わってしまった日車が再び日下部の世話になるくさひぐ
・日車が猫になってしまった話( https://privatter.me/page/68a3172739ca5
・日下部が猫になってしまった話( https://privatter.me/page/68bf8ae548727
を踏まえたお話になっています。
※捏造祭りのため何でも大丈夫な方向けです。
※猫又の出番が多めです。
※猫が痛めつけられたり、捨てられたりといった描写があります。苦手な方はご注意ください。
猫を痛めつけていたモブは本編でちゃんとボコられています。





 補助監督たちとの打ち合わせを終えて職員室に戻ってきたら、自分のデスクに猫がいた。
 白と黒のまだら模様。耳の周辺から背中にかけての毛並みは黒く、口周りと腹は白い、いわゆるぶち猫——それが、閉じたノートパソコンの上に陣取って昼寝をしている。
 呪術高専は猫を飼っていただろうかと疑問に思いつつ、なんとか起こさずにどかそうと猫に腕を伸ばした日車は、猫の黒い尻尾が二本あることに気がついた……待て。二本だと?
「そこにいやがったか」
 職員室の入口から聞き慣れた声がした。日下部が後頭部をかきながら日車の元に近づいてくる。右頬には細かな傷が浮かび上がっていた。今朝、会ったときにはなかった傷だ。細く、何本も筋のように走っている。
 日車は猫に視線を戻した。
「日下部。これは——
「ご覧の通り、猫又だな」
 半目で日下部を見たものの、何の反応も寄越さない。なおもじっと日下部の顔を見つめる。無言の非難を感じたのか、彼は眉根を寄せたが、それが苛立ちから来る表情ではないと知っていた。こちらに呆れているか、己の説明不足を悔いている顔だ。たぶん後者だろう。
「長生きした猫は、尻尾の先が二つに分かれることがある」日下部はコートのポケットに両手を突っ込み、ようやく日車のほうを向いた。「あんたも一度くらいは聞いたことはあるだろ」
「ああ。だが、それは妖怪だろう。実在するとは知らなかった」
「妖怪ねえ。ま、非術師の社会じゃあ、そう呼ばれるのもしょうがねえわな」
 日下部がポケットから出した手で、猫又の頭や顎を優しく撫で回した。猫又はうっすらと目を開けたが、撫でられるのが気持ち良いのか、顎を持ち上げてごろごろと喉を鳴らしている。
 愛らしい、と思う。日下部の口元も心なしか緩んでいるようだ。
付喪神つくもがみって知ってるか」
「いいや。説明してくれ」
「元は呪具から派生した呼び名のひとつでな。人間が長いあいだ使い込んだ道具なんかに呪力が流れると、稀に意思を持ち、動き回るモノになる」
 なるほどと呟き、日車は顎に拳を当てた。「呪力が流れると動くモノ……。呪骸とは違うのか? それに、猫は道具ではなく生物だ」
「呪骸はそれを作る明確な目的があって、人工的に生み出されるものだ。それに、呪骸の素材が長く使われた道具だとは限らねえ。付喪神とはそもそもの前提が異なる」
 猫はごろごろと喉を鳴らしながら寝返りを打っている。そんな硬いところに寝そべって、体が痛くなったりしないのだろうかと、日車はぼんやりと思った。
「で、猫は道具じゃなく生物だってのは、何て言えばいいか……そうだな。人間も同じだろ。生きていれば生物扱いだが、そうじゃなくなったときは——おわっ」
 日下部が抱き上げようとすると、猫又はするりと腕から抜け出してデスクの上に座り込んだ。その後も椅子の上、床、またデスクの上と、日下部の腕から逃れ続ける。日車は思わず半歩ほど後ずさった。猫が逃げるたび、日下部の眉間に刻まれる皺の数が増えていく。
「なるほど、わかった。猫又とは、死んだ猫が呪力によって生まれ変わった後の姿か」
「その通り。猫又の扱いはあくまでも呪具ってわけ。それでも元生物だし、命の定義をどうすんだって話もあるから、その辺は議論の余地が——おい、ちょこまか逃げんな!」
 日下部の声に猫はびくりと体を震わせると、デスクの下へと隠れてしまう。そこから出てくる気配はない。しゃがんで覗き込もうとした日下部が悲鳴とともに後ずさった。顔を引っかかれそうになったらしい。真新しい引っ掻き傷が浮かぶ右頬を押さえ、あぶねえと呟いている。
「なぜ捕まえようとしているんだ」
「今朝、補助監督が通勤途中に捕獲したばかりでな。色々と検査したいんだと」
「誰が」
「家入とパンダ」
 日車は二人(正確に言い表すなら一人と一個体だが)の様子を想像してみた。怯える猫又を手術台の端に追い込み、シリンダーやメスを手に悪い笑顔を浮かべている……。日車は軽く嘆息すると、なおも机の下へ潜り込もうとする日下部を制止した。
「検査というのは具体的に何を?」
「呪力量とか呪力のコントロールとか、呪術師向けの検査だな」
「それなら急ぎではないはずだ。怖がっているだろう、知らない場所に連れてこられて怯えている。もう少し落ち着いてから来たらどうだ」
「家入がうきうきで準備してて催促されてんだよ。猫又は存在自体がレアなうえに数十年ぶりの発見だから、脱走されたら困るし」
「それは人間の都合だ」
 日車は日下部の隣にしゃがみ、机の下を覗き込んだ。猫又は隅で毛を逆立てていたが、日車の姿を見ると僅かながら雰囲気が和らいだ。
「怖がらなくていい。隣の顔が怖いおじさんとは違って、俺は君をどこかへ連れていったりしない」
「オイ」
——おいで」
 両腕を伸ばすと、猫又は警戒しつつも近づき、日車の手のひらに鼻先を寄せてきた。においを嗅ぎ、そっと頭をすり寄せてくる。そのまま胸元まで歩み寄ってくれたので、日車は猫又の体を抱き上げた。
 温かくて柔らかい。大きく開かれた目を覗き込んで、瞳の色がアイスグレーだと気がついた。指先で下顎をくすぐってやる。先ほど日下部が撫でたときと同じく、喉を鳴らす音が断続的に聞こえてきた。
「やけに手慣れてんのな」と、日下部が横から茶化してきた。
「小学生の頃、近所の男子が猫を飼っていた」猫又を抱えなおし、日車は事務椅子に腰掛けた。「家入の元には様子を見てから俺が連れていく。彼女にもそう伝えておいてくれ」
 わかったか、と日下部の顔を見上げる。不満そうだった。彼の目をじっと見つめ返す。
 最近気づいたことだが、日下部はこういう、無言の押しに弱い。換言すると、押せば通る——案の定、日下部は長大な溜息をつきながら肩をがっくりと落とし、後頭部をかき回しながら日車に背を向けた。
「へいへい、わかりました。あとは頼んだからな」
「ああ」
 そのまま立ち去りかけた日下部が踵を返し、日車の元へ引き返してくる。訝しがる日車に向けて顔を寄せるよう手招くと、日下部は神妙な顔で「なあ、日車」と呼びかけてきた。
「今日のご予定は?」
 なぜ小声で会話する必要があるのだろう。日車は首を傾げつつ、彼と同じように小声で返した。
「高専で事務仕事だ」
「早く上がれそう?」
「少し残業はするだろうが、まあ」
「俺も早めに上がれそうだから、今日の夜はうちに来ねえか」
 数秒の間を置き、日下部が肩を揺らして低い声で笑いだした。大声を上げられないからだろう、腹を抱えて小刻みに震えている。突然何なんだと発した自分の声は、思ったよりも拗ねた響きを持っている。
「お前と猫の顔があまりにもシンクロしてたから」
 笑いながら切れ切れに言われ、日車は腕の中の猫又に視線を落とした。きょとんとこちらを見上げてくる瞳には、同じく不思議そうに猫又を見下ろす日車自身の顔が映っている。日車は嘆息し、目の前で呼吸を整えている日下部に視線を戻した。
「いきなり笑うのは失礼だ」
「悪い悪い。けど、元々の雰囲気がちょっと似てるし」
 二度目の溜息をつく。ようやく落ち着いたらしい日下部が背筋を伸ばした。
「で、お誘いの件は?」
 三度目の溜息をつきかけて、やめた。動物は人間の気分を察知しやすい。自分が不機嫌になりすぎても、猫又を怖がらせてしまうだけだろう。
「退勤の目処がついたら連絡する」
「わかった。じゃあな」
 日下部が猫又の頭を撫でようと手を伸ばしてきたが、すかさず振り上げられた前足に叩き落とされていた。咄嗟に堪えたものの、鼻で笑ってしまったのは不可抗力だ。日下部は不満げに唇を尖らせ、背中を丸めて職員室を出ていった。
 やれやれと呟きながら猫又を見下ろす。「困ったものだ。君もそう思わないか、人の顔を見て笑いだすなんて」
 返事はなく、不思議そうな表情で見つめ返されるだけだった。それにしても綺麗な瞳だと、日車も猫又の顔をまじまじと観察した。明るい部屋にいるため瞳孔が収縮され、アイスグレー色の角膜が目立つ。日本人の瞳の色は大抵、黒や焦茶色である。鮮やかな色の瞳を持つ人間は欧米に多いのだろうが、ここまではっきりとした色彩を持つ者はそういないだろう。吸い込まれそうな、とはまさにこのような瞳をいうのだろうなと日車は感心した。
 猫又は日車から目を逸らさない。じっと無言で見上げ、首を傾げた。その瞳には日車が映っている。日車もまた猫又の両目を、その瞳に映る自らの姿を見つめ返し——

 ——気づいたときには、空中へまっさかさまに落ちていた。

(何……!?)
 一瞬にうちに何があった? 呪霊か呪詛師による攻撃か? しかし、呪力の気配は今までひとかけらも感じられなかった。第一、ここは呪術高専の中だ。襲撃など到底考えられない。
 眼前に床が迫っている。日車は本能的に体をくるりと回転させ、音もなく着地した——四本足で。
……ん?)
 右腕を持ち上げ、目の前に持ってきてまじまじと観察する。
 毛が生え、肉球が備わった……
 猫の足だ。
 愕然とし、日車は左の前足、胸元、そして尻尾へと頭を振りながら自らの体を見回した。どこを見ても毛むくじゃら……間違いない。今の日車は猫になっている。白と黒のまだら模様、そして尻尾の数は二本。ということは、つまり。
「日下部」
 己の声が聞こえ、日車は慌てて背後を振り仰ぐ。
 信じ難いことに、そこには自分自身が立っていた。
 人間の日車寛見は自身の両手を見下ろし、やがて顔を上げて周囲を見回す。それは猫が見知らぬ土地へ来たとき、周囲の様子を観察するときの仕草にも似ていた。野生の獣のように用心深く、しかし隠しきれない好奇心を滲ませて。
 猫又となってしまった日車が駆け寄るよりも早く、人間の日車は踵を返して職員室の出口めがけて走り始めた。
 ——まずい……
 日車もまた慣れない四つ足を操り、彼に追いつこうと駆けだす。
 あれは——彼は日車寛見の見た目をしているが、無論、中身は日車ではない。
 本物の自我はどういうわけか、猫又の中に入ってしまった。では、猫又の自我はどこに行ってしまったのか? 現状、考えられる結論はひとつしか思い浮かばない。
 人間と猫、歩幅を考えればその差は歴然としている。その上、猫の体の動かし方は人間のそれとは遥かに異なり、全力で駆けようとするとあっという間に手足がもつれてしまう。人間の自分を追いかけて廊下へ飛び出した日車が見たのは、日下部の背中へ猫のごとく飛びかかる、日車寛見の後ろ姿だった。
「日下部!」
「はいはい、そんなに大声で呼ばなくても聞こえるって。何ですか日車サン……えっ」
 ——日下部、逃げろ!
 そいつは俺じゃない!
 警告は虚しく、鳴き声として発されただけだった。
 猫又の切羽詰まった鳴き声と日下部の悲鳴、そして日車——猫又の自我が入った人間の日車寛見——の無邪気な笑い声が同時に上がる。次いで、大の大人ふたりが倒れ込む派手な物音が、廊下中に響き渡った。

「なあ、そろそろ機嫌直せって」
 日車はクッションが敷かれた助手席の上で丸まったまま、低い唸り声を上げた。人の言葉ではなくとも、日下部の言葉に反対の意を示したことくらいは容易に伝わるだろう。
 案の定、日下部はハンドルに額を預けて長い溜息をつく。信号が青になった。日車が鳴いて知らせる前に彼は顔を上げると、車を発進させた。
「あんたの意見を無視したのは悪かったと思ってる。けどな、あんな状況で家入のところに連れていかないほうがあり得ねえだろ。人間と動物……付喪神の中身が入れ替わるなんて、前代未聞だ。検査しまくるに決まってる」
 嬉々として検査器具を操っていた家入の様子を思い出し、日車は顔をしかめた。あんなに嬉しそうな彼女の笑顔を見たのは、あれが初めてだったと言っていいだろう。日車の身に起きたことは確かに災難だが、見方によっては良い側面もあったのだ。例えば、人の言葉を解するとか、検査中は大人しくしてくれるとか。
 だからといって、何時間も拘束されるのはこりごりだ。
 小さな体の操り方は未だに慣れず、人間の体よりも疲れやすい。日車は前足に顎を預けて目を閉じたが、日下部の話は続いている。
……俺も昔の文献を漁ってはみるが、元に戻す方法を見つけるにはけっこうな時間がかかるだろうな。そもそも、付喪神の専門的な研究者がここ数十年の間にいたかどうか……。同じ傀儡呪術学の研究者とはいえ、夜蛾さんの専門はあくまでも呪骸だったしな。どっちみち焦っても良い結果は出ねえ。すぐに死ぬわけじゃねえんだから、あまり深刻に捉えすぎるなよ」
 片目を開けて日下部の横顔を窺う。視線を感じたのか、日下部もまた横目で助手席を見遣ると、唇の片端を引き上げた。
「お前も災難だな。また猫になるなんて」
 数ヶ月前の出来事を掘り起こされ、日車は体を一層丸めて呻いた。思い出させてくれるなという懇願である。
 今から数ヶ月前、日車は呪霊の攻撃によって黒猫に変身してしまった——しかし、その間の記憶はなく、世話してくれた日下部は当時のことを聞いてもほとんど教えてくれない。「自分だけの思い出にしておきたい」の一点張りで、おそらくは日車が猫の間にしでかした粗相を慮ってくれているのだろう。それゆえ、気を遣われている側の日車としては居た堪れず、そっとしておいてほしい話題なのである。今回、人間としての意識が残ったまま猫又と自我が入れ替わったのは、果たして不幸中の幸いと言って良いものか。
「ま、気楽に行こうや。あいつの面倒も一緒に見なきゃならないんだしよ」
 日下部の言葉を受けて、日車は後部座席にちらりと視線を送った。シートに深く身を預け、寝息を立てているのは人間の日車だ。そして、今は猫又の自我が入っている。
 猫である日車の口からは自然、猫らしからぬ深い溜息が漏れ出ていた。自身の身に降りかかった災難、そしてこれからの苦労を考えると、必然的に気が重くなってくるのだった。
 日下部が住んでいるマンションへ着く頃には、外が暗くなり始めていた。猫の姿でなければ仕事が早く終わった、日下部と過ごす時間が増えたと喜んでいたはずなのにと日車は悲観し、のそりと起き上がる。日下部が運転席のドアを開けて出たので、彼の後から飛び降りてコンクリートの上に着地した。四本足の使い方はだいぶ慣れてきて、跳躍や着地も思いのままだ。猫の体の柔軟性には驚かされる。ストレッチをしろ、と渋い顔をした日下部から日々言われていたが、人間の姿に戻ったら彼の言う通りにしようと決意した。無論、人間の姿に無事戻れたらの話だが。
 日下部が後部座席の扉を開けた。人間の日車の肩をゆすり、おいと呼びかける。
「着いたぞ。起きろ」
 人間の日車の眉間に皺が寄り、首を振って目を開けた。ぼんやりと日下部を見つめ、やがて柔らかな笑みを浮かべて車の外に出る。自分が絶対にしない表情だと猫の日車は思い、全身の毛が逆だったような感覚を覚えた。日車は実際にぶるりと身を震わせ、人間の自分の後ろを歩いてついていった。
「メシの用意するから、ここに座って待ってろ」
 帰宅してすぐ猫又——人間の日車——はリビングに誘導され、日下部が両肩に手を置いて問答無用で椅子に座らせた。待っていろという日下部の指示に猫又は頷き、ぼんやりと周囲を眺めている。キッチンに向かいぎわ、日下部は未だ玄関に居座っている猫の日車に目配せをして、背後のリビングを親指の腹で指さした。見張っていろという意味だ。日車は短く鳴いて同意し、リビングへと向かった。
 見慣れている部屋のはずなのに、こうも目線の高さが変わると、知らない世界に放り出されたかのような奇妙な感覚に襲われる。車、マンションのエントランス、玄関、家具。日下部も、そして人間の自分も、まるで巨人だ。ここは巨人が支配する世界で、猫の自分は矮小な、非力な存在に過ぎないのだと錯覚してしまう。
 日車は猫又の足元に近づき、その指先に腹いせで噛みつくか悩んだが、結局は己の良心によって思いとどめた。テーブルを挟んで猫又と向かい合って置かれている、空の椅子の座面に飛び上がる。テーブルの天板に飛び乗り、猫又に近づいた。
 周囲を興味深げに見回していた猫又は、日車の接近に気づくと彼をじっと見下ろした。黒い瞳からは何を考えているか読み取れない。日車はテーブルの中央で立ち止まり、四肢を踏ん張らせて恐怖心を押し殺した。
「猫又」
 呼びかけは鳴き声にしか変換されない。しかし、テーブルに置かれていた猫又の手が、ぴくりと動いた。
「俺の体を返せ。目的は何だ」
 猫又は日車を見下ろしたまま無言を貫いている。自分の尻尾がピンと垂直に立っているのがわかった。日車は相手の挙動を一つも見逃さまいと、瞳孔を見開きながら一歩ずつ近づいていく。
「君は呪霊なのか? あるいは呪具か? それとも、どちらにも属さない、呪力を持った『モノ』なのか。日下部いわく君は呪具らしいが、それも怪しい——
「日下部」
 日車は口を閉じた。しかし、猫又が何かを言ってくることはない。日下部の名前に反応しただけだった。
 猫又の眼前に辿り着く。日車は目の前に前足を揃えて座り、精一杯首を伸ばして猫又の——人間の自分の顔に、猫の顔を近づけた。
 黒い瞳に映る猫は、鋭い牙を剥き出しにして目の前の人間を威嚇していた。猫の足にも気を払えば、毛の隙間から爪が飛び出ていることにも気づけただろう。猫は肉食動物だ。かつて動物を狩る生きものであったことを示す威圧的な表情にもしかし、猫又は一切の反応を示さない。
——日下部に危害を与えるつもりなら、たとえ自分の肉体が相手だろうと、容赦はしない」
 日車が決然と言い放った瞬間、猫又が顔をぐっと寄せてきた。突然のことで驚き、日車は全身の毛を逆立てて後ずさった。猫又はさらに顔を近づけ——視界いっぱいに人間の日車の顔が広がる。
 見開かれた目の中央で、小さく収縮した黒い瞳孔が、猫の日車を凝視している。
 生温かい吐息が顔にかかって毛を震わせた。なぜかは理解できないまま日車の心臓は一気に心拍数を上げ、今すぐ逃げ出したい恐怖に襲われた。猫又には表情がない。限界まで開かれた目はいったい、己の何を見ているのか。日車はその場に縫い止められたように身動きできず、威嚇する選択肢すら頭の中に浮かんでこなかった。
 人間の腕が伸びてくる——頭を掴まれる! 反射的に身を竦ませた日車の体に恐れていた衝撃は訪れず、猫又の指先が日車のひげをぴんと弾いた。
…………む」
 つまみ、引っ張って、離す。それに飽きると、今度は日車の頬を直接つまみ、引っ張る。
……何をしている」
「ふふっ」
 それが自分の——人間の自分の口から発せられたものだと、理解するのが遅れた。
 猫又の両手は猫である日車の頭を無遠慮にかき回し耳やひげを引っ張り、背や腹を撫でてくる。
「おい、やめ——
「ふふふっ」
 ついに体の均衡が崩れて日車は横向きに倒れた。猫又の眼前へ腹を無防備に晒すことになり、まずいと思ったときには後の祭りである。しっちゃかめっちゃかに体中を撫で回されて日車は悲鳴を上げた。それは自分の耳に甲高い鳴き声となって聞こえてくる。
「や……やめろ! 聞いているのか……ううっ」
 くふくふと忍び笑いが降ってくる。日車は猫又の手から逃れようと体を捩り、転がることを繰り返す。そのたびに猫又が日車の体を両脇からしっかと掴んで、己の手元へと引き戻すのだった。日車は拳や蹴りを繰り出そうと試みるが悲しいかな、相手の体にまったく届かない。もう何度目になるのか、猫にとって人間がいかに巨体であるかを突きつけられて無力感に苛まれる。
 無力感は猫の体から抵抗する意思と力を奪い、人間に対しての諦念を胸の内側に生じさせる。こんな強大な生物に抗っても無駄だ。されるがままにされていよう。どうせこの生物は体を撫で回してくるだけで、こちらに害を与えるつもりなどないのだ。ほんの少しの辛抱だ、耐えていればいい……
 現在置かれている状況から外へと意識を連れ出していた日車は、そのせいで自身の体に訪れていた変化に気づくことができなかった。人間の手に撫でられていると、なぜか体がどんどん温かくなっていき、思考がぼうっとぼやけていく。その感覚は例えるなら、真冬に羽毛布団の中へ潜り込んだ瞬間のようだった。つまりは——信じ難いことに——人間に触られ、撫でられるのが、いつしか心地よく感じてしまっていた。
 日車はぼんやりと目を開閉させ、自分の体を撫でる手を四本足で追いかけた。猫の頭を容易く掴めそうな、巨大な手だ。しかしその手つきは優しく、温かくて、体を撫でられるととても安心するのだ……
「ちっとばかし目を離した隙に、ずいぶんと仲良くなってら……
——はっ」
 呆れ混じりな日下部の声が頭上から聞こえ、日車は我に返った。驚いた拍子に声が出てしまったが、その鳴き声のなんと甘ったるいことか! 日車は猫としての己の体がすっかり寛ぎきり、それどころか人間が撫でやすいよう、自ら仰向けに寝転がって腹をさらけ出していることに気がついた。慌てて体を反転させながら起き上がり、首を振って脳内にかかった靄を振り払おうと奮闘する。
「日下部」
 この嬉しげな声は人間の日車、つまりは猫又である。日車は顔を上げ、己を翻弄した元凶を睨みつけるが、猫又はこちらではなく日下部の顔を見上げていた。
「メシができたぞ」日下部は素っ気なく答え、胸の前で腕を組んだ。「あんた、フォークとかスプーンの使い方はわかるのか?」
「わかる。見たことがある」
 それは猫又が初めて「日下部」以外に発した言葉だった。舌足らずな発音だが、言語としての意味は為している。日下部は頷くと布巾をテーブルの端に置いた。
「これの使い方はわかるか」
「わかる」
「よし。拭いておいてくれ」それから日下部は猫の日車に視線を移した。「あんたはどこで食う?」
 日車は右の前足を掲げ、テーブルの天板を叩いた。ここで食べるという意思表示だ。そして猫又が布巾を手に大雑把へ動かす腕を避けるため、テーブルから飛び降りた。……
 食事と入浴を、猫又は「見たことがある」からとそつなくこなした。四本足の扱いに未だ慣れない日車とは異なり、猫又は随分と器用らしい。
 一方で疑問も残る。補助監督は猫又を道端で拾ったと言っていたし、猫又の首に首輪はついていなかった。つまり、呪術高専に保護される前まで、猫又は野良猫として生きていたはずだ。なのに、人間の食事のみならず入浴も知っていたということは、以前は人間の保護下で生活していたのだろうか?
 日車は日下部によって体を洗われながら考えていたが、泡が目の中へ入りそうになり、慌てて目を瞑る。日下部の手は後頭部から背中へと移動し、それを心地良く思うと同時に戸惑ってもいた。猫の体というのはやはり、人間の体と五感がまったく異なる。猫にとっては当たり前の感覚でも、日車にとっては不慣れな感覚で、人間の体に戻りたいという欲求が刻一刻と膨らんでいくのを感じる。焦っても良くないことはわかっていたが、それでも望まずにはいられなかった。
 泡が耳の中へ流れ落ちてきた。くすぐったさが全身を駆け抜け、思わず体を震わせてしまう。
「うわっ」
 背後から悲鳴が聞こえ、しまったと日車は俯いた。泡が日下部のほうに飛び散ってしまったのだろう。日下部の手がシャワーを掴み、ぬるま湯が全身に降りかかった。
「悪い。変なとこに入ったか?」
 小さな声で鳴いて同意する。急に動いてすまなかった——彼は日車が発した鳴き声の意味を正しく理解した。気にすんなと答え、日車の体から泡を洗い流してくれた。
「さっき、伊地知から連絡があった」
 低い声で日下部が言う。日車はぴんと耳を立て、彼の言葉を拾うことに集中した。
「呪術高専が持ってる資料の中で、今の状況に似たものは見つからなかったらしい。そもそも、猫又に関する資料自体が二つ三つしかなかったらしくてな……。全部、夜蛾さんが保管してた資料だ」
 日車は再び小さい声で鳴いた。相槌だ。どんなに悪い知らせでも冷静に聞ける準備ができている、という意思表示でもある。
「今は京都校と旧御三家の資料を見せてもらってるらしい。けど正直なところ、うまく見つかるかどうか確証は持てねえな」
 日下部の声は普段よりも低く、彼が意気消沈していることが容易に読み取れた。
 人の言葉を操れないのがもどかしい。日車は先ほどよりも声量を上げて鳴いたが、彼にどのように伝わっただろうか。否定? 同意? あるいはそれ以外の意味としてか? 日下部はしばらくの間黙り込んだ。気まずい沈黙だった。日車は自身の耳が垂れ下がっていることを自覚した。
……何日かしたら、憂憂がこっちに来る予定だ」
 日下部の言葉は先ほどよりも掠れていた。
「あいつの術式で元通りにできるか試す。それでも駄目だったら、また別の方法を探す——
 たまらず背後を振り向くと、シャワーを遠ざけた日下部がひどく苦しげな表情を浮かべているのが、立ちのぼる湯気越しにはっきりと見えた。
——日下部」
 声は鳴き声にしかならない。それでも語らずにはいられなかった。
「暗い顔をするな。俺は大丈夫だ、いくらでも待っていられる」
 日下部の沈痛な表情は、徐々に困惑へと変わっていった。当たり前だ、日車の言葉はただの鳴き声にしか聞こえない。変えようのない事実に胸が痛み、日車は四本足で歩いて日下部の膝に擦り寄った。彼が穿いているハーフパンツは濡れてしまっただろう。それに対する申し訳なさよりも、どうにかして彼を悲しませたくない気持ちのほうが強かった。
「だから焦らなくていい。急がなくていいんだ……
 大きな手のひらが日車の背を撫でてきた。日下部の手は背中の上を何度も往復し、最後には優しく頭を叩いてきた。
「やっぱり、お前が猫になってた頃を思い出すな」
 頭上から降ってきた日下部の声は優しい。彼の手が邪魔で顔を見ることはできなかったが、おそらくは笑っているのだろうと、日車は自らの記憶を手繰り寄せて想像した。それから彼の言葉の意味を理解した——以前、自分が呪霊の攻撃を受けて猫になっていた際の話である。何度も日下部から聞き出そうと試みたが、頑として口を割ってくれなかった、あのときの。
「黒猫のアンタも、こうして俺のそばに寄ってきてくれてさ」
 日下部の指先が耳の周囲をかいてくる。人間と異なり、そこは猫が心地良さを覚える部位のひとつだった。猫の聴覚は人間よりも遥かに鋭敏だ。飛躍的に発達した重要な器官だからこそ、触覚も発達しているのだろうか。
「猫のお前は甘えん坊だった。すぐ足元に引っついてきて、俺の姿を見失ったらずっと鳴きながら探し回って」
 今の自分が人間の姿ではなくてよかったと、日車はこの瞬間に初めて思った。でなければ今頃、自分の顔は真っ赤に茹で上がり、この上ない醜態を晒していただろう。石像のように固まった日車には気づかず、日下部は自身の記憶に意識を向けて、猫の背中を撫で続けている。
「それで、動物の世話をするのは意外と楽しいなって思えた。人間のあんたもいつか世話してみてえな。一緒の風呂に入って、あんたの髪を洗って、一緒に寝て……
 背中を撫でる手が止まる。
 日車はそっと顔を上げた。日下部は悲しそうだが、口元には微笑が浮かんでいる。
 目が合うと、彼は目尻に皺を刻んで笑みを深めた。
「抱きしめてもいいか」
 彼の服を濡らしてしまうという躊躇いはとうに消え失せていた。
 同意する代わりに、日車は前足を日下部の腿にのせた。すぐに逞しい両腕が日車の体を抱え、優しく包み込む。日車は首を傾けて日下部の胸に耳を押し当てた。ゆっくり脈打つ鼓動が聞こえる。安心する音だった。目蓋を閉じ、日下部が生きていることを全身で感じ取ろうと試みる。
 大丈夫だと根拠もなく思えるのはきっと、ここに日下部がいるからなのだ。
「軽いな……
 そう呟き、日下部が鼻先を耳の間に埋めてきた。
「温かい」
 小さな声で鳴いて同意する。頭部を日下部の体に強く押しつけ、日車はもう一度鳴いた。

 が、しかし。
 翌朝の日車の機嫌は、どんな海よりも低く落ち込んでいた。
 目を開けた先にはリビングの白い壁——ここは日下部の寝室ではなく、ましてや日下部本人が隣で寝ているはずもない。リビングのソファーの上で、一匹寂しく眠っていたのである。その事実を認識した日車は低い唸り声を漏らし、再び目を閉じた。
 俄かに背後から、つまり寝室へ続く扉の向こう側から足音が聞こえた。急いでいるような足音だ。次いで低く押し殺した声が聞こえ、誰かがリビングへ移動してきた。
「そうは言っても、こっちも大変な状況なのはわかってるだろ」
 日下部の声だ。誰かと通話しているらしい。日車は目を閉じたまま、耳をぴんと立てて彼の声を拾うことに集中した。
「日車は猫になっちまってるし、人間の体のほうには猫又の自我が入ってるし……。俺がいない間に何か起きたら……
 話の流れが掴めてきた。電話の相手は呪術高専の補助監督だ。日下部に急ぎで祓呪の案件を依頼しているが、本人が渋っているのでなんとか食い下がり続けているのだろう。補助監督にしても、今の日下部に仕事を振るのは不本意であるに違いない。それでも日下部以外に対処できない呪術師がいなければ、依頼するしかない。呪術高専の人手不足ぶりは、呪術師に身をやつして間もない日車から見ても、それほどまでに深刻なのだった。
 日下部はキッチンへ移動したようだ。日車は片目を開け、日下部の姿がリビングにいないことを確かめると、音もなく床の上に飛び降りた。二本の尻尾を揺らしながら廊下を歩き、キッチンへ向かう。その手前でキッチンから出てきた日下部と鉢合わせになり、踏まれそうになったところを危うく回避した。
「うわっ……と、悪い。起こしちまったか」
 気まずそうな表情を浮かべたのは一瞬だけだった。眉を下げた日下部の顔を日車は睨み上げる。ぐるると喉の奥から唸り声が漏れたのは無意識だった。未だに体の制御がうまくいかない。
 日下部の瞳を悲しげな色がよぎったが、耳元で補助監督が話しかけてきたらしい。すぐに外向けの表情を作ると、左手のスマートフォンを握り直す。
「いや、日車……猫になったほうの日車が起きてきただけだ」猫になったほう、という言葉を小声かつ早口で言うと、日下部は日車に背中を向けてキッチンへ戻っていく。「で、行くしかねえんだろ。わかった。代わりに誰か一人、うちによこしてくれねえか」
「連れていってくれ」
 日車は咄嗟に口を挟んだ。
 無論、それは猫の鳴き声にしかならない。日下部が肩越しにこちらを振り返ったが、すぐに正面へ戻してしまう。
……厳しいな。今のあいつは物を持てないし、猫又にスマホを預けるわけにもいかないだろ。だから——
「任務だろう。俺も連れていけ」
 日下部が踵を返して戻ってきた。宥めるように頭を撫でられるが、日車が求めていたのはそういう反応ではない。
「ああ。一人だけでいい、なんとかできねえか」
「俺を連れていけ。絶対に君の邪魔にならないようにする」
「いけそうか? 俺こそ無理を言って悪いな」
 無骨な指先が喉を撫でてくる。昨日なら喉を鳴らして喜んでいたところだ。無論、今は違う。
「はぐらかすな。日下部、わかってくれ。足手まといにはならないから——
「ごめん」
 日下部が端末を耳から離し、日車を見下ろした。
 小さく絞り出された声は苦しげに掠れている。
「今のあんたが何を言ってるか、全然わからねえ」
 何かを言い返すべきだった。そうしたかったのに、日車の喉の奥からは掠れた鳴き声しか出ず、その事実を再び認識して頭が真っ白になる。
 何ひとつ通じない。
 人間と猫の間では、何も。
 愕然と立ち尽くす日車の頭を撫で、日下部が立ち上がりかける。
「連れていけと言っているが」
 リビングから淡々とした声が聞こえてきた。
 人間の日車が——猫又が、あちこちに跳ねた髪をつまんで引っ張りながら、寝室の扉をぎこちない動きで閉めている。
「絶対に君の邪魔にならない。足手まといにはならない、と」
 扉を閉めて振り向いた猫又の目は眠たげに細められていた。彼が着ているスウェット——元は日下部の部屋着だったものだ——は乱れ、大きく開いた襟から右肩が覗きかけている。それを気にもせず猫又は廊下を進み、腰に手を当てて日車を見下ろしてきた。
 自分の言葉が、猫又にだけは通じている。
 日車は恐る恐る口を開いた。
……日下部が、任務に……
「任務?」
 即座に、猫又の目は中腰の姿勢で固まる日下部へ向けられた。
「何の任務だ? 説明してくれ」
 日下部が持つ端末から音声が漏れ聞こえてきた。おそらくは返事がないのを心配して、補助監督が呼んだのだろう。日下部は呆然としたまま答えない。数秒後、我に返ったように背筋を伸ばした。
「ただの調査だ」それから端末を持ち上げ、マイクに向かって言う。「悪い。さっきの話、少し待ってくれ。二人とも起きてきたから一旦切るわ。すぐに折り返す」
 返事を聞かずに通話を終了させたらしい。日下部はふうっと深い息をつき、両腕を組んで猫又と向き合った。
「猫の言葉がわかるのか?」
「もちろん」
 猫又がしゃがみ、日車の元へ両手を差し出してきた。叩き落とそうと反射的に前足を掲げたものの、それが最善の選択でないことは、日車自身がよくわかっていた。抱き上げられ、間近で見た猫又の目の奥で、黒い瞳孔が猫のように収縮する。
「わたしをなんだと思っている。人間はわからないのか」
「普通、人間以外の動物の言葉なんて、人間は理解できねえんだわ」
「任務の話を」
 自分の声であるはずなのに、口調は日車自身のそれとまったく異なっている。それに、昨日よりも発音が明瞭なように思えた。猫又もまた、人間の体の扱い方に慣れてきたということだろうか?
 日車は二人の顔を交互に見比べ、最後に猫又の顔を見上げた。徐々に覚醒してきたらしい目が日車を見下ろす。そこには何の感情も窺い知れない。昨晩もこんな無表情で、一緒に寝たいと日下部に迫ったのだったか……。複雑な気持ちが込み上げ、日車は床へと視線を落とした。
「現場はここからそんなに遠くない。窓……あー、呪力を観測できる非術師が、今朝がた術式の痕跡を発見した。呪霊や呪詛師の姿は発見されていない。ちなみに関連性があるかわからないが、そこの近所では最近、野良猫や飼い猫が行方不明になってる」
「猫?」
 日車を抱き上げる腕の力が強くなる。息苦しさに身を捩ったが、猫又は日車の体を離そうとしない。寧ろ一層強く抱きしめ、猫、と低い声で繰り返した。
「状況から考えるに、たぶんそこまで強い呪霊じゃない。ただ他の呪術師は出払ってて、動けるやつが俺しかいないんだと。ちゃっちゃと行って帰ってくるから……
「連れていってくれ」
「えっ」
 猫又が発した言葉に、日下部と日車は揃って反応した。
「連れていけ」と言い、猫又は日車を見下ろして眉間に皺を寄せた。「気がかりだ。わたしも行く。彼と一緒に任務へ連れていってほしい、日下部」

 今日は君と一緒に寝る。
 昨晩の猫又がそう言い放った瞬間、己に走った衝撃と傷の深さは、我ながら窺い知れない。
 少なくとも当分の間は立ち直れないだろうと感じた。この直後の日下部の反応も含めて——驚いたあと、申し訳なさそうな表情で日車のほうを一瞥した。それだけだ。猫又の言葉を即座に否定せず、それどころか受け入れることを選択肢のひとつとして思考していることが、日車にはっきりと伝わった。日下部の好ましい点でもあり、裏目と出やすい欠点でもある。頼みごとをされたらすぐに断れない。
 その隙をつけ込まれた。猫又は日下部のそばをするりと通り抜け、寝室へと姿を消した。猫又が着ているのは自分が好んで身につけていた日下部のスウェットだ。それもまた憎かった——そうだ、憎い。己の感情を自覚した日車はソファーの隅に体を丸めて埋め、日下部からの呼びかけを全て無視した。
 さっきは温かいと言ってくれたのに。
 抱きしめてくれたのに。
 結局は中身ではなく見かけ上の俺を、猫又を選ぶのか。あの言葉と行動は、嘘だったんじゃないか——
 日下部が諦めて溜息をつくのが聞こえた。彼の足音は寝室へと消える。日車はより一層体を丸め、頭の中で暴れ回る感情の全てを強制的にシャットダウンし、浅い眠りについた。
 そして今。日車はやはり不機嫌を隠そうともせずに、補助監督が運転する車の後部座席で体を丸めている。
 隣には猫又が座っていたが、窓枠に肘をついてぼんやりと外を眺めていた。まるで日車が見えていないかのように、隣への注意をまったく払おうとしない。加えて、猫又はスーツを着ているのにネクタイをしていなかった——結び方を知らなかったからだ。シャツを着るときにも、ボタンを掛け違えたり引きちぎりかけたりして、ひと騒動が起きた。それに対応したのは日下部ひとりで、自分は何もできず見守ることしかできなかったやるせなさも、機嫌の降下に一役買っている。
 どうも感情の整理が人間のときよりもうまくいかない。日車は半目で猫又の横顔を、バックミラー越しにこちらの様子を伺っている補助監督の顔を、そして日下部の後頭部を順番に睨みつけた。日下部は補助監督からタブレットを借り、現在向かっている任務の関連資料を確認している。顔を上げて端末をダッシュボードに置いた。
「何べん読み返しても、猫との関連づけがちっとばかり無理やりに感じるな」
「窓からの要請です。考慮に入れて調査するべきだと……。それに、ここ数ヶ月間、近隣で失踪や犯罪の届出はひとつも出ていません」
「人間以外、猫の記録は?」
 二人の会話に猫又が割り込んだ。依然として窓の外を眺めているが、その表情が険しいことに、日車は窓ガラス越しに気がついていた。補助監督は束の間黙り込み、ええと、と動揺したように呟いた。
……窓の周囲で、飼い猫が消えたとか、いつも来ていた野良猫の姿を見なくなったとか、そういう噂が数週間前から出ていたそうです。ですが、猫に呪術的な価値があるのでしょうか?」
「答えは君のすぐ後ろにあるな」
 鼻で笑って猫又が答えた。声は愉快げに弾んでいたが、明らかに刺々しい。普段の日車なら滅多にしない反応だ。補助監督の面食らった表情をミラー越しに確認し、猫の日車もまたフンと鼻を鳴らして、先端が二つに分かれた尻尾を揺らした。
「非術師の文化に目を向ければ、猫を題材にした言い伝えはたくさんある」束の間の沈黙をとりなすように日下部が発言した。「それこそ猫又や化け猫は有名な妖怪だろ。あとは呪術からちょっと外れるが招き猫とかな……。けど、一番広く知れ渡ってるのは民間伝承じゃねえかな。特定の地域やコミュニティ間で語り継がれてきた物語には案外、猫の話が多い」
「そこまでは詳しく調べていませんでした」と、意気消沈した声色で補助監督が反応した。
「当たり前だ。いちいち調べてたらキリがない。まあ、今後はそういう視点から見てみるのも面白いかもなっちゅう、ただの世間話だ」
「猫の歴史は深いんだ」猫又が言った。「人間の歴史と同じ。人間なしでは猫の歴史を語れないように、猫なしでは人間の歴史を語れない。猫と人間は相互に関わり合って生きてきたのだから」
 目的地に到着した。
 車から出て目の前の建物を見上げる。廃墟と化して久しい巨大な建造物……いかにも呪霊が好みそうな場所だ。
「昔は地元の博物館だったとか」
 補助監督が手元のタブレットを見ながら説明した。「何十年も前に閉館して以来、改装も取り壊しもなく放置されているそうです」
「博物館、ねえ。取り壊しが進まないのは、所有者との連絡が取れなくなったのかね」
「おそらくは。——それでは、帳を下ろします。お二方はどうされますか?」
「一緒に行く」
 猫又が即答した。それに日下部が顔をしかめたものの、何も言い出しはしない。猫又の決意が揺るぎないものだとわかっているからだろう。日車の言葉は猫又が聞き取り、二人に説明した。
「今の彼は嗅覚と聴覚が人間よりも優れている。探索や斥候に役立つだろう」
「わかった」日下部が溜息をつき、刀の柄に左手を置く。「二人とも、俺のそばから離れるなよ」
 返事の代わりに日車は鳴き声を上げ、補助監督が帳の詠唱を始める。遥か真上の空間からドーム型の黒い壁が滲み出て、旧博物館の建造物と周囲一帯をすっぽりと覆った。ご武運をと言い残しながら補助監督が帳の外に出たところで、任務開始となる。
「真面目な話、俺から絶対に離れんなよ」真っ先に日下部が口を開き、目の前の建物に向かって歩きだした。「気づいたことがあったらすぐに知らせろ。絶対に一人で行動するな」
「わかっている。そう何度も言わなくていい」
 日下部に続いて猫又が後を追う。二人の殿を日車が務め、三人は建物の内部へと足を踏み入れた。
 二重扉を通り抜けた先は受付だ。建物の規模から予想はしていたが、受付というよりもエントランスホールと呼んだほうがより適切だろう。円形の広大な空間で、しかし物は何も置かれておらず、人の気配も全く感じられない。猫の耳が物音を拾うこともなかった。
 日車と猫又が歩くと、革靴の踵が床にぶつかって硬質な音を立てた。壁も天井も、音を吸収しない素材が使われているようだ。日車は猫の肉球越しにひんやりとした感触を覚えた。白と灰色の中間色で塗り潰された空間の中央で、日下部たちは立ち止まる。
「さて、どこから行こうかね」と日下部が口を開いた。「日車。何か不審な音は聞こえたか?」
 首を左右に振って否定する。猫又は周囲の様子を興味深げに見回しており、落ち着きがない。彼のズボンからシャツが飛び出ていることに気づいたが、日車は無視することに決めた。指摘したところでそれを直すのは日下部なのだし、戻したとてすぐ元通りになってしまうだろう。
 猫又が部屋の一角を指差した。
「階段がある」
「ああ。一階と二階にそれぞれデカい部屋がある。おそらくは展示室だ」
 現場へ着く前に、この建物の見取り図を補助監督から見せられていたのだろう。日下部は階段からエントランスの左奥——その先は一階の展示室へと繋がっていた——に視線を走らせ、考え込むように顎へ手をやった。
「悩みどころだな。展示室、庭園、講堂、売店に飲食店……あとは、従業員しか入れねえ場所か。見て回るべき場所が多すぎる」
「猫はどこだ」と、猫又がすかさず被せるようにして言う。
「今の段階では何とも言えねえよ。そうだな、ここは一旦、初心に帰るか。呪霊がいる確率が最も高いのは展示室だ。かつて非術師が多く集まっていた場所にこそ情念が溜まり、呪霊が湧く」
「展示室は二つあるんだったな」
「まずは二階だ。遠い場所から潰していくぞ」
 日下部が言い切るより早く、猫又は歩き出して階段を上り始めている。離れるなと声を上げながら日下部も足早にエントランスを横切り、日車もその後に続いた。
 階段の一段目に前足をかけた直後、左側から物音が聞こえた。
 反射的にぴんと両耳が立つ。音が立った方向へ顔を向けると、一階の展示室が視界に飛び込んできた。
 今のは何の音だろうか? 一瞬のことで判別できなかった。足音か、あるいは物を落としたような音だ。兎角、日下部にこのことを報告しようと顔を正面へ戻し、彼の姿が見当たらないことに日車は気がついた。
 日下部だけではない。彼の先を行っていた猫又の姿もなかった。
 階段を十数段上った先には踊り場があり、そこから折り返して階段が続くので、踊り場から先は日車の位置からは見えない。二人は踊り場の向こうに行ってしまったのか? だとしたら、足音が聞こえてくるはずである。エントランス同様、階段は慎重に歩いても音が反響する材質が使われている。だというのに、何ひとつ聞こえてこない。
「日下部?」
 声を上げて呼びかけても、案の定、返事はなかった。猫の鳴き声が空洞に虚しくこだます。
「猫又? 二人ともどこにいる?」
 静寂。日車は思いきって階段を駆け上がった。一息に上りきり、周囲を見回したが予想通りもぬけの殻である。
「日下部……
 呼びかけから数秒経ったのち、日車は落胆して耳を下げ、周囲に濃く漂う呪力の気配にようやく気がついた。
 ——結界術!
 どうやら猫又の体は、呪力の察知において、人間よりも少しばかり劣っているらしい。今この瞬間まで気づかなかったのは迂闊だった。
 今の自分は結界術に取り込まれ、日下部たちと分断させられている。
 ここから抜け出すためには、結界の綻びを見つけるか、術者が術式を解除するか、術者の意識を失わせるか——しかし、猫の体で何ができる? 後半の二つは確実に無理だ。
 いずれにせよ、自分が消えたことは日下部たちもすぐに気づくだろう。彼らが突破口を切り開いてくれると信じて、日車は周囲の探索へ乗り出すことにした。術者への太刀打ちが敵わずとも、手がかりのひとつやふたつは見つけられるかもしれない。そのための、人間よりも五感が鋭敏な猫の体なのだ。
 階段を下りて一階に戻り、耳をそばだてながら展示室へ足を踏み込む。展示室の床にはカーペットが敷かれており、おそらくは防音素材が使われているのだろう、足の裏にふかふかとした感触を捉えた。つまり、先の物音はかなり大きなものだったのだ。人か、呪霊か。周囲の気配を探りながら慎重に進む。
 展示室の壁には何もかかっていない。絵画を壁に掛けるための壁打ち金具や、上方のレールから吊り下げるためのフックがあちこちに放置されている。それら部品の大半は劣化し、変色や破損が進んでいた。異変は見当たらない。手がかりは何もなさそうだ。日車は壁沿いに歩きながらそれらを観察し、次の空間に移ろうと角を曲がる。
 瞬間、腹部に強い衝撃を覚えて吹き飛ばされる。
 角を曲がりざま、腹に素早く物を叩き込まれた——蹴られたのだと、数拍遅れて理解する。
 反対の壁に叩きつけられて崩れ落ちた。横倒しとなった視界に、作業靴を履いた人間の足が映る。
 全身が鋭い痛みに支配されて動けない。日車の意識は黒く閉ざされた。

 金属同士が擦れる、不快な音が鼓膜を震わせる。
 音は自分の手足からだ……あとは、首。日車は自身の体が思うように動かないことに、暗闇の中で気づく。周囲が黒一面に塗りつぶされているのは、目蓋を閉じたままでいるからだ。
 日車は目を開き、鎖で拘束された猫の四本足を見下ろした。前足と後ろ足できつく結ばれており、少しの衝撃でほどけそうな様子はない。次に首の違和感を覚えた。首にも金属製の首輪がはめられている。首を動かすと後方に引っ張られる感覚があった。首輪の後ろから鎖が伸び、どこかへと巻きつけられているようだ。
 見慣れない部屋だ。日車がいる部屋は展示室に似ていたが、壁も床も天井も、すべてがコンクリートで固められている。窓ひとつない空間で、どことなく地下にいるような印象を受けた……日下部は言及していなかったがまさか、地下にも部屋があったのか?
 確かにそうだと日車は思い直した。博物館に地下空間があるのは当たり前だ。寧ろ、この大空間こそが、博物館の存在価値だと言ってもいい。ここは数千、大規模な博物館であれば数万にも至る膨大な量の資料を保管し、後世へ受け継ぐために確保されていたスペース——収蔵庫だ。
 脱出しなければ。拘束されているからといって、諦めるわけにはいかない。がちゃがちゃと鎖を鳴らしながら体を揺すり、隙間から足を抜け出せないか試みる。不可能だという結論が早々に導き出されたが、日車はめげずに四肢を暴れさせた。
「うるせえなあ。いくら暴れても無駄だ」
 ぴたりと動きを止める。人間の、男の声だ。声は日車の横合いから発せられ、次いで重い扉が閉まる音が、同じ方角から聞こえてきた。
「お目覚めかよ、子猫ちゃん」
 足音は日車の背後を回り込み、正面で止まる。展示室で見たのと同じ作業靴だ。男はしゃがみ、顔に被せた黒いマスク越しに、日車の顔を覗き込んできた。
「まさか猫又が迷い込んでくるなんてな。お付きの連中は呪術師か? 見覚えがある顔だったな。推測するに、あんたは呪術高専の飼い猫だ——おっと」
 二本の尻尾を掴み、次いで頭を撫でようとしてきた男が素早く手を引っ込める。空を切った牙を剥き、日車は低く唸った。
 読みが甘かった。まさか結界術で分断させられるとは——油断していたと言わざるを得ない。今回の事件はすべて、この呪詛師によって引き起こされたのだ。
「惜しい惜しい。危なかった」
 日車に噛まれるのを寸前で回避した男は手をひらひらと振りながら、喉の奥で愉快げに笑っている。
「猫又は人間の言葉を理解できるっていうけど、本当なのかね。俺の言葉が理解できますかー? ここは地下の収蔵庫。お前を今からバラして、お得意様の皆さんに売り捌きまーす」
 愉快げな口調とは裏腹に、話の内容は非常に物騒だ。日車の背筋を悪寒が駆け抜けた。男の手にはいつの間にか、折りたたみ式のサバイバルナイフが握られていたからだ。
「あるいはバラさずに生きたまま売ったほうがいいのかな? マニアなコレクターなんかが高額で買い叩いてくれそうだもん。だったら、ナイフとかで傷つけないほうがいいよなあ……
 男はナイフをポケットに仕舞う。俯いて唸り声を上げながら考え込み、よし、と声を上げた。
「生きたまま売るかー」
 明るい声で言いながら、膝に手をつき立ち上がる。
「ちょっと待っててね。その前に色々としたいから——
 コンコン、と扉を叩く音が不意に割り込み、男が黙り込んだ。
 沈黙の間にも再びノック音が響き渡る。コンコン。コンコン。コンコン……
——誰だ?」男が低い声で呟き、先ほど入ってきた扉に顔を向けた。「入ってこいよ。それともビビリか? 入っていいっつってんだから、早く入ってこいや」
 音は束の間止み、再び鳴り出した。一定の間隔を保ち、全く同じリズムで繰り返される。男は舌打ちをし、再びナイフを取り出すと扉へ向かった。日車はできる限り首を捻り、男の一挙手一投足も見逃さまいと観察する。ノックは未だ続いていた。男がナイフを構えながらドアノブを掴んで捻り——その直後、男の体がドアごと後方へ吹き飛ばされた。
「ぐわっ!」
 男と鉄製のドアは凄まじい速度で後ろへ飛んでいき、壁へと叩きつけられる。ドアと壁の間に挟まれた男は悲鳴を上げ、轟音とともに倒れ込んだドアの上に力なく突っ伏した。
 日車はその様子を呆然と眺め、慌ててドアを——ドアがかつてあった場所へと視線を戻す。
 拳が突き出ていた。
 それは青黒い、巨大な炎のごとき呪力を纏い、激しく燃え盛っているように見える。
 拳が引っ込み、次いで憤怒の表情を浮かべた人間の日車が——猫又が——大股で部屋に入ってくる。猫又は周囲を見渡し、日車の姿を見つけると、険悪な表情を僅かながら和らげた。
「無事か!」
 鳴いて無事だと返事をする。猫又が駆け寄り、首輪から伸びている鎖を掴んだ。猫又の指先から青黒い炎である呪力が迸り、鎖を力任せに引きちぎった。同じ要領で前足の拘束も破壊する。
「日下部は他の部屋を探している。戻って彼に知らせようとも考えたが、事は一刻を争うと思って」
 猫又が不自然に言葉を切り、勢いよく覆い被さってきた。同時に強い衝撃を覚え、猫又の体が横へと吹き飛ぶ。
「てめえらぶっ殺してやる!」
 男の絶叫が鼓膜をつんざいた。蹴り飛ばされた猫又が起きあがろうとするも、再び蹴られてうずくまる。男は猫又の体を蹴り続け、足を振り下ろすたびに罵詈雑言を喚き散らした。猫又の抵抗が次第に弱まってくると、馬乗りになって拳で殴り始める。
 日車は体を起こしたが、後ろ足の拘束が取れておらず、立って歩くことができない。前足で体を引きずりながら這って進み、叫ぶ。
「猫又!」
 返事はない。男が上着のポケットからサバイバルナイフを取り出した。それが構えられた瞬間、日車は渾身の力で飛び上がり、ナイフを持つ男の右手に噛みついた。
 牙が人間の皮膚を突き破り、口の中に血の味が広がる。男は悲鳴を上げてナイフを取り落とすも、日車の体を掴んで力任せに投げ飛ばした。強い衝撃が全身に走り、視界に星が飛ぶ。荒々しい足音が近づいてきた。
「獣の分際で舐めやがって」
 振り上げられた拳が振り落とされるより早く、猫又が背後から男に飛びかかった。両手両足で抱きつき、後方へ転倒させる。男が体制を立て直すよりも早く右腕を相手の首に巻きつかせ——口に何かを咥えていた。黒く細長い、棒状のものである。それを左手で掴み、振り上げる。
「獣は貴様だ、この外道が——
 猫又が激しい口調で男を怒鳴りつけた。
「生物の命を弄ぶ権利など貴様にはない! 爆ぜろ……!」
 先端を男の胸に押し当て——青い閃光が迸った。
 棒状の呪具から発せられた電撃は男の全身と、彼を拘束していた猫又の体にも及ぶ。あまりの眩しさに日車は思わず目を瞑り、数秒後に光が弱まってから恐る恐る目を開けた。
 男の服はぼろぼろに焦げていた。電撃によって白目を剥き、気絶している。
 猫又は彼の下敷きになっていた。男同様にスーツのところどころに穴が空き、血と痣と火傷だらけの顔はびくともしない。固く目を閉じ、猫又の手から滑り落ちた呪具が、床に落下して乾いた音を立てた。
……無事か、猫又」
 後ろ足を引きずりながら猫又の元へ移動する。前足で額を叩いた。
「おい、無事か。返事をしろ。……返事を……
 ぴくりと猫又の目蓋が震えた。目蓋の下で眼球が動いている。
 日車は身を屈め、青痣の浮かぶ頬を舐めた。呻き声を上げて猫又が目を開ける。
……痛い」ぼそりと呟き、頬を舐めている日車を見やる。「無事か。よかった」
 猫又が腕を上げ、日車の後ろ足を拘束している鎖を掴んだ。ゆっくりと呪力を込めて引きちぎり、安堵したように笑む。
「守れてよかった。助けてくれてありがとう」
 返事の代わりに、日車は猫又の頬に頭を押しつけた。痛いと文句を言われても構わずに押し続けた。笑い声と吐息が耳元を掠める。
「温かいな、君は……
 遠くからこちらへ近づく足音が聞こえてくる。自分たちの名前を呼ぶ日下部の声を拾い、日車の全身はようやく緊張を解くことができた。

「つまり——」日下部が咳払いをして続きを口にした。「あいつは人為的に猫又を作る実験をしてた、ってわけだな」
「冒涜的だ。生命を嘲弄している」
 嫌悪も露わに切り捨てた猫又の言葉に、日車も鳴いて同意する。
「近所の猫を攫っていたのもそのためか。全員を無事に保護できてよかったとは思うが、それで呪詛師の罪は軽くならない」
「当たり前だ。捕まえて上に引き渡した以上、こっから先は向こうの管轄だが、きちんと罰されるだろうよ。何しろ、あいつがしていたのは呪術を悪用したビジネスだからな」
「奴には死刑がふさわしい」
「そこまでにはならないだろうが……
 猫又の顔を見て、続きを言うのはやめたようだ。日下部がテーブルの上で指を組む。
 黒焦げの呪詛師を拘束した後、日車たちは呪術高専に戻り、怪我の治療を受けた。ついでに日車や猫又の体に異常が起きていないか検査を受けて、日下部の部屋へ戻ってきた頃にはとうに日が傾いていた。夕食と風呂を済ませ、就寝の時刻が近づいてきた頃に、日下部が猫又に話があると申し出て現在に至る。
 まだ本題には触れていない。日下部がようやく核心へ踏み込んだ。
「で、うちらとしてはそろそろ、日車を元に戻したいんですけどね。協力してくれないか」
 これまた同意の鳴き声を上げる。日車はテーブルの上に座り、両者の顔を交互に見比べた。猫又は日下部の顔を不思議そうに見つめ返し、対して日下部は無表情を貫いている。
「術式が解ける条件は、わたしが満足することだ」
「えっ」
 日下部の無表情が驚きに崩れた。日車もだ。
「だから君たちがわたしの欲求を満たせば——
「ちょ、ちょっと待て。待てっ」日下部が話を遮り、天を仰ぐ。「——これって、もしかしてあんたの術式なの?」
「ああ」
「しかも本人の意思で自由に操れる?」
「そうだ。……なんだ。元に戻したいと言ってきたから、とうに知っているものかと」
「それは単なる憶測で……クソッ、夜蛾さんが残した資料なのにデタラメばっかじゃねえかよ。恨むぞ夜蛾さん……
 日下部が顔を戻した。半目に細められている。
「とにかく、そうときまれば話は早えや。今すぐ戻せや」
「さっきも言ったが、術式が解ける条件はわたしが満足することだ。満足していないのに戻すことはできない。それに、今のわたしは本来の体に戻っていないから、術式を使えない」
 日下部が日車を見てくる。日車は首を振り、口を開いた。猫又が被せるようにして翻訳する。
「術式の出し方がわからないと言っている。わたしも同じだ。領域も、ガベルの出し方もわからない……どのみち、正攻法で術式の解除を待つしかないだろう」
「めんど……厄介な術式だな」
「わたしもこの術式を使ったのは初めてだ」
「初めて? 術式の試し撃ちに日車を選んだ意図はなんだ?」
「試し撃ちなんかじゃない」
「なおさら不思議だな。わざわざ日車を狙った理由は?」
 猫又は唇を横に引き結んだ。答えるつもりはないらしい。
 再び日下部と目が合う。彼は肩を竦め、天板の上で頬杖をついた。
「わかった。あんたの提案に乗るよ。俺たちは何をすればいい?」
「君と一緒に寝る」
 三度目のアイコンタクト。
 今度は日車が日下部を睨む番だった。日下部がこれ見よがしに溜息をつく。
「それはさすがに……
「君もだ」
 猫又の目が自身にも向けられていることに日車は気づく。
「三人で一緒に寝よう」一拍おき、猫又は椅子から立ち上がった。「それが、今のわたしが望むことだ」

 ひとつのベッドを共有し、壁側が日車、ドア側が日下部。
 かつて日車が占領していたスペースに、今は猫又が素知らぬ顔で陣取っている。日車はその様子を床から恨めしげに見上げた。猫又が壁際に体を寄せ、空いた中央を手で叩く。
「こっちに来るといい。君も来い」
 後半の言葉は日下部に向けられたものだった。彼は寝室の手前で立ち止まり、動かない。
「リビングで寝る」
「そう渋っていたら、わたしたちは永遠に戻らないかもしれない」
 先に諦めてベッドに上がったのは日車だった。飛び上がり、ベッドの中央で体を丸めて座りこむ。溜息とともに日下部が近づいてきた。できるだけベッドの端に寄り、日車たちに背を向けて横たわる。
 猫又が足元の毛布を引き上げた。日下部や日車の上にかけて、日車の体を毛布の上から優しく叩く。日車は猫又の顔を見上げた。……猫又の意図が、よくわからない。
 昨晩は日下部と二人で寝ていたはずだ。なぜ、自分を呼んだのだろう。
「昨晩は君とも一緒に寝たかったんだ」日車の心を呼んだかのように猫又が言った。「わたしが言う前に臍を曲げられてしまったが、今日はようやく一緒に眠れる」
「なぜ俺を呼んだ?」
「知りたかった」猫又は微笑みながら日車の背中を撫でて言う。「愛する人や猫と一緒に寝ることが、どういう意味を持つのか」
 意外な返答に面食らう。そして、日車を挟んで反対側で眠る日下部の気配を意識する。彼は狸寝入りだろう。自分たちの会話に聞き耳を立てている。日車の言葉はわからずとも、猫又の言葉を聞くことはできるからだ。
——君は日下部にずいぶんと好意的な態度を取っているな」
「君と意識を入れ替えた瞬間、彼に対する強い好意を一番に感じた。君が抱えていた感情だろう? それに当てられてしまったようだ。事実、彼は優しい人間だ。好意を向けるに値する」
 日車は顔をしかめて黙り込んだ。嫉妬は見苦しいと承知していたが、一度表に出してしまった以上は取り消せない。猫又は日車の顔を見下ろし、なるほどと呟いた。
「人間の世界ではオス同士が番うこともあるのか——
「詮索はよしてくれ。わざわざ口にしなくてもいい」
 日車は慌てて猫又の言葉を遮り、次の質問を口にした。
「呪術高専に拾われる前はどこにいたんだ」
「最初は若い女の部屋だった。あるとき女の部屋に男が来て、ゴミ出し場に捨てられた。それからは街の路地裏で生活した。ある日、老婆がわたしを引き取って、亡くなるまで世話してくれた」
 合点がいった。やはり人間に飼われていたことがあったから、猫又は日車の体での食事や入浴をそつなくこなしていたのだ。
「では、彼女が亡くなったあとは……
「路地裏に戻った。尻尾が二つに分かれたのはその頃だ。しばらく経って、君たちの関係者に拾われた」
 猫又の手が背中から腰に移動した。尻尾の話をしたからだろうか。
「わたしを最初に飼った女はよく、こうしてわたしの体を撫でてくれていた。ずっと不思議だった。なぜ飽きもせずわたしの体を撫でるのか。わたしは気持ちよくなれるが、人間は気持ちよくなれないだろう?」
 不意にひとつの考えが日車の脳内をよぎった。猫又が自身の術式を発動させ、肉体に宿る意識を日車と入れ替えた理由だ。
 猫又はもしかして、人間の気持ちを知りたかったのではないか。
 なぜ人間は猫の体を撫でるのが好きなのか。なぜ、人間は、猫を飼うのか——
「答えは出たか?」
「わかった気がする。人間もまた心地良く感じるからだ」
 一度、言葉を区切る。適切な表現を探しているようだ。昨晩は舌足らずだったはずの猫又の口調は、今日一日で劇的に変化した。一音ずつの発音がはっきりとし、操る語彙も大幅に増えている。
 猫又が息を吸った。
「温かい」
 口を閉じ、同じ言葉をもう一度繰り返す。その言葉の響きを、噛み締めるように。
「温かいからだ。君は生きている。なのにわたしよりもこんなに小さい。守らなければと思う」
 手が頭に移動し、指先を立てて耳の頭を撫でてくる。日車は目を細め、されるがままに身を任せた。猫又の言い分は日車も強く共感できた。
「君はわたしの大事なものだ。同じように日下部も大事なものだ。それを知れただけでもよかった」
……俺は……君を非難すべきなのだと思う」
 日車は遠慮がちに切り出した。
「君の術式で無理やり意識を交換させられた。おかげでこの二日間は苦労してばかりだ。日下部との意思疎通も図れない。だが——俺も君と同じ結論を出せたと思っている。そのことは感謝している」
 猫又が笑みを深め、頭の上に手のひらを置いた。それきり口を開かず、ゆっくりと目蓋が閉じられていくのを、日車は見つめていた。
 背後で日下部が身動ぎ、寝返りを打って日車の体に手のひらを置く。彼が本当に寝ていたのか、それともわざとだったのかはわからない。二人の手のひらが温かく、心地良くて、日車もすぐに眠ってしまった。
 夢を見た。
 日車はケージの中に入れられて、車の助手席で揺られていた。運転席では髪の長い、若い女性がハンドルを握りしめている。信号待ちで車が止まるたび、こちらを見下ろして顔を綻ばせる。
 彼女が誰かは知らないが、悪い気はしなかった。彼女のことをもっと知りたいと思った。
 猫は彼女と一緒に暮らし始めた。幸せな日々だった。一緒にいるだけで幸せだったが、特に夜、ひとつのベッドでともに眠るのが好きだった。彼女が自分を抱きしめてくれるからだ。撫でられるのも好きだが、抱きしめられるほうが、猫はお気に入りだった。
 しかし——一人と一匹の楽園はある日、突如として崩れ去った。彼女の部屋に、彼女と同い年くらいの男が頻繁に出入りするようになったのだ。彼は猫を嫌った。彼が部屋を訪ねてくるたび、猫は隣室やキッチン、薄暗い廊下などに放り出されて、彼女と一緒にいることを拒まれた。
 胸が張り裂けそうな思いだった。どうして急に除け者にするの? わたしを拒むの? わたしが嫌いなの?
 けれど不思議なことに、男がいないときは以前の生活に戻った。男が来ると怖い顔をしていたはずの彼女も優しくて、その事実が猫をより一層混乱させ、孤独へと追い込んだ。
 男の姿を初めて見てから数ヶ月が経った頃だったように思う。猫は男が来たからと廊下に追い出され、玄関マットの上で体を丸めて眠っていた。不意に体が浮いた。すぐに足が床につく——だが下ろされた先は非常に狭い。左右も——上下も! 狭い箱の中に閉じ込められた! いくら鳴いて暴れても箱は壊れない。やがて箱ごと体を持ち上げられ、しばらく移動した後に下ろされた。二人ぶんの足音が非情にも遠ざかっていく。猫は必死に箱の表面を引っ掻き、体をぶつけて箱の外へ飛び出した。しかし、箱の外に広がっていたのは、彼女の部屋とはまったく異なる未知の世界だった。
 路地裏を生活の根城とし、人間の店から食べ物を盗んで生きた。ゴミ出し場を漁って腐りかけた生ゴミを食べ、腹を下したこともしょっちゅうあった。縄張りを争ってよその野良猫と戦ったことも、一度や二度ではない。猫は一人で生き抜くすべを見出し——見出さざるを得なかった——人間の街を孤独に彷徨い——あるとき、一軒の家の前で力尽きた。
 野良猫との喧嘩でひどい怪我を負っていた。長く降りしきる雨が猫の体力を奪い、毛の中に潜む寄生虫たちが猫の体からなけなしの栄養を吸い尽くしてしまう。まっすぐ歩くこともままならず昏倒し、次に意識を回復させたとき、猫は見知らぬ家の中で寝かせられていた。猫の近くには家主の老婆がいて、幼い頃からの趣味だと後に聞いた編み物をせっせと進めていた。
 ——起きたね。あんなにひどい怪我をして、ぶるぶる震えて。けどもう、大丈夫だからね。
 老婆は優しかった。しかし、猫のはじめの飼い主だった女とはまた違う優しさだ。老婆は猫を頻繁に構わない。編み物をして、家事をして、買い物や友人と遊びに出かけ、そうして空いた時間にようやく、猫と構う気になってくる。
 しきりに猫の体を撫でていた女とは大違いだ。だが、猫から触りに行けば老婆は拒まなかったし、一緒に寝るという習慣も嫌がらなかった。
 ——××ちゃんは温かいねえ。まるで天然の湯たんぽみたいだよ。
 しわしわで血管が浮き出て、それでも温かかった手のひらが、猫は大好きだった。
 ある日、早朝にのそりと起き出した猫は、隣の老婆が起き出さないことに気がついた。いつもは猫が起きた気配につられて目を覚ますか、逆に老婆が先に起き出して猫が起きることもしばしばだった。なのに、今日は目を覚まさない。身動ぎひとつせずに目を閉じている。
 おはよう。いつまで寝ているの?
 起きて。ほら、目を開けて、おはようって言って。いつもみたいにわたしの体を撫でて。ご飯をちょうだい。
 いくら耳元で鳴けど、前足で小突こうと、頭を頬に押しつけても、老婆は目を開けない。うんともすんとも言わない、動かない……。猫は、老婆の体が次第に冷たく、固くなっていることに気がついた。
 遺体を最初に発見したのは、近所に住んでいた老婆の友人だった。老婆の体はどこかへ運ばれていった。大勢の人間が出入りし、猫は怯えて庭の隅で震えていた。やがて、大好きだったはずのこの家にいるのが耐え難くなり、飛び出した。
 尻尾が二つに分かれていたのは、いつからだっただろう。一度、ひどい空腹で倒れて、ようやっと目覚めたときにふと気づいたのかもしれない。気を失っている間に、女や老婆と過ごした幸福な時間を夢の中で見たような気がする。しかし、それらはもう戻れない過去であり、したがって尻尾が二本に増えたことなどどうでもいいと考えていた。
 ふたつの出会いと別れは猫の心に幸福と、二度と癒えない傷を刻んだ。
 わたしはひとりぼっちだ。
 飯を探す、野良猫と縄張りを巡って争う、寝る……。同じ生活を延々と繰り返し、あるとき目が覚めたら、猫は車の助手席で揺られていた。猫を捨てたあの女が、運転席でハンドルを握っていた。しかし、信号待ちで車が停まったときにこちらへ向けられた顔を見て、あの女とは別人だと気がついた。
 ——猫又、ですか?
 ——おそらくな。夜蛾さんが持ってた資料をざっと見た限りは、たぶん……うわっ、痛え!
 女が連れてきた建物は広く、たくさんの人間が歩き回っていた。そのうちの一人に抱き上げられた直後、猫は反射的に彼の頬を引っかき、腕の中から脱走した。
 猫は疲れきっていた。
 餓えや喉の渇きと一日中戦い続け、縄張りを巡って猫と争い、屋外で寝ては寒さや暑さも凌ぐことができない。そしてとうとう、今日は見知らぬ場所へ連れてこられてしまった。とにかく眠る場所が欲しい……そうして休んでいた先でも、さっきの男が追いかけてきて、追いかけっこをする羽目になったのだが。
 ——それは人間の都合だ。
 頬を引っ掻いたのとは違う男の声が、頭上から響いてくる。
 机の下に潜り込んだ猫は、全身の毛を逆立てて威嚇しながら、その男の革靴を睨みつけた。
 顔を出せ。腕を伸ばせ。お前もわたしの眠りを妨げるのか。わたしの姿を見た瞬間に、その顔を引っ掻いてやる。
 男が膝をつき、ゆっくりとした動作でこちらを覗き込んできた。しかし、見てくるだけだ。黒くて小さなふたつの瞳孔が猫をじっと観察し、手を出してくる気配はない。
 ——怖がらなくていい。隣の顔が怖いおじさんとは違って、俺は君をどこかへ連れていったりしない。
 手を出してこない……穏やかそうな人間だ。あの女や老婆を思い出す、低くて落ち着いた声。
 今度は、この男がわたしを飼おうとするのだろうか。
 人間はなぜわたしたちを飼おうとするのだろう?
 最後には捨てるか、ずっと眠るかして、わたしを置いていくのに。
 男がぎこちなく微笑み、ぎこちない動きで両腕を伸ばしてきた。
 ——おいで。
 知りたい。
 初めて興味が湧いた。人間はなぜ猫を買うのか。わたしたちの何を、人間は欲するのか。
 おっかなびっくり猫を抱き上げた男の手は緊張で強張っていて——そしていつかの彼女のように、老婆のように、変わらない温もりを持っていた。

 人間の体に戻っているという確信が、目を開く前から存在していた。
 右手が温かい。上から重ねられているのは日下部の手だろう。そして……手のひらの下で、小さな命が脈打っている。
 目を開く。瞳孔が大きく広がった、猫の薄青い瞳と視線が絡み合う。
 猫は目を細め、小さな声で甘く鳴いた。
 日車もそっと微笑み返した。人間の体で笑う感覚が戻っていなかったために、ぎこちない表情になったと思う。拙くても構わなかった。猫又に——彼女に伝えたかったのだ。今の自分が幸せだと感じていることを。

* * * * *

 今日は家に行ってもいいかと尋ねただけなのに、日下部はぽかんと口を開けて固まってしまった。
 彼の両手から書類が滑り落ち、床の上にぶちまけられる。あっと叫んで日下部が我に返り、慌てて書類を拾い始めた。日車もそんな彼に呆れつつ、手伝うためにしゃがむ。
「悪い。すまん……
「別にいい。俺が話しかけた途端、ぼうっとしてどうしたんだ」
「びっくりした。あんたから言われたのは初めてだったから」
「そうだったか?」
 日下部が頷く。「だからびっくりして書類を落としちまった。いや、別にあんたのせいだって責めるわけじゃねえけど。何かあった?」
 日車は首を振りかけたが、直前で思い直して口を開いた。
「俺の世話をしてみたいと言っていただろう」
「は?」
「先週、俺が猫又と入れ替わったときに」
 失敗したと、口に出してすぐ後悔した。仕事中に言う内容ではなかったかもしれない。プライベートにも程がある話題だ。案の定、目の前の日下部は二度目のフリーズを引き起こしていた。比較的すぐに立ち直ると、書類を手早くまとめて立ち上がる。
「世話していいんですか」
「なぜ敬語を使うんだ」
「どうなんですか」
 日車は溜息をついた。日下部の目が少し怖い。表面上はなんでもない風を装っているが、これは腹の中で何か考えているときの顔だ。
「俺はお願いした立場だ。受けるのも断るのも君次第だろう」
「じゃあ、仕事が終わったら休憩室で」
 頷くと、日下部が顔を寄せて頬に口づけてきた。彼は素早く体を離し、日車の肩を叩いて歩き去っていった。
 呆然と立ち尽くして頬を撫でる。職場だからやめろと怒ることもできなかった。柔らかな感触がまだ皮膚の上に残っているような気がして、仕事中だ、集中しろと呟きながら自らの頬をつねる。ちょうど通りかかった伊地知にその姿を目撃され、心配されてしまったのはまた別の話である。
 呪術師と教師、それとシン・陰流の当主を兼任している日下部のほうが、普段は仕事が終わるのが遅い。単純な事務仕事なら日車も手伝えるが、教師や当主の仕事となるとお手上げだ。休憩室に遅れて入ってきた日下部は疲労を滲ませた笑みを浮かべ、お疲れさまと日車の肩を叩いてきた。
「別の日にすべきだろうか」
「なんで? 気にしてねえよ。帰ろうぜ」
 明日は休みだしと言われて、今日が土曜日だとようやく気がついた。自分も大概だ。呪術師の仕事に追われて曜日感覚が狂っていたらしい。二人の休日が被っていると気づいて嬉しく思った。
 日下部の車で帰る途中にスーパーへ寄り、惣菜を買って帰る。今日の気分は寿司だ。帰宅したらまず食事を済ませ、それから風呂に向かった。
 日車の浴室よりも、日下部の浴室のほうが広い。とはいえ狭いことに変わりはなかった。どうしようかと二人で考え込み、話し合って揉めた末に、とりあえず二人で入れればいいだろうと結論づける。シャンプーを流すとか、背中を洗うとか、それくらいはできるだろ——実際、日下部は言った通りのことをした。彼が浴槽に浸かってシャワーヘッドを持っているので、浴槽の外で椅子に腰かけている日車の体も浴槽へ近づくことになる。
 日下部に背中を向けていた日車は彼に話しかけた。
「え? 悪い、今なんつった」
「猫又の様子はどうだ」
 後頭部にかけられていたシャワーの勢いが弱まる。話し声が通りやすいようにしたのだろうか、彼らしい気遣いだ。うーん、と日下部が背後で唸る。
「俺もあまり姿を見かけてないから、よくわかんねえわ」
「呪術高専で飼っていると聞いたが」
「まあな。けど、世話は補助監督とか家入とか、高専にいるやつらが交代でやってる。俺ら呪術師は急な任務で外に出たりするから」
「そうだったのか。元気ならいい」
「最近は『森』にいることが多いって聞いたな。向こうで呪骸たちと一緒にいるらしい。何か通じるものがあるのかね」
 猫としての生を超越した猫又と、呪力の枯渇や核の破壊が起きない限り、半永久的に稼働し続ける呪骸。確かに、共通点はあるのかもしれない。
 『森』を守護する結界は現在、結界術を展開する呪具で代用している。天元なき今、『森』の保護を巡ってはいつか本格的な対策を考えねばならないだろう——とにかく。
「『森』に行けば彼女に会えるか」
「おそらくは」
「今度、付き添ってくれないか。俺ひとりで『森』への入口を見つけられる自信がない」
「おう。任せろ」
 もう少し踏み込んだ頼み事をしてもいいだろうかと躊躇った。日下部にはそう思わせてしまう懐の深さがある。それゆえ彼に余計な負担をかけていないかと遠慮してしまうのが、自分の短所であり杞憂だとわかっていても、つい普段の癖で尻込みしてしまった。
「どうした?」
 優しく声をかけられる。言うか言わないか、迷っていたのが伝わってしまったらしい。
「月に一度か二度、彼女をうちか君のところに連れていきたいんだ」
「いいんじゃねえの? 俺と伊地知が許可すれば大丈夫だろ。今んところは一応、呪具と同じ扱いなんだし」
「大丈夫なのか。そんな気軽に許可を下ろして」
「いい。大丈夫。あんたがあいつと会いたいって言うの、何となくわかる」
——なぜ?」
「勘。あとは、先週の……
 日下部が黙り込む。不自然な沈黙だった。背後へと振り向きかけ、シャワーからの湯を顔面に浴びてしまう。水が鼻の奥へ入り込み、体を丸めて咳き込む。日下部が慌てたようにシャワーの位置を足元に下げた。
「わ——悪い!」
「だい、じょうぶだ。大事ない」
 呼吸を整えて口を閉じる。二度目の沈黙は、一度目のときよりも遥かに重たく感じられた。
「あのさ」
 日下部が恐る恐る切り出した。
「先週はごめん。あいつと一緒に寝て、あんたをリビングに放置して」
 日車は振り返りながら首を傾げ、記憶を漁ってようやく思い当たる。日車が猫又と意識を交換され、猫の体になってしまった最初の日の、夜のことだ。日下部と一緒に寝ると猫又が言い出して、日下部は拒否できず、猫又と一緒に寝たのだったか。日車は猫又に嫉妬し、同時に日下部にも失望し、不貞腐れてリビングのソファーで夜を明かしたのだ。
 今思えば幼稚な嫉妬心だ。日車は首を振り、気にしていないと告げる。
「あれは彼女……猫又が、君で実験していただけだ。猫と人間、あるいは人間同士が一緒に寝ることの意味を知りたかった。それに、元を辿れば俺が勝手に嫉妬しただけだろう」
「あんたを傷つけたことに変わりはねえだろ」
 咄嗟に否定するために開いた口から、何も出てこない。その空隙が日下部の発言に対する肯定となって、否定の場が失われたのを日車は直感的に理解した。
「あのときの俺は誠実じゃなかった」
 日下部が沈痛な表情を浮かべて言う。
「拒むべきだった。それをあんな……謝って許されないことなのはわかってる。だからな日車、あんたはもっと怒っていいし、俺を罵倒することだって——
 限界だった。日車は反射的に俯き、口元を押さえてくしゃみをする。
 鼻をすすって顔を上げると、日下部が申し訳なさそうな顔でシャワーを掲げた。
……寒い」
 湯が肩を叩き、体の震えが徐々に収まっていく。三度目の沈黙——非常に気まずい。日車は背後へ振り向きかけた姿勢のまま、日下部の顔を直視することができない。どうすればいいだろう。穏便に話の決着をつけられる方法は……
「俺は気にしていない」
 声に出して本音を言ってみる。
「あれは必要な処置だった。それに、何度も言っているが、元々は俺の嫉妬が原因で……
 日下部を突き放すような言い方になっていないだろうか? 否、なっている。駄目だ。話せば話すほど、自らの墓穴を掘っている気がした。
 人間の肉体に戻り、やっと共通の言葉で語り合えているのに、こんなにも心の距離を遠く感じてしまうのはなぜなのだろう。猫のときのほうがましだったかもしれない。猫又の発言でああなる前は、猫と人間でも心を深く通わせられていたと思う。今と同じように浴室で——体を洗ってくれて——それで……
 日車は立ち上がった。水が滴り落ちる前髪を後方へかき上げる。驚いた顔でこちらを見上げる日下部を一瞥し、浴槽に足を突っ込んだ。
「え? えっ? ちょ、ちょっと待て、狭いから——
 静止の声も無視して浴槽に体を沈ませた。男二人ぶんの重みを受け、浴槽から大量の湯が溢れ出て排水溝へと流れ落ちていく。ようやく静けさが戻ってきたとき、日車は日下部の胸に右の頬を押しつける形で、彼の足の間に座り込んでいた。
 右耳から鼓動が聞こえる。異様に速かった。当然だ。速くなってもらわなくては、思いきって行動した意味がない。日車は羞恥で上がっていく全身の体温を鎮めようと深呼吸を繰り返し、目を閉じた。
……もう怒っていない」
 返事なし。日車が落ち着きの良いところを探すために身動ぐと、大袈裟なほどに日下部の体が跳ね上がった。
「いい加減に気づけ。わかったか」
……ひゃい……
「聞こえない」
「ハイ!」
「うるさい……
「その……日車さん」日下部が再び情けない震え声になって言う。「この体勢マジでやばいっちゅーか……ヤバいです。色々」
「なぜ敬語を使うんだ」
「マジでヤバいからです」
 口元が笑みの形へ崩れそうになるのを、表情筋を総動員させて懸命に堪える。日下部にはもう少し反省してもらわなければ——などというのは建前だ。本音は、日下部をもっと困らせてみたい。今日だって、校舎内でいきなり口づけられて驚いたのだ。当分のあいだ自分が振り回しても、彼は文句を言えないだろう。
「もう少し、このままで」
「ハイ……
 日下部がシャワーを元の場所に戻し、日車の肩へ腕を回してきた。姿勢が安定してさらに体重を預ければ、日下部は深い溜息をつきながら片手で自身の顔を覆い、天井を仰いだ。大変に困り果てている。愉快だ。もっと困ればいい。
「温かいな。日下部」
「ああ……ソウデスネ……
 未だ敬語が抜けていない不自然な口調を鼻で笑う。
 先週、浴室で日下部に抱きしめられたことを思い出しながら、日車は深い呼吸を繰り返した。
 当時は互いに不安で堪らなかったと思う。それでも、きっと大丈夫だと前を向くことができた。
 日下部がいてくれたからだ。そして、今も。
 ——猫又のことを思い出すたびに己の過去を、——日車の人生を決定的に変えたあの瞬間、あの裁判を、証言台で呆然と立ち尽くす彼を、日車のかつての部下だった彼女を、——彼がか細い声で語った、大家に内緒で飼っていたという、小さな温もりたちのことを思い出す。
 彼らの行先に思いを馳せる資格がないことはわかっている。すべてを日車自身の手で破壊し、粉々に叩き潰して血で汚した。そして、過去には二度と戻れない。
 あの子たちは死んでしまったのかもしれない。
 薄く目を開いた先には、日下部の胸と、彼の体にすがる自分自身の手が見える。
 その手は日車が犯した罪によって見えざる血で汚れている。己が被っているのは人間の血だけではないのかもしれないと、今この瞬間に初めて考えた。
 俺は何をしている?
 こんなことを——のうのうと生きることを、許されているとでも?
 途端に体中から熱が引いていくような感覚に襲われたが、日車の脳は同時に、新たな記憶を連れてくる。
 ——君は生きている。
 それは日車の声だったが、日車が発した言葉ではなかった。
 彼女は確かに日車寛見ではなかったが、間違いなく、日車寛見の姿をしていたのだ。
 ——なのにわたしよりもこんなに小さい。守らなければと思う。
 君はわたしの大事なものだ——
 拳を握り、緩く開いたのちに、日車は再び目を閉じて体の力を抜く。
……温かい」
 肩を抱く手に力がこめられ、すぐに緩んだ。
 日車の言葉に同意するように。あるいは——口に出さずとも、互いの心がこの瞬間は通い合っていることを、確かめるように。