山城まつり
2025-10-26 13:43:23
22832文字
Public クリムゾン・ジェネシス
 

シャルラッハロートの診療録─クリムゾン・ジェネシス─Ep.003

前回:Ep.002 https://privatter.me/page/68f4b11862ced

シリーズ:https://privatter.me/user/YamashiroMatsuri?category=91299

シャルラッハロート、更新!!
「キリのいいところまで……」と思って書いたら、2万文字くらいになってしまいました……申し訳ない……。
今回から第二章、「白磁のカタコンベ- Ivory Cataconb -」が始まります!!
カタコンベは地下に掘られた墓地を指すらしく。語感で選びました。

謎が深まる(はずの)第二章。ここから医療ミステリ要素が強くなっていくはずですので、お楽しみいただけたら幸いです。でもミステリー書くのが下手すぎて犯人も目的も、もうバレてたらどうしよう……の気持ちです。難しいですね……。

※本シリーズは医療従事者でない人間の書いた医療の描写を含みます。症例論文、手術動画、医学書などを参考に執筆していますが、現実の医療と異なる場合があります。特に本シリーズは「魔法医療」を描いておりますので、現実の医療と大きく異なる部分があります。

2025.11.28 加筆修正しました。


3節:夢の深淵に




──深夜。

無数の鳥居が、紅い海原に刺さっている。
吹き付ける風は無い。さざめく波はある。だが、それは海水でも淡水でもなかった。
紅い、赤い朱い歪な物体。脳、肝臓、腸、心臓──ヒトの臓物が光のようにうねり、波間を形作っている。翠が佇むそこは夜のように暗く、臓腑の波がはっきりと見えるように明るい。どこまでも、どこまでも異様な海。足首に纏わりつく血の感触が、ぬめっていて、ぬるくて、心地が悪い。

その中央に、一脚の椅子があった。鉄で拵えられた、質素な椅子。古びて錆び、けれどなお、形を留めてそこに鎮座している。その椅子に座る翠の腰はどうしてか、ひとつも動かす事が出来なくて。

椅子の向かいには、誰かが座っていた。
男か女か、年齢も判然としない。
ただそこには、波のさざめきに合わせて寄せてくる「声」だけがあった。

『貴方は、苦しいんですね』

音が、海に落ちた。
その声に、口を開こうとした。苦しくなど、あるものか。そうやって、否定しようとした。「は?」と返すつもりだった。「何を言ってんすか」と、「てか此処、どこですか」と──そう答えようとした。
なのに、唇が勝手に形を刻む。

……はい」

自分の口を押さえる。
肯定など、するつもりはなかったのに。
声は自分のもののようで、自分のものではない。別の何かが、まるで喉の奥に巣食っているようだ。

『そうですね、苦しいですね』

声の主は穏やかに微笑んだような音を紡ぐ。
そして次の瞬間、右手が持ち上がった。光を孕んだ注射器が、翠の腕に触れる。

『もう、楽になりますからね』

銀の針が、皮膚を貫いた。
刹那、脳をぐわんと揺らす、大きな衝撃。
それは痛みだった。内部から体をめった刺しにして焼くような、そんな痛みだった。

痛い。
痛い、痛い痛い痛い痛い。
視界が、反転する。色が、反転する。翠は椅子から転がり落ちた。
脳が焼ける。息が出来ない。胸が裂ける。海原の臓腑の山も、こうやって生み出されたのだと悟ってしまう。
はく、と唇が動く。大きなエメラルドの瞳から、涙の雫が零れ落ちた。
翠は叫んだ。叫んだ筈なのに、声が出ない。

『私は、神様なんですよ』

狂気の海。紅に染まる海。
その〝神〟の双眸を覗いた瞬間。意識がブラックアウトし、そのまま視界が闇に呑まれ──。

「──はッ!!」

目が、覚めた。
息が、荒い。心臓が喉の奥で暴れている。脂汗をかき、霜月に不相応にも、背中のシャツは湿っていた。
恐怖に耐え兼ねて、起き上がる。天井の木目が、薄暗い部屋の中で滲んでいた。

……また、か」

濡れた息が喉を抜けた。
最近、悪夢ばかりだ。
夢の中で刺された針の感触が、まだ腕に残っている気がする。そっと、袖を捲り上げる──肌には何の痕も無かった。あんな鮮烈な夢を見たというのに、それがかえって不気味だった。

「なにか、水……

かさかさに乾ききった喉を潤そうと、サイトテーブルに置いたペットボトルを取り上げる。これは部屋に戻る前、袋いっぱいに詰め込まれた飲料物の中から翠が選んだ麦茶だった。「ミネラル配合!」の文字がラベルの上で踊っている。
けれど、それは空だった。寝る前に飲み干していた事を思い出し、肩が落ちる。

「はぁ……

何度目か分からない溜息。
息の温度さえ、どこか冷たい。
布団を押しのけて立ち上がると、暗闇の中で足音が柔らかく吸い込まれていった。
そのまま、足元に揃えた靴を履く。外の空気を確かめるように、結露したドアノブを握った。

廊下には、薄い灯りがあった。二階、その奥にあるのはラウンジだ。
今日──日付を回っているから昨日、が適切か。昨日の午後、天城が死んだ現場。
そこから、人の話し声が聞こえる。人の、気配を感じる。

腕時計で時刻を確認する。時刻は、夜中の二時だった。
こんな時間に──誰が?

翠は真っ直ぐ、廊下を進んだ。
東側の客室と西側の客室、その中間地点は一階から吹き抜けのラウンジになっている。オレンジの照明が柔らかく揺れ、深秋なのに温もりに満ちているそこ。レストラン同様に吊られた天井のシーリングファンはその職務を果たしていない。窓の外は変わらず雨が降り注ぎ、漆黒の窓辺は外気を孕んで冷たくて。
……テーブルを囲んでいたのは、伊織と東雲と唐澤、メディ、そしてサナだった。
夜更けの談笑としては、誰も笑ってはいない。

……どうしたんだよ。飲み会か?」

冗談めかして声を掛ける。四人が、一斉に此方を見た。空気が、ほんの少しだけ揺れる。

「おう、櫻田」

唐澤が軽くそう答えてくれる。だが、その表情には隠しきれない不安が覗いていた。伊織が、困ったように微笑んで言葉を代わる。

「悪夢にうなされちゃってね。相談中、みたいな」
「悪夢?」

翠が眉を寄せると、伊織は足を並べ直した。

「うん。血の海に浮かぶ診察室で、診察されてる夢だった。そこで先生……みたいな人が『苦しいのか』って聞いてきて……
……まさか、」

息を呑む。
脳裏に、先程自分が見た光景が蘇る。紅い海。鉄の椅子。銀色に光を孕む注射器。

「まさかその後、薬を注射されるって言わないでしょーね?」

伊織の笑みが消えた。唐澤の、東雲の……全員の笑みが消えた。
沈黙──その静寂こそが、答えだった。

……ヒスイ先生も、なんだね。これで六人目」

彼の声は、掠れていた。
翠は椅子を引き、息を整えるように腰を下ろす。

……六人目、って」
「ボクとサナもなんだよぉ」

伊織の隣から、ひょこりとメディが顔を覗かせる。そこに宿っているのは、恐怖。もうひとつ隣の席のサナが、腕を抱き締めて俯いた。

「だから、おかしいですよねって……みんなでお話していたんです」
「俺も見た。早乙女先生は寝てたから置いてきたけどな」

唐澤が神妙な顔つきでそう続けた。その言葉には、苦虫を噛み潰したような響きがある。

「全員が……同じ夢?」

喉が、さらに乾いていく。唾さえも呑み込めない。身体が芯から冷え、指先が温度を忘れていく。

「んな事、あるのかよ」

東雲はただ、黙っていた。
顎に手を添え、考え込むような仕草。そしてついに、静かに口を開く。

……僕もその夢、見てね」
「東雲さんも? ……てか東雲さん、起きてて大丈夫なんすか」
「うん、もう大丈夫。……あんな悪夢を集団で見る方が、今は問題だよ」

翠の胸が、凍った。

「此処に居る全員が、揃って同じ悪夢にうなされた。もしかすると、僕達はもう──精神的にも、肉体的にも、やられているのかもしれない」

彼の言葉を聞いて、サナの華奢な肩が震えた。雫が大きな天色あまいろの瞳に溜まっている。

「ど、どうすればいいんですか……? サナ達、どうしたら……っ」

メディがそっと、彼女の背中に手を置く。

「サナ……大丈夫だよぉ、ボクが、傍に居るから……

その声も、どこか掠れを抱いていた。
東雲の手が、膝の上でぎゅっと握り締められる。厚手のパジャマが、くしゃりと小さな音を立てた。

「僕……精神科医なのに、こんなとき、どうすればいいか分からない。もっとちゃんと、君達を救いたいのに」

翠は息を止めた。
その「救いたい」という言葉に、胸の奥が疼く。
東雲に代わって、唐澤が言葉をつづった。

……人の心って、脆いな。俺達だって、もう崩れるギリギリまで来てんだ」

彼の声には、自分自身への責めが滲んでいた。
東雲が、顔を伏せたまま、掠れた響きを紡ぐ。

「どうして……こんなに、崩れやすいんだろう」

翠は、言葉を失った。
伊織も、唐澤も、メディも、サナも、誰も返せない。
沈黙だけが、暖房の音と共に漂っていた。

「唐澤さん、東雲さん……

ようやく、翠が口を開いた。
それは呼びかけというより、吐息の延長のようだった。

「ごめんね……
東雲の声が震える。
「僕には……どうしようも、できない」

翠は、彼を見つめた。
医師としての、そして人としての無力さ。
その言葉は、まるで鏡のように翠の胸に返ってくる。

「みんな、僕を頼ってくれる」

東雲の声は、壁掛けのランプの明かりに吸い込まれていった。翠も、伊織も口を結ぶ。ただ、静かに──彼が紡ぐ〝懺悔〟に耳を傾けていた。

「助けてって、声を上げてくれる。……でも、助けられない患者さんも居た。死んじゃった人も、居た」

その言葉の端に、血の匂いが滲んだ気がした。
翠は口を閉ざす。息を吸えば、胸が痛い。吐けば、記憶が疼き出す。

──天城浩太。
開ききった瞳孔。光を映す事を放棄した眼睛がんせい
あの白い手。冷たくなっていく皮膚。
自分の声が、力が、あんなにも無力だった事。

思わず、口を押さえた。
忘れようとしていた吐き気が、喉の奥を、胃の奥を撫でてくる。

「櫻田先生。綾瀬くん。唐澤先生。君達も……救えなかった患者は、いる?」

東雲の問いが、刃のように響く。メスのように、鋭く届く。
翠は、直ぐに答えられなかった。代わりに、伊織の声が落ちていく。

「えと、僕は……

台詞は、そこで区切られてしまった。
息を吸う。狭まった喉を無理やり広げて、彼から言葉を継いだ。

……俺は、まだ、いません。でも……これからもそうだとは、限らない」

自分で告げた声に、胸がざわついていく。
〝まだ居ない〟という事実が、奇跡のようで、恐ろしい。
〝限らない〟という予感が、冷たい水のように背骨を伝う。
自分はただ、細すぎる綱渡りでアクシデントに見舞われていないだけなのだ。少しの風、雨、鳥の羽ばたき……それらで簡単に、自分は奈落へと堕ちる可能性があるのに。

……俺は、居る」

唐澤が、重々しく口を開いた。
それは、「まだ居ない」と告げた自分達とは違う、失った事がある人間の悲嘆だった。奪った事がある人間の、葛藤だった。

「俺の話なんか、どうでもいいだろうけどな。新人の頃にいきなりオペで合併症があって、患者が一人、死んで。そこからもちょくちょく、患者を看取ってきた。脳出血で術後に死んだ患者、脳細胞が壊死して死んだ患者、植物状態になった患者も……色々、見てきた。俺って、〝死神〟なのかもしれねぇとすら、思った。ここに来て天城も死んだ。……俺、本当に死神なのかもな」
「唐澤さん……

その言葉は、微弱な震えを携えていた。幾度となく患者を看取ってきたという台詞が、重くて、痛くて、突き刺さる。「大丈夫ですよ」とどうして軽々しく言う事が出来ようか。唐澤は軽く息を吐き出して、「運命の女神が居るなら、ソイツは意地が悪すぎるんだよ」と笑った。
東雲が、遠い目で此方を見ていた。

「僕達って、非力だよね」

その瞬間、空気が一度、音を失った。
暖房の風すらも息をひそめ、誰も瞬きをしなかった。
翠は立ち上がりかけた。だが、言葉が何も見つからず、ぐっと力を込めた右脚から力をほどく。

……ごめん、変な話したかも。忘れて」
「俺も。悪りぃな」

東雲と唐澤が、微笑んだ。
失った事がある、奪った事がある彼等の笑みは──水溜まりに張った氷のように、脆く、触れるだけで壊れてしまうような危機感を従えていた。

「昨日は僕が倒れたけど……次、君達が倒れないとは限らない。どうか、気を付けて動いてね」

その声に、翠の胸がひときわ強く打った。
──倒れないとは限らない。
その事実が、その警告が、その祈りが……脳の奥底に残響していく。

「そりゃ、忠告か? 東雲」
「忠告、って唐澤先生。まるで僕が仕組んだみたいに…………いや、うん……忠告、かもしれない。僕が忠告して、誰かが救われるなら」

東雲の視線が、卓上に置かれたペットボトルの群れに落ちた。その中身は暖房に晒され、既にぬるくなっている。

メディが静かに手を伸ばし、ペットボトルのビル群から一本を取り出す。その手つきはまるで、何かの儀式のようだった。液面がゆらゆらと揺れ、誰も言葉を発さないまま、それを見つめている。

翠はその揺らめきの中に、夢の紅い海を見た気がした。
臓腑の波、注射器、そして、あの甘い声。

──『私は、神様なんですよ』

その言葉が耳の奥で蘇り、胸の奥を突き刺した。
あれは、ただの夢なのか。
それとも、もっと深いところで囁かれているものなのか。
唐澤がぽつりと、呟いた。

……神様って、ホントに存在すんのかな」

誰も答えなかった。
異界には、穢れを含んだ現界から非難した神々が身を寄せている、実在している──それは、異界学を学んだ多くの大人が知っている、この世界の常識だ。
天使の住まう天界には、規律を重んじる理神りしんが。
悪魔の住まう魔界には、自由を謳う禍神かしんと邪神が。
一方、人間が住む現代の現界は、神にとってのディストピア。神秘性を剥がれ、暴かれ、神性の消失を呼ぶ神の冥府。

〝この世界〟にもう、神は居ない。
だが、重なり合う異界には、神は確かに存在している。
メディやサナは、それを見ている。それに、仕えていた。

だが、誰も口を開かなかった。
自分達をこの運命に雁字搦めにする神が、縋る事で助けてくれるような神が──自分達を救ってくれる〝かみさま〟が、果たしているのか。

答えられる人間が、この場に居るとは思えなかった。

翠は、目を伏せた。
神がどこかに居るのなら、何故──。
そう思った瞬間、脳裏に浮かんだのは、妹の笑顔だった。今は〝呪い〟の進行を抑えるべく氷の中で眠りにつく、幻想を抱いた妹の面影だった。
──そこから彼女が目覚めた時、再びあの日のような日常を送れるのだろうか。
否、きっと二度ともう、戻らない。

夜はまだ終わらない。
雨の音が遠くで響き、落雷がまたひとつ、稲光を連れて窓の外に打ち付けた。
伊織がペットボトルを一本抱えながら、ぼそりと呟いた。

……今夜は、眠れそうにないね」

その声に、翠はただ頷いた。
誰も笑わなかった。誰も、笑えなかった。そこからは、誰も言葉を発せなかった。
それでも──誰も、立ち上がらなかった。

暖かな灯の下で、六人はただ、沈黙の中に座っていた。雨が窓を叩くたび、夢の残骸が、心の奥で微かに揺れる。

冷え切った手を温めようと、翠は指を絡め合わせた。ゆっくりと息を吐き出せば、喉の奥に違和感が残る。
静寂しじまが満ちる霜月の深夜。
翠の目は、完全に覚めてしまっていた。


──────Ep.004に続く