わからん
2025-09-09 11:03:17
6775文字
Public くさひぐ
 

【篤寛】茶虎猫

猫の姿になってしまった日下部を日車が拾うくさひぐ 日車が猫になってしまった話( https://privatter.me/page/68a3172739ca5 )の続きです
※猫に人間のツナ缶をあげるのは良くないです



「君は……日下部、なのか?」
 日車が発した問いに対して「それ」は、なうっと小さな鳴き声で応じた——声の主は、日車の足元に座り込む猫である。
 その鳴き声は同意のように聞こえなくもない。日車は口元に拳を当てて考え込んだ。
 猫は日車が住むアパートの階段前で丸まり、眠っていた。遠目では猫かわからなかった。訝しげに思いつつも日車が近づいた途端に猫はむくりと起き上がり、なぜか一目散に足元へ擦り寄ってきて、今に至る。
 猫は濃いオレンジ色の縞模様が入った、いわゆるトラ柄と呼ばれる毛並みをしている。
 日車は猫を飼ったことがない。だが、岩手の実家の近くでは野良猫をよく見かけたし、小学生のころ遊びに行った男友達の家で猫に触ったことがある。そのときの記憶と比較してみて、この猫がかなり大柄であると感じていた。それに、こちらを見る目つきが、猫にしてはどこか鋭い。その体格と顔つきが、日車の同僚である男を彷彿とさせたのである。
 この猫を見ていると、ひと月ほど前に自分を襲った事故を思い出す。とある呪霊の討伐に赴いた日車は、呪霊の攻撃を受けて猫になってしまった。自分は猫になっていた間の記憶を失っていたが、運良く件の同僚が住むマンションの付近を彷徨っていたらしく、人間の姿に戻るまでは彼に保護されていた。
 それと同じ状況に自分は出くわしているのではないかと、日車は疑っている。
 極め付けに、この猫からは奇妙な気配——呪力が感じられた。
 ただの猫でないのは確定だ。だとすれば、猫の正体は日車の同僚である日下部だろうか?
 彼も呪霊の攻撃を受けて変身してしまったのか? しかし、同じ術式を持った呪霊が、こうも連続して出現するものだろうか?
 あいにく、呪術師になったばかりで経験の浅い日車は、そうした問いの答えに自力で辿り着けるほどの知識は持ち合わせていない。
 だが別の切り口から考えることはできる。つまり、他の呪術師ならこの状況をどう対処するか、ということだ。この場合、日下部はどう考えて行動するだろう? 決まっている。保護するはずだ。日が暮れ始めているから、自分の部屋でひと晩だけ世話をし、翌日になったら呪術高専に連れていくだろう。
 日車はしゃがみ、できる限り猫との視線を近くするよう努めた。トラ模様の猫は琥珀色の目を開き、日車を興味深げに見つめ返してくる。
「そろそろ日が暮れる。もし君に行くあてがないのなら、うちに来ないか」
 猫は首を傾げた。人以外の生物に人間の言葉がわかるはずもないし、日車自身も猫になっていた間の記憶はない。仮にこの猫が日下部だったとしても、日車の言葉の意味は理解できないはずだ。
 それでも、どんな生物に対してもコミュニケーションを試みてしまうのは生きものとしての性なのだろうなと、日車は自身の行動を鑑みて苦笑した。猫を飼っていた小学校の友人も、よく猫に話しかけては構っていた記憶がある。
「おいで」
 なうー、と猫が再び鳴いた。敵意は感じられない。日車がゆっくり手を伸ばして背中に触れると、猫は満足げに顎を上向けた。
「君は賢い子だ。行こう」
 日車は猫を抱きかかえ、階段へ足をかけた。

 日車の部屋を一言で表すなら——殺風景、この言葉に尽きる。
 元々、数ヶ月前に借りたばかりの部屋だ。ベッドやテーブル、椅子などの必要最低限な家具と家電は揃っているものの、それだけだった。最近は書類や本を収めるための棚を買おうと思っていたが、呪術師の仕事で忙殺されているうちに、すっかり忘れてしまっている。
 猫がリビングを歩き回っている間に着替えた日車は、猫を浴室へ連れていった。はじめ、猫は浴室がどういう場所か理解していなかった。日車の足元を歩き回ってこちらの様子を窺っていたが、シャワーヘッドから湯が出てきたのを見た瞬間に態度が豹変した。全身の毛を逆立てて浴槽の蓋に飛び移り、日車が捕まえようとすると俊敏に逃げ出してしまう。湯を出すのを止めても、唸り声を上げたまま近づかない。
 参ったなと呟くも、猫の体は土煙や泥で汚れている。洗わない選択肢はなかった。呪力を使って捕まえるしかないかと考えたそのとき、猫が日車に向かって飛びかかってきた。
「うっ」
 左肩にずしりとした重みを感じ、それは首の後ろへと移動する。視界の隅に猫の尻尾が見えた。鏡を確認すれば、猫が肩の後ろを陣取っている。その表情は心なしか得意げだ。日車の目的は猫を洗うことで、日車自身の体を洗うわけではないと気づいたのだろう。ゆえに、日車に密着さえしていれば、体を濡らされる心配はないと考えたに違いない。
 勘の鋭さと頭の回転の速さはさすが日下部(暫定)といったところか。だが、引くわけにはいかない。抵抗するのならこちらにも考えがある——日車は自身の頭上にシャワーヘッドを掲げ、思いきり蛇口を捻った。
 勢いよく飛び出た湯が日車と猫、両者の全身に容赦なく降りかかる。このとき猫が上げた悲痛な叫び声によって、日車の耳はしばらく耳鳴りが止まなかった。猫は日車の背中から落下し、それで諦めがついたのか、その後はずぶ濡れの日車に大人しく体を洗われていた。
 猫を宥めつつ体を乾かしてやった頃には、濡れた部屋着を着たままだった日車の体は冷えきり、震えが止まらなくなっていた。せっかくだからと風呂を済ませてリビングに戻ると、猫は部屋の隅に丸まり、日車をじっと睨んでいる。自分が同じ立場でも同様に相手のことを恨んでいただろう。ともすれば、自分が猫だったときも、こうして日下部を手こずらせてしまったかもしれない。仕方のないことだと諦める。
 猫を尻目に冷蔵庫と戸棚を開けた日車は顔を曇らせた。食事は外か近所のスーパー、あるいはコンビニの惣菜やカップ麺などで済ませていたので、当然、猫が食べられるようなものは何も置いていなかった。あるのは……
「すまない。これしかなかった……
 少量のシーチキンをのせた小皿を、猫の手前にそっと置く。
「たくさん食べると体に良くないらしいから、少しだけだ。明日、呪術高専へ連れていく途中で君の餌を探そう。今日のところはこれで我慢してくれ」
 コンビニに猫用の餌があるかもしれないとも思った。しかし、このアパートから最寄りのコンビニまでは少し距離があるし、猫を放って外出するのも忍びない。一食抜いたところで大丈夫だ、水分さえ取っていれば——人間の日下部が聞いたら烈火のごとく怒るだろうなと他人事のように思いながら、日車はコーヒーを淹れにキッチンへ戻る。ただのエゴだとはわかっていたが、猫が満足した食事を取れないのならと、自分も夕飯を抜くつもりだった。
 キッチンで立ったままコーヒーを飲みつつ、リビングの様子をこっそりと窺う。猫は体を屈めてシーチキンの匂いを嗅いでおり、食べても大丈夫だとわかった途端にがつがつと食べ始める。あっという間に平らげるとキッチンに入ってきて、日車の周囲をうろうろと歩き回った。日車がしゃがめば大人しく背中を撫でさせてくれた。仲直りは成立したということらしい。……
 時刻は深夜を回ろうとしていた。メールや報告書の作成を済ませてベッドに潜り込んだ日車を見て、猫もまた乗り上げてきたが、毛布の中に潜り込んだり、体の上に乗ってくることはしなかった。猫は日車の顔に自身の顔を近づけ、じっと見下ろしてくる。
 暗闇の中でも琥珀色の瞳は淡い光を放っているように見えた。日車も重たい目蓋を持ち上げ見つめ返していたが、眠気には抗えない。鋭いながらもどこか優しげな、繊細な目つきはやはり日下部にそっくりだと思った。彼に見つめられていると思えば安心する。目蓋を下ろした直後、頬に温かなものが触れてきたように感じたが、すぐに深い眠りへと落ちていった。

 人の気配を感じて意識が浮上したとき、驚きよりもやはりという思いが勝った。
 予想通りだ。自分の勘は当たっていたらしい。目蓋を薄く開けば、こちらの顔を覗き込む、不機嫌そうな日下部の顔が見える。
「おはようさん。服を用意してくれたのは有難いが、体格差を考えろ。きつすぎる」
……おはよう……人の姿に戻って、早々に文句か」
「仕方ねえだろ」日車のぼやきに日下部はますます顔をしかめて言う。「この際だからあんたがパクりやがった服を返せや、どこに隠した」
 日車は被っていた毛布を引き下げた。上下黒のスウェット——かつて、猫から人間の姿に戻った日車が、日下部の部屋から盗みだしたものである。日下部が呆れ顔で溜息をついた。
「あんたなあ」
「抵抗はしないから力ずくで奪ってくれても構わない」
「俺は追い剥ぎかよ? 気に入ってんならいいわ、そのまま着てろ」
「猫になったのは、呪霊にやられたのか」
「まあな。しくった。呪霊を祓って、呪術高専に戻ってる途中から記憶がねえ。向こうに連絡しねえと……
 よいしょと日下部が立ち上がる。彼が着ている日車のスウェットは確かに窮屈そうで、腹は辛うじて隠れているが、手首や足首が丸出しだ。
 彼は仁王立ちで日車を見下ろした。険しい表情だ。それでさ、と低い声で言う。
「死ぬほど腹減った」
「それは……すまない。昨晩は冷蔵庫に何も入っていなかったから」
「やっぱりな。そうだろうと思った」
 日下部はベッドを回り込み、寝室のカーテンを開いた。朝日が差し込んでくる。眩しさに日車は目を閉じかけたが、緩慢な動作で起き上がった。寝室を出かけた日下部が立ち止まる。
「日車ァ。お前、今日の予定は?」
 日下部の問いに、日車は寝起きの頭ながらも今日のスケジュールを思い出す。
「朝一で猫の君を呪術高専に連れていく予定だったが、それが消えて……仕事も、ない」
「丸一日オフ?」
 日下部の問いに頷く。「君は?」
「俺も一日まるっと仕事ナシ。ほら、着替えたらメシ買いに行くぞ。服も何か適当なのを貸してくれ」
「朝はいつもプロテインで……
「あのな、プロテインは補助食であって主食じゃねえんだよ。ちゃんと飯を食え、飯を」日下部は部屋を出ていったが、話の続きが廊下から聞こえてきた。「冷蔵庫ん中がいっぱいになるぐらい買え。言っとくけど、カップ麺と冷凍食品以外でだからな。たまには自炊しろ。朝メシ用に何かねえか、勝手に漁るからな」
「君はまず昨日の任務の担当だった補助監督と、家入に連絡すべきだ」
 一瞬の沈黙ののち、うげえと不満げな声が聞こえてきた。
「あんたから連絡してくれねえか。今日連絡したら、検査やらなんやらで連れていかれちまう。まだ猫のままだとか、お前以外の相手には暴れるとか、適当にでっちあげてさ」
「俺が君を拾って預かっているという体か?」
「そういうこと。よろしく」
 枕元に置いていたスマートフォンを掴んで寝室を後にする。日下部はキッチンの戸棚を開け、何か食べられるものはないかと探していた。棚の奥から未開封であるインスタントの味噌汁を探し出し、肩越しに日車のほうへと振り返る。
「一つもらうけど、お前も食うか? ケトルは置いてる?」
 キッチンの入口で立ち止まったまま何も言い出さない日車を見て、日下部が首を傾げた。「……怖い顔してどうした、日車サン」
「等価交換だ、日下部。俺は相手を騙すことになる。君の要求を俺が呑むには、まず俺の要求を受け入れろ」
「はあ。別にいいけど」
「一つめ。食材を買うのはいいが、俺は料理をしない」
 日車がきっぱりと言い切ったのを見て、日下部が顔をしかめた。怒っているというよりも、日車のそうした生活態度にもはや諦めがついている顔だ。
「君がすべて調理しろ。俺も手伝うから、作り方も教えてくれ」
……教えてくれって、作り置きを食い終わったあとも自炊すんの? あんた」
「わからない」と返して日下部が顔を歪めたのに気づき、慌てて付け足した。「俺の食生活が良くないのは自覚している。可能な限り試みると約束する」
「そう。わかった。じゃあ、簡単なやつを教えるから」
 あまり期待されていないとすぐにわかった。あっさりとした態度だ。少々むっとしたが、元はと言えば自分の乱れた生活習慣が原因だ。怒りを抑え、続きを口にする。
「二つめ。日下部、正直に答えてくれ」
「おう」
——君、昨日の夜には記憶が戻っていたな?」
 日車は日下部の目元を注視した。人が嘘をつくとき、それが行動として顕著に現れるのは目だ。視線を逸らしたり、逆に強く凝視してくることがあれば、それは本人が心の中で動揺している証左となる。日車は、自分の質問は事実を指摘したものであると確信していた。
 果たして——日下部の目はまず、右下を見た。それから真下へ、もう一度右下へ戻り、日車の様子をちらりと窺う。あー、と間延びした声を上げ、後頭部をかき——もはや目を見るまでもない。確定だ。
「戻っていたんだな?」
……おっしゃる通りです……
 普段の日下部からは想像がつかない、蚊の鳴くような声だった。
「だろうな。いつから戻っていた?」
「寝る少し前……
 日下部の顔はとうに真下を向いている。顔は日車から見えないが、耳の先が真っ赤なのは隠しようがない。
「お前、なんで気づいたの」
「勘だ。それに……
 日車は寝る直前、自身の視界に広がっていた琥珀色の目を思い出した。
 そうか。あれは本当に、日下部の目だったのだ。彼の目だと安心して自分は眠りにつき、それで——
……いや、いい。ただの勘だ、君のことに気づいたのは」
 あれは夢の中での出来事だったのかもしれない。日車は首を振り、手の中のスマートフォンに視線を落とした。
「約束通り、補助監督と家入には俺から連絡しよう。君も、俺との約束は守るように——
 画面を見ていたために、日車は日下部の接近に気づかなかった。頬に彼の手が触れてきたことに驚き、顔を上げたときには、日下部の顔が間近に迫っていた。
 彼は顔を傾けて視界の隅に消えた——そのまま、頬に唇が触れてきた感触を覚える。
 日車の指先からスマートフォンが滑り落ち、床に落下した音で、日下部が体を離した。
……本当に覚えてねえの?」
 固まる日車の足元からスマートフォンを拾い上げ、手のひらに押し付けてくる。
「あんたの家に初めて上がったきっかけがこんなので、猫だった俺自身に嫉妬したんだよ」
 住所は元々知ってたけど、と赤い頬のまま彼は続けた。「せっかく記憶が戻ったのに、あんたは猫の中身が俺だと気づかねえのかよって、かっとなっちまった。……悪い」
 そのまま脇を通り過ぎようとしたのを、日車は咄嗟に手首を掴んで引き止めた。
 頭の中はすっかり混乱していた。眠り際に感じたあれは、気のせいではなかったのだ。つまりそれは、それは……。ぐるぐると思考が回り、混ざり合って、脳がキャパオーバーで爆発してしまいそうだ。
「ね、猫の君が、本当に君かもしれないと、考えていたのはもっと前からだ」
 駄目だ。表現が曖昧すぎる。恥ずかしさのあまり日下部の顔を直視できない。先ほどと立場がすっかり逆転してしまっている。自身の顔に熱が集まっていくのを感じながら、日車は俯いてぼそぼそと弁明した。
「だから、翌日の朝は、君が部屋にいてくれたらいいと……そう、思っていて」
 どう言えばいいのだろう? 混乱を極めた日車の頭は過去の記憶を手当たり次第に漁り始める。似たような状況、時、場所——見つけた。
「無事でよかった」
 握りしめた日下部の手を見つめながら、日車は囁いた。
「君が無意識のうちに頼ってくれた相手が俺で嬉しかった。この部屋で一人じゃない朝を迎えたのは初めてだ。君がここに来てくれてよかった——
 手を力強く握り返される。最後まで言い切る前に背中を抱き寄せられ、全身が日下部の体温に包まれた。
 耳元で深く息を吸い、吐くのが聞こえて、日下部が微かに笑った。
「そういや言ってなかった」と呟き、日車の背中を優しく叩いてくる。「ただいま。面倒見てくれてありがとな、日車」
 胸の内から温かなものが込み上げてくる。それは日車の胸を満たし、口元を綻ばせた。それと——わずかながら悪戯心も呼び起こす。
「君は本当に手のかかる猫で、俺は君のせいで風邪を引きかけた」
「えっ、嘘」
「あとでたくさん話してやる。まずは朝食にしよう。——おかえり、日下部」
 顔を上げて日下部の様子を窺う。こちらの視線に気づき、見下ろしてきた日下部は目が合うと照れたように笑った。日車を見つめ返してくるその目は、猫になっても人間に戻っても、何ひとつ変わらない輝きを放っていた。