2025-07-01 02:16:36
8853文字
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堂々めぐるいのちたち

『いのちからがら堂々めぐり』の後日譚やアナザーストーリーをあげていくところ。繋がってたり繋がってなかったり何もかも不規則ごちゃ混ぜです。



[Another story...1]

(グジョが胸に傷を負っていたパターンのif)



あの日のように、天の堰が切れたような降り方だ。
雨脚は今後も強まっていくらしい。まだまだやるべき事は山積みで、今日も終電に飛び乗る羽目になるだろうか。ビニール傘を片手にピロティの柱の陰から暗い空を仰ぎ見る。時間は十八時を回ったところだ。5コマ目も終わりこの天気では構内に殆ど学生は残っていないであろう。二十時頃から夜中にかけて一番の本降りになるというのが使用している検索エンジンに引っ付いている天気予報の見解だった。今は風が無いため単調な降り方をしているが、数時間後にはそれも強まるとの予報も出ていた。そうなると帰れなくなる可能性も無きにしも非ずだ。若しくは、帰る気が失せるか。そのため念には念をと早めに必要物資の調達に行こうと重い腰を上げた。と言っても大学から最寄りのコンビニなど百メートル程度の距離であるのだが。構内から出るまでの方がずっと長い。
あいつはもう帰宅したのだろうか。
まるで作業が捗らないのはおそらくその思考のせいである。それはもう情けないほど十二分に理解している。それを察しているのであろう浦原は帰宅を促していたのだが、それはそれで許容し兼ねた。帰宅したとて、である。ひとり物思いに耽る、かもしれない自分を想像するだけで嫌気がさしたのだ。それなら此処に居る方が真っ当な向きに脳のタスクを埋められる―――筈、だった。
建物側からはほぼ死角になりそうな柱に背を預ける。雨の跳ね返りで裾あたりに点々と水玉模様が浮かぶ。黒のボトムスをチョイスしていて正解だった。実のところ、席を立った理由がもうひとつあった。雨が降り出したことに気付いた辺りからだろうか、どうにも胸が痛むのである。
「ンな余計なもんまで還って来んじゃねえよ……
この鈍いような重いような痛みには、覚えがあった。面倒なので前世、という位置付けで落ち着かせることになったあの山で、俺は大怪我を負った。胸を左右に寸断するような裂傷だ。あの山肌から噴出した濁流に押し流される最中に負った傷と思われた。露出している岩にぶつかったのか突き出た主枝に抉られたのかそこまでは分からない。臓腑にまで影響しなかったのが幸いだったが、予後には永らく難儀した。引き攣れるような違和感が常にまとわりつき、天候により疼くような鈍痛が起こるのである。傷がまた開こうと自分自身を痛め付けているような心持ちになった。酷い時には雨気を悟った途端に歩くことすら困難になり、その度浦原には随分と世話を焼かせたものだった。
『痛み止めありますから、飲んでください』
『いい、そのうち収まる』
そんな会話を何度したことだろう。浦原としてはその度に足止めを食うのも面倒だったのだろうが、その時ばかりはいつもの厭味な物言いはなりを潜めていた。
『アナタはそうして痛みと添い遂げるつもりなんスね』
『何も無かったみてえに忘れちまうよりずっとマシだ』
『そんな大層な傷痕さえあれば十分でしょうに……
『これだって段々と薄れてんだろ。無くなりはしねえにしても……俺にはそれが怖くてたまんねえ』
子供だったのだろう、と今になれば思える。必死に縋っていた。アイツの居ない明日に足を踏み出し、その日々を繰り返して行かなければならないことが漠然と恐ろしかった。そして、そんな全てにも時と共に折り合いがついていき、晩年には痛みとの付き合い方も上手くなっていた。結局は痛みにすら慣れてしまったのだ。それがどうだ。今の俺には傷など一切無いはずなのに。イチゴを認識したせいなのか、それと示し合わせたように降る雨のせいなのか、久々に生じた痛みに自然と眉間に力が篭もる。頭に靄がかかり見ている景色が薄ぼんやりと雨に溶けていくようだ。浅く吸う酸素と長めに吐く息で、体のつじつまが合わないと警鐘を鳴らされている気分になる。ずるずると柱に凭れたまま膝を折った。
「大丈夫か?具合悪い?」
一分も経っていないだろうが、雨の隙間を縫うように声がした。そうして同じ目線にしゃがみ込む気配を察した。雨音で足音を聞き逃していたのだろう。痛みを逸らそうとかたく瞑っていた目を開くと地面に着く誰かの片膝が見える。おい、と呼び掛けながら、両膝の間で頭をもたげている俺の左肩に触れた指先に躊躇いはなかった。
「おーい、聞こえてる?おいって」
返事がないことを訝しんだのか控え目に身体を揺さぶられる。ちゃんと聞こえている。顔を覗き込もうとしてくる仕草が視界の端に見える。ちゃんと見えている。そろそろ左肩を揺する手のひらに容赦が無くなってきたため、静止を促すように右手を重ねてから顔を上げた。ああ、ちゃんと触れられる。
……髪色でそうかなって思ったけど、よく会うな」
視線を結んだその人物は、ブラウンの目を瞠って、また驚いたような、困ったような顔をしてそう言った。その表情はあの頃と何も変わっていない。タイミングが良いのか悪いのか、よくもまあこんなうまい具合に会えるものだ。百年以上もそれが叶わなかったのが嘘のようにも思え、自然と重ねた右手に力が篭もった。
「ほんとに大丈夫か……?」
口を開かない俺をどこか探るように、イチゴ―――黒崎が再度心配そうな面持ちで様子を伺ってくる。弱く「ああ」とだけ返した。昼間に抱えていた荷物は全てバックパックに詰め込んであるのだろう。折り畳み傘だけが黒崎の膝元に放り出されている。俺の右手を振りほどく素振りはない。衣服越しでも沁みいるような、じんわりと巡った人肌で、ほどけるように痛みが薄らいでいく。呼吸とともに体内から悪感が抜けていくような快さ。そこに残る確かな安堵感。痛みというのは本来こうして何かにより塞き止められているものなのかもしれないと不意に思った。きっとこれが痛み止め、であるのだろう。
「治った」
……え、何が?」
おそらく、もう二度とこの痛みに苛まれる日は来ない。名残惜しくも手を離し、そんな確信めいたことを思った。