【プロローグ】4/7(月)

黒薔薇のトリカゴの始まり。





文花ふみかは色褪せた風景の夢を見ていた。

……さく」

ひっそり静まり返った家の中でぽつり、小さな声が落ちる。このだだっ広い家には、いつも文花しかいない。家主の両親はいつも不在で、たまに帰ってきても使い勝手の良い休憩所くらいにしか思っていないのか、疲れが取れたら一時間も経たないうちにまた出て行ってしまう。
父親は大企業の社長だから時間が無いのは職業柄仕方ないのだろう。
だが母親は専業主婦で特に用事が無くても、一日中不在なのはザラにある。「買い物に行ってくるね」と昼過ぎに出て行って、帰ってくるのは深夜を過ぎてからなんてことも多々あり。
文花が中学生のときまではもう少し早かったが、高校生になってからは明らかに帰宅時間が遅くなった。
本当はどこに行ってるの、と一度だけ聞いてみたが、やんわりはぐらかされ、そのまま別の話題に切り替わってしまった。

……さく」

再び小さな声が空気に触れる。わずかに震えた弱々しい声だ。
一人ぼっちで寂しいとき、頼れる幼馴染である朔叶さくとの名前が口をついて出るようになった。
そばにいるときに呼ぶと心の底から安心できるのに、一人だとただただ、ほの暗い寂しさが募るだけ。
胸の奥がズキ、と痛み、揺れる茜色の瞳から一粒の涙がほろりと落ちた。





意識が浮上してすぐに、鮮やかな青緑色と目が合った。近い。

「あ、起きた。おはよう、ふみちゃん」
……おはよう、さく」

寝る前にはいなかったはずの朔叶は同じベッドの中にいた。
普通ならびっくりして悲鳴を上げたり、反射的に蹴り飛ばすところだが、文花は静かに朔叶の頬に手を添えて感触を確かめた。ほんのりと温かく少し硬い肌触りにそっと息をつく。

「ふみちゃん」

文花の手の上に朔叶の手が重ねられる。彼の顔には心配の色がありありと浮かんでいた。

……ふみちゃんが起きるまでね、ずっと苦しそうに僕の名前を呼んでいたんだよ。怖い夢でも見た?」
「ううん、怖くはない、けど。でもなんだかとても、寂しくて……内容は、あまり覚えてない」
「そっかぁ」

歯切れが悪い文花の言葉に静かに頷いた朔叶は、彼女の背に腕を回しぎゅうっと抱き寄せる。密着した体から温もりが伝わってきて、ぽっかり空いていた心の隙間に充足感が注ぎ込まれるのを感じた。

「ふふ、さくあったかい」
「寂しい気持ちは和らいだ?」
「うん」
「それならよかった」

朔叶の優しい心遣いに頬が緩む。寂しいときいつもこうやって抱きしめてくれる。家族ですらしてくれないことを、朔叶は無償で与えてくれる。それがとても、嬉しい。

「じゃあ僕支度を済ませてくるね。ふみちゃんはもう少し寝てていいよ。あとで起こしてあげるから」

朔叶はベッド横のサイドテーブル上にある時計を見遣り、そっと腕を引きベッドから立ち上がる。
そしてポンポンと優しく頭を撫でてから部屋を出て行く。去っていく後ろ姿をぼんやり見送ってから、文花はもう一度目を閉じた。




三十分後に朔叶に起こされた文花は、テキパキ身支度を済ませてからリビングの食卓に向かう。そこには朝ごはんの準備を終えた朔叶がすでに着席していた。

「ふみちゃん、朝ごはん食べよっか。おいで」
「うん」

手招きに応じて、朔叶の向かい側の椅子に腰を下ろす。そして二人は目と手を合わせて、

「「いただきます」」

ほかほかと温かい朝ごはんを食べ始めた。




「今日から僕たち三年生だね」

「今年こそは同じクラスになれるといいのにね。小学校のときからずっとクラスが違うから」

「ふみちゃんと同じ教室で勉強するのはきっと、いや、絶対楽しいし幸せだよ」

食事の合間に語りかけてくる朔叶の言葉に、文花はコクコク頷くことで反応を示した。以前彼に(咀嚼したものを飲み込んでからとはいえ)、食事中に話すのは行儀が悪いと注意したこともあったが、代わりに物言いたげな視線がとてもうるさくなってしまったため、すぐに発言を撤回した。
朔叶にガン見されること自体は昔からで慣れているが、それはそれとしてあまりにも視線が突き刺さるものだから食事に集中できなかった。喋らなくても煩わしいと思うことはあるんだなと、特に得なくていい発見だった。



「あら二人ともおはよう」

ごはんを食べ終わりかけた頃、リビングに背の低い、黒い長髪の女性が顔を出した。文花の母親だ。昨日一日いなかったはずだが、いつの間に帰ってきていたのだろう。

……おはよう」
「おばさん、おはようございます。ごはんは冷蔵庫の中に入れてあるので良ければ後で食べてください」
「あら嬉しい。わざわざありがとうねぇ、朔叶くん」
…………

社交的な笑みの朔叶と満面の笑みの母親を、文花は黙って無表情で見つめる。胸の奥にモヤモヤとした何とも言えない思いが立ち込めていく。痛くも苦しくもないけれど、あまり内側に留めておきたくないものだった。いったいなんだろうこれは。
母親がリビングから去ると、モヤモヤは水で溶かした絵の具のように少しずつ薄くなっていった。


「「ごちそうさまでした」」

それから数分後。朝食を食べ終えた二人は、空になった食器を重ねてシンクへ持っていく。

「さく、今日のごはんも美味しかった」
「ふふ、それはよかった。ふみちゃんはいつも美味しそうに食べてくれるから嬉しいよ。あ、食器は僕が洗っておくからその間に歯磨きしておいで」
「うん分かった。ありがとう」

朔叶の厚意を素直に受け取って、洗面所へと向かう。その途中の廊下で母親とばったり出くわす。

「文花ちゃんは今日学校なの?」
「うん」
「そうなのね。気をつけて行ってらっしゃい」
……うん」

自分とよく似た顔の母親はにこやかに微笑んで、二階へ繋がる階段を上っていった。……あの人は今日から私たちが高校三年生になることを知っているのだろうか? と文花はふと疑問に思った。
去年は「そういえば文花ちゃんは今何年生?」と七月になってから聞かれたのだ。親戚の人がする質問ならまだ分かるが、実の母親がする質問ではないだろう。しかも聞くタイミングが遅すぎる。
でも彼女はそういう人だった。家族への関心が異様に低いのが当たり前。文花が幼い頃から、いやそれより前からずっと。