わからん
2025-08-18 21:05:59
5791文字
Public くさひぐ
 

【篤寛】黒猫

猫の姿になってしまった日車を日下部が拾うくさひぐ




 猫を拾った。
 マンションの入口で。
「は? いやいや、いやいやいやいや……
 人は予想外の出来事に出くわすと語彙を失ってしまうらしい——日下部は後頭部をかきながら、マンションの入口にしゃがみ込んだ。
 自動ドアの手前で前足を揃え、行儀よく座っている黒猫は、まるく開かれた目で日下部を見上げてきた。黄色い目玉の中央で黒い瞳孔が広げられ、困り果てた顔をした日下部の姿が映り込んでいる。
 こちらが近づいても逃げようとしない。ずいぶんと人に慣れている様子だった。家猫か? 見たところ首輪はない。土煙や砂埃で汚れているみたいだし、野良猫だろうか……。しかし日下部が困っているのは、迷い猫を見つけたからということではなかった。
 呪力を感じる。
 他でもない、この黒猫からだ。
「呪霊……? まさか。猫又、ってわけでもないよなあ」
 尻尾はちゃんと一本である。先端が分かれている、なんてこともない。見た限りはただの猫だった。なのに、呪力を感じられるというのはいったい、どういうことだろう?
 顎に手をやってしばし考え込むも、結論が出ないのは明白だった。日下部は溜息をつきながら周囲を見回す。外は雨が降っていた。しかも土砂降りだ。だからこの猫も雨宿りをしに来たのだろうが、人通りの多いマンションの入口にいたら、いずれ意地の悪い住民に追い払われてしまうだろう。そろそろ日も暮れそうだし、追い出されたら黒い毛色が闇に紛れて、車や自転車に轢かれてしまうかもしれない。
「どうしたもんかな」
 日下部が呟いた途端、黒猫が小さな声で鳴いた。まるで返事をしているかのような反応に、日下部は唇をへの字に曲げる。
「なんかお前、俺の知り合いに似てるんだよな」
 猫が人の言葉を理解できるわけがない。しかし、黒猫はわずかに首を傾げたようだった。きょとんと大きく目を開き、無言でこちらを見上げてくる姿……なるほど、確かにそっくりだ。最近、呪術高専へ来たにもかかわらず瞬く間に一級呪術師の座を得て、すでに特級入りすら噂されている、日下部と歳の近い同僚に。
 そういや今日は姿を見かけなかったな、と日下部は職員室の様子を頭の中で思い描く。彼は朝早くから任務へ行き、昼過ぎには戻ってくると聞いていたが、日下部が退勤するまで結局姿を見せなかった。まあ、それも仕方がない。どんなイレギュラーが舞い込んでくるかわからないのが呪術師という職業だ。お互い忙しい身なのだし、数日や数週間のすれ違いもしょっちゅうだ……ほんの少し、寂しい気持ちではあるが。
 再び鳴き声が聞こえた。黒猫は四本足で歩み寄ると、日下部の膝に体をすり寄せてくる。そっと手のひらを差し出して背中の上に置くと、猫はさらに強く体を押し付けてきた。
「来るか? お前」
 迷った末に問いかけると、なう、と甘い鳴き声で猫が返事をした。人の言葉ではないとはいえ、同意したように聞こえなくもない。
「一晩だけだからな」
 明日になったら呪術高専へ連れて行こうと独りごち、日下部は黒猫を抱きかかえた。

 廊下の上に体を下ろしてやると、猫は周囲をきょろきょろと見回しながら奥へ進んでいく。そのまま扉の隙間をすり抜けてリビングへ入ろうとしたので、おいと声をかけて呼び止めた。
「先に体洗うぞ。こっち来い」
 日下部のほうを振り向いたのち、踵を返して足元に近づいてきたので、本当に人の言葉を理解しているんじゃないのかと思う。その直後、体を擦り付けてスーツに砂埃の汚れを移してきたので、やっぱり理解はしてないんだなと諦めて溜息をついた。
 犬はシャワーが苦手だということは知っていたが、猫はどうなのだろうか? 少なくとも、この黒猫は大人しい。体を洗っている間はじっと全身を強張らせていたが、暴れたり、鳴いたりすることはなかった。しかし、全身をドライヤーで乾かして電源を切った瞬間、部屋——リビングに連れてきていた——の隅に逃げ込んだので、ただ我慢していただけかもしれない。
 猫は何を食べるのかネットで調べてみると、基本的には肉食だが、野菜もある程度は食べられると書いてあった。冷蔵庫にあったキャベツを茹でて刻んで出してみたものの、黒猫はそっぽを向いて見向きもしない。小皿に出した水は勢いよく飲んでいる。食べさせるのは一旦諦めて、日下部自身も食事と入浴を済ませることにした。
 風呂から上がってきたら、猫はソファーの上で丸くなって目を閉じていた。寝ているならと寝室に移動して扉を閉める。ベッドの上でスマートフォンを手に職場からの連絡をチェックしている途中、外から扉を引っ掛くような音が聞こえてきた。あの鳴き声も聞こえてくる。声は次第に大きくなっていき、無視できなくなった日下部は扉を開けに行った。
「お前なあ……
 途端、扉の隙間から飛び出してきた猫が足首に纏わりついてくる。踏みつけないようゆっくり後退りながら、日下部はベッドの縁に腰掛けた。
 脛に感じる猫の体温や尻尾が擦れるくすぐったさは、何か言いようもない感覚を日下部にもたらした——自分以外の、それも小さな生きものの命を預かっている使命感というのか、この猫を大切にしなければならないという義務感だろうか。らしくもないと我ながら思う。大切なものを作りたくないから独り身を選んでいるのに、こいつがいるのも悪くないかと考えてしまう。
 日下部が黙り込んでいると、猫はベッドの上に飛び乗ってきた。日下部の背後を右往左往し、やがて左側の腰のそばに体を落ち着かせた。ソファーの上と同じように体を丸め、目蓋を下ろしてしまう。
 頭の上に手を置いて撫でてみた。喉を鳴らす音が聞こえ、猫は満足げに顎を持ち上げている。
 ——本当に気まぐれなんだな、猫って……
 振り回されている自覚はあったが、それを嫌だとは思えなかった。そういう生きものなのだ。これが猫の本質なのだろうと日下部は思った。
 部屋の電気を消して横になろうと身じろいだ途端、案の定、猫は起き上がった。ベッドに寝転んだ日下部の頭付近をぐるぐると動き回っていたが、移動して腹の上に乗り上げてくる。重たかったものの眠気が勝った。やれやれと今日何度目かもわからない溜息をつき、猫の背中を撫でながら日下部は目を閉じた。

 目蓋越しに感じる光で、朝になっていると気がついた。
 頭の近くに何かがいる。それは静かにマットレスを沈ませて移動し、ふさふさしたものが顔にかかってきたので、昨日の夜に黒猫を拾ったことを思い出した。ということは今、日下部の顔を撫でているのは猫の尻尾だろう。鼻のあたりをくすぐられてくしゃみが出そうになる。壁側へ寝返りを打つと、猫はマットレスを蹴って床の上に着地したようだった。
 しばらくの間、物音は何も聞こえてこなかった。猫は寝室を出て行ったのか、だとしたら何をしているのか。賃貸だから、壁やドアを引っ掻かれるのだけは勘弁だ。目蓋を閉じたままぼんやり考えていると、マットレスが沈む気配がした。猫が戻ってきたのか? いいや、それにしては随分と重いもののような……
 肩に何かが触れてきた。猫ではない、もっと大きく、毛がないもの——人間の手だ。
「日下部」
 夢か、と日下部は思った。これは夢なのだ、しかも、昨日は会えなかったからという自分の不満や願望を叶えるための。そうじゃなければ、ここにいない人の声など聞こえるはずがない。
 目を開ければ夢は覚めてしまう。だから、目は閉じたまま、眠ったふりを続けることにした。
「すまない。世話をかけたな」
 昨日は会えなかった——日車と思しき人物の手が、日下部の肩を優しく叩く。
「昨夜のことはほとんど覚えていないが、無意識に君のところに来ていたらしい。拾ってくれて助かった」
 どういう意味だろうか。自分が拾ったのは薄汚い黒猫だ。しかしそういえば、あの黒猫はどこか、日車に似た面影を持っていたように思う。
 似ているとは感じていたが、あの黒猫は本当に日車だったのか?
「悪いが服を借りるぞ。返せるかはわからないが、大事に使わせてもらう」
 何言ってんだ? 服を借りるっていったいどれを。返せや。家主が寝てるからって勝手にパクんじゃねえ。
 起き上がって言い返そうとしたが、ここは夢の中なのでどうにもできない。
 肩から日車の手が離れていく。
「良い夢を。……ありがとう、日下部」
 足音が遠ざかっていき、何も聞こえなくなった瞬間に、日下部は目を開けた。
 がばりとばねのように跳ね起きる。寝室には誰もいなかった。猫もだ。足早にリビングとキッチン、トイレ、最後に浴室と探すも、どこにもいない。
 駄目もとで窓を開けてベランダを覗き込むと、表に出していたはずのサンダルが忽然と消えている。カラスか何かしらの鳥が持っていったのだろうか? 今までそんなことは一度もなかったし、あんなに大きくて重いものを、鳥が咥えて飛ぶはずがない。
 しばし考え込み、日下部は寝室に引き返した。タンスの引き出しを開けて中身をかき回す。休日の部屋着として普段着ているスウェットが、上下ともに見つからなかった。

「おはようございます、日下部さん。出勤早々で恐縮ですが、黒い猫か、あるいは日車一級術師をどこかで見ませんでしたか」
「はあ? どっちも見てねえけど……猫か日車って、どういう組み合わせだよ」
 日下部の返答を聞き、胸の前で腕を組んだ家入硝子が唸り始めた。珍しいと思いつつ、日下部はデスク上のパソコンに目を戻した。朝礼まであと一時間以上残されている。昨晩残してきた事務処理を片付けるのと、今日の朝礼で何を言うかぼんやりと考えていたところに、家入が職員室へ入ってきて、妙なことを尋ねてきたのだった。
「猫になっちゃったんですよ。日車さん」
 家入の口から出てきた言葉に驚き、顔を上げる。
——猫?」
「ええ。昨日行った任務で呪霊の攻撃を受けて、猫に変えられたそうなんです。同行していた補助監督から連絡が来たんですが、ここに連れてくる途中で脱走したらしくて」
「いつの話だ、それ」
 急に食いついてきた日下部に戸惑った様子を見せつつも、家入は冷静な態度を崩さなかった。
「昨日の昼過ぎです。今頃は術式も解けているでしょうが……
 背後で扉の開く音がし、二人は一斉に振り返った。
 日車が立っている。皺ひとつないビジネススーツを着て、髪を後ろに撫で付けている、二人がよく知る人間の日車だ。
「おはよう。二人とも早いな」
 唖然と見つめる二人の横を通り抜け、自身のデスクに腰を落ち着けた日車は、一日の業務を粛々と始めようとしている。
 日下部と家入は互いの顔を見つめ合い、再び日車を見、もう一度互いの顔を見合わせた。二人同時に顔をしかめ、家入が日車を親指で指し示す。
「特級呪術師候補の身の安全なんて、心配するだけ無駄でしたね」
……あー、うまく言えねえけど……お疲れさん。マジで」
「検査するから朝礼後に保健室へ来いって、伝えておいてくれますか」
「了解」
 むくれた顔で職員室を出ていった家入を見送り、日下部は席を立った。日車のデスクに近づくと、気づいた彼が顔を上げる。
「よお、日車ァ」
「ああ。なんだ、日下部——
「色々言いたいことはあるんだがまず俺の服と靴返せや」
 薄く開かれた日車の口から、は、と掠れた吐息が零れた。数秒の間はそのまま固まり続けていたが、血色の悪い頬へ急速に血が集まっていく。呆然としたその表情は確かに、昨夜遭遇した黒猫に似ていなくもない。
「起きて、いたのか」
「当然。あれで起きなかったら呪術師失格だわ」
 彼の反応は事実を認めたも同然だ。日下部は溜息をつき、自分たちの他には誰も来ていないのをいいことに、隣の事務椅子にどっかりと座り込む。
「術が解けたとはいえ諸々の検査が必要だから、朝礼が終わったらすぐ家入んとこ行け。で、もしかして記憶がねえの?」
……ああ。せいぜい、自分が猫になったことを覚えているくらいだ」日車は赤い顔のまま俯き、ぼそぼそと答えた。「俺は、君の部屋にいるあいだ、何か変なことをしていなかったか」
「いいや。特には……
 ——マンションの入口で雨宿りしていた、一匹の黒猫。
 日下部を見上げてきたときの愛らしい鳴き声。月を思わせる黄色い瞳、その中央に浮かぶ黒い瞳孔。足元に擦り寄ってきたときの温かさと柔らかさ——それらのことを思い出し、無意識のうちに口元が緩んでいたらしい。上目遣いで日下部の様子を窺っていた日車の顔が青ざめていく。赤くなったり青くなったり、忙しないというよりも器用なやつだと思う。
「本当にすまない。どう詫びれば」
「いや、いい。あんたが考えているようなやつじゃないんだ」慌てて否定し、日下部は顎に手をやって考え込んだ。「なんて言えばいいかな……。怒る気も起きなかったよ。可愛かったから、猫のときのお前」
 いよいよ悲痛な呻き声を上げて、日車が両手で顔を隠してしまった。言うべきことを間違えたと日下部は遅れて気づいたが、すっかり意気消沈している日車の姿に、耳を伏せて俯く黒猫の姿が重ねて見えたような気がした。
 もう二度と、あの黒猫には会えないのかと思った——違う。目の前にいる。あの黒猫に対して抱いた温かな気持ちを、日下部は覚えている。そしてその思いは今、少しも薄れていない。
「無事でよかった」
 考えていたことが、するりと口から滑り出た。
「姿を変えさせるのもだけど、相手の記憶を失わせるのはそれ以上に厄介な術式なんだ。それでもお前が——無意識だとしても——俺を頼ってくれたのは嬉しいし、本当によかったと思ってる。えらいよ、あんたは」
 返事はなかったが、日車の耳の先や、指の隙間から見える頬が真っ赤に染まっていくのが見える。
 伸ばした手は拒絶されなかった。彼の背中は猫のときと同じように温かかった。これが永遠に失わなくてよかったと日下部が呟くと、日車はますます背中を丸めてしまい、もはや額が膝につきそうである。
 彼がいつ顔を上げるのか、そのときに何を言ってくるのか、楽しみにしているのを日下部はようやく自覚し、そっと笑った。