仮題:Duet

過去:天舍夏雨・天舍春陽



 DEAR<3地区。
 歴史と品位を重んじる街の一角に、夏雨はいつしか居を構えることとなった。
 街角といっても、路地を入ったところにある狭苦しい二階建ての場所で、彼の多くはない資金でもどうにか暮らしていける程度に過ぎない。
 とはいえD3地区にしては破格の古めかしいその建物は、様々な縁の果てにたどり着いた居場所に変わりはない。
 名を梅雨堂。
 そうして構えた古書店こそが、天舍夏雨自身が「天舎なつめ」として呼吸していくために用意した箱庭だった。


 某日。なつめは鈍い頭痛に苛まれ、細い息を吐いた。
 窓の外を見やれば、珍しく日が差しており、雲ひとつない晴天であることが見て取れる。昼下がりの日光はぬるい温度を孕む。こういう日には頭痛が止まない。
 どういう原理だか知らないが、なつめはある時期以降、雨雲がない日はいつも脳を蝕むような痛みを感じている。
 とはいえそれは既に日常と化しており、今更気にかけることすらなく、ただ漫然とした痛みとして脳に居座るばかりのものだ。
 今日の梅雨堂の扉には、なめらかなフォントで綴られたCLOSEDの看板が提げられている。定休日のない代わりに、こうして気まぐれに店を閉めるのはいつものことだった。
 不定期に頼んでいるアルバイトの杏嵐には、先日の勤務の際にあらかじめ休みと伝えてある。時折店に顔を出すメルメリィ・メイクメリィの姿も今日はない。この建物に、現在はなつめ一人だった。
 雨音も人気もない静けさ。それは締め切った窓や扉の隙間から、D3地区のどこか物寂しい冬の空気が入り込んでくるようでもあった。映画祭が開催される日付が近づいているとはいっても、この外れの一角まで華やかさの足音が届くには、まだまだ日がかかりそうだ。
 ともかく、今日は一人きりの休日である。
 私物化しているカウンターの内側でコーヒーに口をつけ、適当に手に取った売り物の古書の表紙を撫でた。
 それはかつてオルドポルターで流行った大衆小説だ。流通数も多く、希少価値も高くないので、よい売値はついていない。ランデヴー現象以前の物語。物語の中では犯罪者が犯罪者として死に、そして、二度と蘇ることはない。
 なつめはページを捲ることにした。

 古書とひとくくりに言っても、別段ジャンルに頓着のない梅雨堂は、実にさまざまな本を手広く扱っている。
 もちろん過去に店主自身が読んだ小説もあれば、アルバイトであるダーリンが面白いと話していたゲームの攻略本、時折彼のもとを訪れる幼いダーリンに聞かせた小話の入った一冊……
 なつめはジャンルには拘らなかったが、特筆すべき嗜好があるとするのなら、ただ、書き込みのある古書を好んだ。
 誰かがハイライトとしてマーカーを引き、注釈をつけ、感想を好き勝手に羅列しているような本を特に好ましく思っていた。
 ずらりと並べられた本。傷の有無、書き込みの有無、そこに込められた言外の物語。その物語をなぞるのが、なつめは一等好きだった。

 それは、いつかの癖にも似ていた。
 裏写りしてしまうほどの筆圧で、どこか角張って綴られた文字たち。万人に向けられた本に添えられた、たった一人に宛てたメッセージ。
 覚えているのだ。あの、二人きりの文通を。ほかの誰も知ることのないコミュニケーションを。片割れとの交感を。
 今だって、本を読んでいて、その話をしたいのはもう一人の自分だった。今はもうここにいない片割れ。もう一つの魂。そのすべてが物語の余白に散らばっているのだとすれば、それは、素敵で、けれども恐ろしいことだと、なつめはいつも思うのだ。

 読み進めるうち、ふとなつめの視線が止まる。そしてその視線は、ページ端に書き留められた文字へと注がれた。
 強い筆圧、角張った文字。見知った筆跡に似ているが、他人の空似に違いない。短いメモ書きは映像化された際との差異を書き記しているばかりだった。なつめの知っている誰かさんは、そんなことを残す人ではない。
 それなのに、なつめは数秒、その文字を何度も読み返した。読み返して、脳裏を過ぎる誰かを払いきれず、諦めたように口角を上げて笑った。
……いつも、俺をひとりにはしてくれないね」
 窓から見上げた空は変わらず晴れ渡り、鐘のように鳴り続ける痛みは未だ脳髄を揺らしている。
 止まない頭痛は誰かの声のようだった。もしかすると、俺を地獄に呼ぶ声なのかもしれないと、なつめはよく考える。
 本を閉じる。そのかわりに、古書の隣に並べてあったノートを捲った。
 そこに綴られているのは取り留めのない素人小説だ。なつめが手慰みに書いているこの小説は、いつも雨の日から物語が始まる。それは現実の太陽からの逃避だったのかもしれないし、あるいは。
 どこかの誰かにいつか届く、文通の欠片になり得るのかもしれなかった。


 *「絵画、文学、音楽、映画……それらの美しい記憶は、過去から未来に宛てた手紙として死者に少しの息を与えるが、それを受け取り今を生きるのは我々でなければならない」*
 *――ダーリンランデヴー!内映画作品 *
  *「A Night Too Late」*
  *DEAR<3紹介フレーバーテキストより引用*