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山城まつり
2025-12-13 21:02:25
17140文字
Public
クリムゾン・ジェネシス
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シャルラッハロートの診療録─クリムゾン・ジェネシス─Ep.009【完結】①
前回:Ep.008
https://privatter.me/page/69341936badd5
シリーズ:
https://privatter.me/user/YamashiroMatsuri?category=91299
もうひとつのエンディング:
https://privatter.me/page/693e5f138478f
クリムゾン・ジェネシス、ようやく完結しました!
エピローグが長いんよ……。クライマックスで散々いじめた翠を救うための「蛇足」のパートです。
本当に蛇足かもしれないし、うまく書けなかったんですけど、翠にも救済があってほしいなという祈りから生まれたエピローグ。よければ最後まで、楽しんでいただけたら嬉しいです!
もうちょっと色々改稿して、文庫版に落とし込めたらいいなと思います。よろしくお願いいたします。
それでは、よき時間を提供できますように。
※本シリーズは医療従事者でない人間の書いた医療の描写を含みます。症例論文、手術動画、医学書などを参考に執筆していますが、現実の医療と異なる場合があります。特に本シリーズは「魔法医療」を描いておりますので、現実の医療と大きく異なる部分があります。
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5
幕間
事件後の某日、霜月の夜は、底知れぬほど深かった。
瀬戸内海を望む小さな島──街灯もまばらな闇の中で、ただひとつ、診察室の蛍光灯だけが白々と残っている。
その窓の向こう、翠は椅子に沈み、開いたカルテをぼんやりと見つめていた。
表紙には、小さく「2025年5月 全日本病院協会 手術記録」の文字列がある。
それは魔法省から譲り受けた事件の軌跡。もう何十回も読み返した、消えた筈の記録の束。
艶めかしい指先が、「対処済み」と印が押された文字列を撫でる。かつて魔法省に追われ、秘匿されていた人々の──そして今はもう、メディによって喰われて〝無かった事〟になった筈のデータの数々がそこにはある。
……
未だに、その文字列を追うたびに指が震える。唇が、呼吸が、震える。
血飛沫が上がった手術室。泣き叫ぶバイタルサイン。
怜の精緻な指遣いと、伊織が己の肩を掴んだ瞬間。
そして、自分が縫った、縫い続けた血塗れの糸。
「
……
まだ、鮮やかに思い出せる」
誰ともなく零したその言葉に、鼻腔の奥で鉄と消毒液の匂いが蘇る。あれは五月の天璇で嗅いだ、十一月の宮島で嗅いだ、二度と戻らない筈の匂い。
あの時、メディが世界から〝無かった事〟にした筈の匂いなのに。
あの時、自分もこの独りで抱える未来を受け止めた筈なのに。
なのに、どうしてまだ胸に焼き付いているのだろう。
どうして、自分だけがこの未来をひとり抱えているのだろう。
そう思案してページを捲ったとき──背後で静かな足音がした。
「──まだ、診察室に居たのか」
低く、慎重な声音。振り返らなくても分かる、怜だった。
「まだ」と言いながら、背後に聞こえる衣擦れの音は白衣のものだ。そして、鼻をくすぐる豆の香り──コーヒーのマグカップ。その湯気が揺蕩《たゆた》う様子まで、気配で察せられた。
怜と伊織は上司の命で、天璇の〝門を広めるアドバイザー〟として翠の診療所に滞在している。普段は十七時には戸締りするのだが、何せこの島から大きな病院までは船と車で一時間。夜に急変患者が出た場合、翠達が駆けつけなければ助からない。そんな訳で此処──たちばな診療所は夜も急患を受け付けられるようにしているし、週に三日は怜と伊織も泊まってくれていた。
「
……
隣、座るぞ」
「ハイハイ、どーぞ」
いつもなら「自室で待機してもいいだろう。何故わざわざ此処に」と毒づく男が、今夜は黙って隣の椅子に腰を下ろした。それだけでどうにも、いつもと違う何かがあると胸の奥をざわめかせる。
「
……
なんだよ。
……
あ、もしかして起こしたか? 悪い」
「いや。
……
俺も眠れなかったのでな」
怜はカップをテーブルに置き、棚から医学書を引き抜く。翠は彼に視線を読まれぬよう、カルテをそっと引き出しに仕舞った。怜の瞳が僅かに揺れ、その仕草を見送る。
「
……
。」
「
…………
。」
沈黙が落ちた。
空気が鉛のように重く、言葉が吸い込まれていく。
居心地の悪さにスマホを手に取り、明日の天気とウェブニュースを流し見る。数日前の宮島の嵐が嘘のような晴天続き──それに苦笑した、その時。
「
……
櫻田」
唐突に、そう名前を呼ばれる。翠は彼に視線を投げた。
「何」
「いや
……
別に、いい話ではないのだがな」
怜の眼はコーヒーの液面を映し、沈み込むような黒に染まっていた。濡れたようなその瞳が、何か苦悩に震えている。
「
……
最近、夢を見るんだ」
「夢? どんな」
「──患者から、血が噴き出す夢」
息が止まった。
だって、それはあの日──先日のひとつ前の事件、五月の天璇で、実際にあった出来事で。
メディが喰らって誰も記憶していない、記憶している筈がない出来事なのに。
怜は黙って、医学書の端を指でなぞる。そこに書かれた術式は、あの日患者を──伊織を救った時の非魔法のそれだった。
「
……
見るたびに、胸が痛むんだ。可笑しいだろう。そんな出来事、経験した事もないのに」
弱々しい声音だった。胸の中央に手を当てる。白衣の下のワイシャツが、くしゃりと小さな音を立てた。
「何か、大切なものを、俺は忘れている気がする」
「
……
それを、なんで俺に言うんだよ。俺は精神科医じゃねぇっつーの」
軽口でそう、誤魔化そうとした。だが怜は月に揺れる瞳で翠を見つめ、
微
かす
かに笑った。泣き出しそうな、そんな顔だった。
「
……
夢の最後に、お前が出てくるんだ。『俺が全部背負っていくから』と、そう悲しげに笑って
……
遠くへ行ってしまう」
「
……
怜」
「馬鹿げた話だろう。ただの、夢の筈なのにな」
「
……
。」
翠は瞳を伏せた。手元のスマートフォンは青い光で無意味なスキャンダルを照らしている。
それを眺めながら、ゆっくりと息を吐き出した。半開きの窓の外で風が吹き、はたはたと深緑のカーテンをはためかせている。
「
……
覚えてねぇのは、お前が人間だからだよ」
「夢の内容を、か」
「そうじゃねぇ。
……
真実を抱えるのは、痛いから。だから忘れるように出来てる」
覚えている己が、一番よく知っているのだ。
あの時の絶望を。
妹を失ったと思い込んでいた夜を。
世界が自分を苦しめようとしていると信じていた日々を。
五月の記憶を。
目の前で人が死んだ時に覚える吐き気を。
仲間を疑う痛みを。
犯人の──東雲の狂気を。
彼が成したかった事を。
十一月の事件を。
怜が静かに、首を振った。
「
……
お前が何を言いたいか、分からん。だが──」
低い、けれど確かに届く声。己をこの現世に引き留めてくれる、愛しい仲間の声。
「
……
お前が独りで何でも抱えてしまいそうなのが、嫌なんだ」
その一言が、翠の胸の奥に落ちた。雪のように淡く、胸の中枢へと落ちた。
「夢の中でお前は泣くんだ。ずっと、暗い顔をしているんだ。起きてもなお、その顔だけが消えない」
翠は言葉を探し、笑い飛ばそうとして
……
けれど結局何も言えなかった。ただ、震える指で画面を暗転させる。
唇を開きかけ、でも言葉が見つからなくて、また閉じる。
それを数度繰り返したところで──廊下の方からもう一人、気配が近付いて来る。成人男性の、十分な質量を受けた木の軋み。
伊織だった。
パジャマの上にカーディガンを羽織り、眼鏡をティッシュペーパーで拭きながら。
「あれ
……
二人とも、起きてたんだね」
苦笑いしながら、彼も椅子に座る。
「伊織まで。なんだよ、お前も変な夢か?」
「えっ!? ど、どうして分かったの
……
!?」
「え!?
……
ごめん、当てずっぽうだったんだけど。マジ?」
「うん
……
悪夢、ではないけど、不思議な夢で」
伊織は足を揃えると、指を膝の上で絡める。視線がそれに落ち、長い睫毛が存在を主張していた。
「
……
血の匂いと、誰かの手術を補佐する夢。ヒスイ先生が、最後に炎の中で寂しそうな顔をして
……
」
「また俺かよ。何? 二人して俺に恋でもした?」
「あはは
……
現実のヒスイ先生を見てると、元気もらえちゃうな
……
。でも、夢の先生の背中は、本当に小さく見えて。胸が痛くなった、っていうか。まるで──大切な事を、置いてきちゃったみたいで」
それに返す事も出来ず、静寂が落ちる。
三人の間に、皐月と霜月の欠片が音もなく降り積もっていく。
その呼吸さえ苦しくなるような空気を振り払い、翠は短く息を吐いた。
「
……
思い出すのか。二人とも」
ぽつ、と掠れた声を零す。怜と伊織が同時に此方を見た。
「
……
思い出す、とは?」
「んーん、なんでも。
……
ただ──」
翠はそこで、言葉を切った。夜を切り裂くような蛍光灯の光が、温度もなく一同を包んでいる。
「ただ──俺の抱える痛みを怜や伊織にまで押し付けるのは、嫌だなって。それだけ」
そう、へらりと笑ってみせた。なんだよそれ、と言われたくて。ああそうですか、と笑われたくて。
けれど怜も伊織も、苦しそうに顔を歪めた。「え、なんで?」と口から言葉が突いて出る。
「その顔をするなと言っているんだ、櫻田」
「いや俺めっちゃ笑顔だったでしょ!? なんだよお前ら、おかしいぞ!」
「笑顔じゃないよ
……
ものすごく、苦しそうな顔してた」
「そんな
……
筈ねぇだろ」
言葉尻が、覇気を失って小さく落ちる。彼等が言うように、笑える気持ちは1ミリも持っていなかったから。
「
……
、でも、本当なんだ。俺は、俺の痛みを二人に押し付けたくない」
「ヒスイ先生
……
」
「
……
。」
怜が、音を立てずに立ち上がった。無言のまま、そっと、翠の肩に手を置いて。
「
……
馬鹿だな、お前は」
低い声。けれど優しい、優しすぎる声。
「押し付けだなど、考えるな。俺達だって、仲間だろう」
「怜
……
」
「そうだよ、先生」
伊織が、彼の後に続く。
「ヒスイ先生が独りで抱えてるの、もうたくさんだよ。僕達、ちゃんと泣いて、ちゃんと傷ついて──それから、また笑いたい。みんなで」
「伊織
……
」
翠は、言葉を失った。
窓の外で、瀬戸の海が静かに波打っている。事件の欠片が、月明かりに溶けていく。
「
……
そう、だな」
声が震える。
「もし、思い出すような奇跡が起こったら──」
二人の瞳を、順に捉えていく。怜のサファイアの瞳にも、伊織のトパーズの瞳にも、翳りは何もなかった。不信は、どこにもなかった。
それが、胸に沁みる。それは、どれほど己を救う事実なのだろう。
だから、告げる。信頼できる、唯一無二の仲間達に。
「その時は、痛みを分かち合っても、いいのかもな」
その言葉には、思い出す事はないのだろうという事実と、それでももし、奇跡が起きたらという期待が交ざっていた。
──思い出さなくて、いいのだ。彼等は自分と同じ、『人外』の立場に立たなくてもいいのだ。
彼等には、人として生きていて欲しい。普通の人間として、己が享受できない幸せを受け取っていて欲しい。でも
……
。
「
……
ま、もしもの話だけどな」
小さく笑い、翠は立ち上がった。椅子がぎいとひとつ啼き、小さな風の名残が二人の仲間を包んでいく。
「寝ようぜ。急患来たら、電話で起きるし」
「
……
櫻田」
「あーハイハイ、無理はしませんってば。これでいいでしょ、一色センセ」
「
……
、ああ、そうだな」
怜と伊織も立ち上がる。そして三人は、静かに診察室を出ていった。
蛍光灯が、ぱちりと消える。世界が、闇一色に包まれる。
誰も口にはしなかった。誰も口にはしなかったが──事件の欠片が少しだけ、形を取り戻し始めていた。
──もう直ぐ、何かが起きる予感。
辛い記憶も、温かい記憶も、世界が愛を遺してくれた眩しい事実も、その全部が。
翠は前を歩く仲間達の背中を眺めながら、小さく、小さく呟いた。
「
……
ごめん。でも、ありがとう」
夜は、まだ明けやしない。
常闇が、三人の影をやわらかく包んでいった。
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