su7ga0
2025-08-24 12:02:58
28363文字
Public 則さに
 

春暁の形見

過去に書いた則/さ/にの再掲です。
審神者の養成機関についての設定が色々とあります。続くかもしれないし続かないかもしれない。


 
 
 
 ——本丸の執務室に籠もり、私は初期刀と共に仕事をしていた。
 乾いた風がさらさらと吹き、晩春を告げている。
 ここ数日は穏やかな天気が続いていた。
 凝視していたモニターから目を離し、目頭を押さえながら初期刀へ声を掛ける。
 もう昼時を迎えていた。
「清光、先にお昼に行くね。良いところで切り上げて」
「俺ももう終わるから。先に行ってて」
 初期刀は端末から顔を上げずに言った。
 年度替わりの直後は毎年何かと忙しいものだが、今年は仕事が立て込み、殊更に忙しかった。今月と来月をどうにか乗り越えることができれば軌道に乗るのだろうと予測は付くが、乗り越えるまでが大変だ。
「あ、そうだ、清光。お昼が済んだ後に時間があったら、少しだけ前髪を切って欲しいんだけど……
 いいかな。と聞く前に清光は微笑む。
「勿論。速攻で片付けるから待ってて」
「無理して時間作らなくて良いからね。お昼はちゃんと食べてね」
「分かってるよ。主こそ早く行って来なよ」
 清光を執務室に残し、昼食をとるべく大広間へ向かった。支度は整っており、既に幾振りかの刀が先に食事を始めていた。私に気が付いた刀らがにこやかに招いてくれるのに答え、いつも通りに食事をした。
 ——私と、初期刀の清光。ふたりだけで興した本丸は、今では五十を超える刀らを有する所帯へ成長している。ここまで脇目も振らずによく走り抜けたものだと思う。
 この本丸へ来たのも、あの一文字則宗と出会ったのも春だった。
 芽吹きの季節を喜ぶ春の景色に、彼と出会った頃のことを思い出すと、郷愁に駆られた。振り返ってみれば、辛かったはずの過去はどこまでも優しかった。
 あれからいくらか時が経ち、私はこうして審神者として本丸の主人に収まっている。
 特に景趣を設定していないので、私の本丸では四季が巡る。
 凍てついた空気が溶け、全ての命が一斉に色づく景色が好きで、春がやって来るとよく刀らと共に本丸の外へ花見に出掛けた。
 桜が爛漫と咲き誇るなかで、私の目によく止まったのは、もっぱら野原に咲く名も無いような草花だった。春の野の中、持参した温かい茶を飲みながら陽光を感じていると、自分の双肩に課せられた荷物の重さを束の間だけ忘れた気になることができた。
 ノゲシのトゲは、触ると痛いものとそうでない種類がある。菜の花の仲間の植物は、花弁が十字に開いて咲く。勿忘草は可愛いけれど、名前の由来は物悲しい。文字通り草の根を分ける子どものような戯れは、正しい道を歩まねばと張り詰めがちに傾く私の心をよく慰めてくれた。
 一度。たまには一人になりたいと思い立ち、身の所在を書き付けて机に残し、本丸の外の裏山へ一人で伴を付けずに足を踏み入れたことがある。その時の季節も、やはり春だった。
 むせるような草の香りと耳が痛むほどの静寂に包まれて、あの時の私は一人で野に佇んでいた。
 しばらく歩いて、陽当たりの良い場所に咲くタンポポを見つけた。柔らかく花弁を広げて春の陽光を一身に浴びる姿が可愛らしく思えて、じっと眺めていると、黄色い花弁を開いている様が錦糸の髪をそよがせる彼と重なり、野に佇むタンポポを見つめる彼の背を思い出してしまった。
 あの一文字則宗は否定していたけれど、彼は黄色い花を好んでいたように思える。大学校近くの大きな川の土手に広がる、一面の菜の花を目の当たりにした時や、見つけにくい在来種のタンポポを構内の中庭で発見した時など、指を差して私にわざわざ教えて喜んだ顔をしていた。
 その時裏山で見つけたタンポポは、彼が口を開けて笑った時のように朗らかに映った。普段は萎れる様を見るのがいやだからそんなことなどしないのに、「摘んで持ち帰ろう」なんて思ってしまった。
 黄色の花を摘んだ時の茎が折れる音に、一文字則宗への慕心を一つずつ縊っていった時の、心が千切れるほどの悲哀を見た気がしたのをよく覚えている。
 私の思いびとは、手の届かない御仁だった。
 ——私はあの一文字則宗のことが好きだった。
 どこがどう好きなのかは、今でもよく分からない。分からないままに惹かれて、気が付けば目で追って、自分と彼の境界線を思う度に踏み止まってきた。
「我らは所詮は物である。物語を付随され、いくら愛を注がれようと本質は鉄。優美であろうと豪壮であろうと、不殺さずであろうと、なかろうと。本分は斬るという一点のみだ」と語ったのは、学生時代の教官のひとりである山姥切長義だった。彼らの本分ははっきりしている。翻っての人間の本分とは実にあやふやなもので、私は審神者を目指すことがなかったら、己の本分なんて考えたことすらないまま生を終えただろう。
 私と一文字則宗。それぞれの本分に思いを馳せてじっくりと考えれば、自ずと抱いた心は諦めねばならないのだとの結果に行き着いた。
 数百年。あるいは一千年。歴史の移ろいを見つめてきた古刀に寄せられた人の思いは、ある種の執念ではないかと思ったことがある。
 澱となって注いだ思いは凝り、鎖となり枷となったはずだ。そんな、自らを縛る逸話すらも慈しんでみせた刀の本分を、私が汚してはいけないと思った。
 人間がはじめた愚かな戦いに手を貸してくれた神。彼らは、人がいなければ我らは生まれなかったと言って白刃を振るう。あの時の私は、そんな彼らへ恋着を抱くなどおこがましいと、一線を引きつつ接していたけれど、一文字則宗が私へ寄せてくれたのは屈託のない親愛だった。
 私を見守る碧い瞳は、頼れる父性の色を纏いながらも、悪戯の共犯を企む兄弟のようでもあった。
 あの混沌とした一室に足を向けることは密かな楽しみであり、心の拠り所だったが、彼が私へ見せたのは肉親に向けるものと近しい感情ばかりで、そうした様を見るごとに、なんと残酷な巡り合わせなのだろうと恨めしくなることもあった。
 彼は結局、教官の元に最後まで残った刀となり、私が大学校を卒業して審神者になる直前まで付き合いは続いた。その間、私のごく近くに在ることを望みながら、彼は徹頭徹尾、私を見守る刀だった。
 心の内を悟られることがないよう、恋着を抱かぬようにと注意を払い、少しずつ恋慕を抱く心を縊っていったのだが、不思議なことに、思いが成ることを諦めるたびに、彼は私を構ってきたように思える。僅かにでも私の言動によそよそしい素振りを感じ取れば目敏く指摘し、一文字則宗は近しい距離で接してきた。彼を慕う心を抱いてしまったからそう見えたのかもしれない。もしくはただの勘違いだったのかもしれない。
 そのうちに、私は一文字則宗と穏やかな思い出を紡ぐことが少し怖くなった。
 今となれば、血生臭い戦いに手を染めなければならない日々が間近に迫る中、柔らかな布に包まれるような日々の一幕を素直に喜べば良かったのに、とも考えるが、そんなことは後からどうとでも思える話だ。
 今の私は審神者である。刀らを使役しているように見えても、私の方が彼らに助けられている。「物」は使われれば喜ぶものだが、彼らは刀としての本分と共に人の心を宿している。
 鋼の身のうちに宿った心を汲み取って手を携えろと。
 彼らと心を通わす事が私を助ける力になるのだと。
 私へ教えてくれたのはあの一文字則宗だった。
 彼が教えてくれたことを心に携えて、私は清光と共に審神者になった。
 清光は、教官の初期刀でもあった。
 
 ***
 
「どれくらい切るの?」
 私が居住する部屋の縁側で清光は問う。
 私は縁側に座り、随分と長くなった前髪を摘んで見上げた。ここ最近はなにかと面倒さが先に立つことが多かったので、自分の手入れが疎かになりがちだった。耳にかけてまとめられるほどに前髪は伸びている。
「揃えるくらいで。このまま伸ばしていこうかな。伸ばしきったら、わざわざ切ってもらう手間も省けるし、楽だし」
「よぅし。だったら、目にかからないくらいパツっといっちゃおうか」
……話聞いてた? 清光」
「俺の特権の一つが無くなっちゃ困るからね。いつでも切ってあげるから遠慮なく言ってよ」
 縁側に座った私にケープをかけ、楽しそうな清光は慣れた手付きでハサミやコームを傍に並べる。少し伸びた髪を外へ切りに行く手間を惜しんで、清光に頼んでみた時から、伸びた私の髪を整えるのは彼の役目になった。
 私の髪を切る役目というのは、刀らから見れば特別なものであるらしかった。絶対譲ってくれないんだよ、と唇を尖らせた乱が私へ訴えるのを、清光は優越感をたたえた眼差しで見ていた。
 整えた髪を結うことは他の刀の手に任せても、ハサミを入れて髪を切ることは自分以外の誰にも頑として譲らず、私も、清光がそこまで言うのならと許してきた。
 清光は縁側から降りて私の前に立つ。そっと髪を分けてクリップで留め、梳いて整えていく指先は優しい。
……ねえ主。寂しいじゃん、手間が省けるなんて、悲しいこと言わないでよ」
「ごめんね。でも、今日だって、仕事も長引いてしまったし、こうしてお昼の時間を潰しちゃったから、何だか申し訳なくて」
「俺はさぁ、こうして主を独占できるのが楽しみなんだけど。普段周りに気ぃ遣って出来ない話も、ふたりっきりでならできるし、初期刀の特権みたいで気分良いよ?」
「無理してない?」
「あはは。俺が無理してるように見える?」
 清光はコームで私の髪を梳きながら指に挟み、淀みない手付きで軽快にハサミを動かしていく。目線だけを動かして傍を見れば、何やら新しいハサミやヘアクリップの類の道具が増えていた。
 私の頼み事が負担にならず、楽しんでくれているのなら嬉しい。そう思って笑うと、頭を動かすなと注意された。
「俺がさ、主のことで無理するなんて、あるわけないじゃん……主の為なら、なんだって嬉しいよ。俺」
 清光は口元に淡く微笑みを浮かべたまま、私の髪を切っていく。
 私の初期刀でもあり、教官の初期刀でもあった清光。
 低空飛行を続けながらもなんとか大学校の最高学年に上がり、卒業試験を潜り抜け、審神者としての一歩を踏み出す事が決まった日に、教官から呼ばれて話を受けた時のことはありありと思い出すことができる。
「ぼくの刀を初期刀として貰ってくれないか」と聞かされた時、血が沸くような歓喜に包まれた。
 ——馬鹿な私は、もしかしたらという期待を寄せたのだ。あの時の浅はかさを思い出すと、今でも堪らなく恥ずかしくて、消えてしまいたくなる。
 私が期待をしたことなんか、現実に成るはずが無かったのに。
 新米の審神者が持つ刀は打刀だと相場が決まっている。最初の選択肢として提示される五振り以外を初期刀として持つ事になる審神者もいるけれど、それでも、やむを得ない事情がない限り、優先される刀種は打刀だ。次いで脇差、短刀と続く。太刀を初期刀として持つ審神者は少ない。
 それを抜きにして考えてみても、彼を扱える力量が当時の私にあるはずも無かったのに、私は、教官はもしかしたら一文字則宗のことを話しているのかもしれないと浅薄な期待をした。
 もちろん、その時の私の心の中にも「そんな事などあり得ない」という思いはあったのだが、僅かにでも過った期待を完全に殺すことは出来なかった。
 相変わらずの混沌振りを呈していた教官の部屋の中で、私は固く拳を握っていた。待機室には私と教官以外誰もいなかった。思えば、それは何という幸いだったのだろう。身の丈に合わない期待を堪えた私の顔を、あの一文字則宗に見られなくて本当に良かった。
 一文字則宗を譲り受けるかもしれないと愚かな期待をしていた私の目の前に現れたのは、紅い拵の加州清光だった。
 教官が開けた桐の箱の中に、清光は物言わぬ刀の姿で眠っていた。
 紅い拵を目の当たりにし、墨を流し込まれたような心地になったすぐ後に、清光を扱う教官の手が僅かに震えていることに気がついて、私は自分の短慮と浅ましさを痛切に恥じた。清光を見つめる教官の眼差しは穏やかで、眠たげな瞳の奥は清光との思い出をなぞるような懐古を映していた。
 ——顕現する力がなくなっても、帰霊させずに恭しく大切に扱っている刀なのだ。そんな刀とその主に、落胆した顔を晒すことなどしてはならないと、唇を引き結んだ記憶がありありと蘇ってくる。
「今でこそ、此処にこうしているけれど、ぼくは出来る方では無かったよ。こいつに散々迷惑をかけたし、よく発破をかけられて尻を蹴っ飛ばされた。……無理は言わない。だけど、良かったら貰ってほしい」
 その言葉を聞いた時、彼が今まで私を気にかけてくれた理由の端を掴んだ気がした。あの時の教官の眼差しは優しかった。私の強張った面持ちを教官がどう捉えたのかは分からない。
 散々、いたらない面を見せてきた私に、教官は自分の刀を——審神者としての一歩を踏み出す供として選んだ刀を譲ると言った。私にはその申し出を断ることなどできず、大切にするといった類の言葉を振り絞るだけで精一杯だった。
 私の言葉を聞いた教官は、いつもの感情に乏しい表情を一転させ、いっぱいの喜びを私へ向けていた。ひと仕事を成した安堵を浮かべていたようにも見えたのは、己の所業を次代へと紡ぐことのできた達成感を覚えていたからだろう。今になって振り返れば、あの時の教官の気持ちが少しは分かる。
 清光と本丸を作り上げることが彼の思いへの答えになる。引いては、一文字則宗への愛惜への手向けになる。そんな思いを抱きながら今までを歩んできた。
「ほら主、俯かないで顔あげて」
 ——はっとして清光を見上げる。
 紅い瞳と視線が合うと、清光は私に笑ってみせた。
「どしたの」
 細められた瞳は私を見つめている。
 形よく笑んだ唇から八重歯が覗いていた。
 此処へ来て以来、幾度も見た清光の笑顔だった。
 今日は良い日和だ。
 穏やかな春の空の下で、仕事の合間を縫って初期刀に髪を整えてもらっている。忙しく日々を送る中、束の間だけの安息を得ている。
 昼からは夜戦に赴く短刀達が戦支度を始める。昨日遠征へ出立した部隊が帰還する予定も入っているので、報告を聞かねばならない。本丸は、もうそろそろ一段階規模の上がった運営を考えねばならない時節だろう。私が為すべきことは多い。
「なんか考えてんの? 主」
「皆頑張ってくれてるから、私もやらなきゃいけないことがたくさん見つかってね。考えちゃうよ、色々」
「いま考えてること、当ててみせよっか」
……清光にそんな風に言われると、ちょっと怖いよ」
「ねえ待って待って、俺が怖いことなんて今まであった?」
「あったよ。最初の頃は何度も喧嘩したじゃない。喧嘩する度、私の考えてること当てて、論破してきてさ。怖いのと腹立つのとでどうにかなりそうだったよ」
 紅い目を丸くしたのち、清光は声を上げて笑った。
 ここへ来てすぐの頃からしばらくは、何度も話し合いを重ねては清光と喧嘩をした。手入れの資材の確保と、札の準備を進める為に、遠征へ赴く部隊を増やしたい私と、遠征のローテーションを潤滑に回す為、まずは本丸の生活の基盤となる仕組みを構築することが優先だと説く清光とで、揉めたことは数えきれない。
 学びを得て審神者となりながらも、いざ本丸での日々に身を置けば実践と机上の知識との差につまづく事が多々あった。四苦八苦していた私に対して、清光は初期刀として二度目の本丸である。私が悩む事柄を易々と説明してみせる姿は、文字通り、快刀乱麻を断つものとして目に映った。
 しかし私は、脆弱ながらも本丸の主としての矜持だけは一人前だった。自分の考えの結果を自分の目で確かめて取捨選択したい私と、私と本丸の為を思って先回りした意見を述べる清光とで幾度もぶつかり、清光の前の主である教官と自分を比べては悩んだ。出来の悪い自覚はあったから、不出来な主ですまないと、清光に対する申し訳なさで押し潰されそうな時もあった。
 だけど、清光のなかでは私と教官を比べることなど出来ないし、どちらも、何にも変え難い存在なのだ。彼にとってはどちらも愛すべき主で、それぞれがいとおしい存在である。
 清光に対する思いの落とし所をようやく見つけられた今では、審神者としての自分にほんの僅かばかりだけ自信を持つことができるようになっていた。清光の方も、共に年月を過ごすうちに私の扱い方を覚えていったのだろう。
……懐かしいね。主と一緒に此処に来た時のこと」
「そうだね。もうずっとずっと昔のことみたい」
「俺さ。前の主から、主のことを聞かされた時、自分が見放されたように思えてすごく悲しかったんだ。俺はまた、自分の主の最期までを見届けることが出来ないのか、って。でも、どうか助けてやってくれって頼み込まれたら、その願いを聞かない訳にはいかないじゃん?」
 曖昧に微笑みを返すと、清光は私の髪をそっと梳いて撫でた。紅い指先は愛おしげに頬の輪郭をなぞる。
……最初はそんな風だったのに、主と一緒にいるうちに、前の主がどうして俺を此処に寄越したのか分かった気がしたんだ。俺を主に託したのは、自分の後の世代を担うものの力になりたいって願いもあったと思う。だけど、不器用でも頑張る主を見てるとさ、どうにかしてこの人を守ってあげたいって気持ちの方が強かったんじゃないかって気がするんだ」
 春の風に柔らかく黒髪をそよがせ、清光は優しく微笑んでいる。私の初期刀は、賢く、強く優しい。
 迷う事の多い私に忌憚無く言葉を寄せながらも、決して離れず歩調を合わせて共に歩んでくれた清光は、涼やかな眦を細めてこちらを見つめていた。
「今ではね、主の初期刀になるのは、やっぱ俺しかいなかったんだと思うよ。張りつめて生き急いで、躓きそうになる子を助けられるのは、俺くらいしかいないでしょ。俺たちのことになると、馬鹿みたいに一生懸命になる主のこと、……大好きだよ」
「清光……
「大好きだからね、分かるんだ。……主、じじぃのことを聞かされた日から、ずっとどうしたら良いのか分かんないって顔してる。いつ迎えに行ってあげよう、どんな顔して会ったら良いんだろって、悩んでるでしょ」
 否定しようとしたけれど、初期刀に嘘はつけなかった。
 言葉を紡ぐことができないでいる私を、清光は困ったように微笑んで見つめていた。
 ——清光の前の主である大学校時代の教官が亡くなったとの報せを受けてから、気がつくと頭の中で思い出をなぞっている。
 教官の霊力の減少は止まることなく、生命の活動に関わる閾値を割りこみ、私にとってのかけがえの無い恩師は、人間にしては幾らか短い生を終えて逝った。無理矢理に時間を空けて出席した葬儀では清光と共に始終泣き通しだった。
 そののちに、遺された彼の刀らについてを聞いたのだ。彼の手元に残った刀たちが刀解や譲渡の道を選んでいた中、教官の最期までを見届けた一文字則宗だけは、行く末を定めていなかったそうだ。今は顕現を解いた状態で政府に保護され、研究所に保管されている。一文字則宗は顕現頻度が少ない刀だ。いつか、再び誰かの手に取られる日が来るだろう。話をもたらした政府の者が語るのを、私は黙って聞いていた。
 彼への想いはすでに錆び付いてしまったものとばかり思っていたが、誰かから話を聞くと、途端に悔恨や未練が溢れ出してしまった。私の知らないところで彼の行く末が決まれば良かったのにと恨む気持ちさえあった。そして、どうか早くこの話題が去って欲しいと願う私の気持ちをよそに、政府の役人は、この一文字則宗を本丸に呼んではどうかと耳を疑うようなことを言ったのだ。
「一文字則宗」はまだ私の本丸にはいない。加えて、私の初期刀は恩師の初期刀でもあった加州清光だ。迎え入れても申し分無い実力は既に備わっているはずだし、縁というものがあるのならば、彼を迎え入れるべきなのではと政府の者は私へ問うた。
 受け入れを勧めてくる言葉の裏側には、受け持つ本丸の成績を少しでも上げ、自分の評価を保ちたい下心が潜んでいると解っている。彼らを評価する上層の人間が、私情を汲まずに数字だけを見ることも理解している。私が拒否を示しても、拒否が叶う決定的な理由が無いことから話は再度持ち込まれることだろう。
 追い討ちをかけるかのように、譲渡が決まらなければ一文字則宗は刀解処分になってしまうと聞かされれば、私は躊躇う心を捨てて肯定し、頷くしかなかった。
 譲渡の承諾を得て安堵した様子の政府の者へ、私はひとつだけある要求をした。
 譲渡の話が出たのは年度替わりの繁忙期の只中である事から、こちらの準備が整うタイミングでの受け入れを希望したのだ。それは本当のことであったけれども、私は彼を招くことへの猶予となる時間が欲しかった。悪あがきのような気もしたけれど、自分の中で覚悟を定めてからでなければ、あの一文字則宗の主の顔ができないと思ったのだ。
 猶予として与えられた期限はもうすぐ終わりがやって来る。一文字則宗を受領しなければならない時は間近に迫っていた。
 ——大学校を卒業する間際に覚えたような浅はかな歓喜は ついぞ沸いてこなかった。あるのは、私を導いてくれた先達を扱うことへの重責と、過去の思い出にどうやって封をすべきかの迷いだった。
「うちはもう、じじぃを受け入れてもおかしくないくらいには力のある本丸でしょ。悩む理由がどこにあるのか分かんないけど、あの話を聞いた後からの主、ずっと何か考えてる顔してるしさ、忙しい時期に来た刀なんて幾らでもいるのに、迎える準備の為の時間をくれって言い出すし……どうしてそんなにじじぃを迎え入れることを悩んでるのか、俺には理由がよく分かんない」
 一文字則宗への思いを自分から清光へ語ったことはない。私が大学校で教官と知り合う前に、清光は顕現を解かれて刀に戻っていたから、彼はあの待機室へ通っていた頃の私を知らない。
 本心を言いたくない私の気持ちを汲み取った清光が、当たり障りなく接してくれること見越し、自分が抱く思いを何も言わないままにいるのはずるいと解っている。私が一文字則宗へ蟠りを抱えていることはもう勘づかれているのだ。それでも、私は抱えた思いを清光へ伝えることをできずにいる。
 私は下を向いて少しだけ唇を噛んだ。
 清光は腰に手をやり、少しだけ困ったように笑う。
……俺のとこにいたじじぃ、良いやつだよ。主がどんなに心配してても、その心配な気持ちごと受け止めてくれるやつだから、早く迎えに行ってあげよう……絶対待ってるよ」
 清光のその言葉を聞き、一文字則宗が師の本丸で過ごしていた頃の情景が浮かぶようだった。彼は昔から今まで少しも変わらず、他者を導く刀であったことだろう。
「ごめんね、清光」
 清光は笑うと、私の髪を一房掬ってハサミを動かし始めた。
 
 ***
 
 翌朝。一晩考えを巡らせた私は清光に無理を頼むことにした。
 一日だけ近侍の仕事を他の刀に任せ、出掛ける伴をしてほしいと頼んだ。
 忙しい折に申し訳ないとは思ったが、なかなか踏ん切りがつかないままでいた話へ言及されたことで、いいかげんに肚を決めねばならないと思ったのだ。
 私の頼み事に特に驚いた顔もせず薄く微笑んだ清光は、何も言わないまま出かける支度をして、政府の研究所への供をしてくれた。
 いくつもの棟が並ぶ広大な研究所の敷地の中、教官が属していた棟の玄関前では、先に連絡を入れていた本丸の担当官が、狐の式神を抱いて待っていた。
 担当官の腕の中で、ふっさりとした尾を垂らしているのは、もうアップデートすら危ういであろう旧式の式神だ。本丸付きではないということの印である、木札の連なった赤い紐を首から下げている式神の姿は、私の本丸にいる狐型の式神とそっくりだった。
「よっ、モチ。元気だった?」
 清光の声に式神は尾を振る。
 モチ、と呼ばれたのは教官の使役していた式神だ。モチは教官が審神者だった頃から側で働いてきた式神で、教官が審神者の職を降りた後も彼の側に残って働いてきた。
 主の遺した最後の一振りの行く末を見届けた後、役目を終えることになる式神は、真っ黒な瞳を私たちへ向けた。
「お久しぶりです。待っていましたよ、加州清光。早速行きましょう」
 抱えた式神に促されるままに、担当官は研究所の中へと私たちを案内した。
 導かれて歩く研究所内は静まり返っていた。淡い色のリノリウムの廊下は、私たち以外に歩く人はおらず、通りかかる部屋も物音すら聞こえず人の気配が薄い。教官が席を置いていたのはこの研究所だということは知っていたが、訪ったのは初めてだった。
 やがてたどり着いたのは、研究資料などを保管する一室だった。
 ——この中に、顕現の解かれた一文字則宗がいる。
「この度は助かりました。所在の決まらないままの刀剣を長く置いておくことは、何かと憚られますから……
 扉のロックを解除しながら、心の底からの安堵を浮かべる担当官の顔色を見るに、いつになったら一文字則宗の今後が決まるのかの突き上げを喰らっていたのだろう。
 私の初期刀が教官から譲渡された加州清光であったことから、彼は恐らく、上部からの一文字則宗を私の本丸へ受け入れさせるようにと話を持ち込まれ、それについて何かを意見する隙間も与えられなかったはずだ。
 この担当官との付き合いはそれなりに長い。素直だが、悪く言えば機転が効かず上と下の板挟みになり易い性格と、彼の上司が巧みに横暴さを隠すやり方をするということは良く知っている。
 部屋の中に入ると、彼は抱えたままだった式神を床に下ろした。式神はふっさりとした尾を体に巻いて佇む。
「あの一文字則宗ですから。此処に置いたままであることで、本霊から、分霊を粗雑に扱われたと見做されるのは恐ろしいですし……
 担当官は私の顔を横目で窺いながら言った。
 しどろもどろに紡がれる言葉には、自分の評価への影響を防ぐことができた安堵を、大義名分にすり替えて語る罪悪感が透けて見える。鼻で笑いたい気持ちを堪えつつ、一文字則宗を取り出しに奥へ向かうスーツの背中を見つめた。
 一文字則宗は自分の主を看取った後、己の行く末について明言しなかったという。他所の本丸への移動や帰霊の可否を問うても曖昧な返事しかせず、ついには与えられた霊力が尽きて顕現が解け、物言わぬ刀に戻った。
 一文字則宗と旧知である清光は、その行動について「何かを待っているように思える」と言った。清光のその言葉に、一文字則宗を早く受領せよとの諫言が含まれていないとするならば、彼は何を待っているのだろう。
 ——本当に私で良かったのか。彼が待っていたのは私では無いのかもしれない。
 今まで幾度も押し殺してきた疑問が、気泡のように湧き上がり弾けていく。泡の中には不安が詰まっている。弾けるたびに胸の内に深憂が満ち、私は堪らなくなって隣の清光の顔をそっと見遣った。
「どしたの。青い顔して」
……私、本当にこれで良かったのかな」
「今更何言ってんの。良かったに決まってるじゃん」
 俯いて黙り込む私を、清光は呆れながら見つめている。
 モチと呼ばれた教官の式神が真っ黒な瞳をこちらへ向けていた。
 式神の黒い瞳は、私の中に燻る一文字則宗への惜慕を見透かし、彼を使役する覚悟がまことのものであるかを問うているようで恐ろしい。いつのまにかきつく手を握りしめていて、掌にはじっとりと汗をかいていた。
「お待たせしました」
 連なった棚の奥から、箱に入れられた一文字則宗を携える担当官が姿を現した。
 彼は、部屋の隅にある机の上に桐箱を置くと蓋を外す。
 一文字則宗を受け入れることへの私の葛藤など知らず、何度も受領の時期について探りの連絡を入れていた担当官は、呑気そうに笑顔を見せていた。
「お手に取って確認して頂けますか? とりあえず、規則なもので」
 顔が強張っているのは自分でもわかった。
 恐る恐る箱を覗く。
 箱の中には刀が横たわっていた。
 柄には茶糸が巻かれている。
 鞘の蒔絵は菊に一文字の意匠の紋様。
 夢に見て魘されることもあった、まごう事なき一文字則宗の紋。
 勧められ、躊躇いながら一文字則宗を手に取った。
 手に取り、真物であるかを審神者自身が確認することは、譲渡の際の規約の一つだ。受け取る刀に何らかの偽りが為されていれば、審神者であればすぐに分かるという。
 今まで刀剣らを顕現する際、不審の念を抱くことは無かった。この一文字則宗にも、妙な違和感など微塵も感じられず、清光たちの本体を握った時と同じように、変わったところがあるようには思えなかった。
 しんとした凍てつきさえ覚えるような、悠久の静謐さを湛えた太刀だ。
 振るうことなどできない癖に、抜いてみたいと思った。
 抜いて、刃文を眺め、今日 こんにちまでを長らえてきた軌跡に僅かばかりでも想いを馳せて寄り添いたいと、そんなことを思わせる刀だった。
 直前まで抱えていた躊躇いや焦燥を忘れて、吸い込まれるように目の前の古刀に魅入ってしまう。
 遥かな時を経て、菊花の芳香と一万両の逸話を背負った刀。人間の抱える独り善がりな思いを歪だと語りながらも、それすらをも美しいのだと言ってみせる刀だ。彼に淡い思いを抱いたばかりの頃は、鷹揚さと懐の深さにばかりに目を向けていたけれど、「一文字則宗」についてを知る度、彼はきっと深く人を愛している刀なのだろうと、今までの浅慮を悔やんだことを思い出す。
 感傷に心を浸していた時、担当官の焦る声が耳に入り、何事かと気を取られた次には、どんなことが起こったのかを把握した。
 携えた一文字則宗がほの白い光を帯びている。
 驚いて息を呑んだ瞬間、光は強くなった。
 強い光は、風が花弁を吹き散らすように散り、四方に散開する。乱舞う光の美しさとまばゆさに包まれ、耐え切れず瞳をきつく瞑ってしまう。
 気が付けば手の中から一文字則宗の重みが消えていて、よもやと思いながら薄く目を開けると、眼前に佇む白い影があった。
 彼の金の髪は緩く波打ち輝いている。
 伏せられた瞼は長い睫毛に彩られていた。瞼の下には淡い色の碧い瞳が眠っているはずだ。
 造形の整った顔立ちは、美しさのあまりに生気の乏しささえ感じてしまうが、私は人形のようなその表情が豊かに感情を表すことを知っている。
 大学校を卒業する間際、簡単に挨拶をして呆気なく別れたあの時と変わらない、在りし日の思いを置いてきたひとが目の前にいる。
 今までずっと彼への愛惜を抱えて審神者としての道を歩んできた。彼に恥じぬようにと歩いてきた道程は決して平坦なものでは無かったけれど、この一文字則宗を失望させてはならないと思って歯を食いしばってきた。揺れる心を押し留めようと努めるも、込み上げる郷愁は胸を焦がしていく。
 夢を見ているかのようだが、今、私の前に佇む彼は、紛れもなくあの一文字則宗だ。
 はらはらと降っては舞う小さな光は、春風に遊ぶ花弁のようでもあり、寒風に乗る雪片にも見えた。
「こ、構内での刀剣男士の顕現は禁じられていますよ……
 担当官の恐々とした声で、懐郷に浸る心地から一気に引き戻された。弾かれるように担当官へ向き直る。
「違います。私は意図して顕現を行なっていません」
「ではどうして……
「おい。口上くらい述べさせてはくれんかね」
 青い顔をする担当官から、一文字則宗へと視線を移す。一文字則宗の細く開かれた瞳と薄い唇は、何かを企むような微笑を浮かべていた。
「僕が勝手に顕現したんだよ……此処は窮屈でな。お前さんが黙っていれば、誰ぁれも分からんさ。そうだろう?」
 福岡一文字の祖から凄まれた担当官は、顔色を白くさせ小さく頷く。
 彼は、本当は刀剣男士が怖いのだ。以前、付喪神の怨念に呑まれた本丸を目の当たりにして以来、オカルトの類がすっかり駄目になったと語っていた。付喪神が恐ろしいという気持ちは分かるが、いつまでも逃げ腰のままでは自分の仕事を果たせないだろうに。
 一文字則宗は担当官を黙らせると私へ眼差しを向け、今し方に見せた得体の知れない剣呑さなど嘘だったかのように眦を柔らかく緩ませて笑った。
 碧い瞳は真正面から私を捉える。
 喜びの滲む微笑は、固まったままの私をしばらく見つめた後に破顔へと変わった。
「立派になったな。待っていたぞ」
 晴れやかに笑う彼の言葉を聞いて、私の今までの迷いや苦悩が払拭された気がした。瞳の奥にじんとした熱さが込み上げ、あふれる涙をどうにか堪えようとしたけれど、できなかった。
……お久しぶりです。一文字則宗」
 ようやくそれだけを振り絞った私に、一文字則宗は頷く。
「本当に立派になった。……これからよろしく頼むぞ。我が主」
 涙で潤む視界の向こうで、一文字則宗は嬉しそうに笑っている。
 あなたが待っていたのは私だと、今だけは自惚れていても良いだろうか。
 ——あなたのおかげで私は審神者になることができた。
 審神者となり、私を助けてくれる刀らの慈愛に触れ、彼らが恐ろしいだけの存在ではないのだと身をもって経験することができた。
 私の至らない部分を補い、支えてくれる刀らの何と頼もしいことか。鬱々とした戦いの日々の中で、そんな彼らの力になれることへの感謝と喜びは縋ることのできる一筋の光だった。
 聞いてもらいたい話がたくさんあったはずなのに何も浮かんでこないのは、彼との再会を諦めていたからだろう。
 淡い春の頃に出会い、今まで忘れることなどできずにいた刀。
 共に歩むことができる喜びを、どのように伝えたら良いのか分からない。
 一文字則宗は、唇を結んで涙を流すしかできないでいる私の頬にそっと手を添えて、親指の腹で眦の涙を拭ってくれた。初めて触れた彼の手は、温かくて大きな手だった。