山城まつり
2025-10-26 13:43:23
22832文字
Public クリムゾン・ジェネシス
 

シャルラッハロートの診療録─クリムゾン・ジェネシス─Ep.003

前回:Ep.002 https://privatter.me/page/68f4b11862ced

シリーズ:https://privatter.me/user/YamashiroMatsuri?category=91299

シャルラッハロート、更新!!
「キリのいいところまで……」と思って書いたら、2万文字くらいになってしまいました……申し訳ない……。
今回から第二章、「白磁のカタコンベ- Ivory Cataconb -」が始まります!!
カタコンベは地下に掘られた墓地を指すらしく。語感で選びました。

謎が深まる(はずの)第二章。ここから医療ミステリ要素が強くなっていくはずですので、お楽しみいただけたら幸いです。でもミステリー書くのが下手すぎて犯人も目的も、もうバレてたらどうしよう……の気持ちです。難しいですね……。

※本シリーズは医療従事者でない人間の書いた医療の描写を含みます。症例論文、手術動画、医学書などを参考に執筆していますが、現実の医療と異なる場合があります。特に本シリーズは「魔法医療」を描いておりますので、現実の医療と大きく異なる部分があります。

2025.11.28 加筆修正しました。


1節:荒天のマリオネット




十一月八日、土曜日。
午後六時十五分──泣き続ける雨が、天蓋てんがいを叩いていた。

冷たい雨粒が屋根を打つたび、ロッジのはりが微かに震える。ガラス窓を流れる水筋はどこまでも黒く、世界の輪郭を曖昧に溶かしていた。外はもう夜だ。瀬戸内の海を包み込むような闇の底で、光の届かない場所に沈んでいく音がする。
その常闇を背に、翠は深い溜息を吐き出した。

……はぁ」

頭をがしがしと搔きながら、重い脚をエントランスホール──談話室の先へと運ぶ。ロッジの木の廊下は湿り気を帯びており、歩みを進めるたびに靴底がきゅう、と海鳥のような鳴き声を上げた。
ホールを抜け、左手に伸びる廊下の奥で立ち止まる。筆記体の「Restaurantレストラン」の文字が、常盤ときわ色のプレートに描かれている。
扉を押すと、ぎぃ、と軋む音がした。仄かな木の香と照明の光が、冷え切った己の身体を迎え入れる。

そこは広い空間だった。高い天井に取り付けられたシーリングファンが緩やかに回転し、白いテーブルクロスの掛かった木製の机と椅子が整然と並んでいる。翠の足が向かうのはその奥。十人が座れるような大きなテーブル席に、既に仲間達が集まっていた。

──その場に満ちるのは、明かりと暖房の温かさではない。空間を支配する、瞳の奥に影を宿した者達の沈黙。それは、死者の存在が刻みつける静けさだった。

「おぉ、翠。大丈夫なんか」

神楽岡がそうやって、此方に声を掛けてくれる。広島弁の訛った声は、沈んだ空気を緩和するように明るく朗らかだ。……違う。緩和しようと〝努力している〟のだろう。それを察した途端、持ち上げた口角が僅かに硬直した。

「顔色凄かったけぇ、心配したんよ。今はちょっとマシになったな」
「神楽岡さん。一回吐いたらだいぶ楽になりました。心配かけてすみません」
「人が死んだんや。しゃあない事や」

心臓に、痛みが走る。
──人が、死んだ。死んだのだ。
その言葉が、事実が、鈍い音を立てて胸に落ちた。

誰もが「大丈夫だ」と言いたげな顔をしている。誰もが「心配ない」と強がっている。だが、テーブルを包む空気は、明らかに彼等の言葉を裏切っていた。
どう平静を取り繕っても、もう平穏には戻れない。だから──敢えてその話題を口にする事を選ぶ。戻れないのであれば、それを暴き、受け入れていくしか残された道はないのだから。

「怜と伊織と早乙女さんは? 死体検証に残ったんですよね」
「ああ、そろそろ帰ってくると思うんやけど──」

言葉を遮るように、扉がぎい、と再び軋んだ。湿度を孕んだ外気の匂いと共に、レストランに四人の影が現れる。──怜、伊織、早乙女、そしてサナクシエル。手術用のラテックスの手袋──ではなく食品用のゴム手袋をビニール袋に入れた彼等は、揃いも揃って疲労に滲んだ顔つきで、無言のままにテーブル前に並んだ。列の最後尾を務めた早乙女の手には、手袋ゴミの他に、ビニール袋がいくつも揺れている。

……集まっていましたか」

眼鏡の奥の瞳を光らせ、彼は淡々と告げる。怜がひとつ息を吐き、伊織は黙って椅子に腰を下ろした。立ったままの翠は、沈黙を破って彼に声を掛ける。

「早乙女さん、何か分かりました?」
「ええ」

短く答えると、早乙女は左手に提げた袋から二つを取り出した。透明なビニール越しに見えるのは、病院の診察券とマイナンバーカードだ。

「──死亡したのは天城浩太あまぎこうたさん、二十四歳。東京都新宿区在住。この診察券は東京臨海総合病院のものです」
「天城浩太ぁ?」

唐澤が眉をひそめる。

「どっかで聞いた事あるんだよな……どこだっけ……

それを聞いた翠もまた、顎に手を遣り思考の海に潜る。確かに、どこかで聞いた記憶があるような、ないような。あれは──SNS? それか、テレビ? 記憶の底に、引っかかるような響きがある。
刹那、メディがぴょこりと早乙女のもとへ姿を現し、カードを下から覗き込んだ。

……この人、ショウ……?」

その瞬間、唐澤が「あーーーッ!」と叫んだ。
隣の席に居た若い女性が、びくりと身体を震わせる。──彼女は先刻会った、死者の恋人らしき女性だ。

暁翔あかつきしょう! ……役の天城浩太! 『モーターブレイバー・オブリビオン』の!!」
「マジ?」

思わず、唐澤の方を振り向いた。彼は慌ててスマートフォンを取り出し、検索エンジンに文字列を打ち込み始める。「サーチ」のボタンが、震える手でタップされる──だが数秒しても答えが返ってこないらしく、舌打ちがひとつ落とされた。

「くそ、3G? 電波弱すぎだろ……あッ! 来た! ほらコレ!!」

声と同時に、翠はそれを覗き込む。掲げられたスマートフォンに表示されたのは、いくつも並ぶ端麗な容姿。白い雪のような頬に、薄い唇。整えられた頭髪に、大きな瞳。……そこにあった男の顔は、先ほど見た死者と同じそれだった。止まった心臓。散大した瞳孔。それらを思い出せば、自然と喉がえずく。思わず、口に手を遣った。

「ショウ、死んじゃった……

メディが小さく呟いてうなだれる。唐澤もスマホをもう一度眺めると、「信じられねぇ。もう、見られねぇのか」と呟き、肘をついた両手で顔を覆った。
──東雲が、グラスに入った水を一同に配り始める。テーブルに置かれたグラスの中の水面が、ゆらゆらと僅かに震えていた。

「どうぞ……

その控えめな声だけが、場に満ちた重たい静寂を遠ざけていた。彼は席に腰を下ろし、おずおずと口を開く。

……何か、分かりました?」
「死者の身元がな。天城浩太、俳優やと」

神楽岡の低い声。翠は胃酸の逆流を堪え、顔を伏せたメディの頭を撫でながら、早乙女へと静かに視線を向けた。

「早乙女さん、天城さんの荷物は……
「死亡時に持っていたものは、これです。持って来させていただきました」

大きめのビニール袋が持ち上げられる。視線を鋭くし、すかさず唇を震わせる。

「見ていいすか」
「櫻田、手袋はつけろ。指紋が付着すると後々困る」

腰を下ろした怜が、一対のゴム手袋を渡してくる。それを受け取り、密かに息を詰めた。
冷たい質感が肌を覆い、現実の重さが増していく。机の上に袋を置き、無言でそれを展開した。

中に入っていたのは、腰に巻くタイプのバッグだった。布地の表面に指を滑らせ、中身を音もなく取り出していく。財布、小さめのペットボトル、スマートフォン、サングラス──そして早乙女が渡した酔い止めのパッケージ。
黒い革財布を開き、指先で中身を確かめる。現金が、四万円と少し。観光地のレシートの束。そして──小さなプリクラ。

それを、努めて優しく引っ張り出す。女性とのツーショットだった。
だが、天城の隣に映るのは、今此処に居る彼女ではない。妹だろうか、それとも……かつての恋人か。

そう思案し、そっと財布へと戻しておく。死人の尊厳を、これ以上に侵す事がはばかられたからだ。

……。」

言葉を失ったまま、レシートを一枚一枚机に広げていく。
ホテルの領収書。料理店のあなごめし。宮島水族館の土産。早乙女の祖母の店と、別のレモネード店。
……そういえば、天城は何故死んだのだろう。何がどうなって、急死したのだろう。──それを確かめるための死体検証だ。現場に赴いた彼等に聞くのが早いに決まっている。翠はそう思案し、口を開いた。

「ところで天城さんの死因、何だったんすか?」
「何だと思いますか?」

早乙女が淡泊に問いかける。その問いには、「分かっているでしょう」というような意味が見え隠れしていた。……別に、教えてくれたっていいだろ。そう、少しむっとしながら唇をほどく。

「皮膚、赤くなってました。となると──アレルギーによるアナフィラキシー」
……やはり、気付いていたんですね」

彼は抑揚のないトーンでそう落とし、深く息を吐いた。怜が此方に視線を遣り、静かに言葉をつづる。

「小麦だ。小麦のアナフィラキシーで死亡している」

その手には、一枚の検査表が握られていた。
天使の翼の色に塗りこまれた純白の紙面。淡い緋色の魔術光が、そこに文字を象っている。横並びの棒グラフ。薄く光る文字列は──確かに小麦のアレルゲンに反応している。思わず彼に、声を投げた。

……これ、どうやって測ったんだよ。此処でアレルギーの検査なんて出来んの?」
「綾瀬が〈構術こうじゅつ〉魔術を使ってくれた。俺は仙田教授ほど〈創魔そうま〉魔法が得意でないのでな。……綾瀬とサナクシエルの力に感謝だ」
「動いてない浩太さま、怖くて……サナ、サナ……っ」

ついて行っていたらしいサナの嗚咽が、静寂の中に滲んだ。伊織が彼女の華奢な身体を抱きしめ、不安を溶かそうと言葉を贈る。……それで、傷が癒える事などないのは承知の上で。翠は思わず、目を逸らした。視線の先で同じように不安そうな顔をするメディの頭を、もう一度そっと撫でてやる。

「サナ……ごめんね。怖いのに付き合わせちゃって」

彼の腕の中で、サナはぐすぐすと泣き続けた。その背をゆっくりとさすりながら、伊織の視線が一同に向けられる。

……でも、魔術使う時、ちょっと変な感覚がしたよ。なんて言うか……異界との接続が弱い、みたいな」
「これほどの嵐です。電波も届きにくい状況ですし、異界の境界が揺らいでも不思議ではありません」

早乙女が肩をすくめ、窓の外を見遣った。
──外では、風が唸っている。ロッジを包む嵐の息遣いが、まるで遠い世界の鼓動のように聞こえている。翠もそれを横目で眺め、肩で息を吐いた。

「小麦、ねぇ……

言いながら、手元のレシートに視線を移す。
どの明細にも、小麦製品の影はない。パンも、麺も、焼き菓子も。
ただ、旅先の楽しげな痕跡だけが、紙の上に連なっている。

「んん……どっかで小麦、食ったのか……?」

いくら思案しても見えない答え。まぁ、それも当然だよな。初対面の男が口にしたものなど、他人の自分が分かる筈もないのだから。
神楽岡が椅子の背から身を起こし、腕を組んで思案するように呟いた。

「なら、関係者に聞くんがええ。……なぁ、ええか、お嬢さん」

彼の目線が、隣のテーブルへと注がれた。翠も、怜も、伊織も──一同の視線が、テーブルに縮こまっている女性に向く。
びくり、薄い肩が震えた。怯えたように、その双眸が此方を見る。翠は、思わず胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
それは医師としての同情じゃない。一人の人間として、目の前の〝喪失〟に共感する痛みだった。

「はい……

掠れた声。泣き疲れた顔。
化粧が落ちた頬には、涙の跡が淡く残っている。

「言ぅたかもしれんが、俺達は医者や。怪しいモンやない。……ちょっと聞いてもええか」
「はい……私で、よければ……

彼女は微かに頷いた。声に覇気は無く、魂の拠り所を失った人間のそれだった。
喉が、潰れるように痛い。それを堪えながら深呼吸し──努めて穏やかな口調で問いかける。傷に素手で触れないよう、そっと。最も、〝この話題〟をする事自体が、彼女にとっての傷なのだろうが。

「お名前、聞いてもいいすか」
「朱里です……築山つきやま朱里あかり。広島市内の介護施設で働いています……
「身分証などは」

早乙女が歩み寄る。築山は震える手で椅子の背に掛けたバッグを開き、財布の中から運転免許証を差し出した。翠も彼の傍に寄って、その一枚のカードを覗き込む。
──確かに、名前は築山朱里だ。
早乙女が、小さく息を整える。その横顔に、翠は僅かに温度を覚える。彼もまた、心を押し殺しているのだ、と。

「失礼ですが、天城さんとは?」
「か……彼氏、です。付き合い始めた、ばかりなんですけど……半年、くらいで……
「成る程」

早乙女は短く相槌を打ち、メモにボールペンを走らせる。その横で、翠は彼女の手の震えを見ていた。指先が、冷え切っている。……雨に濡れたのではない。恐怖と絶望に、凍えているのだ。

「唐突な質問ですが、今日……彼、小麦製品を口にしていましたか? 特に──ここ、数時間以内で」
「小麦……? どうして、ですか?」

その反応に、翠は眉をひそめた。
まるで、「理由が分からない」と言わんばかりの純粋さ。
しかし同時に、違和感が残る。恋人なら、その問いの意味を察してもおかしくないのに。むしろ──恋人であるならば、知っていて然るべきなのに。
言葉を代わる。

「天城さん、小麦アレルギーが出てるんですよ。……知ってました、よね?」

一瞬、沈黙。
その刹那の間に、彼女の瞳が僅かに見開かれるのを見た。
息を呑む。喉の奥で、微かな音。

「いえ」
「〝いえ〟?」

怜が冷ややかに問い詰める。おい、その態度、どうなんだよ。反射的に彼を睨んだ。彼の声はあまりに鋭く、ナイフのように彼女を切りつける。

「知らなかったんですか。旅行にまで来ておいて」
「おい怜、言い方。……すみません、コイツ、人の心なくて」

軽く息を吐き、そう言っておいた。
彼女の瞳をただ、見つめる。その蒼白とした顔面、黒目がちの眸子ぼうしには、涙の跡がまた滲み始めていた。

……知らなかった、んですか?」

椅子に縮こまる彼女に、声を掛ける。
築山は唇を震わせた。そして、細く絞るように言葉を紡ぎ出す。

「なかった、はずです」
「無かった?」

眉を寄せる。アレルギーが、無かった? それは、つまり。

「はい……彼、小麦アレルギーなんて無かったです。付き合い始めた時、二人でフレンチに行って、バゲットを食べました。その後のデートでも、クロワッサンとか、ラーメンとか食べた事もありますけど……今日みたいな発作、一度も……っ」

声が震え、嗚咽が混じる。翠の胸に、冷たい感触が走った。
彼女の言葉が嘘だとしても、真実だとしても──どちらにせよ、此処には痛みしか残らない。
怜が椅子を引き、立ち上がった。

「では確認します。今日の食事の内容、教えていただけますか」

伊織と東雲が、机に広げたレシートに身を乗り出す。
築山はハンカチで濡れた頬を押さえながら、断片的に思い出を紡いでいった。

「えっと……朝はホテルのビュッフェで、でも和食で、小麦は無かった筈です。彼、今『ドラマの撮影』で体型を気にしていましたから、お味噌汁とサラダ、あと果物を少し。パンとかは、食べてません。昼は……あなごめしを、二人で分けて。あとは、港の前と、ロープウェイの乗り場の前で、ジュースを……

東雲がスマートフォンに指先を滑らせ、画面を見せた。達筆な手書きの文字が連なる紙の画像。大きく書かれた文字は──「ジュースの作り方」。
そこにあるのは、レモンと蜂蜜と炭酸水……それだけだ。

「うちのジュースは、蜂蜜とレモン、あと炭酸水だけ。小麦なんて、入ってないよ。他のお店でもそうだと思う。とろみが必要な訳じゃないし、小麦を入れる理由なんてない筈」
「今の発言、天城さんの持ってるレシートと一致してる。時間もね。……これ以上に食べてたり、飲んでたりしますか?」

伊織がそう問えば、築山は首をゆっくりと振った。
翠は呟く。

「となると、経口摂取じゃない。吸入か、接触か……

──静寂のつるが、足首に巻き付いた。
雨音が、遠くの海鳴りのように響く。空気が再び重くなり、その沈黙の中で、築山はせきを切ったように泣き出した。白銀の雫が、ぽたぽたとクロスに染みを落としていく。

「浩太……っ。どうして、どうして死んじゃったの……? 今日の昼まで、元気だったのに……っ」

彼女は顔を覆い、バッグをひったくると、「すみま、せん」とだけ残して立ち上がり、レストランを出ていった。
ぎい、ばたん。扉の向こうで、足音が雨音に溶けて消える。

翠は喉の奥が狭まるのを感じた。
言葉が、形にならない。ようやくの思いで、音を絞り出した。

……不運な事故、だな」

その呟きに、怜が鋭い視線を投げる。

「本当に、事故か?」
……だってアナフィラキシーショックだろ。築山さんは犯人じゃねぇだろうし」
「本当か? 彼女は天城の傍にずっと居た。いつだって、彼にとっての〝毒物〟を混ぜられた筈だ」
「毒物ぅ? 持ち歩いてたってのかよ。一般人が? 無理だろ」

刺すような目つきで応戦する。怜は、感情の見えない顔を変えぬまま淡々とした言葉を並べた。

「彼女は天城が『小麦アレルギーでは無かった』と言っていたが、嘘を吐いている可能性もある。……最も、アレルギーに関してはカルテから調べられるがな。もしその言葉が本当でも──アレルギーではない人間が急にアレルギーを起こすのは、よくある事だ。そして、そのアレルゲンを〝事前に〟与える方法もよく知られている。吸引か、接触か……魔法による刻印か」
「刻印? んな事できる人間、限られているだろ。医者か、研究者か──」

自分で言い出しておいて、咽頭のどから出た言葉に心が一瞬止まる。怜はグラスの中の水面を見つめながら、静かに続けた。

福祉施設の人間か、だ。特に老人福祉施設では、健康の概念を入居者に刻印する事があるからな。そして、築山朱里は介護施設の人間だ」

彼の冷静な、いや、冷酷な言葉が、胸をざらつかせる。翠は怜を睨み、震える唇を開いた。

……本当に、そんな事する必要あるのかよ。築山さん、恋人なんだろ。殺すなんて、」
「ならば櫻田、血塗れでナイフを持った男が『俺は殺していない』と言っても、お前は信じるのか?」
「はぁ? 例えが極端すぎだろ」

怜の瞳が細く光った。青みを強く帯びた双眸が、翠の心を捉えている。

「以前も言ったな。信じるべきは客観的な証拠と科学だ。何の証明もできない感情論でものを判断するな」
「感情論ってな……人の心は方程式じゃねぇよ。だからお前の頭はウルツァイト窒化ホウ素なんだよ」
「何だと?」

空気がぴんと張り詰める。視線が、火花を散らしてぶつかり合う。
伊織が慌てて割って入った。

「ふ、ふたりとも! 喧嘩しないで!」
「喧嘩してねぇよ。コイツのカチカチの頭に呆れたって言ってんの」
「喧嘩ではない。櫻田の猿人から進化しない脳に憐れんでいるだけだ」
「だから……!」

ふん、と二人同時に鼻を鳴らし、視線を逸らす。
テーブルの向こうで、メディがひょこりと顔を出した。

「おニーさん達、仲良しだねぇ」
「仲良しでたまるかよ」

彼女の一言に、二人同時にきびすを返す。怜とテーブルの対角線上──つまり一番遠い席に腰を下ろし、溜息に似た僅かな呼吸を落とした。
沈殿する違和感が、胸の底に沈みきらずに波打つ。わだかまりが、深いところに貼り付いている感覚。怜の一言が、やけに脳に残った。
──これは、本当に事故なのか。

偶然にしては、整いすぎている。
アレルギーの無い人間をアレルギーで死なせた、何者かの意思。
まるで、見えない手が〝死〟を計画したような。

窓の外では、雨脚がさらに強まっていた。闇が重く、風が窓を叩く。この夜、ロッジ一階のレストランには、翠達九人だけが取り残されている。

……雨、続きそうだな」

誰に言う訳でもなくぽつりとつぶやき、窓の向こうの漆黒を見る。
海霧が灰色に立ち込め、山の稜線は既に見えない。
空の奥から、何かが息をしている気配。
時刻は十八時三十分──夕食の、開始時間を過ぎていた。

……お待たせいたしました、こちら、前菜になります」

給仕の老女が皿を運んでくる。陶器が卓上に置かれるたび、こと、こと、と静かな音が場の空気を震わせる。
誰も言葉を発しない。
彼女の料理の説明も、空気の底に沈んでいった。

老女はぺこりと頭を下げ、ふと小さく呟く。

……こんな日に弥山に来る方は珍しいですよ。昨日から……潮が、荒れてましてね」

その声音に、どこか非難めいた響きがあった。
〝誰も来なければ、誰も死ななかったのに〟──そんな思いが滲んでいる気さえする。翠は肩を大袈裟にすくめ、声を上げた。

「急変だったんで。……学会帰りの医者が七人も居るんですから、天候も少しは遠慮してくれたらいいのに」

老女は苦笑したものの、直ぐに首を振る。

……神様も遠慮、してくれたらいいんですけどねぇ……

──言葉が、重く落ちた。
厨房の奥から、煮え立つ鍋の音。跳ねる油に、包丁をまな板に叩きつける音。外では雷鳴が遠くで唸り、その中でロッジの明るさが異質だった。

怜が視線を横に流す。翠もその先を追いかけた。
会計の女性達が、小声で囁き合っている。その内容の断片を、己の地獄耳が拾った。

「また、見えたんですってね。海の火」
「伝承と同じですよね。……今晩、きっと荒れますね」

言葉の端が、風に千切れて消える。怜が老女に向き直った。

「失礼。海の火、とは……?」

その言葉に、老女は眉を下げて薄く笑った。……その本心が笑っていない事は、翠も既に分かっていた。

「気にしないでください。昔からの言い伝えです。嵐の前に、海が紅く光るって」
「赤く光るのは、魔法の発動の時もそうっすね」

緊張を、重い空気を破ろうと──割り箸を割りながらそう言った。乾いた音が、やけに大きく響く。はっ、と嘲弄するような息を吐いて、無遠慮に言葉を重ねる意地の悪い自分が居た。

「この嵐も、誰かの魔法だったりして」
「櫻田、怖がらせるような事を言うな」

怜が眉を寄せる。
老女は小さく笑ったが、その瞳に浮かんだ影は、ただの迷信とは言い切れないものだった。

翠は、箸を握る手が震えているのに気付く。無意識に、左手をぎゅっと握り締める。──思考の奥底で、母が倒れた日の記憶が蘇る。
救急車の紅い閃光、開いたままの緋色の瞳。薄く発光する体は、その姿はまるで……今彼女が語った〝紅潮する海〟のようだった。

「────……。」

……いや、気のせいだ。考えすぎに違いない。
そう思案し、微かに笑う。その声は、乾き、掠れを抱いていた。

……母さんと、関係がある筈もねぇのにな」

その瞬間、空が白く避けた。稲光がガラス窓を貫き、遅れて腹の底を打つような雷鳴が轟く。まるで、何かが目を醒ましたかのように。

翠は悟った。
これは──ただの〝事故死〟で済まされない事態なのだと。
そして自分達は今──何者かの思惑の中で、糸を引かれるマリオネットであるのだと。