・あれはなかったことにして欲しい
4≫
それは不慮の事故だった。
ふに、と。
柔い花弁が唇を掠める。
不意打ちに碧を見開いた目許は幼なげ。魔除けの紅で縁取られぬ輪郭に、普段の鋭さは足りていない。まだ化粧っていないのだと、獅子の巣穴で寛いでいるのだと、油断されている喜びで現実逃避。
だが触感は正直だ。
恐る恐る景元より小さく細く、けれど武骨な指先が、色を深めた己の花芯を確かめる。ふにふにと一度、二度。花を散らしかねない手付きに、思わず唇で覆い保護したくなってしまう。しかしそんな邪念は芽すら出なかった。
「将軍、丹恒先生!!」
闊達な燕の呼びかけに、きゅっと結ばれる仄かな真一文字。こうなると閉じた貝殻は開かない。軽く景元の肩を押し、立ち上がった丹恒は迎えに来た年若い驍衛へ向かう。
羽織りを翻し、身を離す刹那。零されたひとことに、強く強く目を伏せ、景元は穏やかな笑みで頷いた。孤独な鯨の周波数を聴くように。ただそれだけで応えようがないように。
「あれはなかったことにしてほしい」
この胸の痛みは、気の所為だ。
「
…気の所為だと、堪えたのだけれどね。君よりずっと大人なのだし」
「何の話だ?」
「気にしないでおくれ。それよりどういう状況でこうなったのか、御教示頂けないかな」
しみじみ呟く獅子へ跨った青年は、てんで覚えのない恨み言に首を傾げる。その鍛えても景元には及ぼぬ肢体に纏うのは、褥に潜る前らしく、帯の結びが緩い単衣。裾から露わになる月白の肌はきめ細かい。際どく捲れた肉感的な太腿で景元の胴を締めるが、雄を下敷きにする意味など知らぬとばかりの無垢な表情は、アンバランスな艶を助長させていた。彼の中では目標を制圧し、動きを束縛するのと同列扱いなのかもしれない。
時折発揮するこの思い切りの良さには、母なる波月古海とて景元と同じ理由で頭を悩ませるだろう。歴代の飲月君もこうであったろうか。無意識な分計画的な傾国よりタチが悪い。
しかし愛おしさは増すばかり。子供扱いに眉を吊り上げ、紡いだ理由に鈍痛もまた軋みを重ねるが。
「先日の接吻はなかったことにしてほしいと言ったな」
「うむ、そうだね」
「あれは追突事故だし」
「追突事故
…まあ、ぶつかった拍子だから、そうも言えるのかな」
「すぐ彦卿も来た、青少年の教育に悪影響だろう」
「君はそういう倫理観に対して貞淑だな」
「貴方が手塩にかけ鍛えている霜刃を歪めるだなんて、申し訳が立たない」
「
………うん、そうだね」
「今の間は何だ、含みがありそうだぞ
…とにかくだ。やり直しを要求する」
やり直し。
意味を咀嚼する銀獅子を置いてけぼりに、着痩せする隆々とした体躯の上で、もぞもぞ収まりのよい場所を探っていた仔龍は動きを止めた。よし、と明らかに方向性の違う気合いを一つ。
寝間着からしなやかな手が精悍な頬へ伸びる。
その手を奪った。
「
………?」
「
…やり直し。大いに結構。しかし君が口をぶつけたのは私の所為だからね、責任を取らせておくれ」
指と指とをぴったり絡め、腹筋だけで景元は頑健な体を起こす。その振動で己の上でバランスを崩すからだは丁重に横たえた。新調したばかりの長椅子は、二人分の体重も容易に受け止める。ぐるりと入れ替わる上下と視点。捕食者と被捕食者。押し倒され、けぶる氷翡翠に動揺が走った。それはまだ熱と芯を持たぬ腰と腰とが重なった生々しさによるものだ。照れ隠しでも反射的に手が出てこないのが、青年の情の深さを偲ばせる。はたまた安全だと思われているからか。
危機感が足りないというより、自分と居て気を抜いてくれるのは構わない。充分愛されている自覚はあった。非在事にせざるを得ない場面なのも、仕方なかったと冷静な脳の一部も諭す。
けれど。時には大人げなく、爪の先で引っ掻くような衝動に駆られるのだと、老いらくの恋を享受する我ながら驚いた。
とどのつまり。己が思っていた以上に、なかったことにしてほしいという言葉へ、景元は打ちのめされていたのだ。
つい男心のまま行動してしまうほど。
らしくないと心は戒める。だが堅牢な理性も蟻の一穴で決壊するものだ。ましてや今は私人、恋人同士として逢瀬のさなか。欲の湿度は際限なく上がりゆく。しかしその水面にじわりと溶ける墨のような薄暗さを見せはしない。大人なのだから。代わりにはんなり気品漂う顔を綻ばせ、睦言の蜜より甘ったるく景元は囁いた。
「なかったことにできぬ程、君を満足させてみせよう」
やり直しを求めたのは配慮してなんだが、とこの場では不似合いな返事をしつつ丹恒の自由な片手は、そっと垂れた繊細な銀の毛並みを雄の耳にかける。キスがしやすいように。
そのままてのひらは景元の後ろ頭へ煽情的に伝い、しゅるり、赤い紐をてずから解いた。キス、それからその先を望む二人だけの合図だ。視界の隅で床へ落ちる朱を追いはしない。
彼に導かれるがまま、獅子は小さく精巧な唇を貪るのだった。
(貴方との何もかもを、なかったことになんてしたくない)
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