山城まつり
2025-12-13 21:02:25
17140文字
Public クリムゾン・ジェネシス
 

シャルラッハロートの診療録─クリムゾン・ジェネシス─Ep.009【完結】①

前回:Ep.008 https://privatter.me/page/69341936badd5

シリーズ:https://privatter.me/user/YamashiroMatsuri?category=91299

もうひとつのエンディング: https://privatter.me/page/693e5f138478f

クリムゾン・ジェネシス、ようやく完結しました!
エピローグが長いんよ……。クライマックスで散々いじめた翠を救うための「蛇足」のパートです。
本当に蛇足かもしれないし、うまく書けなかったんですけど、翠にも救済があってほしいなという祈りから生まれたエピローグ。よければ最後まで、楽しんでいただけたら嬉しいです!

もうちょっと色々改稿して、文庫版に落とし込めたらいいなと思います。よろしくお願いいたします。

それでは、よき時間を提供できますように。

※本シリーズは医療従事者でない人間の書いた医療の描写を含みます。症例論文、手術動画、医学書などを参考に執筆していますが、現実の医療と異なる場合があります。特に本シリーズは「魔法医療」を描いておりますので、現実の医療と大きく異なる部分があります。


エピローグ:太陽を掲げて




──十一月十八日、火曜日。
瀬戸内の冬は、どこか柔らかい。

空気はきりりと張り詰めるのに、潮風に混じる微かなぬるさが肌に残り、都市部の刺すような冷たさとはまた違っていた。
愛媛県・日扉町ひとびらちょう。海を抱くように弧を描く港が連なる、離島のまち。その庁舎がある中心地から船で十五分ほどの場所に、農業と造船業で栄えた、瓦屋根が続く穏やかな島がある。

穏岬島おんさきじま
青く澄んだ海の上に浮かぶ、静かな生活の場所。
そしてその集落の一角に、白い看板を提げた三階建ての瀟洒しょうしゃな建物がそびえている。

予想がついた人もいるやもしれないが──その名を、たちばな診療所という。
翠が院長を務めるそこは、この離島に構える唯一の小さな医療拠点。
今日も午前の診察を終え、外来の喧騒がようやく引いたところだった。

「ふぅ……今日も血圧の薬、飲み忘れてる人多かったなぁ」

伊織が椅子に座りながら、カルテをぱらぱらと捲る。椅子を回しながら笑うメディが、彼に言葉を投げかけた。

「穏岬島の高齢者の波、すごいでしょぉ。イオリの尾道とどっちがすごい?」
「え? うーん……こっちの方が、外来の患者としては多いかなぁ……
「えへん、穏岬島の高齢化率は50%を超えたらしいからねぇ」
「自慢にならねぇよ、ソレ。若者の流出が多くて大問題なんだからな」

謎に胸を張る彼女に、そう釘を刺してやる。隣で、ゴミ袋をまとめたサナがてきぱきとポットからお湯を注ぎ、翠のもとへやってきた。

「翠さま、お疲れ様です。温かいお茶をどうぞ」
「ありがとな、サナちゃん。……怜は?」
「今往診から戻ったところだ。谷区と新浜しんはま地区は回ってある、午後に裏の地区まで行く予定だ」

怜は白衣の袖を捲りながら、無造作に椅子へ腰を下ろして長い脚を組む。翠は彼から渡されたカルテを眺めながら声を飛ばした。

「裏かぁ。汐見しおみ地区の村田のばあちゃん、前回の薬がちょうど今日で切れる筈だろ。血圧も不安定だったし、念のため聴診も頼むな、怜」
「ああ」
「んで小網こあみ地区の篠原さんは昨日からの急な冷え込みで膝が痛んでるかも。包帯の替えとアイシング剤、あっためるヤツも一応準備しとくな。あと、舟上ふなうえ地区の上野のじいさん。前行った時、食が細くなってた。栄養ゼリーと水分補給のパック、余分に車に積んで行けよ」

その指示に、伊織がくすりと微笑んだ。

……なんだよ、伊織」
「いや……。ヒスイ先生、本当に島のみんなの事把握しててすごいなぁって」
「生まれ育った島だしな。全員把握するくらいの心構えじゃなきゃ、島医者やってらんねぇよ」

肩をすくめてみせる。伊織は、「本当にすごいよ、尊敬する」と笑った。その笑顔がどこかくすぐったい。

「さて、一回表の鍵閉めてくる。昼、うどんでいい? 材料がマジでなくて」
「いいよ。むしろ、いつもお昼までご馳走になっちゃって悪いっていうか」
「別にいいって。どこかの一色センセが言ってたもんな、昼飯くらい出してはどうだ~~って」
……俺のせいにするのか、櫻田」
「さぁ? どーですかねぇ~~~~」

怜の一言を軽くあしらいながら、診療室のドアノブを握る。冷たい温度が、季節が冬であると翠に囁いていた。

穏やかな島の日常。
どこにでもある診療所。
笑い声と、少しの疲れ。

……およそ一週間前、ひとつの事件があった事を世界の全てが忘れている。
誰もが覚えていない。怜も、伊織も、サナも。東雲でさえ〝魔法感受体を壊した〟という記憶と壊れた事実を失い、魔法執行局のもとで記憶の無いまま拘束されているのだろう。
翠は聞いていた。魔法執行局で、彼は「記憶が無くなる前、大規模殺人を引き起こした罪」で捕らえると説明されたのだと。優しさだけが残った東雲に、それはどれほど酷な事実だったのだろうか。想像するしか出来ないが──罪は、裁かれなくてはならないのだ。たとえ、記憶がなかったとしても。

全てを翠は、覚えている。
翠だけが胸の底に痛みを忍ばせ、静かにそれを抱いていた。

けれど、それを顔に出す事はない。
医者は日常の中に立ち続ける存在だ。世界がどう変わろうと、目の前の患者を診る事が役目なのだ。
己だけでも覚えていく。誰も記憶が戻らなくても、俺だけが──。
そう思案して、玄関に向かいながら、ふと短い息を吐いた。
その、瞬間。

カラン、と玄関の扉が開いた。
壁の薄い診察室の向こうで、伊織が「わ、患者さん来ちゃった!?」と立ち上がった音が聞こえる。怜が静かに、「島の人間なら、十二時に一度閉まると知っている筈だが」と訝しんでいる。
仲間達がぱたぱたとスリッパで床を叩きながら、翠の後ろに並んだ。
診療所の空気が、潮風とは違う冷気で揺れていた。

扉の前には、まだ昼休憩の札を提げていない。翠達は帽子を取り、重たいコートを脱ぎながら入ってくる一団を見た。
──先頭の少女は年端も行かない見た目をしている。白いブーツに黒いワンピース。胸元には深紅の宝珠を下げ、長い髪をふわりと揺らす。
彼女は翠を見るや否や、「此処がたちばな診療所かの?」とソプラノの声を投げかけた。

「どーも。いまちょうど、昼休憩中なんですけど」

いつもの調子で声を掛けると、少女はそれを気にする素振りも見せずににんまりと笑った。

「いいのじゃ。わらわは病人ではないのでの」
「変な喋り方……いや、何でもないっす。……じゃ、何のご用で?」
「まずは自己紹介じゃ。そちの契約悪魔は妾の事、知っておるじゃろうがの」

恭しく礼をひとつ。

「妾はラプラス。真実の悪魔、ラプラス」
「ラプラスぅ? それって魔法執行局の……

そう言いかけた時、彼女の背後に控える白服の男性二人が鋭い視線で此方を穿った。……やめてくれよ、びびるだろ。そう考えながら、魔法省の高官でさえも目の前の少女は平伏させているのだという事実が脳裏を過ぎる。無礼を働いちゃまずいのか。ひとつ息を吸い、言葉を置き直す。

……それで、それが一体?」
「今日はお主らに、礼と頼みを申しに来たのじゃ」

背後の魔法執行官の眼光が強くなる。緊張感と高位の魔法香が、診療所の和やかな空気に波紋を落としていく。
ラプラスは翠を見上げると、小さく指を二本立てた。

「お主ら、今までにふたつ、魔法執行局が難戦する事件を明かしてきたな。耳には届いておるぞ。事実、前回の時も、先日も……魔法執行局に関係者を引き渡してくれたのじゃから」
「まぁ、そうですけど」
「そこでじゃ」

ピースサインになった指が、翠の目の前に掲げられる。

「お主らと、魔法執行局とで協定を結びたいのじゃ」
「協定ぃ?」
「そうじゃ。これは魔法省上層部の指示、断る選択肢はないがの」

背後の怜が眉間にしわを寄せているのが雰囲気で分かる。伊織が笑顔の奥に、「本気ですか」という感情を押し殺しているのが見ずとも分かる。翠は半目で彼女を見た。魔法執行局は警察組織でも手こずる魔法事件を扱う秩序のかなめ。そこに協力しろという事は──危険な事件の解決を手伝えと言われているのと同義なのだ。乗り気にならないのも道理だった。

……それで俺達にメリットあるんすか。まさか、何のメリットもなく事件に首突っ込めなんて言わないでしょーね?」
「勿論じゃ。お主らの利点はふたつ。ひとつ、給料はしっかり払う」
「ほう」

小さく、息を吸った。説明が続くほど、胸の奥の不安だけが静かに膨らんでいく。

「ふたつ──」

紅い瞳が、翠だけを射抜いた。

「お主らにも、〝真実を知り続ける加護〟を授ける」

翠の息が止まった。

脳裏に浮かぶ、東雲の事件。五月の事件。失われていく記憶と、仲間と記憶を共有できない苦しみ。そして、たった独り残された、胸が裂けるような痛み。
ラプラスは、それを全部見透かすように微笑んだ。

……独りで抱えるのは、苦しかろう?」
「なんで、それを──」
「妾は真実の悪魔じゃぞ? 知っておるに決まっておろう」

喉が、胸が、ひりひりと痛い。翠は一度、深く息を吸って──唾を飲み込もうと喉を鳴らした。痛む喉は、唾液さえも通さない。

……その加護ってのは、俺が一人で抱えようとした全部を……みんなにも、思い出させるものなのか」
「その通りじゃ。事実全てを〝忘れない〟という事じゃからの。そちの契約悪魔──メディヴァが今までに書き換えた出来事を、全て」
「ラプラスにはいつまでも叶わないねぇ。ボクがよかれと思って消した事全部、人に思い出させるんだもん」

隣に立つメディが頬を膨らませながら尻尾を揺らした。ラプラスはそれに瞳を細め、「破滅と創造、忘却と観照、消失と記憶──。それらは古来より世界を巡らせることわりじゃからの」と優しく答える。〝概念を喰らう〟悪魔と、〝概念を記憶する〟悪魔。それらは一対を成しているのだと、彼女は謳った。

「世界が記憶を書き換えても、妾の眷属は真実を手放さん」
「んだよ、せっかく覚悟を決めたのに、決め損じゃん」
「決め損じゃったかもしれんのう」
「あっさり言うんじゃないよ。返せよ、俺の感動」

くすくすと彼女は笑う。翠はむっと睨みつけた。

……待て、先程から何の話をしている。お前、俺達を揶揄からかっているのか」

怜がそう、言葉を挟んだ。その言葉が緩み始めた空気を真剣なものへと引き戻す。ラプラスは彼を見据え、口角をさらに持ち上げた。

「冷やかしでも何でもない。サクラダとメディヴァ以外のお主らはとある記憶を失っているゆえ、それを取り戻さんか、と言っておるのじゃ」
「記憶、だと?」
「そうじゃ。どうじゃ、欲しいか? もっとも、要らぬという答えは聞き届けられんがの」
……記憶、か。それは、あの夢の──」

怜は静かに唇を結んだ。隣で伊織が、言葉を探すように両者を見比べる。翠は口を挟む事がどうにもはばかられ、微妙な沈黙が場に満ちる──それを振り払うように、サナがぽつりと言葉を落とした。

……サナ達、なにか大切なこと、忘れてる感じがします。それも──つい最近に……
「サナ……」伊織が声を掛ける。
「それを思い出せるなら、サナは、思い出したいです。なんだかとても、悲しくて、怖くて、でも……頑張った記憶だと思うから」

その声が、場の空気を震わせた。伊織が静かに、彼女に続く。

……僕も、思い出せる記憶があるなら思い出したい、かな。僕、何だか……ヒスイ先生に、苦しい事を全部任せてる感じがするから。あの夢を見てからずっと……そんな気がして」

翠は肩をすくめた。伊織は続ける。

「背負える事が出来るなら、僕も背負いたい。それが、仲間って事だと思うから」
……俺も、綾瀬に同意だ」

怜が淡々と告げる。彼のその発言──翠に何かを背負わせている事にうしろめたさがあった事が少し意外だったもので、翠は目を見開いた。

「何を忘れているというのか知らんが──」

彼は翠の顔を見た。アドニス・ブルーを宿した瞳に、己の顔が映り込む。……飄々とした表情の奥で、何かが泣いているような顔だった。

……忘れたくない記憶だったのは、今でも分かる」
「怜、伊織……考えすぎだっつーの。思い出してみて案外どうでもいい記憶だったらどうすんだよ」

翠は軽口を返しながら、胸の奥にひりつく熱を感じていた。
──東雲の真実を抱えたまま、日常に戻る苦しさ。
それを、ラプラスはこう言っているのだ……「ひとりで抱えなくてもいいぞ」と。
そっと、彼女の瞳を視線で捉える。彼女は変わらず口角に弧を描き、瞳を細めていた。

「どうじゃ。そちの仲間達は、思い出したいと言うとるぞ」
……どうせ、断る選択肢なんてないんだろ」
「そうとも言うがの。全く、高官どもは言い出したら聞かぬイノシシじゃからの。この街にも出るじゃろう、イノシシ。あれと同じじゃ」
「はは……お前、魔法省の差し金って感じしねぇな」
「妾は妾じゃ。妾の目的は、人の常識の外側にある。じゃが……お主らの選択を尊ぶ心は、確かに此処にある」

ラプラスは小さく肩をすぼめる。そして鋭く、此方を見据えて。

「真実は──」

続く言葉は、彼女の真意だった。真実の悪魔が伝える、真実の扱い方だった。

「真実は、誰かが担わねばならぬ。世界の陰で泣く者の声は、誰かが拾わねばならん。妾ら悪魔もお主ら人間も、そこは同じじゃろう?」

胸に落ちる、淡い痛み。けれど、それは孤独では無かった。
翠は「人間も、ね」と一言言って、暫し言葉を探す。……良い言い回しは、思いつかない。唇から零れたのは、彼女の問いの答えとは言えないのかもしれない。ただ単純に、己の弱い本心からなる言葉だった。

「でも、俺は……どうなんだろうな。呪いの影響で、既に意思が魔法として出力されつつあるし、デフォルトで世界の記憶を忘れる事はない。俺は人間だって言い聞かせてるけど──それってもう、人間って言えるのかなって。言い方悪いけど、正直魔法執行官達も……人間と幻想の境目を歩いてると思ってる。真実を知り続ける加護。効かない忘却の魔法。それってさ、ただの人間に出来る事じゃねぇもん。魔法なんて技術が解明された時から、そうだったのかもしれねぇけど」
……。」
「だから俺は、怜や伊織やサナちゃんに……そういう『人の道を外れそうな事』を進んで押し付けたくはねぇよ。抱えるなら、全部俺が抱えてたらいい。胸が痛むのは、俺だけでいい」
…………。」
……や、ごめん。……変な話した。忘れて」

──誰かに背負わせたくなかった。ただ、それだけだった。痛むのは、自分だけで良かったのだ。
けれど、それがどれほど独りよがりだったのかも、分かっていた。

……そうじゃの」

ラプラスは一度、言葉を区切った。だが次に、翠の瞳を覗き込む。
深い血のような紅《あか》。神秘へ誘う、幻想の色。それが、翠の心を捉えている。

「この言い方は、傷つけるやもしれんが──」

彼女はひとつ、息を吸う。そして翠を捉えたまま、一息に。

「──そちは、〝悲劇のヒーロー〟でありたいのか?」
「な……

無遠慮で、無配慮で、けれど核心を突くその言葉。
翠の呼吸がワンフレーム止まった。

「聞いておれば全部自分が抱えてたらいいだの、俺だけでいいだの……なんじゃ、そちは『可哀想』とでも言われたいのか? 同情が欲しいのか?」
「そ、そんな事は……

そこから先の言葉が出てこない。ラプラスの発言が、どれも真実であるが故に。
彼女は人差し指を立て、翠の唇に当ててみせた。深紅の双眸が見据えている。

「いいかの、サクラダ。〝共に背負う〟というのは、悪でも恥でもない。仲間に弱きを打ち明けるのは、不格好でも何でもない。そこにあるのは信頼じゃ。それを受け入れてくれない仲間など、最早仲間ではないわ。じゃが──そちには居るじゃろう。記憶を失ってなお、それを取り戻したい、独りで背負わせたくないと言ってくれる仲間が」
「!」
「胸の痛みは、分け合えばいい。暗い記憶は、共有すればいい。それは、人間に与えられた特権のひとつじゃ。言葉と記憶力と対人関係という概念を授かった人間だからこそ出来る、特権のひとつじゃ。……それのどこが『人の道を外れる行為』なんじゃ? どんな事よりもずっと、人間らしい行為ではないか」

彼女はそう言って、柔らかに微笑む。その唇から紡がれる温度が、翠の心を溶かしていく。

「──そちは、お主らは人間じゃ。真実を知ろうとも、真実を追いかけようとも……これからも、ずっと」

目頭が、熱い。その温度が雫へと変わる。
翠は天井を仰ぎ、それを無理やり飲み干した。そしてゆっくりと、背後の三人の視線を捉える。彼等がこくりと頷いたのを確認し──目の前の少女に目を合わせた。

拒絶も不安も、もう無かった。
そこにあるのは信頼だった。
欠陥だらけの己を仲間達は支えてくれるのだと。己が抱える記憶を共に背負ってくれる、かけがえのない信頼だった。

「分かった」

その声は、震えていた。けれどもう、それを惨めとは思わない。
誰も咎めやしない。だから翠は、震える口角を持ち上げて笑みを作る。不格好な、けれど穏やかな笑みだった。

「結ぶ。協定。……どうすりゃいい?」
「感謝するぞ。……協定の締結は、妾と契約すればよい。血でも髪の毛でも構わんが──」

ラプラスの声を聞き、一度唇を結んだ。込み上げてきた涙が零れ落ちないように、重くなりすぎた胸の奥を、なんとか保つために。
少しでも〝いつもの声〟に戻りたくて、いつもの明るい自分でありたくて、翠は呼吸を整え、わざと肩の力を抜いた。次いで小さく息を吐く。

「じゃ、握手でいい?」
……握手?」

ラプラスの瞳が瞬く。
次の瞬間、彼女は小さく吹き出した。

「妾まで人間扱いするのか、そちは。妾を人扱いする医師は、初めてじゃ」
「だって……人だろ? 話せるし、飯も食うし、それに──俺に人間のあり方を教えたあんたは、誰よりも人に近い」
「妾はれっきとした魔界生まれの悪魔じゃぞ?」
……悪魔だって生きてんだろ。なら、人みたいなもんでしょーが」

そのやり取りに、背後の怜が呆れたように溜息を吐く。
伊織はこそばゆそうに笑い、サナは嬉しそうに頷いた。メディだけがうんうんと、満面の笑みを浮かべている。
ラプラスはほんの少しだけ、照れたように目線を逸らし──。

……まぁ、良い。妾は握手でも構わんよ」

手を差し出す。白く細い指が、確かに目の前へと持ち上げられた。
翠はそっとその手を握る。指と指が触れ合い、掌がふたつ重なった瞬間──。

診療所の空気が、震えた。

紅い光が指先から流れ込み、胸の奥へと沈む。ふわりと温かく、しかし鋭い〝真実〟の気配が脳裏を走った。

……俺、は」

空気が震え、三人の影だけが一瞬、紅く揺らいだ。
怜が、唐突に額を押さえる。サナの翼がぴくりと反応する。伊織も頭部に手を遣りながら一歩退き、息を呑んだ。

「これ、は……っ。この、記憶、は……

三人の瞳の焦点が揺れ、その奥で〝何か〟が流れ戻る気配。翠は思わず、生唾を飲み込んだ。怜の目が、ゆっくりと翠を捉える。

……櫻田……ッ。お前……あのとき、東雲、さんを……

彼が、突然膝をついた。雫がひとつ、床へと落ちる。

……あぁ……そうか……俺達は……忘れていたのか……ッ」

掠れた声。震える肩。それを見て、伊織も、サナも、ぽろぽろと涙を零し始める。
誰も言葉を発しない。
ただ、ただ──。
あの日の血の匂いと、炎の熱と、翠の背中が彼等の脳裏に蘇っていく。翠は小さく唇を噛みしめた。それと同時に、伊織が震える声で続ける。

「思い出した……僕、僕達……忘れてたんだ、全部……!」

翠の胸を、鋭い衝撃が貫いた。
帰ってきた。怜が、伊織が、サナが──帰ってきた。
あの時のままで。あの時の感情を抱いて。
あの日々の記憶が──痛みも恐怖も、絶望も、最後の叫びも……三人の目に再び宿っている。

蛇足のエピローグだと、誰もが思うかもしれない。感動の場面に水を差す要らない話だと、冷めるかもしれない。
けれど、翠にとっては救い以外の何でもなかった。
奇跡以外の、何でもなかった。

「櫻田……お前はこれを、独りで抱えようとしていた。独りで呑み込もうとしていたのか。誰にも、言わずに」

怜の声が震えていた。
翠は返事が出来なかった。喉が熱くて、息を吸うだけで胸の奥が締め付けられて。

「ヒスイ先生……ごめん。僕達……ううん、ありがとう」

伊織までそんな顔をするから、思わず顔を背けた。背けた先で、メディが微笑んでいる。
──よかったね。おにーさん。
その意図を汲んで、瞳がもう一度熱くなった。

……馬鹿。泣かせるなよ……
唇が勝手に震える。
「一人じゃない。これからは、俺は……

言葉の途中で、視界が滲んだ。強がる余裕なんて、もう無かった。
怜が立ちあがり、黒いハンカチを差し出すと、伊織が横で深く息を吸い、泣き笑いのような声を漏らした。サナが翠の背に抱きつき、メディがにこにこと笑っている。
翠は目を伏せ、知らぬ間に頬を伝っていた熱を、手で拭う事も出来なかった。
孤独だった世界が──ようやく色を取り戻していく。仲間が居るという事実が、こんなにも胸に沁みる。視界が滲むたび、瀬戸の海の光が胸の奥で揺れた。
ラプラスはそれを静かに見守り、柔らかに笑う。

……やれやれ、妾の加護は、働きすぎたかの?」
……ラプラス……おれ、」
「礼は要らぬ。真実は、ひとりで背負うものではない。……そちはあの時、覚悟した。独りで背負っていく事を覚悟した。だから……妾は、世界はそれに報いる。加護を授ける。これはそちが痛みを抱える事を決心したからこそのハッピーエンドじゃ。それに──」

彼女は、翠の頬を濡らした涙を見て諭す。

「──医者だって、泣いても良いのじゃぞ?」

翠は何も返せず、ただ、小さく頷いた。
頬を伝う温かさが、自分がまだ人間であるのだと静かに告げていた。

……さて、ともあれお主らは、今日から魔法執行局の〝外部協力者〟じゃ。難事件の時には呼ぶゆえ、そのつもりでおれ」
……っ、俺達、忙しいんだけどな」
「給料は弾むと言ったじゃろう?」
……それならいいけどさ」

涙をようやくの思いで拭い、いつも通りに接する。いつも通りの軽口を叩く。その声が微かに揺れている事を、誰もが許していた。

「妾からの用は以上じゃ。では──」

ラプラスが踵を返そうとする。白服の執行官もくるりと振り返り、帰ろうとしたところで──。
診療所に、一瞬だけ冬の静けさが落ちた。
そしてそれを切り裂くように──自動ドアが、小さな駆動音と共に開かれた。

「あっ、午後の準備はまだ……

伊織が顔を上げ、あたふたする。
扉をくぐって入ってきたのは、痩せこけ、ふるふると震える膝で一生懸命に立つ年配の女性だった。

「せん、せい……すみません、」

その声はやつれ、掠れ、確かな死の匂いを孕んでいた。片手が微かに痙攣している。翠の眼光が、鋭くなった。

「胸が、いとぉて……もう、ずっと……

その声を聞いた一同は、即座に動く。

「入ってください」

怜はカルテを取りに受付へ向かい、伊織がスリッパを取り出し、サナが診察室へと駆けていく。メディが老女を案内し、翠は涙を拭い──胸の焔に薪をくべた。
ラプラスはその光景を、暫し眺めていた。
悪魔の瞳に、酷く柔らかなものが宿っている。

……成る程。ここまで真摯に〝救済〟を誓うなら──難事件を明かせるのも、当然じゃな」

そうぽつりと落ちた声は、誰にも届かず風に溶ける。
翠は診察室へ向かう直前、ラプラスへ問うた。

「まだ用、あるか?」
「いや、ない。もう行く。妾の仕事も待っておるでな」

少女はふわりと微笑んだ。

「また逢おうぞ、サクラダヒスイ。真実を扱う者同士として」

紅い瞳が揺れ、ラプラスは魔法執行官達を連れて診療所を後にした。
開かれたドアから、冷たい北風が入り込む。それはどこか、仄かなキンモクセイの匂いを連れて。

診察室へ走りながら、ふと思う。
もう、独りではないのだと。
真実を抱えても、此処に日常があるのだと。
怜は人間だ。伊織だって、人間だ。記憶を抱えても、世界が忘れた真実を知り続けても──これからも、ずっと。
ならば己も、人間だ。己が人間であろうとする限り、ずっと人間だ。

母さん。俺、仲間が出来たよ。
俺の事を認めてくれる、俺がいくら呪いに蝕まれても、ひとりの人間として見てくれる──唯一無二の仲間達が。

診察室の扉を開く。慣れ親しんだ消毒液の匂いが、つんと鼻腔を突いた。
パソコンのスリープを解除して、キャスター付きの椅子に座る。その目の前に、メディが老女を座らせた。

「──それで、今日はどうしましたか」

声は穏やかで、落ち着いていて。
いつもと変わらない、ひとりの医者の声だった。

瀬戸内の風が、静かに流れ込む。
世界は今日も、救われるべき命を、ひっそり抱えている。

自分達は、その命に寄り添い続ける。
その命に手を、差し伸べ続ける。
これからもずっと──新しい日常の始まりと共に。

雨の気配はもう無い。
嵐の気配は、もうどこにも無い。
翠は、翠達は歩き出す。
影を落とさぬ、太陽を掲げて。


─────シャルラッハロートの診療録─クリムゾン・ジェネシス─ 完