目を見開いたアグライアは、再び声もなくぼろぼろと泣き出したあたしに、ああ、とこの世の終わりみたいな顔をしてうろたえた。アグライアが、あたしの名前を呼ぶ――たったそれだけのこと、けれどそれほどの事に。困らせてごめんなさい、とは思うけど、何せ涙が止まりやしないのだ。泣き止まないとと思えば思うほど酷くなる。もう散々泣いたのに、よくもまあ飽きないもんだと、他人事のように思った。
俯いて歪みきった視界の端、まごついた様に辺りを見渡していた彼女が、不意に握ったままの手を引いた。
そのまま連れ込まれたのは、展示物の隅にある非常口マークの付いた扉――展示室のバックヤードらしき場所だった。殺風景な廊下で台車を押すスタッフらしき人影が、驚いたように声を上げる。
「あれ、アグライアさん?何かありましたか」
「少々。……すみませんが、向こうの会議室をお借りできませんか。空き室でしょう、本日は」
「はあ。そう……ですね、それは、問題ないと思いますが……」
ひぐひぐと、みっともなくしゃくりあげ続けるあたしに、訝しげな視線が向けられる。
「……何かトラブルでもありましたか?必要であれば警備に連絡を」
「――いえ、必要ありません。また、この後について、お手数ですが会食はリスケとさせていただくようお伝えください。調整は後ほど」
「は――」
「それでは」
不意に、冷え切った声が提案をはねのける。面食らったその人を置いて、アグライアはどんどん前に進む――なんか無茶苦茶言ってないか?と、頭の冷静な部分が訝しんだが、問いかける余裕もない。
そうして進む途中、扉の開いている部屋に連れ込まれた。ぱち、ぱち、とスイッチが押され、薄暗かった部屋に明かりがつく。
「そうですね……、ここにしましょう、好きな席に腰掛けて。……紅茶は飲めますか」
「………」
あたしが辛うじて頷くのを見たアグライアが、握った手を離すと部屋の隅のウォーターサーバーに向かう。
1人、どことも知らない部屋の隅で、あたしは泣きながら立ち尽くす。
――どうするべき、なんだろう。
ずっと会わないほうがいいと思っていた人が目の前にいて、あたしの名前を呼んでくれた。わからない。諦める覚悟だけ散々してきて、瓢箪から駒が出てきた時の対応策なんか考えたこともない。
「……セファリア」
ず、と鼻を啜ってそんな事を考えていれば、いつの間にかアグライアがこちらまで歩み寄ってきていた。机の上に、湯気の上がった紙コップが置かれている。
そういえば、座れ、と言われているのに、まったく動けていなかった。不審に思ったのだろう。
呼び声に、顔を上げる。散々、写真や動画越しに眺めていた面だ、涙でぼやけたとて見覚えがないなんてことはない。記憶の中より柔らかな表情は、終末が隣り合わせだったあの世界よりも良い環境にいられている、ということなんだろう。それが嬉しくて、どこか遠い。
変わらず、呼吸も途切れ途切れに、ぼたぼた涙を流すあたしを見て、眉根を下げたアグライアが、あたしの名前をもう一度呼ぶ。
「セファリア。お願いです、どうか、一先ず泣き止んではくださいませんか。……このままでは、話もできません」
その指が涙を緩やかに拭う。甘やかな響きが、どうしたって涙腺を刺激するからたまらない。
「―――」
言われなくてもそうしたいのだ。とは言えもう自前のハンカチはぐちゃぐちゃなものだから、目元をパーカーの袖で拭おうとして、ああ、と止められる。
「いけません、そのように乱暴なことをしては。私のハンカチがここに――」
――そんなもん使えるか、と思って、力任せに無理やり拭ったら、もう!と悲鳴みたいな声が上がったのが小気味よかった。どうしたって変われない、自分の態度すらもなんだか懐かしくて。
紙コップに入ったティーバッグの紅茶は少し冷め始めている頃合いで、それがあたしの舌にはちょうど良い。水分の抜けた体に染みる。飲み下して、ふう、と息を吐き、椅子の背もたれに体重を預けた。目元は腫れぼったいまま乾いてなくとも、呼吸はやっと落ち着いた。ずっと泣き続けたせいで、まだ腹の辺りが痙攣している気がする。
「お代わりは要りますか?」
「……大丈夫。てか、なんで隣……?」
「――遠くに座る必要もないでしょう。嫌ですか?」
「……別に」
そうですか、と小さく顔を綻ばせるアグライアは、あたしの隣に当然のように腰掛けていた。広い会議室のこんな隅っこの2席しか使わないのはなんだか勿体ないことをしている気持ちになってくるけれど、嫌ですか、と問われて、反論する気にはならない。
言葉を少し交わすだけで馴染むのを感じる。今さっき出会ったばかりなのに、まるで100年来――1000年来の友のように。その事がくすぐったくて、すん、と鼻を啜った。
あたしが多少は平静を取り戻したと判断したのだろう。アグライアが、神妙に口を開く。
「セファリア。改めて……どうか、聞かせてください。
……貴女は、私のことを、覚えていますか」
「……覚えてるよ、オクヘイマのラプティス」
結局、どうするべきかなんてわからないまま、あたしは正直に答えることを選んだ。
半ば投げやりに現世ではありえない肩書を告げれば、ぱあ、とアグライアの顔が華やいだ――眩しい。オンパロスでも、彼女の出演するブランドのプロモーションでも、ついぞ見たことのないような愛らしい顔を向けられ、あたしはただ、呆然とする。
「よかった、本当に、本当に嬉しい――ずっと貴女と逢いたかったのです、セファリア」
その隙を縫うように抱きつかれ、ひゅ、と息が止まる。近い、可愛い、近い、近い!
泣いているときは気にする余裕がなかったものの。
この数年間、見ているばかりだったあたしの憧れと後悔と憧憬が混ざり合った情緒は、それはもうひどいことになっていた。落ち着きを取り戻して以降、彼女の一挙手一投足がさっきからドギマギして仕方ない。
「ああ、そう、抱きしめても?」
「じ……事後承諾じゃん!」
「すみません、つい」
ふふ、と愉快そうな吐息が耳朶をやわらかにくすぐる。甘くとろける香水の香り、幸福を煮詰めたみたいな温かさに、途端、顔がのぼせたように、くらくらと熱くなった。――このままだと遠からず卒倒する。
「とっ……兎に角!……あんたが元気そうで良かったよ、っ、裁縫女」
肩に手を乗せ無理やり引き剥がせば、アグライアは多少不満げな顔をしていたけれど――これ以上は危険だったから仕方ない。視線をそらして当たり障りのないことを返すあたしに、ええ、とアグライアは澄ました顔で言う。
「かつてとは異なり、やりたいことをやらせていただいている生です。楽しまずしてどうしますか」
「浪漫の極みみたいな台詞……てか、何でこんなところにいるのさ。……暇なの?」
「自分の個展にいることは、何らおかしくありませんでしょう。まあ、急遽予定があったので来た、というのが正解ですが」
元々は、寄るつもりもなかったのだという。とんだ不幸と見るべきか、否か。あたしは何とも言えない顔で押し黙る。その反応を見たアグライアが、慎重さを保ちながら尋ねてくる。
「……貴女こそ、今日はどうしてここに?」
「あー……チケットを貰ったから。……単に偶然だよ。まさか、こんな泣く羽目になるとは思わなかったけどね」
「……そう。
つまり、私へついぞ、会いに来てはくれなかったのですね」
――ぎく、と肩が震える。記憶があるのなら、知っていながら、どうしてアプローチを取らなかったのか、と、踏み込んだ質問。視線が、まるで金糸のようにあたしに絡みついて真実を見抜こうとする。……言葉を必死に探す。
「そりゃだって、あんたが、記憶があるかとか、分からなかったし……」
一先ず、上っ面の言葉を返せば、アグライアは腕を組んでじっと黙する。
「………」
「………」
「……『私に会いたくないだけ』だと思いましたが、そうではなく?」
「―――………、………」
息を呑む。図星だけど、意味が違う。――分かっている、彼女があたしをどう思ってるかなんて散々考えたことだ。今、アグライアが口にするのは、『理由もなく距離を置かれたオンパロスの続き』としての言葉で。あたしのは『蔑ろにしてしまった申し訳なさ故』だ。
だから。――それを言えばいい。あんたのことが嫌いだったわけじゃない、ごめんなさいと一言言えば、きっと優しいアグライアは許してくれる。赦してしまう。
故に――それが、恐ろしくて仕方ない。そんな簡単に、彼女を傷つけた罪が、済ましてよい訳がないと、思うから。
「……会いたくないから、じゃ、ないけど……」
「『まだ』、理由は言えない、と。この世界においても、尚」
「…………」
「……では、今は問いません」
辿々しく黙り込んだあたしに呆れたのだろう、ふう、と嘆息すると、アグライアは、取り出した小さな紙――名刺のようだ――にサラサラと文字を連ねて、あたしに渡す。
「貴女のことです、事情があるのでしょう――もし、話す気持ちになったのなら。
こちらの連絡先に連絡をください。必ずですよ」
「……分かった、期待しないでよ」
「ええ、待っております」
泰然とした返答に、ああ、彼女と話しているのだ、と妙に実感した。
不誠実きわまりないあたしに向けてくれたその誠意を、彼女とあたしをつなぐその細い糸を、せめて大事にしたいと思った。
貴重品を入れるため、あたしはサイドポーチから財布を取り出した――無くさないためなら丁度良い入れ物だと思って、財布のポケットに差し込むあたしの手元を、何故かアグライアは混乱したように凝視していた。その尋常じゃない様子に、手が止まる。
「え、どうかした?」
「………セファリア。
待って、貴女、……いつから、私のことを知って……?」
「は?
――……あ」
その問いに。自分がここに来て致命的にやらかしたことに気がついた。――あたしが使ってる財布は、苦学生の自分が唯一使ってる≪金織≫の商品だ。長く使っていてすっかりくたびれたそれは、けれど、質の良さ故、未だにどこも壊れたりはしていない。 アグライアが、譫言のように呟く。
「……それは、忘れもしません。
私がブランド立ち上げの際に作成した、シリアルも振っていない最初期のウォレットです。
小さな通販サイトで取り扱ったのみで、今はプレミアがついていると聞いたことがあります。
……よく、使い込まれていますね、まるで――発売当初から持っているかのように」
「…………………いや、その」
何もかも、その通りだ。7年前、街頭モニターで彼女を見かけて以来、彼女の動向はSNSや雑誌でずっと追っていた。ブランドを立ち上げると聞いて、せめて、と、発売日、持っていた小遣いを全額ぶち込んで唯一買えた品だ。
もう会うこともないと思っていたアグライアとの、大切なつながりで、人生の支えで――そして今、あたしを背後から刺す刺客と化した。愛用してやったのにとんだ裏切りだ。
「……てっきり、貴女が私を知ったのは、名が知れた最近のことだとばかり思っていました。……それか、例え知ったとしても、興味がなかったものとばかり」
「……………」
「ですが。ええ――どうやら実態は異なると見えます――セファリア」
アグライアの、淡々とした涼やかな声に、瞬間、底しれぬ圧が加わった。ええと、とすっ惚けようにも、泣いて疲れ切った体は素直極まりなく、視線は勝手にそろそろと泳ぐばかりだ。この土壇場において詭術の神はあたしを見捨てたらしかった、……恨むよザグレウス!
「――呆けていないで、答えてはいただけませんか」
「違……違くて……えっとだから」
「セファリア」
「だから………あの、えー……とぉ……」
「…………………………」
「…………………ライアぁ……?」
「……。甘えても、駄目です」
――誰か助けて。
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