eclipsis
5456文字
Public ローロビ
 

染み込む薄荷

短編三つ。付き合ってたり付き合ってなかったりな二人



【海岸の話】

「ブッカブーの現れる海岸がある」と、誘ってきたのはローだった。

 
 海の妖精、ブッカブーは嵐を引き起こす。その前兆なのか二人で歩く海岸の夜空は曇っていた。風と海の音が止めどなく聞こえる。ローと私、どちらもお喋りではないから、少し忙しなさそうに見える海が代わりに喋っているのだ。
 波が打ち寄せる音と、私たちの足音。そして海岸には妖精の痕跡があった。

 酒樽や割れたツボ、旅行用トランクに燭台。それらが白い砂の上に転がっていた。極小さな足跡らしき丸い点も幾つかあるけれど、これは蟹か貝が掘った穴かもしれない。何にせよ、脈絡なく存在しているように感じる。ちょっと、わざとらしいくらいに。

「あなたでしょ?」

 隣を歩くローの顔をちょっぴり覗きこんで訊いた。彼は妖精なんか信じていない。だからこそ声を掛けてきた時は意外だった。

「さぁな」

 ローは、すげなく答えた。私を横目で見るだけの涼しい顔に、死の外科医という通り名が頭の隅にチラついた。本当は優しい人なのに。そう思いながら彼の手を何となく見たら、身体の影でそれがわずかに動く気配をさせた。そして同時に、砂浜に何か落ちる音がした。――ブッカブーが現れた音? 妖精はどんな風に足跡を残すのかしら。

「迂闊に近寄るな、悪さをしてくるぞ。アイツらは姿が見えないんだ」

 痕跡を探したくて音のした方へ行こうとしたら、ローが私の手を取り引き止めた。ローはそのまま何事もなく歩き出す。私は手を引かれるまま歩くしかない。

「だから妖精は……

 信じてないでしょ。そう言おうとしたら言葉が詰まった。それに誘われて来たのは、紛れもない私なのだから。中途半端に切れた会話の間をローは見逃さない。すぐさま紡ぐように私の指を自分の指で絡めて手を繋ぐ。彼はこういう事が何て上手いのだろう。

 二人でただ黙って歩いた。海は相変わらず喋り続け、夜空は灰色で無愛想だ。
 どこかで、つまらない女だと言われた事があったと思う。遠い昔の名も覚えてない人、あるいは私自身か。
 綺麗なレストランもロマンチックな夜景にもなびかない。全ての本をすっかり覚えて、空で唱えられる。そんなお前が誘われるものは何だ――

……お前は分かってるだろ?」

 ローが問いかけている。こちらをやっぱり見ないけれど、表情は甘い。繋いだ手を二、三度と握り直すような仕草をして私に強調してくる。

 ――そう。誘われて来た。妖精を見たくて。姿が見えないそれを、二人で。ローと、一緒に見たくて。

…………あなたのせいでしょ」

 私の詰まりは中々頑固で、やっと出たと思った言葉は照れ隠しみたいな拗ねた色を随分帯びて響いた。それが恥ずかしくて言葉がまた出ない。ローは何を思っているのだろう。クスリと笑うような音が聞こえたけれど、ブッカブーかしら。それとも隣の彼?
 
 もし、自分がもっと素直で何もかも信じて、それこそ妖精を信じる、可愛い女の子だったら。ローの手を上手く握り返せたのかしら。たくさん読んだ本にはやり方が載っていなかった。

 渦巻く頭でそう考えてみたら誰かがまた笑った気がした。
 
 海が、妖精が、ずっと笑っている。