kanaco
2025-05-16 23:49:37
7235文字
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【九信】九信SS(単作)まとめ(フセッター時代)

P1~P3【幸せを数える】幸せの数を数えたい男たちの話。

【幸せを数える】

22:00。
九龍城砦で発見された裏切者を追っていた信一は、階層高い廃墟の屋上に出ると下の様子を覗った。自分の部下数名が下で勢いよく走っていくのが見える。どうやらターゲットを無事に捕えたようだった。今回は俺の出る幕でもなかったな、と念のためのお目付け役として参加したことを後悔した。これだったら兄貴との癒しのティータイムに時間を当てる方がよっぽど有意義だったはずだ。

屋上は静寂に包まれていた。今日は風すらも吹いていない。見上げた夜空には雲がなく星も少ない。黄色い満月だけはただ一つ存在を主張して悠然と輝いていた。信一はその場所の開けた気持ち良さに笑み、煙草を一服だけして帰ろう、と口に咥えた。

「おいおい、めずらしいじゃねぇか」

静寂を壊すような声が信一の背にかかった。振り向いて一度だけ瞬く。意外な人物。それに関わりたくもない相手。油麻地のフルーツマーケットを縄張りとする黒社会の大兄貴の右腕・王九がそこに立っていた。

「よぉ、色男。ご機嫌いかがかよ」
……お前の方こそ。たまたま通りかかりました、みたいな場所でもないが」

王九と直接顔を合わせる機会は少なくない。ただしそれは自分たちのボスの付き添いとしてのシーンが常だ。基本的に双方はそれぞれの区域を出ることはないし、うっかり外で会ったとしても周りには人がいる。黒社会の仕事中であっても部下がいる。このような...例えば2人が今この時のことを誰かに話さなければ、この出会いを知る者など一生いないという、1対1の空間は初めてだった。

信一は相手に悟られないようにしながらも少し緊張した。ここで抗争の火種が生まれるようなことはないだろうが、王九という男はどこか掴めない。自分のボスに対しては忠実なように見えるし熱心に世話をしているが、自分を含めた他者に対しては横柄な態度をとる姿が多く、口を開けば軽い口調と人を挑発するようなセリフで負の感情を刺激するのだ。その一方で、何にも興味がないというように“だんまり”を決め込むような時もある。実際何を考えているのか、人を観察することが得意だと自負する信一からしても行動の予測がしにくいタイプだった。

「お前と一緒さ。ここは見晴らしが良いから下の連中の動向を見ていたんだが。......まさかこんなところで九龍城砦の “お嬢さん”に出会えるとは。さすが日頃の行いがいいねぇ!」

神経を逆なでしようとするふざけた声掛けはサラリと無視した信一だったが、王九がこちらにわざわざ歩いてきたことに驚いて念のため警戒を強める。しかし、王九が自分の吸い差しを奪って煙草を吸い始めたので、さらに驚いたために表情に素直に出てしまった。

(こいつ煙草吸うの?)
(っていうか俺の取るのかよ)

それを見た王九が信一が吸っていた煙草を本人に見せつけるように手前に示し、もう一服。
「いいじゃねぇか1本くらい。俺は人から“もらう”のが好きなんだよ」
「”奪う”の間違いだろう、嫌な趣味」
信一が非難めいた声音でそう返すと、反応してきたことに気を良くしたように王九が続ける。

「そうか?興奮しねぇ?」
人のモンってさ。大事にされているものほどそそるよな。
「例えば…….どっかの誰かの“掌中の珠”、とかさ」

信一は無表情に相手を見つめた。いつもの通り目を凝らして観察する。
王九の方は気にした風もなく愉快そうに言う。

「最近、俺も欲しいんだよなぁ。ほら、自分が好き放題できるお姫さまみたいなお人形さんさ」
それも誰かに丁寧に手入れされた、上等でとびきりおキレイな人形がいい。他の人間に仕込まれた幸せを握りしめて無防備をさらしているようなやつがさ。

人のモノでも奪って手折りゃいいってだけだろう?最初は環境の変化に抵抗するかもしれないが、新しいご主人さまが誰かって言うのをその体に教えこみゃ、いつか懐くだろうよ。脆けりゃ残念それまで。でもまぁ、俺が欲しいと思っている人形はずいぶんと頑丈な型のようだから、どれだけ抵抗してくれるかも楽しみなんだよなぁ。オちるまで時間がかかればかかるほどクる。それまで傷つかないように大切に大切にされてきたモンが、ちょっとずつ壊れて終いにはボロボロと雪崩れるようにオっこちてくるのか、それとも消耗しきってイっちまうのか。そういうモンがどんな声でナき始めるのか気になるよな。ああ、でも最後にはちゃんと自分から“欲しがる”ようにしないと。上等なモンだしみんなで共有して晒すのもありだな。人形はさ、愛されてなんぼってオモチャだろう?見る目と触る手が多けりゃ多いほど、飼いならされたお人形さんは喜ぶんだろうよ。
「ああでも、そういえばお前は甘ったるく独り占めするのが好きなタイプだっけ?」

信一はハッと息を吐き出して笑った。
「ずいぶんと冒涜的的な楽しみ方だなぁ。あまりにも趣味が悪ぃわ」
全く理解ができないね、と言う風に大袈裟な身振りとお道化るような表情を返す。

「お人形に無体を働くなんてナンセンス。与えるのは居場所と安らぎだろう。丁寧に扱って優しく触れてやればそれだけで慕うし美しいままに愛情を返すさ。一緒にいるならお互いに交わす幸せはたくさんあった方がいい。それこそ指じゃ数えるのが足りなくなるほどたくさん」
男の前に両手をかざして指を広げて見せつけ、小バカにしたように笑ってやる。
「お前もそんな物騒なことばかり言ってないで、今ある幸福を数えたら?」
小首を傾げ、相手を見透かそうとするように口の端を上げた。

「でも、俺のそういうところがキライなんだろう?」

「まさか!」

信一の問いかけに王九も身振りを誇張したような仕草で両手を広げる。月の光に照らされたそのパフォーマンスはまるで独り舞台で立ち回る役者のようだった。優雅な手の動きと、急に信一の間合いまで詰めた距離。信一がとっさに動けないほどに滑らかに、王九の両腕が信一のその細い腰へと回った。そうしてグイっと腰を引き寄せられた瞬間、王九の顔と信一の顔が吐息触れ合うほどに近くなる。

「焦がれてんのさ」

信一が間近で見たその瞳は、高揚感と喜悦を隠さぬ色をして興奮しているようにも見えたが、その実は酷く冷めているようにも見えた。自分を見つめるその瞳の奥が何を求めているかは分からない。しかし信一の混乱を見て、歪んだ満足感を得ているようにだけは察せられた。王九に降り注ぐ月の光は温かみよりも冷たさを帯びて、その男の不可解な言動をより狂ったように見せつける。

(なんだこいつ、月に溶けて消えちまえばいいのに)
そんな風に信一が嫌悪していると、強く腰を抱いていた王九の右手が離れ、同じ指先が信一の下唇をもったいぶるようにゆっくりとなぞった。信一の気持ちが冷えていく。混乱は拒絶へと移り変わる。そんな信一の心の変化を感じ取っただろう王九は、より陶酔するような表情をしたまま、掠れて色を含む声で囁く。

「なァ、お前ってどんな風にナきながら壊れんの?」

唇が重なる。信一が微動だにしないのを良いことに、そのままヌラリと王九の舌が信一の口内に入ってきた。舌が触れ合って否応にも感じる熱さと、歯列をなぞってから蹂躙しようとする感触。信一は冷え切った目を斜め下へと逸らし、そうして今より少し口を開けた。

王九の動きが止まり、それでも動揺したそぶりは見せないままに唇が離れる。腰に回っていた腕が解かれ、そのまま3歩後ろにも下がった。王九の口の端から少量の血液が垂れた。信一は自分の口の中に広がる相手の錆びた鉄のような味に目を細めながら(さすがにこれくらいの強さじゃ舌を嚙み切れやしないか)と鼻で笑う。

「随分と狂犬染みたお人形さんだな」
王九の声音は相も変わらず愉快そうだった。
「イマドキは人形も自分の持ち主くらい自分で選択するんでね」
信一は、見せつけるように王九の血で濡れた自分の唇をペロリと舌で舐めとった。扇情的な態度で挑発をする。月の光に照らされた魅惑的かつミステリアスな様相のまま、手を触れれば災いをもたらすような由々しさを全身に纏う。芝居がかった優雅な仕草で、口直しとばかりに煙草を一本取り出す。

王九が声高らかに笑いだした。まるで天へ、月へ届くような、耳につんざくような笑い方だ。
ああ、その声、嫌な感じがするんだよな。と、信一は思う。
(気がフれたんだか、フれてないから抑えれないんだか分からないその声)
しかし信一には知ったことではなかった。自分のボスと九龍城砦、それに仲間たちに関わらないのであれば、正直この男のことなどどうでもいい。……先ほどの話だけは少し気にかかるが。

ひとしきり笑った王九が急に素の顔に戻り「従者が迎えに来たようだぜ、プリンセス」と言った。少し離れた階段の方からドタバタ複数人が上がってくる音がする。その急いだ様子からして信一の部下であろう。そちらに気を取られて目をやり視線を戻すと、気がつけば王九は姿を消していた。

(気分悪.)

信一は先ほどから残る血の味と異物の感覚を誤魔化すように煙草を再度咥えなおす。
(なんだったんだ)
月が照らすこの秘密の時間を苦味つぶしをしたような顔をしながらも思案したが、意味のあるような答えは出てこなかった。