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壊して、乞わして、涙雨

「お願い、わたしを壊して。……何もかもわからなくなるくらい……ぐちゃぐちゃにして」
「哥哥……」
祈願の声を聞き、単独で向かった謝憐。だが夜更けに帰ってきた彼は菩薺観の庭に佇み、雨に打たれるばかりで……
※簡体字版、新修版の内容を含みます
※創作設定あり



…………ん、」
 壁に空いたままの穴から差し込む光で、謝憐は目を覚ました。少しも身体を動かすことができないのは、誰かが後ろから自分を強く抱きしめているせいだ。その主は花城に他ならず、嗅ぎ慣れた彼の香りに安堵して、再び目を閉じる。
…………あったかい……
 今の花城は本相ではなく、少年相だ。偽りとはいえ人肌の温度を宿し、背に触れている胸からはかすかに鼓動が伝わってくる。意識を落としたあとも彼はずっと抱きしめ、寄り添ってくれたのだろう。夢も見ずに深く眠った身体は、昨夜とは打って変わって軽く、頭もずいぶんとすっきりしている。同時に昨日の出来事も鮮明に蘇ってきて、謝憐はいまだ腫れぼったい瞼をそっと伏せた。

 ――無理だと、救えないと、一目見た瞬間にわかってしまった。
 神とはいえ、もとは人間だ、決して万能ではない。世界の中心などには程遠く、自分の手の届く範囲はあまりにも狭い。“蒼生を救う”など夢のまた夢でしかない。そして、それが不可能なことを、謝憐は八百年前に知ってしまっているのだから。
 遠く辺境の、貧しい土地だった。どの神官の管轄地なのかも知らなかったが、朽ち果てた廟の奥には、神像らしきものが置かれていた。かつては国中に溢れかえっていた、仙楽太子像だった。八百年前、仙楽国とともにすべて喪われたと思っていたが、どういうわけか難を逃れたものが、流れ流れて現存していたのだろう。そして土地の者たちは当然、この神像が誰であるかを知らない。だが、神であるなら祀らなければならないし、願いを聞き届けてくれるに違いない。ただそれだけの、純粋な思いからだったのだろう。
 朽ち果てた廟に似合いの、汚れて崩れかけた神像。
 まさに、藁にも縋る思いで祈りを捧げたのだろう、その声は確かに謝憐に届いた。……届いて、しまったのだ。
 ならば、行かないという選択肢は謝憐の中には存在しなかった。祖国を救えなかったどころか、自らが破滅へと追いやってしまったようなものなのに、また過ちを犯すのかと。頭の隅で鳴り響く警鐘を無視し、ひとりで向かったのだ。
 ――だが、しかし。滅びゆく国を救えなかったように、神は天命を覆すことはできない。死にゆく定めの人の命を、神の一存で捻じ曲げることなどもってのほか。姿を見せて声を掛けることも、手を差し伸べることもできないまま、幼くして世を去る定めの我が子を抱きしめる両親の、痛ましい慟哭に背を向けたのだ。気づけばすっかり日は暮れ、重く垂れ込める雲が今にも泣き出しそうであった。
 ……会いたい、と思った。
 同時に、会うべきではないとも思った。
 彼は、絶対に謝憐を否定しない。あなたは悪くない、仕方がなかったのだと、謝憐以上に痛ましい顔をしながら、きっと慰めの言葉をかけてくれる。そうすればきっと、この鬱々とした気持ちに蓋をして、また笑えるようになるだろう。だがそれを良しとすることはもう、できないのだ。
 謝憐の頭の中に、かつて数えきれぬほどに聞いた民衆の声が響く。

“殿下! 太子殿下なら助けてくれますよね?”
“神に成られた殿下にできないことはない、そうでしょう?”
……どうして救ってくれないの? 私たちを騙していたの?”
“この疫病神!”

 とうに忘れたと思っていたそれらが、鮮明に脳裏に蘇る。彼らの願いを叶えられない無力で惨めな自分が、情けなくて腹立たしかった。
 泣く資格など、自分にあるはずがないのに。頬を伝い落ちるつめたい雫。しとしとと降りそそぐ雨のせいにして、寄り添う彼に縋ったのだ。
 酷いことを強いたと、今は思う。謝憐以上に謝憐が傷つくことを厭い、恐れる彼に、あんなことを。
 しかし彼は謝憐の望みに応え――そして裏切った。
 壊してほしかった。
 無力で愚かな自分への怒りを、やるせなさを、悲しみを、――本当はずっと心の奥底に抱えていた苦しみから、今だけは逃れて、忘れてしまいたかった。
 ぐちゃぐちゃな感情を塗り潰すほどに、ひどくしてほしかった。
 ……けれど残酷な彼は、ひどく優しくこの身に触れて、蹂躙したのだ。
 やわらかな毛布で包むように抱きしめ、羽根が触れるささやかさで身体中を撫で、あやすような甘やかな口づけで呼吸を奪って。
 違う、そうじゃないんだ、と。与えられるもどかしさに耐えかね、恥じらいをかなぐり捨てて縋ったのに。彼はひとときも謝憐から目を離さぬまま、決して傷付けまいとする指先で、滾った熱で、深くあまい快楽の坩堝かんかに突き落としたのだ。
「や、……やだ、もっと…………三郎、ッああ!」
…………哥哥……っ」
 噴き出す汗と、こぼれる唾液と、あふれる涙で、顔中をぐちゃぐちゃに汚して。まっしろに塗り潰されてゆく視界に映ったのは、泣きそうに笑う、伴侶の顔だった。


……ん、哥哥……? 起きたの?」
「三郎……
 ぼうっと物思いに耽っていると、後ろから声がかかった。背と胸が触れているから、彼が話すたびに謝憐にまでかすかな振動が伝わって、その心地よさにまた目を閉じてしまいたくなる。
「よく眠れたみたいだね。身体は平気? ……昨日は冷え切ってたから」
 抱き込む腕に、ますます力がこもった。温めるように。
……大丈夫だ。すまない、迷惑をかけた」
「迷惑だなんて。……心配はしたけど、それだけだよ」
「そう……
 これ以上なにを言えばいいのかわからず、押し黙る。わずかな沈黙を破ったのは花城だった。謝憐を包む腕をほどき、ゆっくりと上体を起こして、座り込む。謝憐もそれに倣って起き上がり、ふたりは昨夜ぶりにようやく顔を合わせた。
……誰もあなたを責めたりしない。でも、赦しもしない。すべては時とともに流れていくだけ。でも、この先何度だって、思い出して苦しむ夜がやってくる。そんなときは……ひとりで冷たい雨に打たれないで。傘を差すときも、濡れるときも、隣にいさせて。あなたの背負った荷を、俺にも分けて」
 ただ帰りを待つだけなんてもう、耐えられないのだ――と。
……うん」
 こくんと頷くのを見届けてから、花城は淡い笑みとともに口を開いた。
「お腹空いてるでしょ? 昨日作ったものがあるから、温め直して食事にしよう」
…………三郎」
 くるりと向けた広い背に、謝憐はとんと額を当てて抱きついた。
「っ、……哥哥?」
 開きかけた唇を一瞬震わせ、閉ざす。ありがとう、も、ごめんなさい、も、今は違うと思った。彼はきっと、そんな言葉を望んではいない。
……ただいま、三郎。昨日、言えなかったから…………
 抱きついた背中越しに、一瞬跳ね上がった鼓動を感じた。本相ではありえない反応がかわいらしくて、愛おしい。腹の前に回した手にさらに力を込めると、花城は自分の手を重ね、ぎゅっと握り込んだ。
「うん。……おかえりなさい、哥哥」