仮題:Duet

過去:天舍夏雨・天舍春陽



 その日はよく晴れていた。
 D3地区が誇る伝統的な映画祭の初日。
 頭上に昇った太陽。疼くような頭痛を抱えながら、なつめは店の扉に鍵を掛けた。それから看板を裏返して、CLOSEDの面を表にする。
 午前中の客足は映画祭の影響もあり上々、いや、上々すぎるほどで、いつもは閑散としている店内にも人が溢れ返りそうな瞬間が訪れていた。
 経営者としては喜ばしいことではあるが、忙しいのはどうにも得意ではない。賑やかなのも同様だ。慌てたり焦ったりという動揺とは離れた日常を生きていると、そういうふうにもなってしまうものだ。
 少し迷いはしたものの、こうして午後には店を閉めることを決意した。午前だけでも、平時の一日の売上平均を大きく上回っているので、まあ、問題はないだろう。
 それに。せっかくの映画祭の日を、古くあらたな芸術に触れずに終わるなんて、勿体ないと思ったのだ。

 なつめはいつもよりも幾分か軽い足取りで大通りに出た。こんなにも雲のない晴天に、傘を持って歩いているのはなつめただ一人だった。
 周囲に合わせた格式張った服装とは対照的なチープなビニール傘は、他者の嫌味な関心を惹くこともそれなりにはあったが、なつめは意に介さなかった。
 古着屋で適当に買ったジャケットが風で翻り、ひとまとめに肩に下ろした髪と緩い青いリボンが揺れる。着慣れたカーディガンからはいつも通りに古びた紙の匂いがして、それが却ってこの地区らしい気がした。
 良い日だ、と思った。
 降り注ぐ陽光は目を焼くほどに眩しく、頭痛はまるでメロディを奏でるように体の内側に向かって鳴り響く。視界の端にはあらゆる芸術が流れ過ぎてゆき、あらゆる人々が過去になってゆく。
 まるでそれ自体がひとつの映画のようだった、虚構の中に押し込められている自分を俯瞰しているような心地がして、足取りが浮ついた。ステッキのように携えたビニール傘が不規則なリズムで煉瓦道を叩く。

「映画って、やっぱりハッピーエンドであるべきだよな」

 不意に横顔を思い出した。
 野外シアターから漏れ聞こえたピアノ曲が、かつての記憶を呼び起こしたからかもしれない。薄暗くしたふたりの自室、無理を言って両親に買ってもらったプロジェクター、壁に映し出したのはかつて流行したクラシックな映画。その時、なつめは未だ「夏雨」であり、対照の存在がそばにいた。
 世に名作と名高く、古くから受け継がれ続ける物語は、そのほとんどが悲劇であるといっても過言ではないのではないだろうか。小説においても映画においても、夏雨はぼんやりとそう思っている。
 その日に兄弟の前で上映された映画も、想い合う二人の徹底的かつ運命的なまでのすれ違いの果て、片方は命を落とす羽目になるし、片方は影を背負いながら生きていくことになる。
 夏雨はそれを美しいと思った。二人のうち一人が残り、その一人が二つ分の魂を背負って、重くとも足を引き摺って生きていくというのが、二人とも生きていては決して成せない、ただひとつの決定的な愛の証明のように映った。
 だが、ピアノの音色と共にエンドロールが流れる中、隣でクッションを抱いていた春陽は言ったのだった。
「映画って、やっぱりハッピーエンドであるべきだよな」
 横顔をうかがう。その眼差しはエンドロールを見つめていた。目で名を追うこともなく、ただ画面の中心だけを見据えていた。いつもは柔らかな曲線を描く瞼は今日に限って鋭く、夏雨は一度瞬きをした。
……これ、はるが観たいって言ってたでしょ」
「たまには毛色変えようと思ってさ。なつはこういうの好きじゃん」
「まあ、好きだけど……
 好みの違いは昔からである。春陽は「やっぱり」と口角を上げた。
「だってさ、現実なんてどうせハッピーエンドになんないのに、なんで映画でまで絶望しなきゃいけないんだって思うじゃん」
「エンドはまだわからないでしょ。俺達、まだ学生だよ」
「わかるよ」
 春陽の声はやけにまっすぐで、迷いがなくて、そうして重かった。夏雨はとうにエンドロールを見るのをやめ、隣の片割れの横顔ばかりを見つめていた。
 ピアノの音色が淡く響いている。夜の、二人きりの自室。
 薄暗い部屋の中、かすかに光を帯びた鼻先の輪郭。
「僕らはどうせ、幸せには終われない。僕らにはとうに悪魔が住んでいる。誰にも見えないように、悪魔が潜んでいるんだ。二人分の魂に、ひとつの悪魔が」
 その口調はまるで台詞を暗唱しているかのように淀みなかった。
「なつも、本当はわかってるだろ」
 不意に視線が夏雨に投げかけられる。水色と桃色の不思議な色をした瞳は二人の揃いで、だけれどその温度はいつも違っていた。今日はそうではない。春陽の眼差しは、夏雨の瞳と同じように冷たかった。
 夏雨は瞬きをする。そうして、なにも言わず、目を細める。
 弧を描いた眦は、いつも通りの秘密の肯定の合図だった。

 なにを、わかっていたのだろう。
 わかっていた。わかっていたのかもしれない。自分たちにあんな終わりが来ることを。
 真人間のようには生きてゆけない自分たちの末路を。

 なつめは往来の端に立ち止まったまま、野外シアターの方向をぼんやりと見つめていた。
 ピアノの曲とともにエンドロールが流れ、観客からは疎らに拍手が上がっている。なつめの中ではそこにかつての片割れの映像がリンクしていた。今はもういない片割れ。記憶の中にしかいない彼は、いつまでも若かった。
 その映像を追いかけていた時。
 不意に殴られたような衝撃が走り、次いで、それが単なる頭痛の一種だと遅れて気づく。ぐらりと視界が揺らいで、しかしその波はすぐに過ぎ去っていった。残ったのはいつも通り、晴れた日に呪いのようにつきまとう疼痛だけ……
 いや。なつめの頭は、今は驚くほど澄んでいた。まるでさっきの波が全てを攫っていってしまったかのように、ただ痛みも音もない空間がそこにあり、なつめはその只中に立っているようだった。
 もうひとつ瞬きをすれば、最早、頭が痛んでいたことすら覚えていなかった。
 彼は彼らしい緩慢な動作で上映の終わったシアターの方を眺め、それから空を見上げ、そして手元に視線を落とした。
……はる、どうせ傘持ってないんだろうな」
 晴れ男である片割れを想う。こんなにも空が晴れているのは、彼の力に違いない。そうであれば午後には雨が降る決まりだ。何せ、夏雨は、どこまでも雨男だった。
 夏雨は開かれた形跡のないビニール傘を一度くるりと回すと、快晴の中を再び歩き出した。片割れ――春陽は映画の趣味が違うから、きっと先にどこかに行っているのだろう。探す必要はない。
 だって、俺達は生きている限り、永遠に繋がれた魂なのだから。