もち粉
2025-11-01 23:25:35
14149文字
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天燈節の夜に


カブミス
おまつりデートお着替え付き

船体は勇ましく波を切り、甲板には海風が流れ込んでいた。荷物をざっと片付けると、カブルーは船室を抜けてデッキへと出た。潮の匂いを胸いっぱいに吸い込む。

一等船室なんて初めてだ。興ったばかりで国庫に余裕なんて全くない中、国費から融通してもらったのだから、この外遊を絶対に実りあるものにしたい。

……それにしても)
一体どんなお大臣が乗っているのかと視線を向けた先の特等船室から、ゆったりと姿を現した人物に、カブルーは思わず二度見した。

「ミスルンさん!?」
……カブルー?」

今では西方から派遣され、メリニに駐在する外交官となった彼が、なぜ任地を離れてこの船に乗っているのか――カブルーには理由が見当たらなかった。

​「同じ船に? もしかしてミスルンさんも、あの国に?」
​この船の行き先である、南方大陸に位置する国名を告げると、ミスルンはこくりと頷く。

「父の名代だ。あの国にはケレンシルの分家が置かれていて、南方への投資や情報収集を担っている。若い頃にも一度行った。西方からより、メリニからの方が近いからな。命じられた」

「さすが、世界を股にかける金融一族ですね。……でも、ミスルンさんがご実家の仕事を手伝うなんて、珍しいのでは?」

「この身体になってからは初めてだ。ずっと、私などいないも同然の扱いだったくせに、調査隊を辞して、新興国とはいえ外交官の地位を得た途端に接触してきた。連絡妖精越しでさえ……父の声を聞いたのは、何十年ぶりだったか」

ミスルンは皮肉げに口元を歪めたが、その笑みは怒りではなく、長い年月をかけて削り取られた、諦念の形をしていた。ただ言われるがままに動く彼の姿を見るたび、カブルーはどうしようもないもどかしさに襲われた。

(怒れるようには、まだなれないか)

ミスルンは、隠そうという欲もなく、過去をそのまま語る人だった。取捨選択もせず、感情の色をまとわせることもなく。兄のことはよく話したが、父の話をカブルーが聞いたことは一度もない。親子の関係が相当希薄であることは察せられた。
彼の父は、ミスルンが妻の不貞によって生まれた子供だと、いつ知ったのだろう。それを知った瞬間、彼の中でミスルンは「いないもの」になったのかもしれない。


「それで? お前の方はなぜこの船に?」
問い返されて、カブルーは思わず笑みを作った。
「ああ、実はあの国にいるという農地除塩の権威と呼ばれる博士を訪ねて――

「ミスルン様」

わざとらしい咳払いとともに硬い声が割り込んだ。拳を口元に当てた中年のエルフが、じっとりと圧力を放ちながら立っていた。ミスルンの従者だろう。

「そろそろお部屋へお戻りください。南方の現状について、ご講義のお時間です​」

ミスルンは一瞬、名残惜しげにカブルーを見た。だが、背後からつき刺さるような視線にわずかに肩をすくめ、従う。

​「――ああ、わかった。ではカブルー、またな」

従者は、カブルーを値踏みするように一瞥をくれると、ミスルンの背後を守るように付き従って、特等船室の方向へと去っていった。

(ご主人様に近づく卑しいトールマン……どうせそんなふうに見てるんだろう)

カブルーは半眼になって彼らの消えた方角を見やり、軽く息を吐いた。近年は意識も変わりつつあるとはいえ、年長のエルフほど旧来の差別意識を引きずっている。

(俺の初外遊の話、聞いて欲しかったんだけどな)

七日間の船旅だ。いくらでも話す機会はある。
迷宮崩壊のあとも交流は続いたが、互いの立場が外交官と役人になってからは、公の場で形式的な挨拶を交わす程度になっていた。
だがここは王宮ではない。それにカブルーは公務だが、ミスルンは私的な用事だというのなら――

(久しぶりに、ゆっくりとミスルンさんと話せそうだ)

​そう期待したカブルーだったが、次にミスルンの姿を見かけたのは下船の時だった。


 ◇

港に着くと、石畳の広場には人波が渦を巻いていた。次々と到着する船からは、荷馬車が軋み、行商人たちの怒号が飛び交う。

​ゆるやかに入港した船は、まずは特等の客を降ろすため、船員たちが​慣れた手つきで、赤い絨毯を手際よく広げていく。港ではすでに数名の出迎えの一団が、整列して待ち構えていた。

カブルーは、一等船室のデッキからそれを見下ろした。
絨毯を踏んで一番に姿を現したのは、長い外套を翻すミスルンだった。後ろには従者や護衛たちが音もなく続く。真昼の白い陽射しの下、そこだけが静謐な空気に包まれて、異国の絵巻のようだった。

……ほんとは、遠い人なんだよな」

思わず小さく呟く。潮風に混じって、熱気を孕んだ知らない香辛料の匂いが鼻をくすぐる。嗅ぎ慣れなくて、どこか現実味が薄い。

同じ船に乗っていても、立場の差は歴然だった。特等の客は全てに優先され、食堂も談話室も別。結局、初日以降ミスルンと顔を合わせることはなかった。


迷宮で泥にまみれた彼。城に外交官として立つ彼。私的な食事の場で少しだけ柔らかく笑った彼。――だが今、礼装に身を包んだエルフの一団に取り囲まれているのは、カブルーの知らない「ケレンシル家の御曹司」だった。

​「……おい、あれ、ケレンシルの……?」
「特等にいた……耳の切れた?」

​背後で囁かれる声に、カブルーは反射的に耳を澄ませた。同じ船に乗っていた商人風のエルフたちが、小声で続ける。

​「足は悪くなさそうだから、次男の方か? 以前は、社交界じゃちょっと知られてたもんだが……
「カナリアに行ってたんだろ。病だとか呪いだとか……噂は色々あったけどな」

誰かが魔除けの言葉を小さく唱えたのが聞こえ、カブルーは眉をしかめた。長い耳はエルフの誇り。罪人は切込みを入れられる。両耳を大きく欠いたミスルンの姿は、彼らの目には忌むべきものに映るのかもしれない。

……だからって。
そんな扱いをされなくてもいいだろう。――彼はただ、生き延びただけなのに。

​彼に何か言葉をかけてやりたい。そんな衝動に駆られ、下船の順番が来るやいなやカブルーは飛び出した。並んでいたハーフフットに睨まれたが、構わず「すみません!」と一言謝ってタラップを駆け下りる。

ミスルンは、群衆の視線とざわめきを従えて一行とともに馬車へ向かっていた。
​だが、彼らしくもなく、ぐずぐずと歩みが遅い。扉の前で立ち止まり、港の方へと視線を彷徨わせる。
……カブルーは、本当にあの船に乗っていたのだろうか。

小さく溜息をついて​ステップに足をかけ、最後にもう一度だけ振り返ったその時――ふいに青い瞳と視線が交差した。港の喧騒が遠のき、自分の名を呼ぶ声だけが聞こえた。

​「ミスルンさん!」
「カブルー!」

​甲板から降りてきたばかりのカブルーがこちらに走ってくる。ミスルンは小さく手を上げ、従者の動きを止めさせて小走りに歩み寄った。

​「あの……その、俺、」
​「宿は決まっているのか?」

​ミスルンは、思わずかぶせるように口を開いた。

​「え、いや……これからです」
​「ならば、うちに逗留するか? 部屋はいくらでもある」

​ミスルンは軽く言うが、その背後には控える従者や護衛たちの刺々しい視線があった。カブルーは一瞬言葉に詰まり、慌てて首を振った。

「いえ……今回は。国交のない国ですから、ついでに街の様子も観察してくるように言われてます。市井の宿に身を置いたほうが、街の空気を肌で感じられると思いますから」

​元々そうするつもりだった理由を告げると、ミスルンはわずかに瞬きをして、半瞬置いて頷いた。

​「そうか。ならば好きにするといい」
​「……

​「ただ、困ったことがあれば来い。この地では、我が家は……それなりに顔が利く」

​それだけ言い残し、今度こそ馬車へと乗り込む。扉が閉まると同時に、車輪は音を立てて石畳を進み、港の喧騒に溶けていった。


残されたカブルーは、手にした鞄の重さを確かめるように持ち直し、小さく息を吐いた。自分から断ったはずなのに、置いていかれたような気持ちが胸に刺さる。

​「……いやでも、別世界過ぎるし」

一応、自分の養母も貴族であったはずだ。だが養母は同族嫌いで使用人も最低限しか置かなかった。それに、常に養子たちの賑やかな声が溢れていた養家とは違いすぎる。
誘ってくれたミスルンには悪いが、一緒に馬車に乗ったところで、居心地の悪い思いをするだけだろう。

​(あ……

​三歩目を踏み出した時、ようやく思い出した。――自分が、何のためにここまで急いで降りてきたのかを。


 ◇

博士のもとを訪ね、除塩についての話を聞いた帰り道。

カブルーは、祭りの準備に賑わう大通りを避けて、一本外れた裏道を歩いていた。昼下がりの日差しを跳ね返す白い建物が目に痛いほど眩しかった。観光客は少なく、地元の子どもたちが裸足で駆け回る笑い声に混じって、遠くから軽快な笛の音が聞こえてくる。

角を曲がった先に、見覚えのある細身の影が見えた。​

​「……ミスルンさん?」

思わず声が漏れる。護衛も従者もいない。小さな広場の中央で立ち止まる彼に、周囲は目をそらし、さり気なく道を開けた。――思わず息が詰まる。

ミスルンは半分を失った耳をぴんと立て、一つしかない目で前を見据えたまま、広場に面した一軒の建物に入っていった。

彼の姿が消えると、その場にいた長命種たちは、好き勝手に囁き交わした。
好奇心と詮索と憐憫の薄い毒が、空気を静かに満たしていく。
カブルーは立ち尽くし、拳を握った。空気に対して、言葉は無力だった。


 ◇

やがて日差しが赤く染まり始めた頃、ミスルンは戸口に現れた。見送りに、一人の老エルフが付き添っている。

別れの挨拶のため差し出された手を握った老エルフは、その瞬間、ミスルンの腕に走る無数の傷跡に気づいたらしい。ハッと目を見開き、夕陽に照らされた姿を見つめながら目を潤ませた。

「ああ腕までも、こんな……。本当に、おいたわしい……
「何度言わせるんだ。私は大丈夫だと」

腕を取られ、困ったように眉を寄せるミスルンに、老エルフは鼻をすすった。

「申し訳ありません。歳を取ると、涙もろくていけませんな」
「今日は会えて良かった。外気は身体に障るだろう。見送りはいいから、中に戻って休みなさい」

老エルフを戻らせると、ミスルンはかすかに唇を引き結び、肩をわずかに落として踵を返した。その背に、言葉にできない重さが滲んでいた。

……ミスルンさん」

振り返ると、扉の横の壁にカブルーが腕を組んで身を寄せていた。ミスルンの瞳に小さな驚きが走る。いつからそこにいたのか。今のを見ていたのか。

「あなたがこの家に入るのが見えたから。ちょっと気になって」

平静を装ったつもりだったが、声にばつの悪さがにじんでいた。入るのを見ていたというなら、二時間近くも待っていたことになる。

(待っていて、くれたのか)

胸の奥に灯った温かさを噛みしめるように息を吐き、ミスルンは顔を上げて精一杯笑ってみせた。

……そうか」

その笑みは、カブルーの呼吸を奪った。
めったに笑わない人だ。けれど笑うと、普段が嘘みたいに可愛らしくなる。久しぶりに見せてくれた笑みが、こんなにも痛々しいものでなくてもいいはずだ。もっと――楽しいことで、笑顔にしてあげられたら。


「今夜、お祭りあるんだそうですよ。行ってみません?」

​唐突な誘いに、ミスルンは瞬きした。
​「……ああ、ランタンを飛ばす祭りだな。昔、一度だけ行った」

路地の奥から、軽快な笛と太鼓の音が一層強く響いてくる。

​「大通りは飾り付けとかもすごく賑やかでしたよ。俺は初めてだから、案内してくださいよ」

​「だが……従者たちが待っている」

​振り返れば、路地の向こうに停まった馬車が目に入る。こちらを伺う従者たちの視線は、言葉を使わずに「戻れ」と命じていた。

​(――行きたい)

​従者と視線が絡んだ瞬間、ミスルンは不意に沸いた小さな欲求に、自分で驚いた。何かを「したい」と、思ったのはいつぶりだろう。生まれたての感情は、あまりにも小さく、脆く、触れたら壊れてしまいそうだった。そっと掬い上げようとしたその揺らぎを、カブルーは正しく汲み取った。

​「はい、決まり」

​そう言うとにっと笑い、自分の外套を脱いでミスルンを隠すように覆った。その瞬間、カブルーの体温と匂いに包まれて、ミスルンの全身がカッと熱を帯びた。

​「あの人たちは、撒いちゃいましょう」

カブルーはそう告げると、息を呑んで固まっているミスルンの手を取った。それを見た従者たちがこちらに向かって一歩足を踏み出した瞬間、カブルーはミスルンの手を引いて路地の反対側へと駆け出した。

人波に飛び込みながら、カブルーが振り返る。掴んだ手を離さぬまま、息を弾ませて笑った。

「俺に、さらわれてください」

ミスルンはただ目を見開き、祭りの灯がカブルーの輪郭を淡く照らすのを見つめる。心臓が、熱く、止めどなく、高鳴った。夢のような出来事の中、その高鳴りだけが真実だった。

​藍色の外套の裾が大通りの雑踏に紛れた。人を掻き分けて追いすがろうとしたが、祭りの波に呑まれて主人の姿を見失う。踊り子の鈴の音と太鼓の響きが入り混じり、夜の気配が色濃く広がっていく。途方に暮れた従者たちの姿は、祭りの喧騒と紙吹雪の中に、たちまち溶けていった。