柳堂知羽@一次創作
2025-10-05 11:37:15
9350文字
Public ⬛︎みえナい
 

はたまた今日もみえナい【サンプル:通販あります】

人は死ぬ。だが、神に愛された者は終われない。



最初のうちは毎度トラがついてきたものの、最近は夕方の買い物にしかついてこなくなった。ハヤテとしては一人で行ける距離だし、トラは家で待っていても良いと思っているのだが「迷子になったらまずいだろう」と一蹴されてしまう。ならば昼ご飯前もついてくればいいじゃないか、とも思うのだが「昼は迷わない」とのこと。たまにトラはこういうわけの分からないことをいうのだが、深く聞いたところで何も言わないのでつっこまないようにしている。
それに水辺の近くを一人で歩いても怖くないのも手伝い、ハヤテは気が大きくなっていた。だからコンビニアイスを買う以外にも、何かあるとコンビニまで足繁く通うようになったのだ。
――そんな矢先だった。
どこかで見た気がする、重い水分を含んだ長い黒髪が、ハヤテの前で翻ったような気がした。
……くせえぞ、ハヤテ」
はっと気づいた時には目の前には誰もいなかった。代わりに、息を切らせながら公園まで走ってきたのだろう、トラが道端でしゃがみ込んでいるハヤテを見るなりそう言い放った。まったく酷い言い草だ、と思ったがなぜか言葉が喉元に引っかかって出てこなかった。
地上にいるのにまるで溺れているかのように口を開閉するハヤテにトラは舌打ちを漏らすと、しゃがみ込んでいる体を早急に立ち上がらせつつ頭をぐちゃぐちゃに掻き混ぜてきた。
その顔は不快そうに歪んでいる。しかもどこか苦しそうにも見えてしまったから、ハヤテは文句を言う暇すら与えられない。
「なにがあった」
別段、変な匂いがつくようなことはしていないのだが、と思ったし、自分で匂いをかいでみてもよく分からない。それでもトラは眉間に皴を寄せたまま髪をかきまぜ、何かを確認するように肩を叩き、背中を撫でる。
そこでハヤテはあっと思ったのだ。そういえば、今日はイレギュラーがあったのだ、と。
――今日も夕方にアイスを買いに行くために家を出るハヤテだったが、トラがなぜかどこにも見当たらなかったので、一瞬悩んだのだ。とはいえ、コンビニまでの道のりなんて、ここにきてからほぼ毎日行っているせいで目を瞑っても歩ける、なんて自負もある。それに夕方だからといっても街灯もあるから一人でコンビニに行くのに何の問題もない。そもそもハヤテは大の大人だ。トラもチヅルも、そしてなぜかウタまでもがハヤテを子ども扱いするから、忘れかけていた反抗心が顔を出し、何も言わずに家を出て来てしまったのだ。
やっぱり公園を通っても水の気配は怖くなかったし、無事にアイスを買い、店員さんと少しおしゃべりをしてからコンビニを出ることもできた。その直前、店員さんと「こんな時間に妙に湿度が高くなっている」なんて店内の湿度計を見ながら会話をしたことは覚えていた。でもそんなこと、些細な話である。
いつも通りの道のりの途中、バードウォッチングをする人たちに目を向けながら歩いていると、不意に水の匂いを強く感じた。それは流れていくことを知らない、停滞を思わせる重い香りだった。
それに釣られるように前を向くと、ハヤテは驚いて思わず駆け出した。そう、目の前には苦しそうにしゃがみ込む女性がいたのだ。
それは長い黒髪の女性だった。顔を隠すほどの髪の毛のせいで表情は分からないものの、苦しそうに肩を震わせていることだけは分かる。だから急いで駆け寄って声をかけたところ、か細い声で「眩暈を起こしてしまった」との返答があった。
その人はすぐによくなるから、と言ったものの放っておけない。周囲の人に助けを求めようにも、皆水面を泳ぐ白鳥を見つめていて、少しだってこちらを気にかける素振りすらない。そのことに微かな苛立ちを覚えつつ、とりあえずコンビニで丁度買ってきた水を渡した。はいどうぞ、買ったばかりですよ。そんなことを言いつつ、確かにハヤテは確かに女性へ水を渡したはずだった。
……帰るぞ」
険しい表情を崩さないまま、トラはハヤテの手を取ると、足早に公園を後にした。足の長さが違うからもう少しゆっくり歩いて欲しい、という軽口を叩けるような雰囲気ではない。夕焼けの中でも溶けるようにハヤテの目に映る黒髪を眺めながら、ハヤテは自身の動きに合わせて激しく音を立てるビニール袋の音を聞く。
それでも思い出せなかったのだ。先ほど、トラに話した女性がどんな人だったかを。