山城まつり
2025-11-22 20:28:09
23964文字
Public クリムゾン・ジェネシス
 

シャルラッハロートの診療録─クリムゾン・ジェネシス─Ep.006

前回:Ep.005 https://privatter.me/page/690de3ced41ed

シリーズ:https://privatter.me/user/YamashiroMatsuri?category=91299

お久しぶりのシャルラッハロート更新!!第三章「黒鉄のパラダイム- Obsidian Paradigm -」の後編を公開します~~!!
いよいよ物語も終盤!次回更新で謎を解き明かしますので、最後の推理パートとなります。
そして今回、山城といえば……の手術シーンを盛り込みました!分かりやすく書けてるかはわからないのですが……。改稿の余地、あり……!
ちなみに参考文献は最後に記載してあります。気になる方はどうぞ。

応援(リアクション)などくださると……とっても、励みになります……!
クライマックスの第四章「紅蓮の創世」はちょっと、執筆に苦戦しているので更新が空くかもしれません。何卒ご容赦を……。

それでは、どうぞ!

※本シリーズは医療従事者でない人間の書いた医療の描写を含みます。症例論文、手術動画、医学書などを参考に執筆していますが、現実の医療と異なる場合があります。特に本シリーズは「魔法医療」を描いておりますので、現実の医療と大きく異なる部分があります。

2025.11.28 加筆修正しました。


5節:凍てるオペラツィオン




湯けむりが揺蕩たゆたう浴場は、いつしか緊迫した空間へと変貌していた。暖簾のれんの向こうに広がる脱衣所は、今や魔術陣が薄く輝く即席のオペ室だ。
神楽岡の身体が陣の上に横たえられ、頭部を支える衣服の枕の上で、呼吸が微かに、途切れそうになりながらも続いている。

「まずは頭部の冷却だ。局所低体温を作り出す──櫻田」

怜が此方を鋭い視線で此方を穿った。それを受け、返事はひとつ、こくりと頷く。

「分かってる。んでもって、頭蓋内の圧力を可視化する。血液制御も合わせて、三つの連続魔法だ。見とけよ」

両手でひし形をこしらえ、深く息を吸い込む。次の瞬間、薄く形のよい唇から短い呪文が連続して紡ぎ出された。

「静寂をもたらせ、損失を可視せよ──〈氷凍ひょうとう〉〈視化しか〉!!」

その声が終わると同時に、掌が青白く光を帯びた。
湯気や水蒸気が瞬く間に霜へと変わる。神楽岡の頭部を中心に薄氷の華が咲き、皮膚下の熱が鎮まっていく。

同時に、光の糸が彼の脳内を走った。
脳血管と組織の構造が金色の立体図のように浮かび上がり、周囲の空間に投影される。バイタルサインもまた宙に浮かび、脈拍、血圧、酸素濃度が光の糸として空中に連なった。それらは神楽岡の生命の証明を、静かに、確かに刻み込んで。

圧が集中している部位は、宙のモニターでは朱色に脈動している。異常を知らせるアラームのように、そこだけが赤く点滅する。
翠は無言で指先を揃え、空中の座標をなぞって振り下ろした。

「血脈を甦らせよ──〈蘇脈そみゃく〉」

その刹那、ぴ、と電子音がひとつ啼く。血流が微かに整い、血圧が回復の兆しを見せ始めた。
荒れ狂っていた脈拍がゆっくりと落ち着いていく。
冷気と共に、生命の均衡が戻ってくる。

「完璧」

やっぱり俺って、天才。
唇を舐めながらそう、息を吐く。隣で怜が目を見開き、伊織が小さく「すごい」と賛辞を漏らした。

「医療魔法の三連なんて、熟練の先生でも難しいのに……!」
「だから俺は天才なんだって。魔法、ほんとは使いたくねぇけどな。でも──」

一度肩をすくめ、空中に浮いたバイタルモニターを睨む。……一度安定しかけた血圧が、再び乱れた線を描いていた。不規則な波が、金色の線を荒らしていく。

「バイタル安定魔法の〈蘇脈〉が、効いてねぇ……

思わず眉を寄せる。心拍が早まり、酸素飽和度が急降下する様子が眼前に描かれていた。首を傾げながら、口をへの字に歪め不服をひとつ。

「な~んで、魔法が拒まれるかなぁ……
「もう一度やってみろ、櫻田」怜が静かにそう告げる。
「言われなくても──〈蘇脈〉」

指の動きと共に、再び光がほとばしった。だがその瞬間、バイタルサインが点滅し、ICP──脳内圧が跳ね上がる。
警告音が鋭く鳴り響き、ラインが金から赤へと色味を変える。それを確かなものとして定義するように、ビビビッ、とモニターが泣き喚いた。

「おいおいおい、なんで!? 圧が下がらない──いや、上がってる!?」
「レイ先生、ヒスイ先生……ッ」

伊織がそう、切羽詰まった声を上げた。裏返ったその声音に、胸の奥に焦りが滲む。
落ち着け。落ち着け俺。魔法が効かない。ならば、これからすべき答えはひとつ……魔法を捨て、非魔法に舵を切るまで!

「怜、お前、一応緊急科だろ。脳浮腫に対する非魔法処置……脳室ドレナージ、やった事あるな?」
「ある」

怜の声が低く、冷静を取り戻した。彼は直ぐに、右手を横に差し出す。

「非魔法でやる。綾瀬、メス!」
「わ、分かった! サナ!」

バイタルが音を立てて崩れていく。翠は仲間の行動を眺めながら、思考の海に囚われた。何故、彼の身体は魔法を拒む? 何故、魔法を使うたびにバイタルが悪化する? 何故──。

「──レイ先生、メス!」

伊織の声が思考を振り払う。金属音。怜の手に、白銀の剣が渡る。そこにはもう、迷いも恐れもひとかけらもなかった。
彼は神楽岡の頭皮に4~5センチの切開を置いた。直ぐに血液が赤く溢れ出る。それに臆する事なく骨膜を骨から剥離して、開創器を掛けて穿頭を行って。

「ドリル」

手に、透明な光を帯びたドリルが転がり込んだ。金属の先端は僅かに震え、低い唸りを世界に残す。
形の違うドリルへと順に持ち替えながら、骨へと慎重に穴を穿つ姿を翠は補佐した。キリキリと響く硬質な音が、静まり返った室内に反響する。

──やがて、頭蓋に親指ほどの小さな穴が空く。
怜は鋭匙えいひを手に取り、円の縁をなぞるように削っていく。外板が薄くなるにつれ、骨の白が透け、微かな温もりが伝わった。
最後に、先端が球形のドリルで角を整える。細かい骨粉がふわりと舞い、光を反射して消えていく。その下にあるのは、脳を守る最後の砦──硬膜だ。

「スピッツメス」

怜が声を飛ばし、伊織が右手にメスを置く。ぱしり。小気味よい音を立てて手に収まったそれを彼が握れば、即座に硬膜に浅い線が入れられる。

「サナちゃん、俺にもフックちょーだい」
「は、はい……!」

補佐をする翠の判断も的確だ。そして二人の動きは、やはり編まれた舞いのように無駄がなく美しい。
硬膜フックで硬膜を持ち上げると、鉤ピンに持ち替えた怜がそれを挟んで持ち上げ、十字に切開する。流れるようにバイポーラ──先端が二股になった電気メス──で血を焼灼しょうしゃく止血。次に、その下にある軟膜を開く。

「怜、バイポーラ貸して」
「嗚呼」

バイポーラを怜から受け取り、滲み出る血液を止めていく。光が血液を焼き、焦げた匂いが術室に漂う。
その脇で伊織が、生理食塩水をドレーンチューブの中に静かに通して。

「チューブ」

怜がそれを手にし、慎重に、慎重に開けた穴へと穿刺していく。
1センチ、2センチ──。
ゆっくりと沈んでいくチューブが微かに光を撒き散らすたび、翠の胸がどくんと跳ねた。上手くいけ。上手くいってくれ。大丈夫、上手くいくに違いない──。そう思おうとしているのに、どうしてか……不穏な感情が振り払えなくて。

「引く」

静かな呟きがひとつ。彼の緻密な指先が、スタイレット──チューブの内芯を抜いてドレーンを通す。
だが、そこからは何も出ない。翠の胸がひときわ強く、ばくんと暴れた。

……何も出ない、だと……!?」

静脈血が滲み、管が紅く染まっただけ。その異常を受け取ったバイタルサインが無情にも泣き喚いた。翠はそれに、するどく目線を投げる。

「脳圧下がらねぇ! 血圧さらに低下ッ!!」
「どうして……!?」

伊織の震えた声。モニターの波形が、急速に低下していく!
なんで? どうして? 一体──。目線が泳ぐ。手が震える。翠はこんがらがる思考を封じ込めて、努めて冷静を装おうとした。自分を落ち着かせるように、深く、深く息を吸った。……肺が、痛い。思ったよりも、酸素が上手く取り込めない。

「血腫が側頭葉内で膨張して脳室を圧迫してるんだ! 脳室内に針を入れても、もう脳室が交通してないッ!」
「じゃあ、どこからアプローチすれば──!」

そう叫ぶ声が、脳裏を刺した。翠の頭に白いノイズが走り、思考能力を奪っていく。
──ああ、二十年前、母もそうだったのだろうか。
複数の専門医にまたがった手術。間に合わず、魔法も届かず、命がほどけかけえたあの瞬間。命が、指の隙間から零れたあの夜。
耳の奥に、こえが蘇る。いとしくて、やさしくて、あたたかい人の残酷な響き。

『あきらめないで』
『あなたは、いつか神になる』

その言葉に頭を振る。振り払う。母が、そんな事を言う筈がないから。彼女の声が、ふとフェリックスの声と重なった。

『君は、いつか神になる』

頭の奥で、何かが軋む。
振り払っても振り払っても聞こえる声に、意識が徐々に、ぼんやりと形を留めなくなっていく。思考がぐるぐると回り、視界が滲んだ。

「わ、分からねぇ……脳室穿刺せんしによって急激な減圧。循環反射性の低血圧……?」

ぶつぶつと、唇が震えた声を紡ぎ出す。呟いた言葉の意味を、自分でも理解できない。もう、何が正しいか分からない。
分からない。分からない分からない分からない。思考が円環を回る。意識が白い火花を散らし、考えを放棄してしまいそうになり──。

その、時だった。

部屋の空気が変わった。闇の縁から、黒い翼の気配。いつも隣に居る、わがままで、マイペースで、けれど聡明な〝彼女〟の気配。

……メディ?」

顔を上げる。零した声は、掠れていた。その呟きを落とした瞬間、がらりと暖簾越しの扉が開かれる。

「──間に合ったな」

低く、落ち着いた声。その声はメディじゃない。彼女は扉からひょこりと顔を覗かせると、悪戯に笑い──隣に立つ影を導いた。その男を、翠はよく知っていた。
天璇の脳神経外科の専門医……唐澤徹からさわとおるだった。

「よ、お前ら。医者やってんな」

唐澤の声には、揶揄からかいと真剣の混ざった複雑な色があった。翠は安堵の息を漏らすと、彼の姿を見つめる。

「唐澤さん……! メディ、お前、」

声が裏返る。メディはえへんと胸を張り、自信満々に返答を送る。

「ボクの地獄耳、舐めないでよねぇ。間に合って良かったよぉ」

その声を尻目に、唐澤は一瞥で全体を把握すると、足取りも躊躇わずに魔術陣の術台へと踏み込んだ。彼の動きには一切の無駄がなく、まるで決められた儀式を遂行するような振る舞いだった。
彼は、バイタルと光の糸が織りなす脳地図を見上げながら冷静に語る。

「ドレナージだけじゃ圧は抜けねぇ。櫻田、お前の読み正解だよ。血腫が脳室を圧迫してるんだ。外減圧に切り替える」
「やっぱり……
「おうよ。メディちゃんに引きずられて来たけど……脳は俺の庭だ。けど、時間がない。お前らも手伝え」
……ッ、」
「櫻田、落ち着け。大丈夫だ。……手伝ってくれるな?」
……っ、はい」

ようやくの思いで、返事を返す。もう大丈夫だ。もうきっと、大丈夫なのだ。だって、彼が来たのだから。
──助かった、と思った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。自分はまだ、彼の背中を追うだけの存在なのか、と。俺は、無力だ、と。
その思考を押し殺す。彼が入ってきた事で、術の重心が一つにまとまったのだ。これで神楽岡を、救えるのだ。唐澤の登場は、痛みよりも何より──救済の誓いが一段階強まった証なのだから。

「開頭する。減圧開頭術だ。俺が執刀、第一助手に櫻田、一色は第二助手。綾瀬は器具展開と補助してくれ」
「分かりました! 今から器具、作ります」

唐澤の登場と手術の宣告を受け、伊織とサナが目を合わせて頷き合う。サナが祈るように両手を組む。伊織が、再び魔術コードを紡ぎ出す。掌から直ぐに光が溢れ、吸引装置と術野照明──そして手術に必要な器具の全てが具現化された。
光の機械は、まるで本物の機械のように精密に振舞う。管が伸び、吸引の低い唸りが場を震わせた。

「体位、このまま仰臥位ぎょうがい。頭部三十度挙上。翠、お前魔法使えるだろ」

唐澤が短く指示を出す。

……使えます。何すればいいすか」

返した声は微かに震えた。けれど、その言葉の芯は確かだった。

「魔法で血流止めろ。出来るな?」
「了解」

翠は小さく息を吸い、詠唱の言葉を噛み締める。

「──〈血遮けっしゃ〉」

空気が震えた。血流がぴたりと止まり、全ての色が静止したような感覚。
今回は先程の〈蘇脈〉のような生命を呼び戻す魔法ではない。流れを停止し、術野を乾いた平穏に変えるための〈血遮〉。血流そのもの、血流〝だけ〟を瞬時に遮断する強い結界だ。酸素飽和を維持し、血だけを通さないシェルターの魔法。
血流は止まった。止まったが──魔法を使った影響か、脳圧がさらに上昇した。
副作用も大きく、長時間の遮断は危険なこの魔法。だが今は、執刀医が減圧して血腫に直接手を入れるまで、止血が必要だ。

唐澤の目が、鋭く光る。

「メス」

彼は即座にメスを取る。
頭部に、耳介の前から上方に向けて切開線を描く。溢れ出す深紅をバイポーラで止血し、流れるようにモスキートペアンを握って皮弁をそっと捲り上げた。
そして続けて筋肉を剥離、動脈を捲り上げた側、つまり皮弁側に残しておく──速い。極めて、正確だ。術野を維持しながら、翠は固唾を飲み込んだ。

骨を露出した彼は複数の穴を穿ち、リューエルで穴同士を繋いで骨を切り広げていく。それはまるで、脳を開けるデザインがその目に見えているように。フローチャートが、既に脳裏で組み立てられているように。
立ち上がった一枚の骨弁を外す。すると再び、一同の前に硬膜が現れた。

「骨弁除去完了、外減圧開始」

圧に押され、硬膜が盛り上がっている。呼吸するように膨らみ、そして縮んでいく。
唐澤が怯まず切開を入れると、脳実質が脈打つように突出した。

……脳腫脹のうしゅちょうだ。怜、吸引」
「はい」
……顕微鏡の代わりの魔法、掛けとくんで」

血性の滲み。翠は顕微鏡のように焦点を拡大する魔法を小さく唱え、唐澤に送った。彼の双眸の前に小さな魔法陣が展開され、脳の組織を大きく映し出す。

「サンキュ」
短い謝礼の後、唐澤が低く呟く。
側頭葉そくとうよう内に血腫がある。吸引除去に移行」

吸引音が鳴る。赤黒い液が透明な管を流れ、滲んでいく。
翠には、血流と圧力がまるで光のように思えていた。唐澤が指示を飛ばすたび、その光が収束していく。彼の手で、命が確かに繋がれていく。
だが──ある時、彼の表情が曇る。

……この領域、」

翠は術野に目を遣った。
──ばち、と弾ける火花。脳の奥で、光が弾けている。
まるでそれは、ショートし燃え上がる寸前の回路のようだった。

「ここ、確か記憶と感情の領域っすよね」
そう、唐澤に言葉を投げる。
「でも、なんで」
リモデラーだよ。俺、知ってるんだ」

唐澤の声が低く落ちる。その言葉に、はっとした。
──シナプス・リモデラー。それが関わっているという事は、つまり。

「まさか、神楽岡さんも──」
「誰かに投与されてる可能性が高い。リモデラーは、脳回路を異常回路として自己免疫系やらなんやらに攻撃する事があるからな。シナプスを〝書き換える〟……再編する効果が、他の重要な組織まで再編しちまうんだ。つまり、脳が自分を壊していく」
……自分で、自分の脳を壊すんですか」

問うた伊織の声は、震えと掠れ、恐れと不安を抱いていた。

「おう。そんで魔法干渉が暴走する。俺はこれを開発した訳じゃねぇからそこまで詳しく知らねぇ。だからお前らが言ってた〝リモデラーが霊薬の可能性〟は否定できねぇけど……。分かってんのはただひとつ。リモデラー使った患者の副作用で一番大きいのが、魔法干渉の結果、身体が魔法を拒絶するって事態だ」

翠は息を呑んだ。神楽岡の中で、魔法と科学が争っていたのだ。それが今、彼を殺そうと牙を剥いている。

「このままじゃ、本当にお陀仏だ。その前に治す。けど──」

唐澤が言葉を詰まらせた。伊織が「けど……?」と細く反芻する。

「此処ではこれは、治せねぇ」

彼の断言が、胸の底に刃を突き刺した。
……治せない。唐澤の腕を持っても、治せないというのか。じゃあ、神楽岡さんは──。
だが、その不安を軽くするように、唐澤は「違う」と声を上げる。

「あくまで〝此処では〟だ。病院に運べば治せる。……治すためには脳外科医の情報修復魔法──壊れた魔法情報を再接続する術が必要だ。だけど、此処じゃ結界が邪魔して使えねぇ。櫻田、お前は出来るのかよ」
……いえ、俺は……
「だから言ってんだ。此処ではこれ以上、治せねぇ。だけど……暴走を止める事くらいは出来る」

彼の真っ直ぐな声に、顔を上げた。凛々しい顔つきに、希望が確かに宿っている。

「絶縁体を掛けて、中を静かにする。外界からの魔法干渉があるたび荒れるんだ。だから、魔法を絶縁する人工硬膜で塞いで、魔法干渉を防ぐ。そうすれば、あと数時間は持つ。……その間に、下ろす」
……あと、数時間、しか、」
「此処での限界だよ、仕方ねぇ。魔法で完全に治せるのは、結界の外だけ。だから、今は時間を稼ぐんだ。」

──その声が、あまりに力強くて。強く、未来を信じていて。
此処でうだうだと最悪の可能性を拾っていても仕方がない。此処で足踏みしていても仕方がない。
一体誰が彼に、シナプス・リモデラーを摂取させたのか。どうして、彼がこんな目に遭っているのか。
……今は、問いを挟んでいる余裕はない。胸を焼くのはたったひとつ──目の前の命を、繋ぐために。

……わかりました」

強く、頷く。それを確認した唐澤がにっと笑い、直ぐにサナへと目線を向けた。

「サナちゃん、素材を」
「供給します。魔法を断絶する非魔法繊維、ですね」

彼女の声は落ち着いていた。その掌に淡い光が集まり、半透明の薄い膜が形成される。光の肌が、実体を持ち始める。透き通る氷のようなその素材が、唐澤の手へと流れるように渡った。

彼が、縫合の体勢に入る。
糸を持つ指先は驚くほどに繊細でありながら、確かな力を秘めていた。糸を通すたび、硬膜の縁が寄せられ、膜がぴたりと合わさっていく。
ミリ単位の精密さで縫合が進む。翠は術野を維持しながらただ見守り、必要に応じて補助する役割を務めた。

針が進むたび、何かが戻ってくる。針が通るたび、何かが救われていく。
バイタルの波形が、少しずつ安定へと傾き始める。人工硬膜の縫合が半分を超えたところで、赤いラインが微かに持ち直した。胸の奥の鎖が、ゆっくりとほどけていくような感覚。
一針、また一針。滞りなく、シームが形作られていく。糸が結ばれるたびに、傷が静かに埋められていく。そして、いつしか──。

縫合線が閉じると同時に、赤の線が金色へと戻った。世界に色と、温度が戻った。──翠はようやく、呼吸が出来るような気がして大きく空気を取り込む。
その向かいで、唐澤がふぅと息を吐いて糸をトレーに投げた。

「これで干渉は遮断された。魔法を受けての状態悪化はもうねぇだろうよ。あとは閉創して、出来るだけ早く搬送だ」

彼の言葉に、部屋の中の空気が一気に緩む。
硬膜の縫合は終わり、骨弁は再固定せずに減圧を維持したまま置かれる。
最後の縫合が行われ、皮下組織と皮膚が抱きしめ合った。糸がひとつ引かれるたびに血管の波形がより滑らかになり、酸素飽和度の数値が回復していく。

再灌流さいかんりゅうによる浮腫を防ぐため、脳温下げます」

短く端的にそう告げ、再び冷却魔法を掛けて脳の温度を下げる。ぴっ──宙に浮く波形が、音を鳴らしながら安定を伝えていた。

翠の手は震え、息は浅くなっていたが、胸に希望が確かに花開いていた。まだ、助かったと言える訳じゃない。神楽岡にとっては、これからが峠なのだ。だけど……
だけど、死の淵を歩む彼を、確かに引き戻せた。確かに此岸に、留められた。それだけが、心にあたたかい温度をもたらしていた。部屋中から緊張が抜け、誰もが息を吐く。

「──手術、終了だな」

唐澤が穏やかにそう告げる。手袋をした彼の指先にはまだ赤が残っているが、その瞳は冷静で、やはり安堵を含んでいる。
翠は彼を見上げる。……助かった。救われた。俺は、俺達は彼に、救われた。それを想うのと同時に、唇から自然と感謝が漏れ出した。

「ありがとうございます。唐澤さんが来なければ、助けられなかった」
「例はメディちゃんに言いな。俺を呼んでくれたのはこの子だ」

メディが悪戯っぽく、静かに笑う。〝奪う〟事を第一原則に刻まれた悪魔が、今は〝救えた〟事にただ喜んでいるように見えた。

「ボク、ヒーローみたいでしょぉ」
……あぁ、今日はお前が、ヒーローだよ」

冷却魔法の光が静かに消える。
そこに残るのは、救われた男の微かな呼吸音だけ。
唐澤の指先が、まるで光そのものを縫い留めているようだった事。それを見つめながら、翠は胸の奥でひとつ、鼓動を数えた。
──神楽岡の胸が、確かに、ゆっくりと上下していた。