su7ga0
2025-08-13 23:49:23
22300文字
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愛を知るということ

過去に書いたち/ょ/も/さ/にの再掲です。
仄暗いです。



 猫が死んで半月ほど経った。
 執務室で仕事をしていると、ふとした拍子に猫が寝ていたベッドの方へ視線を向けて「そうだ、死んだのだった」と空っぽの空間を見つめてしまう。染み付いた習性はなかなか抜けない。今もそうだった。
 すでに猫は陶器の壺に収まるほどの白い塊に姿を変えたというのに、柔らかな毛並みが横たわっていた場所を目で追ってしまう癖がまだ治らない。
 ずっと私の執務室の文机の隣で眠ってくれているものだと思い違いをしていたようだ。
 部屋の端々に猫が生きていた痕が残っていた。
 爪を研いだ柱。掃除を念入りにしたつもりでも何処からか出てくる、吹き溜まった毛のかたまり。
 世話をする時間と手間が消失した分、私は楽になった。楽になったけれど、今度はその空いた時間でいなくなった猫の思い出をなぞっている。
 身を震わせるような悲しみに浸ったのは猫が呼吸を止めたあの日だけで、あとは波間に漂う藻屑になったような気分で時間に身を任せて日々を過ごしていた。
 本丸の刀たちは皆、私のことを心配していた。
 無理をして涙を隠しているのだろうと、私が一人になった時を見計らって話しかけてきた三日月は憂いた顔でそう言った。
 思い出せば悲しいことに違いはない。自分の心を見つめ直してみれば、まだ涙が滲むほどに悲哀の傷は生々しい。
 だけど今では、猫のことが幕を隔てた向こう側のように感じるのだ。こうやって少しずつ距離は遠ざかっていくのかもしれない。
 もう少し猫の死を引きずるものだと思っていた。予想外に自分が落ち着いていることを不思議に思ったけれど、猫が日ごとに弱っていく姿を目の当たりにし、別れを意識していたから立ち直りは早かったのだろう。
 この悲哀も、時が経てばいつかは柔らかな思い出になっていくはずだ。
「山鳥毛、そろそろお昼にしようか」
 近侍の仕事をしている山鳥毛に声を掛けた。
 彼は私の隣に置いた文机の前で端末を睨んでいる。部隊の戦績を洗い直し、改編する作業を手伝ってもらっていた。
 私の声は聞こえたはずなのに、山鳥毛は気が付かないで端末の画面に視線を落としたままでいる。
 ――ここの所、山鳥毛はずっとそんな様子でいた。どこか上の空で、話しかけても気がつかないことが多々あった。
「山鳥毛、お昼ご飯食べよう?」
 彼の肩に手を置くと、濃紺のシャツの肩が小さく跳ねた。かち合った眼差しが一瞬驚きの色を見せる。
「すまない、集中していて気がつかなかった」
 彼は視線を下方へ逸らし、自らのことを苦々しく思う様子で小さく溜息を吐いた。
 猫の死に動揺を引きずっているのは、私よりも山鳥毛だった。
 山鳥毛は敬愛する主たちを幾人も見送ってきた過去を持つはずで、加えて「斬る」という行為を本分として生まれてきた神であるのに、人間よりも小さな猫の死が尾を引いているように見えた。
 何かを考え込んでいる風でいて、時折、私の方をなんとも言えない表情でじっと見つめることがある。
 そんな時の山鳥毛は、私の奥を覗き込んで心情の深淵までもを暴こうとするような、熱量のある眼差しをしていた。
「今日は天ぷら蕎麦だって。歌仙が張り切って準備していたからきっと美味しいよ? 食べに行こう」
「ああ」
「それとも、ここで食べる? 私が行って、持ってくるよ」
……すまん。そうしてくれると助かる」
「じゃあ私も今日は一緒に食べようかな。良い?」
「勿論」
「あったかいのと冷たいのがあると思うけど、どっちにする?」
「そうだな……。小鳥と同じものにしてくれ」
「了解」
 万事においてこんな調子で、どことなく覇気が無い。出陣となっても迷いのある表情をしていたけれど、白刃戦が始まれば一転して剣撃は冴え渡り、普段よりもその鋭さは増していた。
 私は執務室を出て、慌ただしく昼食の支度をしている厨へ向かう。戸を開けると、釜湯の熱気があふれ出てきた。
「おや、主。珍しいね、手伝ってくれるのかい?」
 熱気を耐えつつ額に汗を浮かべる歌仙は、大皿に天ぷらを盛り付けている最中だった。
「いや……、ごめん。ちょっと忙しくて、部屋で食べるから持って行っていい?」
「なんだい。じゃあ少し待ってくれ。盛り付けてあげるから。冷たいのと温かいの、どっちだい」
「あったかいのにしようかな」
「二つとも?」
「うん」
 歌仙は、二つのうちのもう一つが誰のものなのかを知っている。盆に皿を二つ乗せてそれぞれに天ぷらを盛り合わせ、大小一つずつの丼に蕎麦と薬味を用意してくれた。
「一人で持って行けるかい?」
……そうだった。こぼしたら大惨事だね、すっかり忘れてた」
 ああ。と歌仙は口の端を曲げて嘆息を漏らした。私の間の抜けた部分を長らく見てきた歌仙は、口には出さずとも「やっぱりな」という顔をしている。
 キッチンワゴンはあいにく使用中のようだ。
「もう一個は後で取りに来るよ」
「ああ、待つんだ。彼が来てくれた」
 後ろを向けば、山鳥毛が立っていた。
……よく考えれば、一人で行かせてしまっていたな。すまない」
「ごめんね、私も気が付かなくて」
 一つずつ盆を携え、礼を言って厨を出ようとした時、歌仙に呼び止められた。
「これ、好きだっただろう。持って行ってくれないか」
 歌仙の持つ小皿の上には、薄く切られた紅白のかまぼこが乗っていた。私は特にかまぼこを好んでいるわけではない。では、山鳥毛の好物なのかといえば、それも違う。
 歌仙がなぜそれを用意したのか最初は分からなかったけれど、すぐに合点がいった。これは猫の好物だった。
……これを切っているとすぐに分かったみたいでね。鳴き声を上げながら駆けて来て、厨に入れないようにするのが一苦労だったよ。良かったら供えてくれ」
「いいの?」
「どうせ切れ端さ」
 そう言って、歌仙は微笑んで厨の作業へ戻っていった。
 山鳥毛と執務室に戻って昼食を取った。ふたりで食事をする時はあまり会話はしない方だったけれど、最近は殊更に交わす言葉が減っていた。
 黙々と箸を動かして食事を終える。美味であるはずなのにどこか味がしないのは、胸にわだかまった山鳥毛への心配がなかなか拭えないからだ。
 食べ終えた後、かまぼこの乗った小皿を猫の骨壷の前に供えた。宿敵からの手向けの品に喜んでいることだろう。
 執務室から見渡す空は晴れていた。午後からは締め日に向けての事務作業をしようと思っている。
 湯呑みに注いだ緑茶を渡しながら、少しだけ山鳥毛の表情を窺った。
 眼差しは茫洋としているようでもあり、自分の内面を探っては己に何かを問いかけているようにも見えた。
 静かに凪いだ表情からは感情を読み取ることができない。
 仕事に取り掛かる前に、彼と少しだけ話しをしたいと思った。
……山鳥毛。あの子が死んだの、まだ寂しい?」
 憂いを帯びた表情を少し俯け、山鳥毛は自分の手元を見ている。
「私がここへ来た時から、あいつと小鳥が共にいるのは当たり前の光景だったからな」
 落とした視線は戦場で見せる鋭さの欠片もない。
「詮無いことだ。……あいつが逝って、少々考えるものがあってな」
 山鳥毛は口元を引き結んで、静かに顔を上げた。
 私の目をまっすぐに見つめている、燃え盛る炎を宿した猛禽の瞳。
 時には熾火のような静けさを持って像を結ぶ者へ慈愛を向け、ひと度荒ぶれば、地獄の業火を思わす。
 そんな山鳥毛の瞳は、今は澄み渡って明瞭な輝きを宿した紅玉のようだった。
「お前は、私と出会って幸せだったか?」
 唐突な問いかけに、最初は理解が追いつかなかった。
 ややあって山鳥毛の言葉の意味を悟った時、私は今まで軽率に発していた自分の言葉を悔いた。
 自分が、愛したものと別れなければならない悲しみを与える側であることに気がついたからだ。
 人間としての寿命まで生きれば、私は山鳥毛たちを置いて逝かねばならないだろう。
 刀を生み出したのは人間であるはずなのに、彼らは私たちよりも長い時を生きる。
 私が老いさらばえて逝く日が来ても、山鳥毛は今の美しさを保ったまま私を見送らなければならない。
 私の生に寄り添うことを決めてくれた彼は、いつか必ずやって来る別離の日へ思いを馳せたことがあるのだろうか。
 それを思うと胸が締め付けられた。山鳥毛は静かに続けた。
「我らから見れば、お前たちの持つ肉の体の寿命は短く、あまりに脆い。命は儚い。だが、その容姿が年月と共に変容していこうとも、その命を愛していることに変わりはない。……お前もわかるだろう」
 小さくうなずいた。
 あの子の老いた姿を前にして、別れの日が近づいていることを思って切なくなる時もあったけれど、例えどんな姿になっても共に過ごした時間はかけがえのないものだった。
 体が痩せ衰えて骨と皮だけになろうとも、私はずっと傍に寄り添ってくれたあの子が愛おしかった。
 大好きだから一緒にいたい。
 あの猫を思う気持ちに、痩せ老いた見目が影響することは何もなかった。
「あいつは最期まで小鳥に寄り添って幸せに生を終えた。それを思うと、私はお前に何を残してやれるのだろうと、ふと考えてしまう。生の概念が根本から違う私が、お前に与えられるものは限られているからな。今の私は、お前に何も残してやれない。……人としての幸せも」
「違うよ山鳥毛。私は、山鳥毛と出会えて良かった」
「小鳥。私も、お前と出会ったことは何にも代え難い僥倖だと思っている。だが、お前を喪わねばならない時が来ることを思うと、恐ろしくて堪らなくなる。……愛おしいものといつかは別れねばならないのなら、物言わぬ鋼の身で在った方が心易くいられたとさえ思ってしまうのだよ」
 ただ斬るだけならまだ良かった。
 この肉の身は儘ならない。
 山鳥毛は全身でそう悲哀を訴えているようだった。消沈した様子でいる山鳥毛の側に寄り、彼の手の上に自分の手をそっと重ねた。
……ねえ、山鳥毛。約束するから。死んでも、また生まれても、変わらずに山鳥毛を見つけるから。私のこと、忘れないで……
 憂いを含んで煌めいた紅玉の眼差しが私に向けられる。
 共に過ごした時間が風化し、愛した人の記憶から忘れられるのがきっと一番辛い。
 少なくとも私はそう思った。
 神との約束は禁忌だ。
 私が発した言葉は過ちなのかもしれない。
 それでも山鳥毛の側にいられるのなら、私はただそれで良いと思っていた。
……忘れるものか。何度命が巡っても、決して」
 手を引かれ、山鳥毛の胸に抱き寄せられた。
 背中に回された逞しい腕の強さを思って、私はそっと山鳥毛の背中に手を伸ばす。
 山鳥毛の厚い胸に抱かれる幸福を忘れるはずが無いと強く心に刻み付けた。