山城まつり
2025-10-19 18:36:24
13217文字
Public クリムゾン・ジェネシス
 

シャルラッハロートの診療録─クリムゾン・ジェネシス─Ep.002

前回:Ep.001 https://privatter.me/page/68f358be12331

シリーズ:https://privatter.me/user/YamashiroMatsuri?category=91299

シャルラッハロートの診療録、更新~~~~~!!
更新ペースがえぐいんですけど、多分ここから来週までは更新できません。というのも、今プロットを練り直してて……。
いやですね、初稿プロットがめちゃくちゃ短くて。12万文字くらいまで引っ張れない気がしたので、今増量中なんです。大学もあるから全然平日書けなくて……暇がほしい……どうして、2科目勉強しかしてないのに6時間もかかるんだ……?
とまぁ、弱音はここまでにして。今回から事件が始まります!いや、序章長すぎ~~~~~。

よければ楽しんでいってくださいね!

※2025.1023 修正しました
※本シリーズは医療従事者でない人間の書いた医療の描写を含みます。症例論文、手術動画、医学書などを参考に執筆していますが、現実の医療と異なる場合があります。特に本シリーズは「魔法医療」を描いておりますので、現実の医療と大きく異なる部分があります。

2025.11.28 加筆修正しました。


4節:檸檬味の不穏




店から足を進め、バス停に着く頃には、空はもう雨の気配を孕んでいた。鉛色の天球。海面を渡る風は重く、遠くの雲がゆっくりと黒ずんでいく。
それでも、翠達はロープウェイ行きの無料送迎バスに乗り込んだ。車体が軋みを上げて動き出すと、車窓の外に潮騒が遠ざかり、紅葉の朱が流れていく。

バスの揺れに身を任せながら、翠はぼんやりと窓を眺めていた。運転席の直ぐ後ろ、右側の窓。東雲が座席の席にもたれ、にこやかに口を開く。

「実はね、僕の家、この先のカフェなんだ」
「え、マジで?」

唐澤が驚きの声を上げるのを聞き、顔をそちらに向ける。同じようにそれを聞いた東雲はにこりと穏やかに笑って、言葉を継いだ。

「うん、『カフェ・レーヴ』って名前。移動販売車でね、ロープウェイ乗り場の前で観光客向けにレモネードを出してるよ。今日の分は一昨日、僕が仕込んだものです」

えへん、と胸を張る彼に翠は「へぇ」と感嘆した。
それを聞いて、後ろの席から神楽岡が笑う。

「そんな偶然あるんか。東雲、お前、山行きたいって言い出したんも……
「半分は家のレモネードを自慢したかったからです」

そばかすだらけの頬を掻いて、照れたようにそう言う東雲。家、という事は──彼が医師業をやっている間、店を支えているのは奥さんなのだろうか。思わず、彼の左手薬指に目が行った。……指輪は、付けていない。

「東雲先生、お仕事中は誰がお店を……

翠の代わりに、伊織がそう問いかけた。東雲は困ったように眉を下げながら、「祖母がね」と言葉を口にする。

「母が糖尿病で、亡くなっちゃって。仕事が忙しくて婚活なんてする暇ないし……父と実家に戻って、祖母と暮らしてるんだ」
「祖母……え、東雲さんって四十五は超えてますよね?」
「櫻田ッ」

ずばりとそう問えば、通路を空けた向こうの席の怜から鋭い目線が投げられる。年齢の話はタブーだと言いたいのだろう。だが東雲は、「そうだよ」と変わらず穏やかなトーンで置いていく。

「僕はもう四十八。祖母は九十三。戦後に祖父と店を開いて、そこからずっと守ってきたんだ。だから──僕にとっても家の店は、特別っていうか」
「戦後、言ぅたら1950年頃か。原爆落ちて直ぐやろ。よぅ店やろうと思うたな」

神楽岡がそう割り込めば、東雲は静かに瞳を閉じた。

「祖母、『焼け跡の街を見た後、せめて誰かが笑顔になれる場所を作りたかった』ってよく言ってるんです。小さな茶店が、七十年以上も残って……今でも、誰かの笑顔を作ってる。僕の、誇りです。でも──」

言葉がそこで、一度区切られる。翠は東雲の、色素の薄い顔を見つめた。彼は小さく喉を鳴らすと、ゆっくり、細く──「祖母は、頑張りすぎているから」と零した。

「もう、いつ死んでもおかしくないのに。なのに、頑張り続けています。僕的には……早く、休んでほしいところなんですけどね。身体のためにも」
「東雲、お前が後継ぎゃあ、ばあちゃんも休めるんじゃねぇか」
「唐澤さん。あはは……その通り、ですね」

唐澤の声に、そう苦笑いが落ちる。翠はそれを見て、ぐっと背中を座席の背に預けた。

……救いたいんでしょ。患者を」
「櫻田先生」

東雲が意外そうに此方を見る。その視線がこそばゆいので、目を見ず、窓の外の木々を眺めながら唇をほどいた。

「医者なんて単純ですよ。救いたいから、医師やってる。それ以上に理由なんてありません。それが信念だから。……継ぐのも、引退してからでいいんじゃないすか。ばあさんもきっと、分かってますよ。でも同時に、待ってるとも思いますよ。いつか帰ってきてくれるって」

投げた言葉には、翠自身の思いが込められていた。──救いたいから、医師をやっている。自分だって、いもうとを殺した罪を忘れたいから医師をしている訳ではないのだ。そう、教わったのだ。自分は──誰かの、魔法では癒せぬきずを治したいからメスを握っているのだ、と。

……そう、だね。そうかも、しれない」

東雲が、言葉を噛みしめながら頷いた。それを横目で眺めて、翠は車窓に視線を移す。
バスが坂を登っていくと、窓の外の木々がゆっくりと流れた。
濃い緑。湿り気を帯びた空気。山の香りが、少しずつ車内に染み込んでくる。

──ほどなくして、車両は止まった。
停留所の脇に、赤と黄色、オレンジと白のキッチンカーが見える。屋根から垂らされたつららのような暖簾。カウンターに、レモン色の瓶が並んでいる。それは紅葉した世界に馴染む、この日、この場所のためにある店のようだった。

「キッチンカーの運転は父がやってるんだ。ちょっとだけ、寄って行ってくれますか?」

東雲が柔らかく、軽やかに言って立ち上がる。翠もその言葉に頷き、車体から身を翻した。

店の前では、腰の曲がった高齢の女性が椅子に座っていた。東雲の顔を認め、しわだらけの顔を綻ばせる。そんな彼の後に続き、会釈をおよそ四十五度。……いや、四十五度の会釈はもう会釈っていうか、敬礼だよな。そう思いながらも東雲の話を思い出して──一人、店を背負う婦人の凛とした佇まいには敬意を表すべきだと考える。敬礼したのは、何の間違いでもない。

綾人あやと、お友達かねぇ」

婦人のその声は優しく、潮のように柔らかい。細い瞳がさらに糸のように細められ、口元には笑みが刻まれる。

「学会はどうじゃったん。今日は、お友達連れて観光かい?」
「うん。みんなで弥山まで登るんだよ」
「まぁ~、そりゃ大変や。じゃったら、冷たいモン、飲んでいき」
「おばあちゃん、腰悪いでしょ。僕がやるよ」

ぱたぱたとキッチンカーの中に入っていった東雲が、氷の入ったプラスチックのコップをいくつも用意してくれた。その中になみなみ注がれたのは、柑橘のシロップ漬けを混ぜた弱炭酸のレモネード。レモンを絞った香りが、ふと立ち昇る。
翠はそれを受け取って、一口、口に含んだ。

──冷たい。
甘さよりも、酸味が先に来る。舌に刺さるような鋭さの後に、ほんの少しの苦味。そして、最後に残る優しい甘み。喉を抜ける感覚が、夏の終わりの雨を匂わせた。

……うま」

思わず言葉が漏れる。周囲のバス待ちの人達が、此方を振り向いた。

「そんなに美味しいんですか?」

一人の女性がそう、翠に問いかけた。背後でサングラスをかけた男性──恐らく恋人なのだろう──が興味深そうに此方を伺っている。その隣では、落ち着きのない細身の男性が、これまたちらちらと翠の方を覗いていた。

「飲んでみてください。絶品っすよ」

右手に持ったコップを揺らし、そう笑む。ごくり、目の前の観光客達の喉が上下するのを翠は捉えていた。

……すみません。私達にも、一杯ずつ」
「僕も……

──一人、また一人。
いつの間にか数人が店に集まり、東雲の祖母が微笑む。東雲が一人一人確認し、シロップをソーダに注ぐ音が残響した。

「怜、お前は飲まねぇの?」

翠は一人、スマートフォンで雨雲をチェックしている怜に声を掛けた。彼は一度此方に視線を遣ると、直ぐに手元に目を戻して軽やかに画面をスワイプする。

「糖分は食事以外で摂らないと決めている」
「ストイックなヤツ。人生、楽しくなさそうだな」
「五月蠅い。お前がだらしないだけだ」

返ってきた声は、あまりに素っ気ない。
だが、それが怜と言う男なのだ──そう感じて、翠は小さく吹き出した。

風が少し強くなり、店先の木の葉がざわめく。頭上を過ぎた雲の影が、まるで手のように地面を撫でていった。足元の影は姿を消し、アスファルトは夜のような黒を宿して。
……雨、近いな。
空気が少しずつ重くなっていくのを、翠は肌で感じていた。
それはただの気象の変化か。それとも何かの──予兆か。

翠の胸には、いつからか何かがつかえていた。
恐らく母の夢を見た日から、何かが詰まっていた。

胸の奥にじんわりと広がる、謎の感覚。
何かが、起きようとしている。何かが、変わろうとしている。
それは確信か、それとも杞憂か。
血の温度が空と呼応するように変わっていく、そんなひりついた感覚に襲われ──。

「──お~い、そろそろ行くぞ」

神楽岡の声に、はっとする。頭を横に軽く振れば、イヤリングがしゃらしゃらと音を立てた。
……俺、何考えてるんだ? 折角の観光だろ。
彼の声に促され、砂利を蹴ってロープウェイ乗り場の階段に足を掛ける。

レモネードの酸味が喉に残る。甘味が、脳に残る。
何でもない。何か不吉な事が起きるなど、そんな馬鹿な話があってたまるか。
翠は唇を結び、仲間達の後を追いかけていった。