仮題:Duet

過去:天舍夏雨・天舍春陽




 天舎春陽と天舎夏雨は、ILY4EVA地区におけるごく一般的な家庭に生まれた双子である。
 秩序を是とするI4区、整然とした街並み、法によって守られる人々。
 オルドポルター屈指の経済区域で真面目に働く両親の元、天舎兄弟は育った。
 飛び抜けて裕福だった訳ではない。両親はよく働いたが、特別稼ぎの良い仕事でもない。I4区では標準クラスより少し下の暮らしだった。しかし、兄弟はそれを不自由に思ったことなど一度もない。
 普通に生まれ、普通に暮らし、普通に学校に通い、普通に――……


 その当たり前が、ずっと続いてしまうと思っていた。


「なつ、まだ終わんない?」
 不意に上がった声に、夏雨の思考が浮上する。
 視界には開かれた文庫本、わずかに顔を動かせば、こちらをじっと見つめる半身の瞳とかち合った。
……それ、1分前にも聞いた。半になったら出るってば」
「長〜〜い……
 退屈そうにカウンターに上体を崩す春陽を一瞥するだけして、夏雨は再び、手元の活字に視線を落とした。
 2月らしい、透き通った夕焼けがカーテン越しに射し込んでいる。
 廊下の端に位置する図書室を訪れる利用者は少なく、貸出カウンターは図書委員である夏雨の特等席となり、その向かいに勝手に椅子を持ってきた春陽の寝そべる為の場所にもなっていた。
「はるだけ先に帰ればいいのに……
「今日は一緒に帰りてえ気分なの」
「なら待ってよ」
「待ってんじゃん」
 不機嫌そうに顔だけ起こした春陽は、退屈そうな顔を隠しもしないまま、ポケットからごそごそとワイヤレスイヤホンを取り出して片耳にセットした。春陽はロックが好きだ。がなり立てるギターの音が静かな図書室の中に漏れ聞こえてきて、夏雨はそれをBGMにしながら読書をする。
 小学生の頃からずっと、二人は対でありながらも、共に行動することは少なかった。束の間欠けた片割れの存在を想うこともない。特別寂しくなることもない。人が寂しさを覚えるのは喪失したときだけだ。
 視界に写ることはなくとも、たとえ百キロ離れた先にいようとも、二人は互いと繋がっていた。
 だから、一緒に帰らなければならない決まりもなければ、切実な思いもそこにはない。けれども時折、気まぐれのように片割れに引っ付いて回りたくなる時がどちらにもあり、その気まぐれをもう片割れは許容する義務があった。
 それは高校生になっても未だに続く暗黙の契約のようなもので、だから今、春陽は夏雨の気が済むまで待っているのだし、夏雨は春陽を追い払うことはしなかった。
 春陽の眠たげな眼差しが夏雨を捉える。春陽のゆっくりと垂れた瞼が瞬きをして、なんにもないのに、夏雨とは視線も合っていないのに、少し笑ってみせた。着崩した制服、だらしなく第二ボタンまでを開けた首元は、やはり夏雨の丁寧な襟元とは正反対だった。
「なつ、暗くなる前に帰ろうな」
「わかってるよ……
「日が沈んだらさ、なんか出るんだろ、おばけみたいなの」
……
「僕らで退治しちゃってもいいけどな」
「口だけは大きいんだから」
 分針が6を指すのと、夏雨が本を閉じるのは同時だった。その軽い音を合図に、春陽は待ってましたとばかりににっこりと笑みを浮かべ、片方だけに嵌めていたワイヤレスイヤホンをポケットに乱雑に突っ込む。立ち上がって、すぐ隣に置いてあったストラップまみれのリュックサックを勢いよく背負った。
 夏雨は緩慢な動作で文庫本をスクールバッグにしまい、カウンターの上の整理を始める。その様子を見下ろしながら、春陽は口を開いた。
「結構本気なんだけどな。僕らなら退治できそうじゃない?」
「映画の見過ぎか漫画の読みすぎだよ、はる。どうやってお化けに勝つのさ」
「あはは。人相手ならまだしも、ってか?」
 春陽が明るい笑みを浮かべ、唇の隙間から微かに歯が覗く。それがいやに鋭利に見えた。夏雨は気だるげな瞳をさらに細め、怪訝そうにきょうだいを見上げる。
「まだしも、……なに?」
「わかってるくせに」
 下瞼を持ち上げるようにしてから、春陽は夏雨の顔を覗き込んだ。蛍光灯がまるで天使の輪のように、春陽の頭上にひかりを作っていた。逆光。影の落ちた表情を夏雨は見上げ、微かに沈黙する。
……わかってるよ」
 わかっている。言われなくとも、そんなことは。きっと春陽にも伝わっている。この沈黙は、拒絶は、ただのポーズであることも。
 実際、春陽はそれ以上夏雨を追及することはなかった。ただ「早くしろよ」と、もたつく手つきでスクールバッグを肩に提げるきょうだいを見やるばかりだった。

 廊下に出ると、静かだった図書室とはうってかわって、喧噪の中に巻き込まれる。あちらこちらの踊り場から、空き教室から、音楽が鳴っている。
 あからさまに嬉しそうにする春陽の隣で、夏雨はいくらかげんなりとしたように眉を寄せた。
「みんな、熱心だね」
「そりゃあそうだろ、せっかくのフェスだぜ? 絶対成功させたいだろ」
「はるは練習しなくていいの?」
「したいけど、今日はオフ。メンバーの都合がつかなくてさ」
「一人ではやらないの?」
「家でも出来るし!」
 自信満々に春陽は夏雨にピースを向けてみせ、それから機嫌よく鼻歌を歌いだした。夏雨にとっても聞き慣れてしまったメロディライン、春陽がしきりに聞かせてくるギターの旋律と同じだった。
 つい先日。この――BABY99高校でロックフェスが開催されるのだということを、熱の籠った声で春陽が話し始めたことを鮮明に覚えている。何を頼まれるよりも前に「他を当たって」と断ったために、夏雨を勧誘することは叶わなかった春陽だが、持ち前の人脈を生かしてバンドメンバーを一日のうちに見つけてきたらしい。あれよあれよという間に出演が決まり、今ではすっかり練習に明け暮れている日々だった。
 夏雨はそんな春陽を横目に、それまでと変わらず図書室に通う日々を続けていたが、それでも学校中に満ちる活気と音楽はたしかに肌で感じていた。
 夜の「噂」が流れ始めたのも、夏雨の記憶が正しければ同時期であった気がする。日が沈んで以降に外に出てはいけない、外には狼のお化けが徘徊していて人を襲うのだ、いや、あれはお化けなどではなくただの野犬だ、しかし野犬があんなに大きな姿をしているものだろうか……実体のない噂は実体のないままに広がっていった。
 時折、積極的に「討伐」をしている生徒がいるとも聞くが、夏雨にはやはり無関係のことだった。
 そう、ずっと続く、続いてしまう、当たり前の日々のうちの一日だ。
 一日、だったはずだ。

 目の前の春陽が、ギターを鳴らす真似をする。指先はネックを滑り、ピックのない爪先が弦をはじく。彼は赤いエレキギターを持っていて、自室の自身のスペースに置いていた。ギターケースは黒。リュックサックと同じように、これにもたくさんストラップがつけられていて、夏雨が適当に寄越したステッカーも嬉しそうに貼られていた。

 ぼろぼろになったギターケースを覚えている。
 いくつもの凹凸。黒く染まったストラップ。もう見えなくなったステッカー。錆びついた臭い。

 当たり前が続くなんていつ思った?  続かないことをとうに知っていた?
 どうして、この日々を当たり前のように思った?
 日常のすぐ傍にはいつだって恐ろしい顔が潜んでいる、それがなくては成り立たない日常だ。

「なつ?」

 数歩先を行く春陽が振り返り、夏雨を見て、不思議そうに笑って見せた。
 鋭利な歯が覗く。
 夏雨は、その頭上に明滅する天使の輪を、その顔に夥しい血液を、見たような気がした。



 *俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。*
 *――梶井基次郎「桜の樹の下には」 青空文庫より引用*