・眠りにつく前に
2≫
夜は閑やか。仙境の霧漂う雅な中庭では滾々と湧く池がさざなみ歌う。かいなでまどろむ蓮花への、愛撫にも似た子守唄さえ聴こえそうだ。密かに古海の水を引いているからか。そこはかとなく混じる海の旋律は、独り寝の宵より澄んで玄妙。
しかし彼の声の方が、もっと耳に心地良い。
庭に面した部屋の窓は半分開けてある。自然の鏡面を渡る風は、寝台へ横たわる景元の思惟をとろとろ蕩かす眠気へ変わりゆく。身を任せればすぐさま眠りに浸れると分かっていても、敢えて景元は寝ぐずり、子供のように首を振る。
まだ眠りたくなかったのだ。
たっぷりした銀髪が、シーツや枕の上でふわふわ波打つ。柔らかで癖のあるたてがみは細く繊細。乱暴に扱うとすぐに痛んでしまうが、景元自身は見苦しくなければいいと、小鳥の避難シェルターに提供する始末。
堪らないのは共寝相手だ。
「眠ければ、もう休んでくれ
…疲れているのだろう。無理に起きていようとするな。動かれるとくすぐったい」
言葉に反して穏やかな、遍く夜を見守る月明かりの音階。ひょいと首を竦めたのは、ちょうど銀の毛並みが、ほっそり植物の茎に似た首筋へ絡んだからだ。男の駄々を窘める、やや低めで落ち着いた声質は、頭を押し付ける景元をそっと華胥へと導く。寝かしつけるつもりだろうか。両腕の囲いへ閉じ込めたからだが身動ぐ気配に、慌てて力を込め直した。
「まだ、さいごまできいていないよ」
「続きは今度でも構わないだろうが。舌っ足らずになっているぞ、貴方も頑固だな
…わかった、わかった。続ける」
口から出るひらがなはまろい。普段の優美かつ隙のない神策将軍の姿は何処へやら。無眼の揶揄も計算ずくで、それでも袖に隠してある刃とて、今はなまくらにされている。
ゆったりした寝間着の懐へ、ぎゅうぎゅう同じ衣を纏った柳腰を抱え込む。規格外な軍刀を、片手で振り回す膂力を持った腕の、出来うる限りそっと。凄まじいぐだぐだっぷりだが、肝心の青年は気にもせず景元の意を優先することにしたらしい。包容力と面倒見の良さは、流石列車子供組の長男枠。とはいえ適用される範囲は狭い。数少ない中に含まれるのは面映ゆくも、長い時の河で削られ、平坦となった天人の心にさえ歓びを呼び覚ます。普段は己を甘やかす男にとって珍しい我儘であるのも、物珍しいと龍の庇護欲をくすぐったのだろう。
ぱらり。ページを捲る音が、二人の間の僅かな隙間で、居心地悪げに響く。彼が再び口遊むのは古い文字列。さっぱり頭へ入らぬ内容よりも、胸の淀みを濯ぐ優しく淡々とした声にこそ景元は聴き入った。
抑揚の薄い声は、お世辞にも情感を滲ませない。だがそれで構わないのだ。彼であるのなら。彼がこの腕の中で、自分の為だけに読み聞かせてくれるのならば。
睫毛が重い。
水の龍が唄う長吟も途切れ途切れに、窓硝子へ垂れる雨滴より曖昧に滲む。ふあ、と漏れる欠伸。抗えずに力が抜けた。
すっぽり包み込む体格差と厚みで、腕に囲う龍を何処にも行かせまいと更に伸し掛かる。
けれど彼は重みを増す拘束から逃げもせず、寧ろ愛おしむように物語を続けた。だから瞼裏の闇に迎えられても、今度は景元も抗わない。
彼は何処にも行かないのだから。
ぱら、ぱらり。ページを捲る音と池のさざ波。そして夜光貝の光沢めいた、景元の為だけに奏でられる子守唄。
眠りにつくのに、これ以上の幸福はないだろう。
(ぱたん。本が閉じる。頭を撫でるてのひら。肩甲骨を過ぎ、背へ回る腕。抱擁に促され睡る寸前、お休みと。愛してると同じ響きが額へ口付けた)
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