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壊して、乞わして、涙雨
「お願い、わたしを壊して。……何もかもわからなくなるくらい……ぐちゃぐちゃにして」
「哥哥……」
祈願の声を聞き、単独で向かった謝憐。だが夜更けに帰ってきた彼は菩薺観の庭に佇み、雨に打たれるばかりで……
※簡体字版、新修版の内容を含みます
※創作設定あり
1
2
3
気になる祈願が来てるんだ。行ってくるよ。
――
そう言って謝憐が発ったのは、まだ薄暗い、陽が昇る前のことだった。内容は訊かなかったが、どうやら相当に切羽詰まった強い願いだという。それを聞いた花城はわずかに表情を曇らせた。そういう
類
たぐい
の祈願には碌なものがないと、相場は決まっているからだ。けれど
――
だからといって、優しいこのひとが放っておくわけがないこともまた、痛いほどよく知っている。鬼市での火急の用件がなければ、彼が何と言おうとついて行ったのだけれど。歯痒さを顔には出さず見送り、彼の帰ってくる前に用件を片付けるべく、さっと身を翻した。
(
…………
遅いな)
太陽が天辺を越えても、真っ赤な夕日が沈んでも、夜の帳が降りても、謝憐はまだ菩薺観に帰ってこない。腹を空かせて帰ってくるであろう彼のために用意した食事も、とうに冷めてしまった。簡素な椅子に行儀悪く腰掛けて頬杖をつき、神台に
薫
くゆ
る煙をじっと見つめる。
どれくらいの間そうしていたのか、もう忘れてしまった。
ひとの気配のない小さな道観は、ひどく静かだ。
(雨か
……
)
肌を撫でる湿った空気と、濡れた土草の匂い。鬼のすぐれた嗅覚は、わずかな変化を嗅ぎ取った。さっと立ち上がり、傘をもって外に出ようとした足を、しかし花城はぴたりと止めた。扉に手を掛け、そうっと開く。
(
…………
っ、)
……
いったい、いつからそこに立っていたのだろう?
庭の隅にぽつんと佇み、俯く伴侶の姿がそこにあった。
気配があまりにも薄くて、絶境鬼王たる花城ですら気付かなかった。それは、自分が知っている彼の気配とはあまりにかけ離れていて、声を掛けることすら躊躇してしまった。
ぽつり、ぽつりと降る雨が、裾の汚れた白い道袍をじっとりと濡らしてゆく。
「哥哥」
早足で歩み寄り、開いた傘を差し掛けたが、謝憐はその傘を手ごと退けてしまった。
「
…………
いらない」
その声の弱々しさと、触れた手の冷たさに、花城は目を見開いた。
「そうはいかない。
……
早く中に入って」
とにかく温めなければと手を引くが、彼は数歩歩いただけでぴたりと止まってしまう。
「
……
いい。すこし
……
頭を冷やしたい。放っといてくれないか」
すこし、どころではない。掴んだ手は、まるで氷のような冷たさだ。花城の眉間に深い皺が刻まれた。
「あなたを放っておくなんて、できると思う?」
「
…………
そう、だったね」
「
……
なにか、あった?」
言いたくないのであれば、深く訊くつもりはなかった。問いただすことなんて烏滸がましいことを、自分にできるはずもないのだから。ただ、悲しみや苦しみを身のうちに溜め込むくらいなら、どんな形であれ吐き出してほしいだけ。
「
……
すこし、ね。昔のことを思い出して
……
」
ふと、顔を上げて暗い夜空を見上げる。
どんよりと厚く重い雲が垂れ込め、月も星も隠れた空は、墨を流したように真っ暗だ。どこもかしこも真白い彼が、溶け消えてしまうのではないかと心配になるほどに。
自分の腕を掴む手が、白むほどに力んでいる。かすかな震えは寒さのせいかと思ったが、そうではなかった。ぎりぎりと力を込めすぎているせいで、軋んでいるのだ。
「
……
哥哥」
くっきりと筋の浮いた手の甲を指先で撫で、外させてゆく。固く握り締められたもう片方の手もそっと持ち上げ、一本ずつ指を外す。手のひらには三日月型の爪跡がくっきり残っていて、花城が気付くのがもう少し遅ければ、皮膚に食い込んで血が滲んでいたかもしれない。
無意識に自分に爪を立て、傷を負う行為。
それは、長すぎる年月を生きてきた彼が身に付けてしまった、やわい心を守るための防衛手段なのだろう。
ひとを傷つけることを何よりも厭い、そうするくらいならばと自らの身を損なう彼は、ひどく愚かで、悲しくて、あまりにも優しい。
「
…………
」
されるがまま手を取られている謝憐が、ふと視線を逸らした。そこにあったのは、水を張ったままの桶。ぽつんと落ちた雫が小さな波紋を描き、揺らいだ水面に映り込む顔がぐらりと歪んで、やがて凪いでいく。その先には、昔の自分の惨めな顔があった。
自信に満ちた、きらきらしい表情。
自分にできないことなどない
――
と、本気で思っていたあの頃。純粋で、傲慢で、世を知らなかったがゆえの。
嗚呼、なんて愚かな。“蒼生を救う”だなんて、ただの夢想に過ぎなかったというのに。
「
…………
ッ、」
くしゃりと顔を顰め、小さく息を飲む。
「
……
見ないで」
ぱん、と桶が弾けた。まるで玩具だったかのように、呆気なく。桶の残骸を一瞥し、花城は彼の背後に立った。
「余計なものは見ないで。考えないで。
……
こうしてるから」
紅衣の袖で、謝憐の両目をそっと覆う。
「三郎にはなにも見えません。なにも聞きません。だから
……
」
目元を覆っていない方の腕は、謝憐の腹の前に回してそっと抱きしめる。自分の胸と謝憐の背がぴたりと触れ、謝憐の氷のような体温に驚く。こんなにも冷え切っているのに、まだ頭を冷やしたいなどと
……
されるがままだった謝憐が、小さく身じろいだ。
「
……
離して」
「嫌だ」
「
…………
」
「
…………
ただの雨避けだと思ってくれて構わない。何も言わないし、動かないから。
……
でも、ここから立ち去ることだけは絶対にできない。
……
どうか赦して」
謝憐は身じろぐことを止め、諦めたように後ろの胸に背を預けた。
ふたりを濡らす雨は、まだ降り止まない。
目元を覆う袖も、じとりと濡れてゆく。けれど、それが雨のせいなのか、そうではないのか、花城にはわからなかった。
「
…………
壊して」
ぽつり、と。
雨雫のような小さな呟きが落ちた。
「哥哥?」
今まで目も合わせようとしなかった彼が、腕の中で向きを変え、花城を見上げた。腕を掴む手は加減を忘れてかすかに震え、布越しに爪先が食い込むほど。
「お願い、わたしを壊して。
……
何もかもわからなくなるくらい
……
ぐちゃぐちゃにして」
「哥哥
……
」
揺れる涙声。
悲痛なその声を聞きたくなくて、つめたい背を強くかき抱き、吐息ごと奪うように深く口づけた。
「んんっ
……
!」
ぶつけるように重ねた唇は、ひどくしょっぱい、かなしみの味がした。
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