山城まつり
2025-11-22 20:28:09
23964文字
Public クリムゾン・ジェネシス
 

シャルラッハロートの診療録─クリムゾン・ジェネシス─Ep.006

前回:Ep.005 https://privatter.me/page/690de3ced41ed

シリーズ:https://privatter.me/user/YamashiroMatsuri?category=91299

お久しぶりのシャルラッハロート更新!!第三章「黒鉄のパラダイム- Obsidian Paradigm -」の後編を公開します~~!!
いよいよ物語も終盤!次回更新で謎を解き明かしますので、最後の推理パートとなります。
そして今回、山城といえば……の手術シーンを盛り込みました!分かりやすく書けてるかはわからないのですが……。改稿の余地、あり……!
ちなみに参考文献は最後に記載してあります。気になる方はどうぞ。

応援(リアクション)などくださると……とっても、励みになります……!
クライマックスの第四章「紅蓮の創世」はちょっと、執筆に苦戦しているので更新が空くかもしれません。何卒ご容赦を……。

それでは、どうぞ!

※本シリーズは医療従事者でない人間の書いた医療の描写を含みます。症例論文、手術動画、医学書などを参考に執筆していますが、現実の医療と異なる場合があります。特に本シリーズは「魔法医療」を描いておりますので、現実の医療と大きく異なる部分があります。

2025.11.28 加筆修正しました。


4節:湯煙と彼岸




潮ノ宮ロッジの八つ時は、風の音に包まれていた。
外界を断絶するように降り続いた雨は、午後三時を回ってようやくその勢いを弱め、屋根を打つ滴の音が、まるで遠い記憶のように静かに響いている。

翠は洗い場の鏡の前に立ち、痩せた体を丁寧に洗った。泡立つ石鹸を流すたび、皮膚の下で、戦場のように張り詰めていた神経が緩んでいく。肩に乗っていた重さが、少しだけほどけていくのを感覚で感じていた。

「翠、先露天行っとるけぇ」
「は~い、俺ももう行きますんで」

神楽岡の声にそう返す。仲間達が扉の向こう、露天風呂へと出ていくのが横目に見えた。翠が、行列としては最後だった。身体をもう一度シャワーで流し、フェイスタオルを肩に掛けて湯けむりの向こうへと足を進めれば──びゅうと冷たい風が、火照ほてった身体を冷ましていく。

開け放たれたガラス戸の外には、白く霞む海と、雨に濡れたような岩肌が広がっていた。その間に沈む湯舟の水面は、淡く緑がかって光を放って。
誰かが息を吐く音、風の唸り。硫黄の匂いに混じって、微かな潮の香りがした。

「特等席、貸し切りじゃん」

そう言いながら、ゆっくりと露天風呂に身を沈める。マジでこのシチュエーション、最高すぎるだろ。そう気分を上げながら横を見遣れば、仲間達が心地よい湯加減にほうと深い息を漏らしていた。

「はぁ……何も分からんな、事件の事」

湯に肩まで浸かった神楽岡が、ぐっと背を伸ばす。ぱしゃりと水音が響いて、岩の壁に反響した。

「分からんけど、風呂は気持ちええ」
「ですね」

翠も彼の隣で深く身体を浸からせた。熱が、張り詰めた思考の底を優しく、確かに溶かしていった。

「このお湯、とろみがありますね。アロエかな」

伊織が手で湯をすくってみせた。怜がそれを一瞥し、息を吸う。

「嗚呼。そしてこの露天は海水の汲み上げだ。傷や痛みに効果があるらしい」

その淡々とした解説さえ、今は心地いい。怜は濡れたタオルを排水溝に絞り、浴槽の岩の縁にそれを乗せて瞳を閉じる。
翠は彼の様子を眺め、思わず小さく笑った。怜がリラックスしてるのなんて、初めて見るかもしれない。裸の付き合いが人と人の距離を縮めるというのは、あながち間違いでもないのだろうか、なんて余計な思考が無意識に働く。

「こんないいとこを独占でいるなんて、最高だな。次から嵐の日を狙って旅行行こっかな~」
「嵐が来ると島に戻れなくなるだろう」

気分がよくなってそう軽口を叩けば、ぼそりと返る声。

「いいのか、宿泊日が増えても。金が湯水のように溢れている訳ではないのだろう」
「確かに。……この旅行が特別だったってだけか」
……特別、かぁ」

伊織が静かに目を伏せる。その隣で、怜が微かに顔を曇らせているのを翠は見た。そして、薄っすらと思い知る──この旅行の〝特別〟とは、極めてネガティブな意味を持つのだと。

……特別というものではない。……俺達は、何らかの思惑に、見事にはまっているだけだ」

彼の言葉に、場の空気が一瞬で沈む。
湯面が静まり返り、遠くで遠雷が光った。
雨粒が頬に落ちる。神楽岡が、空気をほぐすように笑った。

「はは……まぁ、そうかもしれんけど……。そう言うなや」

だけど誰も、その言葉に軽やかに頷く事が出来なかった。
胸の奥に、黒い澱みのような不安が沈んでいる。喉の奥に何かがつかえていて、飲み干せないまま溜まっている。
翠は湯舟の縁に背を預け、雨に煙る空を見上げた。──黒々とした空。一面の、曇天だ。

……やっぱり、休憩なんて出来ません。もう、三人も死んでるんだし」
……やな。俺の考えが、浅はかやった」

神楽岡が双眸を瞼に隠し、もう一度ゆっくりと開く。
開かれたアメジストの瞳に、もう茶化しの色は見受けられなかった。

「どうせや。起きた事、もう一度整理してみんか」

その提案に、怜が小さく頷いた。静かな湯けむりの中で、誰もが真剣な面持ちに戻る。
笑いなど、とうに消えていた。神楽岡が唇を舐め、低く言葉を紡ぐ。

「はじめは、天城浩太の死。死因はアナフィラキシーショック。小麦、エビ、ダニのアレルギー。胸に、早乙女の傷跡あり」

翠が代わるように口を開く。

「現場に居たのはフェリックスと築山朱里。築山は天城の浮気相手で、福祉の現場で働いてる。フェリックス……現場に居た金髪のおっさんには話を聞いたけど、犯人ではなさそうだった」

伊織が続ける。

「次に、東雲先生が幻覚を見て倒れる。どれでなったかは分からないけど、小麦、エビ、ダニのいずれかのアナフィラキシーショックと、幻覚はシナプス・リモデラーによるものの可能性があるんだよね」

そして最後に、怜が補う。

「シナプス・リモデラーの存在を仄めかしたのは幸田昭。そして築山が幸田に殺され、幸田もまた、カニのアナフィラキシーショックで死亡。幻覚あり、シナプス・リモデラーを注射したとの供述あり。胸に、早乙女さんの傷もある」

翠は首までを湯に沈めながら、ぼそりと呟いた。

……共通してんのはアナフィラキシーショックって事と、数人がシナプス・リモデラーの影響かもしれねぇって事。あと、アナフィラキシーで死んだ患者には胸に早乙女さんの手術痕があるって事だよな」
「そうだね。信じたくないけど、一番考え得るのは、早乙女先生の犯行。手術をしたものの、未来が無くなってしまった患者。それを消すために犯行に及んだ」

そう冷静に告げようとする伊織の声が、震えていた。神楽岡が「そうやな」と肯定する。

「俺の考えやと、未来が無い患者には手術せん……っていうのがミソや思うとる。手術後に未来が無くなった患者には『自分の経歴の傷、信念の矛盾』になるけぇ消した、っつう線や」

彼の広島弁が、湯けむりの中に沈んでいく。
怜が静かに、目線を投げた。

「では、やはり早乙女さんが犯人だと」

けれど、翠はゆっくりと、石の縁に頭を預けた。雫が一滴、眼球へと落ちる。

「だけどさぁ……
「何だ」

怜が顔を向ける。その瞳を直視出来ないまま、言いづらさを堪えながら言葉をつづっていく。

「俺は、なんか違うと思うんだよね。早乙女さん、悪いヤツには見えねぇよ。どう見ても医者だよ。不器用で、自分の事を大切にしてしまう、人間臭い医者」
「何か証拠でもあるのか」

彼の声が冷たい。その冷たさが、どこか残酷にさえ感じる。

「証拠って、怜。……ねぇ、けど」
「だとすればそれは前の主観だ。個人のバイアスでものを測るな、櫻田。前も言ったな、客観的な証拠だけを信じろ」
「だってぇ……

思わず頬を膨らませるが、その先の言葉は風に掻き消された。空が再び光り、波音が耳に微かに打ち寄せる。

「はは……まぁ、もうじきこの事件も終わるやろ」

神楽岡が湯を搔きながらそう言った。

「早乙女が犯人なら、隔離しとる以上死人は出ん。アイツがどんな手を使って大規模な結界魔法を張ったんかは知らんけど、やるんやったらどう考えても異界に接続せんと無理や。結界は科学の力や無い、幻想の力やけぇ。あの部屋は、俺の因子量ギリギリの魔法で異界防御壁を張っとる。あの中でアイツは魔法を使えん。事件はもう、起こせん」
「だけど──」

翠はそう言いかけて口をつぐんだ。
──もし、彼が犯人だとして。自分の概念をそのまま出力できる、己と同じ呪いを抱いていたら。異界に接続せずとも魔法を使える、その呪いを被っているとしたら。
……異界防御壁など、意味がないかもしれない、と。それを言おうとして、けれど言えなかった。早乙女を、もう疑いたくなどなかったから。

そのうち、ざぱ、と音が鳴った。
神楽岡が立ち上がったのだ。

……神楽岡さん」
「うじうじしとらんと上がろうや。アロエがいかんのか、肌がかゆぅなってきた」
「まだ五分くらいしか経ってなくないです?」
「やけど──」

台詞がぴたりと区切られる。唇がはく、と小さく開く。翠は思わず顔を上げ、神楽岡の顔を見上げる。蒼白とした顔面──異変が起きたのは、その直ぐ後だった。
言葉の途中で、彼の身体がふらりと揺れた。

……なんか、喉が、ざらつく」
右手が、顎に当てられる。
「なん、や、これ、」
「神楽岡さん……?」

次の瞬間、彼の手が喉を掴んだ。
声にならない声が漏れ、息を探すように口が開閉する。
赤い斑点が、たくましい腕に浮かび上がった。

「いき、が、でき、」

彼の言葉が途切れた。その視線が一瞬、翠を掠めたように見えて──そのまま崩れ落ちる!

「神楽岡さんッ!!」

翠は立ち上がり、湯を蹴って駆け寄る。
雷鳴が、世界の骨を砕いたように響いた。
反射的に神楽岡の身体を抱え、湯船から引きずり上げる。赤い発疹が、蒸気の中で炎のように広がっていく。怜も身体を支え、彼の頸動脈に手を遣った。

「怜ッ! 脈が──!」
……浅い、いや……もう、ない! 心停止ッ!!」

その声が、ガラス戸を震わせた。

それを聞いた瞬間、翠達は反射的に身体を動かしていた。
脱衣所へ、濡れた躯体を運び込む。湯の熱で末梢血管が開き、血圧が急激に崩れていくのが本能で分かった。皮膚は蒼白。指先が、氷のように冷たい。

「先生、AEDッ!」

伊織が壁際のAEDを掴み取って戻ってくる。
タオルを掴んで水滴を拭い、電極のパッドを胸部に貼り付ける。ボタン一つで開かれた機械が脈を刻み込み、音声が無慈悲に響いた。
──『電気ショックは必要ありません』

「心静止……っ」

怜が呻きながら、それでも即座に呼吸を確保しようと下顎を持ち上げる。翠は彼の行動に連ねるように神楽岡の胸の上に手を置き、深く沈み込ませた。
どん、どん、どん──。
一秒に二回の正確なリズム。拳が骨を押し潰すたびに中肉の身体が跳ね、微かな感触が返る。

「頼む、頼むから……動いてくれよ!」

声が震えた。
指先が痺れるほどの圧迫。息が徐々に、荒くなる。
昨日、救えなかった命が脳裏を過ぎる。開ききった瞳孔、冷たくなった皮膚──。
あの時もAEDは使えなかった。アナフィラキシーによる心停止はAEDの使えない心静止か無脈性電気活動が多いのだと、頭の片隅で理性が囁く。だがそれを振り払うように、翠は叫んだ。

「知るかよ、そんなの……助けてくれよ、神様。居るんなら──動けよ、心臓ッ!」

胸骨の下で、微かに空気が震えた。伊織が涙声で叫ぶ。

「僕はどうしたらいいッ!? 何をすれば、ッ」
「サナクシエルを呼んで来い!」

怜が声を張り上げた。

「アナフィラキシーによる心停止なら、エピネフリンが最も蘇生の可能性が上がる!」
「分かった!!」

伊織がパーカーとズボンをひったくり、素早く着替えると裸足のまま脱衣所を駆け出す。残された二人の息が、熱気に混じって荒い音を立てた。

翠の掌が何度も沈み、汗と涙が混じる。祈りのような声が漏れた。

「神楽岡さん、戻って来いッ! 死ぬな、こんなところで死ぬなッ!!」

──頼むから!!
翠の瞳から、涙が零れた。AEDが、二度目の心電図測定を開始する。涙を拭い、まだ心臓が止まっている事を確認して、再び強く圧迫する。怜が「代わるぞ、櫻田」と声を掛けているのも、知らぬふりをして。

無機質な電子音が、絶望の拍子を刻む。
時間が歪む。自分の心臓が暴れ、呼吸が追い付かない。
それでも、翠は押し続けた。祈り続けた。
ただ、命の形を取り戻すために。

──その時、脱衣所の扉が勢いよく開かれた。

「──サナ、連れてきたよッ!!」

伊織が駆け込んでくる。その隣に、一対の翼を持ち、頭上に輪を従えた小柄な少女が居た。

堕天使──サナクシエルは、濡れた足元を気にも留めずに神楽岡の姿を見下ろす。その瞳が見開かれ、震える声で名が呼ばれた。

陽誠ようせいさま……
「サナ、いきなりで悪いけど〈構術〉を!」

伊織の声が鋭く響く。
サナは一瞬だけ怯えたように肩を揺らしたが、唇を噛み、こくりと頷いた。

……やります、っ。サナが、力になれるなら……!」
「ありがとう。──いくよ」

伊織が人差し指と中指を揃えて空気を切る。空中に、人間には理解不能な文字列が指先で描かれる。
床に光がはしった。湯気を押しのけて、薄紅の陣が広がっていく。

「医科魔術・幽玄回路構築。コード〈構術〉、魔術式入力──。
〝空白の掌よ、癒しの意志を掬い、救済の器を成せ〟──出力を求む!」

サナの声が続く。

「事象変換回路構築、完了。コード〈構術〉を検知……認証。
医科魔術を出力いたします!」

白い光が弾け、虚空から薬液が立ち上がった。
即席の十八ゲージ針。乳酸リンゲル液。
怜がそれらを掴み、即座に静脈ルートを確保する。

「強心剤もッ!」翠が叫ぶ。
「は、はいッ!!」

サナが両手を組み、祈るように魔法因子を集中させる。白光の中から現れたのは、透明なアンプル──エピネフリン。
怜がそれを奪い取り、静脈へと流し込んだ。

「頼む、頼むから……ッ、戻って来い、戻って来いよ神楽岡さんッ!!」
翠の声が枯れている。それでも、それでもなお。
「俺、まだあんたに、ひいろの事、俺の事……ありがとうって、言えてねぇんだよ!!」

電子音と、祈りと、心臓を押す音。
それらが混じり合って、まるで狂ったコンチェルトのように響く。

「だから──生きろよ、なぁ!!」

叫ぶ。願う。縋る。
翠が声を荒げ、怜と伊織が息を詰めたその瞬間──。

──瞼が、微かに動いた。

翠の手が止まる。伊織が、安堵したように声を上げた。

「──心拍、再開!」

その瞬間、全員の肩から力が抜けた。翠は膝から崩れ落ち、その場にへなへなと腰を下ろした。胸の奥が熱く滲む。鼓動が、今しがた蘇生した彼の拍動に重なるように荒く速い。

「もど、った……戻って、きた……

頬が熱い。脳が、熱い。救えたという喜びが、心臓から溢れて体中を駆け巡る。
神楽岡の額の中心に指を押し当て、身体把握の魔法を怜が言祝ことほぐ。生きている者にしか使えない、先程までは使えなかった魔法。コストが軽く新しい──異界遮断の結界内でも使える医療魔法。彼の紡ぐ低い声が、直ぐに現実を引き戻した。

「櫻田、脳浮腫のうふしゅを併発しているッ。心拍が戻っても、脳をどうにかしないと死ぬ!」
「ッ……

その声に、顔を上げた。
神楽岡の額から冷たい汗が滲んでいる。脳が水分などで膨れ上がる脳浮腫。それに伴う血圧低下。このままでは蘇生したと言っても、いずれ脳が死ぬ。

「オペが必要だ。だが──」
怜が悔しそうに顔を歪め、唇を震わせた。
「異界遮断結界が張られている。此処では、現代の医療……医療魔法が使えない」
「それに、僕達、誰も脳外科の専門じゃないのに……下手に触ったら!」

怜の言葉に、伊織の叫び。それらに、翠の思考が閃く。
湯気の中で、何かが線を結んでいく。

……怜」

投げた声は、自分が思っているよりも冷静な色をしていた。
二人の視線が一斉に向く。それに怯む事なく、翠は続けた。

「異界遮断結界って、『人間』が異界に接続するのを防ぐ魔法だよな?」
「そうだ。それがどうした──」
「つまり、異界存在のサナちゃんならその魔法の概念に一致せず効果が弱まる。異界に接続せず概念を魔法として扱える俺なら、神になる呪いを持つ俺なら──魔法、使えるって事だろ。俺はもう、半分『人間じゃない』から」
「お前……!」

怜が息を呑む。伊織も、青ざめたような、不安がるような顔で見つめていた。

「ヒスイ先生、それって……。いいの? だって……
「俺は〝使いたくない〟だけだからな。けど今は──使うしかないでしょ?」

翠は濡れた柔らかな髪をかき上げ、にっと笑った。

「天才だし、本当は使えるって見せつけてやらねぇとな」
「だが櫻田!」

答えたそれを咎めるように、怜が叫ぶ。なんだよ、と思いながら彼を一瞥すれば、その顔にはやはり、無理だと言いたげな絶望が滲んでいた。

「魔法医療を行うには法律上、医療魔法士の資格が必要だ! お前、持っていなかっただろう!」
「それが、持ってるんだよ」

彼等の不安を一蹴いっしゅうする短い言葉。怜の言葉がはた、と止まった。

「前の事件の後、医療の再教育プログラムで取らされたんだよ。まさか使う日がくるとはね」

怜が口を開け、閉ざす事が出来ないまま言葉を失う。しかし、この場で沈黙という余裕が許されない事を悟ったのか──ゆっくりと翠に、言葉を投げた。

……やれるのか。本当に、お前が」
「やれるかどうかじゃないでしょ。──やるんだよ」

数秒間の、静寂。その後に、彼は僅かに頷いた。
伊織も深く息を吸い込み、決意したように口をほどく。

……分かった。助手と、魔術による器具展開、任せて! サナ、手伝ってくれる?」
「勿論です!」

サナが光の陣を再構築する。仰臥位に伏せた神楽岡を中心に陣が編まれ、それはまるで夢幻を形にした手術台のようだった。

翠は神楽岡の胸の上に手を置く。血の温もりが、まだそこに息づいていた。
それが、線香花火の最後の輝きのように脆い事を知っている。水溜まりに張った薄い氷のように脆い事を、知っている。

そっと、息を整える。
……俺なら、出来る。俺達なら、出来る。何故なら自分は、独りではないから。何故なら自分は──命に向き合う、医師だから。
瞼を閉じ、意識の糸を穴に通すように集中させ、静かに宣言する。

「──Die Operation Beginnt.手術開始だ

その声は、熱い湯けむりの中で溶けていった。
もはやこの八つ時は、休息の時ではない。
それは、命を奪う思惑の闇の中で、再び火を灯すための闘いの幕開けだった。