ねぶくろ
2025-12-06 10:25:47
11537文字
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仕方のない人

浅沼さんと阿倍さんの話を書きました。FAです。
BLです。



 仕方ない人、とやわらかな声に意識が浮上する。
 阿倍が見れば、妻のめぐみが笑いながらこちらに手を伸ばした。自分のそれより一回りは小さくて、肉の薄い手のひらが頬を撫でる。彼女は愛おしむように目を細めると、言葉を重ねた。
「来年は絶対よ」
 その言葉に頷いて、阿倍は小指を差し出した。指切りをして、「本当にごめん。来年は絶対に行こう」と言葉を重ねる。
 白鳥が来る湖があるんだって、と彼女が嬉しげに教えてくれたのは、数ヶ月前のことだった。電車を乗り継いで行ける隣県のため池で、周辺の景色も相まって人気のスポットだという。この距離なら日帰りできるよ、と言葉を重ねる彼女は、幼少期から病弱で、あまり遠出をした経験がない。デートの際に近隣県へのお出かけを望むのはいつものことだ。
「それにほら、ここのパン屋さん前から気になってたの。誕生日プレゼントだと思って、デートして?」
 強請ねだる言葉に、彼女の髪を撫でる。警察官という職業柄、数カ月先の状況がどうなっているかはわからない。それでも、休みの希望を出すことは可能だし、一日程度なら阿倍が抜けても問題はないだろう。いつも不定期な働き方で無理や我慢をさせていることもあり、阿倍は「いいよ。行きたい場所をたくさん考えておいて」とめぐみに微笑みかけた。
「それと、誕生日プレゼントは別で考えるから、欲しいものも考えて」
 言葉を重ねれば、彼女は恥じらうように目を伏せた。上目遣いにこちらを窺う、その頬が一刷け朱に染まっている。
「陽ちゃんと過ごす時間が一番欲しい……、って言わないとわからない?」
 問いかけられて、言葉に詰まる。阿倍はありったけの気持ちを込めて彼女を抱きしめると、耳元に囁きかけた。
「いつもごめん。今年こそは一緒に過ごそう」
 誓うつもりで渡した言葉に、彼女が嬉しそうに頷く気配がした。

 世間を賑わせる連続強盗殺人事件が発生したのは、それから数週間後のことだった。

 関東圏内の広範囲で同様の手口が連続し、警視庁をはじめとした各県警が捜査に乗り出した。縦割りの組織にありがちなことだが、管轄を超えた連携には時間がかかる。一件目の初動捜査は完璧だったのに、二件目以降、内輪の縄張り争いによって捜査がもたついた。
 他の県警に手柄を取られるわけにはいかない。そんな、幼稚で、けれど組織としては切実な思惑をそれぞれが抱いているせいで、遅々として情報共有が進まない。目撃者も、一度話した内容を二度も三度も問われれば対応がおざなりになっていく。
 目撃証言や物的証拠の収集、各種情報の照会や照合に明け暮れている内に、クリスマスが過ぎて年が明けた。──何とか令状を取得し、容疑者を検挙して事件が手を離れた時には、すでに白鳥の季節は過ぎていた。

 目を覚ます。
 懐かしい夢をみたな、と阿倍はぼんやりと自室の天井を見上げた。結局、めぐみと白鳥を見に行くことは出来ないままだった。そのことに思い至って、今更のように胸が痛む。
 阿倍は息を吐いて、ベッドから起き出した。

     *     *     *

 病室の入り口で声をかけても、返事がなかった。昨日の様子から、もしかすると面会を拒絶されているのかもしれないという予感がよぎる。阿倍は「入りますよ」と声をかけて、ドアを開けた。視線の先、カーテンの奥には夕焼けの名残が滲んだ群青色の空が広がっている。病室は基本的に白いものだが、それにしたってこの部屋真っ白だ。だから、窓の外の色合いが色濃く目に映る。
 潔癖が過ぎて殺風景な病室の奥で、ベッドの上に浅沼が横たわっていた。昨日の今日で傷がふさがるわけもない。未だに痛々しく包帯にくるまれた体を見遣る。彼は瞼を閉ざして、寝息を立てていた。
 昨日と同じようにベッドサイドの丸椅子に腰を下ろして、彼の顔を眺める。頭を打ったのか、病的に白い包帯は頭にも巻かれていた。点滴のスタンドがあるということは、栄養を経口摂取することが困難なのだろう。内臓にも怪我を負ったに違いない。
 やりきれない気持ちで寝顔を眺める。鎮痛剤か何かで痛みは抑えているのか、表情は穏やかだ。警戒心の強い浅沼が、ここまで無防備に眠っているのも珍しい。──それだけ体力を奪われているのだ、と気づいて、こぶしを握った。

 浅沼の部下に焚きつけられたわけでもないが、阿倍は浅沼の消息を辿るためにささやかな捜査を行った。捜査一課の本分は足で稼いで証拠を固めること、というのは道理だ。そして、捜査一課は基本的に現場百遍を信条としている。──事件現場が不明ならば、まずは目撃者を探すところから始めるのがセオリーだろう。
 阿倍は、まず初めに公安部の人間をあたった。それ以外に糸口がなかったともいえるが、彼らならば情報を持っているという確信もあった。浅沼本人から口外するな、と釘をさされているのであれば、彼らは浅沼と連絡が取れる状態になければおかしい。
 阿倍の推測が当たっていたかどうかは不明だが、浅沼の部下たちの様子から察するに、彼はまだ日本にいるようだった。流石は彼の指揮する部下というべきか、浅沼の状況について口を割った者はいなかったが、数人に同じ質問をすれば、打ち合わせをしない限り多少回答にバリエーションが生じる。その、誤差に等しい断片も、繋ぎ合わせれば立派な情報だ。
 小さなピースを繋ぎ合わせて全体像を推測し、その推測を補完するためのピースを探す。手がかりを繋ぎ合わせて捜査を行うことは、刑事の通常業務だ。阿倍は公安部の人間が口にした言葉を総合し、どうやら浅沼が負傷をしているらしいことを推測した。事故か事件か、はたまたブラフかも分からないが、──事件ならば捜査一課に、事故ならば交通課に情報が転がっているかもしれない。
 幸いにして、被害者の氏名や年齢は把握している。あとは、十一月二十二日から十二月六日までの間に起きた交通事故および傷害事件について情報を漁るだけだ。ホームグラウンドである捜査一課で、浅沼を彷彿とさせる被害者の話を聞いた覚えはない。ならば、先に当たるべきは交通事故の線だろう。思い立ったら即行動。交通課を当れば存外早く正解にたどり着いた。

「あぁ、十一月の交通事故の件ですか? 被害者が刑事だってことで、課内じゃちょっと話題になったんですよ。被害者の個人情報だし、所属までは聞かなかったけど、部下の人が来て色々話しました。一命は取り留めたけど、一時はかなり危なかったみたいですね。……あ、名誉のために補足しますが、相手は現行犯で逮捕、過失運転致死傷罪で送検済みですよ!」

 交通課の巡査に、浅沼の緘口令は効果がなかったのだろう。まだ若い彼は、問われるままに知っていることを話してくれた。
 十一月二十二日。阿倍と会ったその日の帰り道。浅沼は、見通しの悪い交差点で自動車に撥ねられたという。人を轢いたことを察した運転手は、即座に警察に通報。パトカーと救急車が現場に急行した。当然、運転手は現行犯逮捕。呼気からはアルコールも薬物も検出されず、未成年でも高齢者でもない。単なる運転時の操作ミス、しかも運転手本人が被害者を気遣って通報したとなれば、報道をするようなうまみは一つもない。
 よくある不幸な交通事故の一つ。──被害者が浅沼でなければ、阿倍だって歯牙にもかけない様な日常茶飯事だ。
 その巡査から入院先を聞きだして、阿倍はこの病院にたどり着いた。
 一時はかなり危なかったみたいですね、と何の含みもなく発された巡査の言葉を思い出す。彼にはそのような情報が与えられたのに、自分には何の連絡もなかった。緘口令を敷いてまで、浅沼は自分の状況を阿倍に知られたくなかったのだ。──どうして、と反発にも似た気持ちが胸の内で膨れる。
 もし死んでいても、俺にだけは情報を与えないつもりだったんですか。
 胸中で呟いた言葉に、返答はない。眠り続ける浅沼の顔を見ている内に、どうしようもない気持ちになった。後悔とも、怒りとも違う。強いて言うなら、恥ずかしさに似たような、不思議な感情。
 俺は、貴方の死に目にも会わせてもらえないかもしれないんですね。──間に合わなかった妻の最後を思い出して、阿倍は唇を噛んだ。
 死別した妻のめぐみは、生まれついて病弱だった。一人娘を出産した時には、多量の出血によって生死を彷徨い、その後も、体に大きな負荷がかかった影響か度々入院をするような状態になった。何度目かもわからなくなった入院時の検査で大きな病気が見つかり、それからはあっという間だった。
 多忙で不規則な仕事と、コントロールの利かない幼い子供の世話。その二つをこなしながら病床に伏した妻を気遣うことは、当時の阿倍にはあまりにも難しい事だった。日々発生する事件の捜査に関わっている内に、時間が滝の流れのように過ぎて行く。仕事を終えて開いた端末に何度も着信があったその日、阿倍は心臓が握り潰されたような心地で病院へ向かった。
 面会時間をとうに過ぎ、外来受付も閉ざされた夜の病院は、不吉な静けさに覆われていた。受付で軽い押し問答をしてから、事情を知るナースに連れられて病室とは違う方面に案内される。阿倍がめぐみの下に辿り着いた時には、すべての処置が終わっていて、神に縋るような段階は既に過ぎていた。病床を一刻も早くあけたかったのか、それとも単なる決まりなのか、冷たい一室で彼女と再会する。
 阿倍が相対した時既に、愛する妻は、冷たい台の上でただの物と化していた。