kanaco
2025-05-16 23:49:37
7235文字
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【九信】九信SS(単作)まとめ(フセッター時代)

P1~P3【幸せを数える】幸せの数を数えたい男たちの話。



信一は他人の血が入った口内だけでなく体丸ごとを洗い流したかったので、公衆浴場によってから九龍城砦に戻った。最後の最後でとんだ災難にあった。ご機嫌はすこぶる悪い。しかし砦に戻ると龍捲風が自分の帰りを待っていて、その上彼を労うために手作りのお夜食を用意してくれていたと知れば、機嫌もいっきに直るというものだ。幸せがこれでまた一つ。そうやって信一は龍捲風から注がれる愛情を丁寧に受け取ってきた。

龍捲風がお茶を淹れてくれたのでソファに2人並んで座る。そこからでも見える赤い窓格子の外に、さきほどと同じ月が見えた。王九といた時の月はあんなに秘密を握って冷たく見えたのに、龍捲風の隣でみる月は仄かな明かりで周りを照らす優しさに満ちていて、信一は胸をなでおろす。

「ねぇ兄貴」
ふと、先ほどのことを思い出し信一は口を開いた。
「人って幸せな思い出だけで、どこまでも耐えられるものなのかな?」
龍捲風は不思議そうに肩眉を上げた。時には言葉よりも雄弁に心情を伝える兄の眉は、信一が愛している彼のクセの1つだ。
「さぁ。その幸せというものが、どれだけその人間に強い影響を与えたかによると思うが」
「うん

いくら目を凝らしても、その奥に本当の顔が見えなかった男。まるで舞台俳優のように大げさな所作でおどけて、わざわざ自分を煽ってきた王九が見せた、自分への執着が理解できない。そこに確かに滲むのは「俺のこと、心底嫌いなのだろうな」という“事実”だ。でもそんな至極シンプルな感情なのだろうか?たまたまそこにいたから?ただ頑丈なオモチャが欲しかっただけ?甘っちょろいと嫌悪したところで放っておけばいいものを。そもそも人間は、自分を傷つけた人間を“嫌い”になるものだ。王九にとって一番柔らかい場所を自分は痛烈に刺すのだろうか、と思考を巡らせる。

俺に焦がれてるだって?嘘ばっかり。

あいつが焦がれているのはもっとその奥にあるはず。一体何を自身に納得させたいのか。他の破壊を望んでまで何を確かめて安心を得ようとしているのか。何を期待している?本当に欲しいものはなんだ。

いや、それとも、まさか本当にただただ”俺”が欲しいだなんて。

王九が一挙に膨れ上がる凶暴性を押さえつけながらも喜々としてそれを零れ落とす中で、そのもっと沈んだ部分に、まるで癇癪をおこした子供のような嘆きすら信一には感じられる。これまで色々な人間を見てきた信一からすれば、あの笑い声はひどく嫌な感じがするのだ。目を強烈に輝かせ、口元に鋭い笑みを浮かべ、まるで自分が世界を掌握したかのように笑うくせに、その実まるで制御不能な感情に振り回されているような。今はまだコントロールをしているようだが、あんなものを抱えて〈大切な人〉に仕えるだなんて。

そんなの。

「信一?」
しばし沈黙した信一の名前を、彼の大切な人が呼んだ。信一はゆるゆると身体の力を抜いて龍捲風の体にしどけなく寄りかかった。龍捲風はゆったりと左肩に乗ってきた重みを気にせず、反対の手で信一の柔らかい髪を慰めるかのように撫でた。
「うんん。なんでもない。俺は兄貴と一緒にいられて幸せだな、って話」
「なんだ?俺からの優しさが足りないとの督促か?」
「まさか!」
「じゃぁ、もう満腹だというサインか?」
「ねぇ!ちょっと!!」
信一が慌てて身を起こして龍捲風の顔を見ると揶揄う笑みを浮かべた養父と目があった。むぅ、と少しだけ頬を膨らませ眉間に皺を寄せた信一は、その子供じみた仕草と甘えた瞳をみて見てさらに楽しそうに笑う姿に諦め、ポスンと前の男の胸に額を押しつけた。
「満腹になんてならないんだよ。俺は貪欲なの」
「ほぅ?」
「兄貴が与えてくれるものならば、いくらでも俺に入ってくるし、あなたからもらった幸せは全部こぼさないの」
龍捲風の胸から心臓の動く音が聞こえる。そのリズムに信一は安らぎを感じた。ただそれだけでも信一の幸福はまた一つ満たされるのだ。一緒にいられればいい。それだけが望みだ。そうしてそれが目の前の相手にも伝わっていたらいい。
「それに俺もいくらでも兄貴に幸せをあげるんだ」
そうして願わくば、大切な彼の幸福もまた一つ、また一つと満たされていることを。

「ずっとあんたの傍にいるもの」

龍捲風は返事をしなかった。しかし彼が微笑んだことを信一は知っている。顔を見ずとも分かるのだ。龍捲風の左手が信一の肩を抱き、右手が再び髪を撫で始めた。後頭部にキスを落とされた気がする。気持ちがいい。好き。

愛する人の心音、腕、手、唇、自分たちを照らす優しい月。

この時間が永久に続けばいいのにと信一は目を閉じる。
そうずっと。