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壊して、乞わして、涙雨

「お願い、わたしを壊して。……何もかもわからなくなるくらい……ぐちゃぐちゃにして」
「哥哥……」
祈願の声を聞き、単独で向かった謝憐。だが夜更けに帰ってきた彼は菩薺観の庭に佇み、雨に打たれるばかりで……
※簡体字版、新修版の内容を含みます
※創作設定あり

 気になる祈願が来てるんだ。行ってくるよ。
 ――そう言って謝憐が発ったのは、まだ薄暗い、陽が昇る前のことだった。内容は訊かなかったが、どうやら相当に切羽詰まった強い願いだという。それを聞いた花城はわずかに表情を曇らせた。そういうたぐいの祈願には碌なものがないと、相場は決まっているからだ。けれど――だからといって、優しいこのひとが放っておくわけがないこともまた、痛いほどよく知っている。鬼市での火急の用件がなければ、彼が何と言おうとついて行ったのだけれど。歯痒さを顔には出さず見送り、彼の帰ってくる前に用件を片付けるべく、さっと身を翻した。


…………遅いな)
 太陽が天辺を越えても、真っ赤な夕日が沈んでも、夜の帳が降りても、謝憐はまだ菩薺観に帰ってこない。腹を空かせて帰ってくるであろう彼のために用意した食事も、とうに冷めてしまった。簡素な椅子に行儀悪く腰掛けて頬杖をつき、神台にくゆる煙をじっと見つめる。
 どれくらいの間そうしていたのか、もう忘れてしまった。
 ひとの気配のない小さな道観は、ひどく静かだ。
(雨か……
 肌を撫でる湿った空気と、濡れた土草の匂い。鬼のすぐれた嗅覚は、わずかな変化を嗅ぎ取った。さっと立ち上がり、傘をもって外に出ようとした足を、しかし花城はぴたりと止めた。扉に手を掛け、そうっと開く。
…………っ、)
 ……いったい、いつからそこに立っていたのだろう?
 庭の隅にぽつんと佇み、俯く伴侶の姿がそこにあった。
 気配があまりにも薄くて、絶境鬼王たる花城ですら気付かなかった。それは、自分が知っている彼の気配とはあまりにかけ離れていて、声を掛けることすら躊躇してしまった。
 ぽつり、ぽつりと降る雨が、裾の汚れた白い道袍をじっとりと濡らしてゆく。
「哥哥」
 早足で歩み寄り、開いた傘を差し掛けたが、謝憐はその傘を手ごと退けてしまった。
…………いらない」
 その声の弱々しさと、触れた手の冷たさに、花城は目を見開いた。
「そうはいかない。……早く中に入って」
 とにかく温めなければと手を引くが、彼は数歩歩いただけでぴたりと止まってしまう。
……いい。すこし……頭を冷やしたい。放っといてくれないか」
 すこし、どころではない。掴んだ手は、まるで氷のような冷たさだ。花城の眉間に深い皺が刻まれた。
「あなたを放っておくなんて、できると思う?」
…………そう、だったね」
……なにか、あった?」
 言いたくないのであれば、深く訊くつもりはなかった。問いただすことなんて烏滸がましいことを、自分にできるはずもないのだから。ただ、悲しみや苦しみを身のうちに溜め込むくらいなら、どんな形であれ吐き出してほしいだけ。
……すこし、ね。昔のことを思い出して……
 ふと、顔を上げて暗い夜空を見上げる。
 どんよりと厚く重い雲が垂れ込め、月も星も隠れた空は、墨を流したように真っ暗だ。どこもかしこも真白い彼が、溶け消えてしまうのではないかと心配になるほどに。
 自分の腕を掴む手が、白むほどに力んでいる。かすかな震えは寒さのせいかと思ったが、そうではなかった。ぎりぎりと力を込めすぎているせいで、軋んでいるのだ。
……哥哥」
 くっきりと筋の浮いた手の甲を指先で撫で、外させてゆく。固く握り締められたもう片方の手もそっと持ち上げ、一本ずつ指を外す。手のひらには三日月型の爪跡がくっきり残っていて、花城が気付くのがもう少し遅ければ、皮膚に食い込んで血が滲んでいたかもしれない。
 無意識に自分に爪を立て、傷を負う行為。
 それは、長すぎる年月を生きてきた彼が身に付けてしまった、やわい心を守るための防衛手段なのだろう。
 ひとを傷つけることを何よりも厭い、そうするくらいならばと自らの身を損なう彼は、ひどく愚かで、悲しくて、あまりにも優しい。
…………
 されるがまま手を取られている謝憐が、ふと視線を逸らした。そこにあったのは、水を張ったままの桶。ぽつんと落ちた雫が小さな波紋を描き、揺らいだ水面に映り込む顔がぐらりと歪んで、やがて凪いでいく。その先には、昔の自分の惨めな顔があった。
 自信に満ちた、きらきらしい表情。
 自分にできないことなどない――と、本気で思っていたあの頃。純粋で、傲慢で、世を知らなかったがゆえの。
 嗚呼、なんて愚かな。“蒼生を救う”だなんて、ただの夢想に過ぎなかったというのに。
…………ッ、」
 くしゃりと顔を顰め、小さく息を飲む。
……見ないで」
 ぱん、と桶が弾けた。まるで玩具だったかのように、呆気なく。桶の残骸を一瞥し、花城は彼の背後に立った。
「余計なものは見ないで。考えないで。……こうしてるから」
 紅衣の袖で、謝憐の両目をそっと覆う。
「三郎にはなにも見えません。なにも聞きません。だから……
 目元を覆っていない方の腕は、謝憐の腹の前に回してそっと抱きしめる。自分の胸と謝憐の背がぴたりと触れ、謝憐の氷のような体温に驚く。こんなにも冷え切っているのに、まだ頭を冷やしたいなどと……
 されるがままだった謝憐が、小さく身じろいだ。
……離して」
「嫌だ」
…………
…………ただの雨避けだと思ってくれて構わない。何も言わないし、動かないから。……でも、ここから立ち去ることだけは絶対にできない。……どうか赦して」
 謝憐は身じろぐことを止め、諦めたように後ろの胸に背を預けた。
 ふたりを濡らす雨は、まだ降り止まない。
 目元を覆う袖も、じとりと濡れてゆく。けれど、それが雨のせいなのか、そうではないのか、花城にはわからなかった。

…………壊して」

 ぽつり、と。

 雨雫のような小さな呟きが落ちた。

「哥哥?」
 今まで目も合わせようとしなかった彼が、腕の中で向きを変え、花城を見上げた。腕を掴む手は加減を忘れてかすかに震え、布越しに爪先が食い込むほど。
「お願い、わたしを壊して。……何もかもわからなくなるくらい……ぐちゃぐちゃにして」
「哥哥……
 揺れる涙声。
 悲痛なその声を聞きたくなくて、つめたい背を強くかき抱き、吐息ごと奪うように深く口づけた。
「んんっ……!」
 ぶつけるように重ねた唇は、ひどくしょっぱい、かなしみの味がした。