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su7ga0
2025-08-13 23:49:23
22300文字
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愛を知るということ
過去に書いたち/ょ/も/さ/にの再掲です。
仄暗いです。
1
2
3
なにかとても悲しい夢を見て、魘されるように目が覚めた。
全身を悲哀に浸らせていた余韻がまだ残っている。身を震わせて泣いた後の虚脱感が体にのしかかっていた。
大事な人を亡くした夢だった気がしたけれど、夢の記憶はすでに曖昧なものになっていて思い出すことができない。
午睡から目覚めた部屋の中は薄暗い。中庭へ目をやれば曇り空が広がっていた。シーリングファンから送られる風が少し生ぬるいから、雨でも降るのかもしれない。
隣では夫がまだ静かな寝息を立てていた。
午前中にプールで一緒に泳いで少し疲れたのだろう。
面倒がってよく髪を乾かさないままベッドに横になったから、夫の灰色の髪は酷い寝癖が付いていた。手を伸ばし、あらぬ方に跳ねた後頭の毛束を撫でつけてみても、赤い瞳は目蓋の下に隠れたままだ。
薄く唇が開いている。
夫は私よりも歳上だけれど、こうして眠る顔は年齢よりも随分と幼く見えた。
夫は普段からよく強面に見られていて、好んで身に付けるものも自分を強く見せるようなものが多い。しかし素のままの夫は意外と素直な部分があり、私の前では時折小さなこどもを思わせる振る舞いを見せた。
午前中にプールで遊んでいた時もそうだ。成人してそれなりに年を重ねた男女がプールで本気の鬼ごっこに興じていたのだ。傍から見ればおかしな光景だっただろう。
私は、夫のそんな部分が愛おしかった。
夫からの旅行の誘いに頷いてやって来たのは、海が見えるヴィラリゾートだった。
私と夫は長らく交際し、昨年結婚したばかりだ。
生活を共にする為の慌ただしさが落ち着いて、ようやくひと心地付けるようになったところでハネムーン替わりの旅行に誘われた。
ちょうど夫が周りよりも大幅に遅れた夏季休暇に入る時期だった。
忙しい人だから、普段もなかなかじっくりと顔を合わすことができないでいた。だから、夫のことを独り占めできるまたとない時間だと思って私は旅行を心待ちにしていたのだ。
夫が連れてきてくれたヴィラは広い敷地を有している。私たちの滞在する棟以外に他の棟の存在は窺えなかった。
広い寝室とリビングと、整えられた南国の中庭。中庭には小さなプールが付いている。
白壁で外界から完全に隔離されてこじんまりとしていたけれど、ここで夫と思いのままに過ごす時間はとても楽しかった。
時間も場所も問わず頻繁に鳴っていた夫の仕事用の端末は家に置いてきたらしい。だから、本当に夫を独り占めにできたようで嬉しかった。
プールで気ままに泳ぐこともあれば、大きなベッドでのんびりと昼寝をすることもあった。夜になれば、満天の星空を眺めて星座の話をした。
食事はバトラーが用意してくれていたけれど、その姿を見たことはなかった。いつも私の知らぬ間に夫が対応して食事を持ってきてくれた。夫にチップのことを聞くと「きちんと渡しているから安心しろ」とだけ言われた。
広いベッドに仰向けになって目を閉じれば、遠くから潮騒が聞こえる。
ここに来てからずっと快晴が続いていたけれど、今日になって少し崩れてきたようだ。そんな天気も相成ってか、聞こえてくる波の音は郷愁を誘うようでどこかもの悲しく感じる。先ほど見た夢のせいもあるのだと思う。
自分の大切なものを失って嘆き悲しんでいる夢だった気がする。あんなに悲しい夢を見たのは初めてだった。
同時に、なにか大事なことを忘れている気がしていた。頭の片隅には正体のよく分からないもどかしさが居座っている。
何を忘れているのだろうと、思考を整理して思い出してみようと努めた。普段から入り用の品を買い忘れることはよくあったけれど、そうではない大事ことを忘れている気がするのだ。
記憶の底を浚っていると隣の夫が目を覚ます気配がした。小さく唸る声と共に覚醒した夫は寝ぼけた瞳で私を探し、姿を見留めるとほんのりと口の端を上げて笑った。
「おはよう、よく眠っていたね」
「
……
ああ、年甲斐もなくはしゃいだからな。少し疲れた」
声を出して笑ってしまう。
夫は着替えのハーフパンツを身につけただけでベッドに横になったから、素肌の背中を惜しげもなく晒していた。男性にして色の白い肌は、なめらかに引き締まっている。
喉で低く笑う夫の胸元で、金色のネックレスが揺れた。
寝起きの夫の掠れた声が好きだった。情事の時に私の名前を呼んでくれる艶の増した低い声も好きだったけれど、寝起きの声はありのままの夫が感じられるようで愛おしく思えた。
「なにか、心配事でもあったか?」
夫は柔らかく笑みを浮かべたまま私に尋ねてきた。彼は聡い。私の表情から心情の機微を読み取ることに長けている。
夢の事を言おうとして少しだけ迷った。所詮はただの夢なのだ。夢を見て不安になるなんて子供と同じように思えて、それをありのままに話すことは少しだけ恥ずかしかった。
迷いながら夫の顔を見つめた。
精悍で整った顔はまだ寝起きのとろりとした茫洋さを纏っている。いつも強い光を宿している双眸の眼光の鋭さは失せていて、穏やかな眼差しを私に向けていた。赤い瞳は優しく細められて、私が話をするのを促しているようだった。
「
……
あのね、悲しい夢を見て目が覚めたから、ちょっとだけ不安だったの。夢のせいかもしれないけど、何か大事なことを忘れている気がして気持ちがざわざわしてた」
私の言葉を聞いた途端、夫の口元に湛えられていた笑みはゆっくりと消え、ほんの僅かに表情が固くなっていった。
夫は私のことを笑うでもなく、ただじっとこちらを見つめて表情を強張らせている。
いつもならば私が少々子供っぽいことを言っても笑ってくれたり、何かしらの反応が返ってくるはずなのに、今日はどこか様子が違った。
予想外の夫の反応に、今更ながらに自分のことが幼稚に思えてしまった。きまりが悪く感じて少し笑って見せたけれど、夫の表情は変わらなかった。
「
……
山鳥毛?」
不安に思い、夫の名前を呼ぶ。
夫は黙ったまま私の手を取って、少し節だった長い指を絡めてきた。綺麗な爪は、羨ましいほどに整った形をしている。
指を組んで、私の手をきつく握り込んだ山鳥毛の大きな手はやや汗ばんでいた。
山鳥毛は押し黙ったままだ。張り詰めた面持ちから眠気はすでに飛んでいて、私の目を射抜くように赤い虹彩を向けている。
「安心しろ。ただの夢だ」
紡いだ言葉とは真逆に、山鳥毛の声は硬質だった。安心しろと言われても逆に心配になってしまうような緊張を孕んでいる。やはり今日は様子がおかしい。
「夢のことは忘れてしまえ」
山鳥毛はどこか自分自身に言い聞かせるように言った後、視線を私の背後へ彷徨わせた。手は握り込んだままでいる。
山鳥毛の体に添って身を寄せると、彼は待っていたかのように私の背中に腕を回して抱きしめてきた。胸から伝わる鼓動は早い。何かを恐れているようにも思えた。背中に回された腕に力が込められ、少しだけ呼吸が苦しかった。
「
……
明日は何をして遊ぼうか? せっかくの休暇なのだから、私はお前とゆっくり過ごしたい」
私は小さくうなずく。
仕事が忙しい中、山鳥毛が文字通りもぎ取ってくれた休みだ。彼の言う通り、余計なことを考えないで二人でいる時間を大切に過ごす方が有意義だろう。
しかし、山鳥毛の仕事とは一体どのような職だったか。ふと過ぎった疑問の答えをうまく思い出せない。
結婚する前、仕事終わりの彼と待ち合わせをして食事に行った思い出は確かに覚えているけれど、彼の今の職業を思い出せない。
自分の夫の職を思い出せない妻などいるのだろうか。
いや、私は長らく彼と時間を共にしてきたのだから間違いなく知っているはずだ。背筋に冷水を垂らされたような心地がした。
「山鳥毛。私
……
」
頬を、両手でそっと挟まれる。
大きな掌は温かかった。向かい合った山鳥毛の瞳の赤い色が良く見える。
彼の瞳は赤い。立ち昇る火炎の外側、ゆらゆらと揺らめく炎の色。
「明日の朝はきっと晴れる。弁当を作ってもらうように頼んで、昼は浜で食べようか。前にお前が言っていた、ガラスの小石でも探しに行こう」
「シーグラスのこと?」
「そうだ、それだ」
「山鳥毛。
……
変なことを聞くけど、あなたはどんな仕事をしていたんだっけ」
「私の仕事?」
山鳥毛は不思議そうに眉を寄せた。
「ああ、やっぱりいい。ごめんなさい。私、今日はおかしいのかもしれない」
今までの思い出を浚い上げてみても、山鳥毛の生業が思い出せない。産毛が立つような焦燥がじわじわと背中を襲う。
改めて思えば、山鳥毛と結婚する前のことはなぜか霞がかかったように朧げだった。
疑惑を持つまでは確かに覚えていた自分の過去も、本当に間違いがないのかという疑いを抱いた途端あやふやに溶けていく。
私はどこにでもあるような家庭に育ち、進学し、職を得て山鳥毛と知り合った。それに間違いはないはずなのに、記憶の端々が融解している。
何か、大勢の人間と共同生活を送っていた経験があるような気がする。高校も大学も自宅から通っていたから、寮などに入ったことはないはずなのに。
反面、彼とよく食事に行った店はメニューと看板の意匠も覚えている。二人で指輪を選んだことも、結婚しようと言ってくれた時の喜びも
……
混乱し始めた思考を抱えると、自分の正体にも確信が持てなくなる妄想に支配されそうだった。
突然、錐で突き刺したような鋭い痛みがこめかみに走り、呻き声を上げてしまった。
心臓の拍動に合わせて強くなる頭の痛みは耐え難くて、吐き気を誘発しそうだった。山鳥毛から離れようとしたけれど、彼は私を逃してはくれなかった。
「落ち着け」
「山鳥毛
……
」
顔から血の気が引いていくのが手に取るように分かった。
——
私は一体どうしてしまったのだろう。
奥歯を食い締めながら痛みと吐き気を堪えて、そればかりを考えてしまう。
山鳥毛の大きな手のひらが背中を撫でている。脂汗が浮き出した額を彼に強く押し付け、懇願するように縋った。
「大丈夫だ、少し疲れたのだろう。もう一度眠ると良い」
「でも」
「心配するな。それとも、私が側にいるだけでは不安か?」
「ううん、でも」
「何も心配しなくていい。ゆっくり休め」
優しく甘やかすように、耳元で低く囁かれた。私を抱きしめる山鳥毛の表情を見上げてみれば、先ほどまでの緊張感が嘘のように薄れていた。
「私、おかしい」
「おかしくなどない。不安ならば、私のこともお前のことも、今までの思い出も全て教えてやる。今は目を閉じて眠れ」
「だけど」
顎を掬われ、性急に口付けてきた山鳥毛に唇を吸われた。
咄嗟に胸板を押し返してしまったけれど、再び強く唇を吸われた途端に嘘のように頭痛が止み、強張っていた体は弛緩していった。突っ張った腕からも力が抜けていく。
酩酊した心地でうっとりと山鳥毛の唇の感触を追った。差し出してみた舌で控えめに山鳥毛の歯列をなぞれば、熱くぬめった舌が口腔へ押し込まれる。
「んぅっ
……
!」
頬にかかる息は荒い。
あふれた唾液を絡めて、山鳥毛は私の舌をしつこく追った。
こぼすことを許さないかのように小さく音を立てて唇を吸い上げ、私の口の端を伝い落ちる唾液を舌で舐めとっていく。
見る間に山鳥毛の表情は情欲に塗れてゆき、私は彼のなまめかしい吐息をどこか他人事のように聞いていた。
「何も思い出さなくていい。今の私を見てくれていれば何も心配することはない。お前はもう、何者でもないただの人間なのだから」
山鳥毛はそう言って、もう一度私の唇を愛おしげに吸った。着ていたブラウスは胸元まで押し上げられ、素肌が露わになる。
胸を鷲掴むように手のひらを這わされ困惑してしまったけれど、そのまま緩く膨らみを揉まれて甘美な刺激に鼻から抜ける声を漏らした。
そこから始まった情事は執拗だった。
登り詰め、幾度も果てても、私の体を貪る山鳥毛の欲は止まなかった。疲弊した体を碌に動かすことが出来なくなっても熱く滾る欲望を激しく穿たれ、その時の山鳥毛はまるで何かに追い立てられるようだった。
嵐のようだった交わりを終え、気が付いた時には何も纏わない姿で山鳥毛の胸に抱きしめられていた。下腹が鈍く痛んでいる。股の間は互いのものが混じり合った粘液でぬるついていた。
重たい頭をゆっくりと上げて、山鳥毛の顔を見上げる。
山鳥毛は微笑んでいた。
笑うと少しだけ目元に小さな皺が寄る彼の笑みが好きだった。山鳥毛は愛おしげに優しく微笑んで私をみつめている。
向けられたその笑みに落ち着きを取り戻していく。山鳥毛が側にいてくれるのだから何も案ずることなどないと、不安は安堵へ変わっていった。
***
翌日は遅い時間に目を覚ました。
リビングに起き出してくると山鳥毛はもう目覚めていて、朝食をテーブルに並べていた。
「おはよう、山鳥毛」
「ああ、おはよう」
緩めに整えられた山鳥毛の灰色の髪が風に揺れている。外は快晴だった。
「晴れたね。良かった」
「そうだな。
……
今日は波も穏やかだから、ちょうど良い」
リビングからは中庭を臨むことができた。
中庭にはプールがあり、艶やかな極彩色の花が咲いている。温暖な気候を象徴するように椰子と蘇鉄が隅の方に繁っていた。
快晴の澄んだ空に、南国の開放感のある景色が映えていた。
それを見ていると、ふと私はどこかへ帰らねばならないという思いに強く駆られた。旅行中にホームシックにでもなったのだろうか。
晴れやかな景色を見ていると「いるべき場所はここではない」という気持ちが高まってくる。
私はどこへ帰らなければいけないのだろう。
いくら考えても帰るべき家とは山鳥毛と共に住まう家しかないのだから、私は訳の分からない郷愁を持て余すしかできなかった。
「
……
どうした?」
テーブルに朝食を並べ終えた山鳥毛が優しく問いかけてきた。
食卓には飲み物とサラダ、スクランブルエッグ、柔らかそうに焼き上げられたパンケーキが並んでいる。バスケットにはフルーツが盛られ、添えられた蜂蜜の甘い香りが食欲を誘った。
「なんだか、もう帰らなきゃ行けない気がするの。でも、どこに帰ったら良いのかわからない」
「なんだ。せっかく旅行に来たのに、家が恋しくなったのか?」
「家?」
「家に帰るのだろう? 私とお前の」
「山鳥毛と私の」
「そうだ。お前と私だけの家だ」
家。その言葉を聞いて、私は戦慄した。
私は結婚して彼と二人で暮らすようになった。しかし、ここに来る直前まで住んでいた家のことが思い出せない。
二人で暮らしていたことは間違いなく覚えている。だけど、どんな間取りの家だったのか、窓から見える景色はどういったものなのか。そういったことが全く思い出せなかった。
数日のうちに抜け落ちた記憶は忘れることなど決してあり得ないものだ。
必死に思い出そうとしても頭の中は空っぽで、何も入っていない箱を探るような心地がした。おかしい。私は山鳥毛と一緒に暮らすことを心待ちにしていて、ようやくそれが叶ったのに。
「私の家に、お前が来てくれただろう?」
はっとして山鳥毛を見つめた。
「
……
忘れたのか? 私の住んでいたマンションにお前の荷物を運んで、そのまま暮らし始めたじゃないか」
「引っ越したんだよね、私が」
「そうだ」
柔らかく微笑む山鳥毛を見つめていると、記憶が蘇ってきた。結婚を控えて住まいの話になった時、山鳥毛の住んでいたマンションに共に私も住むことになったのだ。
ただ、その記憶は不可思議に思えた。急拵えで作成した建物のような危うさを孕んでいる気がする。しかし一方で、引っ越しの時の記憶が確かに蘇ってきて安堵した。
元々独身を貫くつもりで、山鳥毛は早々とマンションを購入していた。いくらか歳を重ねた頃に私と出会い、そのマンションに二人で生活を送ることになった。
「小鳥、早く食べよう。冷めてしまう」
山鳥毛に頷いてテーブルに着こうとした時だった。
何か聞こえた気がして、中庭の外を囲む白い塀の方へ視線を向ける。
気のせいのような気がしたけれど、聞こえたのは猫の声だった。
「
……
猫?」
誰かを探すような、猫の間延びした鳴き声がはっきりと聞こえた。
その声を聞いた時、私は自分の頭に今まで靄がかかっていたことを自覚した。視界が明瞭に澄み渡り、中庭の景色は彩度も鮮やかに色濃く映る。
もう一度、猫は大きく鳴いた。
声のする方に視線が吸い寄せられた。
私はどうしてここにいるのだろう。
――
帰るべき場所があったはずなのに、どうして。
「小鳥」
「山鳥毛
……
猫の声が聞こえるの、ずっと鳴いてる」
「
……
もうすぐどこかに行くさ。気にすることはない」
「怪我をして動けなくなっていたらどうしよう」
「大丈夫だ。野生の生き物は強い」
「でも、もしも迷子だったら」
「小鳥」
しっかりしろとでも言うかのように、山鳥毛は私を呼んで両肩を支えた。
山鳥毛は私のことを呼ぶ時に、名前ではなく「小鳥」と呼ぶ。それは何故だったのか。いつからだったのか。
私と山鳥毛は何か約束をしたはずだ。それはとても大事な約束で、忘れてはならないものだった。約束をしたことは覚えているのに肝心の内容を全く思い出せない。
そもそも私は一体何者だったのだろう。
猫が、悲嘆に暮れたように大きく鳴いている。
その度にひどく切なくなって胸が締め付けられた。
「耳を貸すな」
「山鳥毛。私は、貴方は
……
」
「お前は私の妻で、私はお前の夫だ。よく思い出せ」
山鳥毛にそう言われて記憶を探っても、悲しいほどに私の頭の中には何も無かった。ただ、山鳥毛のことが大好きで、離れがたいほどに心から愛していることは間違いない。
それだけしか、自分の中で確信を持てることがなかった。
「分からない
……
山鳥毛、私はどうしてここにいるの」
「今まで色々と忙しくしていたから疲れが出たのだろう。放っておいてすまなかったな
……
もう一度横になって休むと良い」
山鳥毛は私の肩を支えたまま、口付けを交わそうと唇を寄せてきた。
その途端に塀の外の猫が威嚇するような荒々しい声をあげた。
驚いて声の方を向いてしまう。
「
……
なに、今の?」
視線を山鳥毛に戻すと、彼は無表情に猫の声がした方の塀を見つめていた。その視線は睨みつけているかのようにも思える。
「あとで私が様子を見に行く。お前はここにいなさい」
「でも、二人で探した方がすぐに見つかるよ」
山鳥毛はどこか物憂げな眼差しをしていた。
赤い瞳に見とれていると、唇を軽く啄ばまれるだけの不意打ちのようなキスをされた。
「慣れない場所に連れてきて、不安にさせてしまったか?」
私は首を横に降る。
「ううん。一緒に来ることができてすごく嬉しい。とても素敵で綺麗
……
」
「そうか」
山鳥毛は安堵したように言った。
――
そうだ。せっかく旅行に来て山鳥毛を独占しているのに、余計なことに気をとられるのはもったいない。
「
……
ごめんね、変なことを言って。山鳥毛が言う通り、やっぱり疲れていたのかな」
「いいや。私はお前が側にいればそれで良い
……
何せ、ようやく巡り会えた伴侶だからな。お前を逃せば、私はもう生きてはいけないさ」
「あはは」
山鳥毛が呟いた冗談は胸に巣食った不安を一掃した。これほどまでに愛されて、私は何を不安に思うことがあるのだろう。
もう猫の声は聞こえなかった。
***
月明かりが差し込んで寝室を照らしていた。
ベッドの上。私の隣で山鳥毛は眠っている。
昼間は山鳥毛が頼んでくれていた昼食をバスケットに詰めて浜へ持って行き、そこで食事を取った。
砂礫が多く残る場所を探して山鳥毛と波打ち際を歩き、とりとめのない話をしながら足元に転がるシーグラスを探して拾った。
山鳥毛は小石のようだと言っていたけれど、これの正体はどこかから流れてきたガラスの瓶の破片だ。
海に揉まれるうちに鋭さが取れ、磨りガラスのようにぼんやりとした靄を纏った綺麗な破片。
水色や緑色、白いものが多く落ちているなかで、オレンジ色のシーグラスを一つだけ見つけた時は珍しさに嬉しくなった。
拾ったシーグラスが私の手に乗らなくなってきた頃、山鳥毛が何処からか手のひら程の日扇貝の貝殻を見つけてきたので、それを器代わりにして乗せた。紫色の貝殻に乗ったシーグラスは美しかった。このまま家に持って帰って飾ろうと思っている。
寄せて返す波の音が聞こえる。
その波の音に紛れ、微かに猫の声がした。
今朝の猫の声と同じように聞こえた。
猫は怪我でもしているのだろうか。
お腹を空かせているのかもしれない。
身を起こすと、胎内からどろりとした山鳥毛のものが溢れる感触がした。
猫が食べられそうな物が冷蔵庫にあっただろうかと考えながら、タイル貼りの床に素足を付けた。
山鳥毛に散々抱かれて軋んでいる体を引きずりながらキッチンへ向かった。
猫は、誰かに甘えるように間延びした声を上げている。
「
……
分かったから。今、なにかあげるから
……
」
無意識に呟きながら、辿り着いたキッチンの冷蔵庫を開いた。
中にはミネラルウォーターと酒しか入っておらず、ツマミの類いも見当たらなかった。猫へあげられるものはなさそうだった。
嘆息と共に冷蔵庫のドアを閉めて、月光の差す中庭を見遣った。
そこには、いつのまにか白壁を越えて中へ入ってきた猫がいた。
「あ
……
」
まっすぐに尾を上げ、凛として立ち、瞳孔が丸くなった瞳を私に向けていた。ぷっくりとした口元が愛らしい。
その猫の姿を見た時、私は思い出した。
――
私は、本丸に帰らなければならない。
慌てて周囲を見回す。
山鳥毛が起きてきた様子は窺えなかった。
思い出したのだ。あの猫は、私が審神者になった時に本丸に連れてきた猫だ。
あの猫は本丸の刀たちに愛され、私と恋仲になった山鳥毛に信頼を寄せて懐いていた。
山鳥毛と共に本丸でその命が終わるのを看取った。
その後、山鳥毛はいつかは訪れる私との別離の日を思って苦悩していた。
私は命の儚さを嘆いた山鳥毛と約束したのだ。
死んでも、生まれても。必ずまた探して巡り会う。
愛したことを忘れずに、ずっと側にいるのだと。
――
なのに。
「小鳥」
静かな山鳥毛の声が響いた。
驚きのあまりに振り向くことができない。
「小鳥」
もう一度穏やかに呼ばれ、私は観念してゆっくりと背後へ向き直った。
「気付いてしまったのだな」
哀しげに微笑みを浮かべ、山鳥毛は立ち尽くしている。
「山鳥毛、どうしてこんな事をしたの?」
本丸にいた時の、山鳥毛の覇気に溢れた表情は、今は物悲しさに満ちていた。
「帰ろう、一緒に。ここにいるのはだめだよ」
山鳥毛に歩み寄り、手を取った。
刀を握る武骨な手だった。
どうして私は今までこのことを忘れていられたのだろう。
山鳥毛は斬ることが本分の刀の付喪神だ。私は彼らを統べる審神者で、山鳥毛とは恋仲ではあれど夫婦ではない。
「私をここから帰して。山鳥毛も一緒に帰ろう?」
山鳥毛は無言だった。
黙ったまま、懇願する私をじっと見つめている。
ここは山鳥毛の神域だ。
神は自分の神域に存在するものを自在に作り変えることができると聞いたことがある。しかし、それが風景や物だけでなく、取り込んだ者の記憶にまで及ぶとは思ってもいなかった。
此処へ連れて来られた時のことが朧げに蘇る。
交合の際に体液に混ぜ込まれた神気で酩酊し、私は昏倒した。山鳥毛は変わったそぶりを見せず、何も言わなかったから、事は本当に唐突に始まった。
突然体内に大量に流し込まれた神気は私の脳髄を蝕み、体の自由と思考を奪い、今までの記憶を作り替えていった。
自分という存在が崩れ落ちて、山鳥毛が望んだように自我が再構築されていく感覚を思い出した。抗えない何かに身を差し出すしかできず、自分が何者だったのかを急速に忘れていく恐ろしさが蘇る。
そうして、目が覚めた時にはこの南国のヴィラにいた。
自分が本丸を預かる審神者だということは空想の中の夢物語になり、私は山鳥毛と共に現世に生きるありきたりな人間の夫婦になっていた。
記憶が綻びかけるごとに、山鳥毛は私に神気を流した。現実から目を逸らして、甘い夢だけを見ていられるように。肉体の老いを止め、私が死んでしまわぬために
――
あの猫は、神域の結界を破ってあるべき場所へ帰るように私を導いてくれたのだ。
「小鳥、私を許してくれないか」
山鳥毛の手のひらが頬に添えられた。温かで大きい、大好きな手だった。その大きな手に自分の手をそっと添える。
恐々と私の頬を撫でる手は、確かに私の愛した刀のものだった。
「すまない、小鳥」
「山鳥毛
……
どうして私を隠したの?」
「最初は、こんな風に馬鹿ことをするつもりはなかったのだがな」
山鳥毛は自嘲し、表情を曇らせた。
「
……
私たちはどうして出会ったのだろうな。こんなに愛おしい存在に出会わなければ、私は本分を全うするのみで、別れの悲哀など知らずにいられたと言うのに」
微笑みを見せる山鳥毛はどこか寂しそうだった。
私を神域へ取り込んだ山鳥毛の胸中に思いを馳せる。
鋼の身を持つものにしてには、彼は優しすぎたように思える。こんな風に倫理と乖離する事を起こすようなたちではなかった。
私を隠すに至るまでに、いつか必ず訪れる別離に恐怖し、一方では懊悩したはずだ。
――
苦しかったことだろう。それを汲み取ることができなかった自分を恨んでも遅い。
彼は、人と刀の差異をどう思っていたのだろうか。
幾度生まれ変わっても必ず見つけるという約束は、山鳥毛のなかでどのように昇華されていたのだろう。ただの口約束だと受け取られたのだったら悲しかった。
愛しているから。ただその一念で易々と寄り添った私のことを、彼は恨んだことがあっただろうか。
美しい鳥籠のような神域。
刀と審神者という関係を忘れて、現世にいくらでも存在しそうな夫婦を演じ、見たくないものから目を逸らしていることは、人間である私から見れば間違っている気がした。
ただ、その過ちを犯してしまった山鳥毛の気持ちを思うと、私は彼を責めることはできなかった。
「
……
何故、愛したものとの別れはやって来るのだろうな。私は大切なもの達をずっと見送ってばかりだったが、お前のことを愛して、心底そう思う」
大きな手に頬を寄せて、縋った。
涙がとめどなくあふれては流れる。
見上げた山鳥毛の瞳は悲しくなるほどに切なさを訴えていた。凛々しく上がった眉を悲哀で歪め、山鳥毛は私を静かに見ている。
山鳥毛の顔が寄り、静かに唇を吸われた。私の下唇を柔らかく食み、吸い上げ、次第に口付けは深くなっていく。
山鳥毛の舌が口内に入り込み息苦しさを覚えた。鼻から甘く抜ける息を漏らし、貪るような口付けを受け入れる。
上顎を舌先でなぞられ、擽ったさと共に官能が沸き上がった。戸惑う舌を追われて絡め取られ、互いのものが混じった唾液が口内にあふれる。それを嚥下した。
やや間を置き、じりじりとした熱が胃の腑に沸いた。
不可思議に滾りだす体内に疑問を持って、私はすぐに自分の迂闊さを恨んだ。
山鳥毛が自らの唾液に神気を混ぜていることに気がついたからだ。
審神者は、刀剣男士よりも序列が低い。
こうして微量でも神気を取り込むことは、侵してはいけない禁忌のひとつだった。取り込んだ神気は体内に溜まって内側から肉体と霊力に侵食し、刀の眷属へと魂を作り替えてしまう。
口付けから逃れようと厚い胸を押したけれど、当然のようにびくともしなかった。
靄が思考に広がっていく。感覚が鈍磨し、明瞭だった意識が遠退く。
口付けの合間に拒絶の意を示して顔を逸らしても、すぐに両頬を挟まれ深く口付けられた。
再び、記憶が崩れ落ちていく。
完全に山鳥毛の眷属となれば自分の正体すらも分からない傀儡となり、この美しい箱庭の世界で遊ぶだけの存在になってしまう。
別離を恐れる前に、出会いの喜びや共に居られる幸せを大切にしたかった。「出会わなければ良かった」と嘆くよりも、私は限りある時間を愛して生き抜いていたい。
そんな思いを抱く私は山鳥毛と相容れないのだろうか。
愛したひとへ私の思いが伝わるようにと強く願ってみたけれど、もう手遅れだったようだ。
唇が離れた時には、私は自分が何者だったのかを忘れかけていた。
呼吸をし、肺に酸素を取り込む度にぽろぽろと記憶が欠けていく。
何か大切なことを忘れているもどかしい思いを抱えて、目の前の美しい男性に眼差しを向けた。
悲しくて涙が止まらない。
彼の名前が「山鳥毛」ということと、彼を心の底から愛していることだけははっきりと分かった。
寄せては返す波のように、正体の分からない悲しみが静かに去来しては引いていく。
山鳥毛の瞳も悲哀に満ちていた。悲しみを堪えて懸命に微笑み、私を見つめている姿は痛々しく思える。
私は喪失感を抱えながら、山鳥毛の赤い瞳を見つめ返した。
山鳥毛の精悍な表情が悲愴に歪むのが耐え難かった。愛した人が悲しむ姿を目の当たりにするのは辛い。
山鳥毛は、涙に濡れた私の眦を親指でそっとなぞる。
「あまり泣くと、目が腫れてしまうぞ」
低く囁く声はどこまでも優しい。
憂うことは何もないはずなのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。
私はようやく山鳥毛と共に生きることができ、幸せの高みにいるはずだ。
止まらない涙を手で拭いながら笑ってみせると、山鳥毛もつられて笑みを深くした。
「山鳥毛。どうかしたの? 何か悲しいの?」
「いや、な。これから老いて年を取って、いつかお前が居なくなってしまう未来のことを考えて
……
少しばかり落ち込んでいた」
「大丈夫だよ。山鳥毛の方がうんと年上なんだから、私が残されるほうだよ。私はずっと側にいるよ」
「そうだな
……
だが、私は幾度生まれ変わっても必ずお前を見つけるよ」
その言葉を聞いた時、沸き上がった得体の知れない感情に、堪らなくなって手で顔を覆った。
胸に湧く喜びと正体のわからない悲哀が混じり合い、押し潰されそうになる。
あと少しで何かを思い出すことができそうなのに、掴み損ねた記憶の端は思考の底へと沈殿していった。
どうしても涙を止めることができず頬が濡れていく。
「小鳥、私はお前を愛しているよ
……
だから、もう泣くのはやめてくれ」
山鳥毛の背中に腕を回して、厚い胸へ静かに頬を擦り寄せる。
彼は、嗚咽を堪えて震える私の体をきつく抱きしめてくれた。
体に回された腕の力強さと、熱く伝わる鼓動が私にとって唯一の縋るものである気がした。
私にとって、とても大切なことを忘れているようでならなかったけれど、頬に当たった金色のネックレスの冷たい感触に気を取られて、徐々にどうでも良いことのように思えていく。
山鳥毛の胸から視界を逸らすと目に入る美しい庭。
燃え上がるように乱れ咲く極楽鳥の花を見つめる。
満天の星を湛えた夜空には流星が飛んでいる。
遠くから聞こえる潮騒に耳を傾けているうちに、荒ぶった感情は凪いでいった。
「
……
ねえ、山鳥毛。明日は何をするの?」
涙を拭って彼の顔を見上げる。
山鳥毛は穏やかな微笑みを浮かべて私の髪を撫でてくれた。
猫は、もう二度と現れなかった。
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