柳堂知羽@一次創作
2025-10-05 11:37:15
9350文字
Public ⬛︎みえナい
 

はたまた今日もみえナい【サンプル:通販あります】

人は死ぬ。だが、神に愛された者は終われない。



そうだ、あの日の帰りだって、いつも通りだった。
夏から秋に変化する夜風を浴びて目を細めていたトラは、隣で大きく伸びをしていたハヤテの頭をぽんと叩いて笑っていた。確かその時はこう言っていた。最近夜が寒いから、腹を出して寝て風邪引くんじゃねえぞ、と。子どもでもあるまいし、と言ってみたがトラは笑うだけだった。その表情も、目の色も、耳に届く声も全てハヤテが知るいつも通りのトラだった。
それなのに、次の日から今日に至るまで一度もトラはハヤテの前に姿を現さない。それまでは約束もしていないのに、ほぼ毎日大将の店で必ずと言っていいほど顔を合わせては共に酒を飲んだり、語り合ったりしていたのに。そもそも、そんな状態が普通ではないのもかもしれない。ただ、トラ相手だと不思議と「そういうもの」だと納得してしまう。そしてトラとはそういう関係性でいいのだとも思っていた。それは今でも変わらない。
あの日以降、大将に聞いても、常連客たちに聞いても、誰もトラの姿を見ていないし、何の連絡もきていないという。それなのに彼らは、眉を顰めるハヤテへ少しも慌てる素振りを見せることなくこう言ったのだ。
――アイツなラ問題なイし、元来そうイうヤツだ、と。
「その人の連絡先は知らないのか?」
「借金したくないからスマホを持ちたくないんだってさ」
枝豆を咀嚼している友人はハヤテの発言に目を丸くするが、なるほどと言って頷いた。なお、この場に存在するツッコミはハヤテの斜め前にいるが、今は崩れそうになっている枝豆のさやの山を必死に立て直している。しかも、適度に酔いが回っているからか、早々にツッコミを放棄しているようだった。
だが、いつもと違うハヤテの様子にはきちんと気がついている。枝豆の山の維持を放棄した手が、ハヤテの頬にぬっと伸びると、むにむにつついたり、口の端を持ち上げたりする。そんな戯れに、いつもより自分の口数が少ないだけではなく、明るい顔すらできていなかったのかと失笑するが、目の前にいる友人たちはそれに乗ることはない。その顔には、ハヤテを気遣う優しくも心地よい温度がじんわりと浮かんでいた。
やはり、二人は変わらないのだ。それだけが唯一、ハヤテの心を慰める。
「ったく、はやてんにこんな顔させるなんて、やなやつ!」
ここまでくると確かに、トラのことは心配するだけ損な気もしていた。彼はハヤテよりもよほど人生経験が豊富なのだ。しかも暴力関連にも滅法強い。そんな男に何かしようものなら、むしろ相手が返り討ちにあう。
まさに無駄な心配というやつなのだろう。そうだ、そんなこと分かっている。分かっているのに、なんて無駄な堂々巡りだろう。
腹の底に再度重さを感じた瞬間、またハヤテを取り囲む空気がじっとりと湿り気を帯び始めた。その不快さについ顔を上げれば、先ほど見かけた黒髪の人、もとい、女性が友人の後ろを通り過ぎていくのが目に入る。随分長いトイレだったのだなんて考えていた時だった。
「心配だな」
正面から注がれる湖面のような静かな目が、ハヤテの心の波を、腹の底に沈んだ重さを、そして纏わりつくような湿度を緩やかに収めていく。斜め前から肩に乗せられた手が、いつの間にか冷えていた体を温める。
……ほんとだよ、まったく、トラさんってばさ」
そのことにやっと、ハヤテは無理をすることなく微笑み、浅い呼吸から脱することができたのだった。

**

終電間際の電車は、乗り換えがシビアでない路線に限り、やけにのんびりとした空気が漂っている。しかも今日は週末だからか、浮かれてふやけた乗客達が、思い思いにぼんやりと車内で過ごしていた。
ハヤテはと言えば、今日は心を許せる友人らと久しぶりに会えたのと、先ほど珍しく妹から状況伺いの連絡がきたからか、少しばかり浮かれて心がふわふわと柔らかくなっていた。
やはり、友人らとの酒の席は楽しい。様々な情報交換ができた上に、またの約束をとりつけることができたのもこそばゆい。しかも妹からの連絡はレアにレアだからこれも酷く嬉しかった。ただ、今は電車の揺れと酔いのせいで思考がまとまらない。最寄り駅に着き次第、ゆっくりと中身を読んで文章を綴ることにした。
実際、この時のハヤテはだいぶ心が軽くなっていたのだ。心の隅っこの方ではまだ不安や納得しきれない気持ちもあるにはあったが、今のハヤテには待つことしかできない。友人らに不安を吐露し、身内からの連絡に頰が緩む中でやっとそんな事実を受け入れることができたのだ。
そうだ、もう開き直るしかない。そう考えるしかなかった。
無機質な車内アナウンスは、週末の夜というだけでどこか気怠げに聞こえる。そんなどうしようもない気付きを得ながら、やっと最寄り駅に到着する。ハヤテはアルコール臭と眠気による熱で変に温まっていた車内から飛び出して大きく息を吸った。
明日は仕事が休みとはいえ、これ以上遅くになると体が持たない。さっさと家に帰って、今日は早々に眠ってしまおう。友人達からの諸々のアドバイスは、明日反映すればいい。ただ、どこかへメモ書きをして忘れないようにしなくては。雑にメモを取りすぎたので、妹への連絡をしたら見直しつつ帰ろう。
夜の緩やかな空気を切り裂くように駅から飛び出して行った電車を見送ったハヤテは、ホームをのんびり歩く。時計の針がてっぺんを越えようとしているこの時間は、駅周辺には人がほぼいない。しかも時間も時間だからか、駅の外を走っているはずの車の音ですら小さく聞こえる。代わりに、どこかに潜んでいるのだろう虫の声が季節の移り変わりを確実にこちらへ伝えてくる。
そういえばトラが言っていた。そろそろ季節は夏から秋に変わるのだ、と。今日はやけに湿度が高く感じるが、あと数刻もすればこの時期らしい冷たい空気を味わえるだろう。
先ほどまで鬱陶しいまでに感じていた人の気配が薄くなる。華の金曜日に開かれていた者たちは一体どこに消えてしまったのだろうか。皆みんな、電車に揺られていってしまった。ハヤテを置いて、どこかへ走り去ってしまった。
なんて、馬鹿げたことを考えてしまうのは、酔いが冷めかけている証拠だろう。やはり帰って早く寝てしまおう。シャワーを浴びるのも億劫だ。歯だけは磨いてさっさと布団に潜り込んでしまおう。
他人への興味が最も薄くなる時間が流れる改札を抜ける。自分の足音しかしない空間の中、スニーカーのつま先を眺めながら歩く。そうやって家まで歩く間に酔いは完全に冷めるだろうが、それがやけに寂しかった。
こういう時はいつも大将の店に寄って一杯だけ酒を飲むようにしている。そこでトラと話すことで、このどうしようもない寂しさが消えるのをハヤテはよく知っていた。でもきっと、今日もトラはあの店にいないのだ。――それどころか、いつ帰ってくるかも分からない。
もしかしたらもう永遠に会うことができないかもしれない。存外、この世の中は物騒だ。いつ何が起こるかなんて分かったものではない。それこそ次の瞬間、ハヤテがこの世からいなくなる可能性だってある。
そんなことは分かっている。だが現実味はない。ハヤテにとって、この世から特定の存在が消えるなんて、まだまだ非現実でしかないのだ。だからこそ、今のこの状況を「そんな馬鹿な」と笑い飛ばしたい。そうやって笑い飛ばせばいいのに、そうやって前を向くほどに腹の底で黒く重い何かが溜まって、心臓が小さく縮こまるのだ。
寂しさに背中を押されるようにスマートフォンを取り出すと、シャッターが閉まっている駅の売店横の薄汚れた壁に寄りかかる。そうして妹からの連絡画面を開いて見つめた。相変わらず素っ気のない文面だがそれが彼女らしい。夜も遅いし、早く返信をしよう。
なんて思って、スマートフォンを操作していた。体中がざわついて、心臓が妙な早さで鼓動を刻むことから目を背け、現実逃避のようにただ文字だけを追っていた。そのせいだろうか、ハヤテの目の前に誰かが立っていることにすぐ気付けなかったのだ。
「おい」
目の前に誰かがいる、と理解した瞬間に声をかけられ、ゆっくりと顔を上げる。耳に入るその声には覚えがあった。見た目に反して低い声。でも決して聞こえづらいということはなく、すんなりと水のように体の中に入り込む。心地よさすら感じるその声から放たれる言葉は、控えめに言っても乱暴である。だがその実、言葉の裏には優しさが含まれていることを知っている。ハヤテはいつからか知ってしまった。
ハヤテが見上げた先にあるその目は、いつだって仕方がないなと呆れながらも、包み込むような柔らかい光を湛えていた。ぶっきらぼうに投げかけられる言葉は、いつだってハヤテのことを思ってのものだった。
目の前にいる男を視界に入れ、認識した瞬間、それまでハヤテを取り囲んでいた湿り気を帯びた空気が霧散する。そして、涼やかな水の香りが全身を包み込み、気づけばハヤテは自然と表情を緩めている自分に妙な気恥ずかしさを覚えた。
「トラさんだ」