コビロ|ミッドナイト・ランドリー・ブギー

250517更新/現パロ:深夜のコインランドリーで出会うコビーくんとローさんのお話



❸ That's great !

 覚えがある名前が突然聞こえてきて、ギョッとした。驚きに浸っている間、箸は空中で止まり、その隙にヌードルがスープへと逃げ仰る。
 音源は医局に置かれているテレビだった。目を凝らすと、その名前の主が画面の中に写り込み、あまつさえ紹介されているではないか。
 すると、画面の中からパァンと銃声が鳴り響いた。その音に弾かれたように、人々が一斉に駆け出していく。
 横一線で飛び出した群衆だったが、みるみる差が生まれ出した。ローの注目を惹きつけた人物は、先頭から差をつけられ、すでに画面の外に追いやられている。先頭がゴールラインを切り、カメラはそちらにズームアップした。もう、彼の姿は見えそうにない。
「ロー先生がそんなに熱心にテレビに目を向けてるの、めずらしいねぃ」
 隣からの声掛けにハッとする。振り返ると、先輩医師であるマルコが、自分とテレビを交互に見ていた。
 別に、などと誤魔化しようもあったが、聡い彼相手に半端な返事をすることができず、「最近、知り合った人が出ていたもので」と答える。
「へぇ、陸上選手なのか」
「陸上をやっている、とは聞いていましたが、まさかテレビに出るレベルだとは……
「今のやってるのは、世界大会のU20だろぃ。しかも『十種競技』となると、相当な実力がある子じゃないのか?」
 ローは、陸上競技に明るくない。今テレビでやっていた大会がどのようなものなのか分からないし、マルコが言う『十種競技』がどのような競技なのかも知らない。
 だが、男の感心したような表情を見ていると、よほど凄いことなのだと理解できる。
 ──ローさんは、よくも悪くも人に対して無頓着ですよね。
 古馴染みが苦笑い混じりに溢した言葉を思い出し、少しだけ後悔の念が浮かんだ。後悔していることに、また驚いた。
 テレビではすでに次の競技に注目が移っている。彼──コビーの姿はやはり、見当たらない。
 再び手をつけたインスタントのヌードルは、少し温くなってしまっていた。

✴︎

 あれからスマホで調べたところ、コビーはかなりの有名選手だった。
 『十種競技』とはその名の通り、陸上競技十種目の記録をポイント化し、その合計で競うものらしい。つまり、走るだけでなく、跳ぶ、投げるといった、全ての運動力が求められる。それゆえに、勝者は「キング・オブ・アスリート」の称号を得ることができる。
 さらに詳しく調べてみると、彼が所属しているチームは、トップアスリートを数多排出していることで知られているチームなのだそうだ。有名人のことをあまり知らないローでさえ聞いたことがある、砲丸投げの名選手が設立、指導しているらしい。狭き門を潜り抜けた猛者たちだけが所属できる。それだけ、本気のものしか残れない世界。
 職場からの帰宅後。スマホ片手にソファに寝転び、ついごちた。
「そりゃ、勉強に集中する余裕はないな」
 むしろ、プロアスリートの道に片足を突っ込みながら学業にも取り組んでいるなんて、なかなか根性がある、と思う。学業に専念するため、それまで習っていた剣道を辞めることを選んだローからすれば。
 ──ローによるコビーの『家庭教師』業は、彼と自己紹介をし合って以来、既に数回行われていた。毎回、明確な待ち合わせをしているわけではない。お互いの利用時間がかち合ったとき、コビーが分からなかったところを、ローが噛み砕いて教えてやる、ということをくり返している。
 彼は自分なりに落とし込むと理解が早いが、そこに至るまでがなかなか難しいらしかった。理由は、専門的な用語や表現に慣れていないからと思われる。それらの内容をテキストより一般的かつ具体的に示してやると、彼はすぐに納得した。話している感触として、学力が低いわけではないように思うのだが、講義の時間内だけではそこまで至れないのだろう。また、大学が終わったら練習に行かねばならないとなると、周囲に教えを乞う時間もないはずだ。
 あの日、ひどく困ったような表情で自分に頼み事をしてきた青年のことを、ローは思い出す。彼にとっては偶然降って湧いた藁にもすがる、といった思いだったのかもしれない。
 スマホの画面を見返した。つつと画面をタップして、検索する。先日の大会の結果が公式サイトから発表されていた。コビーの結果は二十人中十二位。参加するというだけで十分すごい。しかし、結果だけを切り取れば、好成績とは言い難い。
 時計を見ると、夜九時を回っていた。帰宅してからあれこれ考えているうちに、夜が更けていたようだ。
 再び考えを巡らせ、また天井を眺めていたローだったが、ゆっくり腰を上げる。そして洗面所から二日分の洗濯物が入ったランドリーバッグとその他諸々を手にして、家を出た。いつものランドリーに行くために。
 夜になっても暑い日が始まり、続いている。アスファルトが昼間吸い込んだ熱気をじわじわと滲ませているかのように、空気が蒸されていた。日中は快適な空間で働いていたため、この暑さに慣れていない身体は如実に反応する。少し動くと、頭皮から汗が滲み出て、不快感が全身を支配していった。
 一瞬、明日にすればよかった、という考えが脳裏を過ぎる。
 しかし、この天気はしばらく変わらないと思ってしまえば、歩みを戻さずに済んだ。
 コインランドリーまでの距離をどんどん縮めていく。見えてきた店の窓からは、相変わらず煌々とした灯りが漏れていた。
 人影はない。今は誰もいないらしい。
 店内に入ってから、ローは気がついた。空いている洗濯機を、事前に確認していない。よく見れば全て埋まっていて、自分の洗濯を入れる余地はなかった。
 は、と口からため息が漏れ出る。どうしようか、と悩んだ。どの洗濯機も終わるまでの時間はまぁまぁある。どうしようもない。
 一度帰ろう、そう思った時、後ろで入り口が開く音がした。名前を呼ばれた。知っている声だった。
「あ、ローさん。こんばんは」
 振り返ると、トートバッグを肩にかけたコビーがいた。カバンの中にはテキストが入っているのだろう。大会での疲労など見えない、けろりとした顔をしている。ローはなんだか、拍子抜けした。彼はいつも通りだった。
……おう。久しぶりだな」
「あ〜、そうですね。しばらく来れなくて」
「大会だったんだろ」
 ローが指摘すると、そこでやっと青年はいつもの様子を崩す。目を見開き、「知ってたんですか」と言った。たまたま、とは言わず、まぁなと曖昧に返す。
 すると、コビーは眉尻を下げ、控えめに笑った。その声音にいつもの柔らかさはない。捲し立てるような早口は、彼らしくなかった。
「あはは、そうでしたか。いやぁ、恥ずかしいな。出たはいいですけど、全然で……。世の中にはすごい人がいっぱいいますからね。ぼくなんて、ぼくは、まだまだで……
 聞いていたローは、モヤモヤした。コビーの言葉は意味だけを受け取れば悔しさの表れにも聞こえるのだが、彼の表情は自身を卑下しているように見えたからだ。
 おれは、と青年の言葉を遮った。彼はローのことを見た。その瞳の色にローは、自分が何を言おうとしていたのか、迷ってしまう。
 しかし、今の彼に伝えてやりたい言葉を脳の中から探し出して、ゆっくり、言う。
「おれは、陸上競技について、詳しくはない。だが、失格になって最後までやり切れない選手もいる、と聞いた。おまえは最後まで残ったんだろ。それは、誇りに思っても、いいと思う」
 途中で、これではコビーを慰めているようだな、と思った。多分、彼もそう感じているだろう。滅多に口にしないような言葉に、口元が追いついていない不恰好さを自覚していた。
 コビーはローの言葉を受け止め、少し俯く。
 その間、洗濯機が動く音が響いていた。ここに誰か来たら、絶対に勘違いされる。客観的な自分は分かっていたが、それでも、黙って待っていた。
 少しして、コビーは顔を上げて言った。
……はい。ありがとうございます」
 気の抜けたような、その顔。ローはやっと気がつく。コビーは決していつも通りではなかった。通常通りを装っていた、だけだったのだ。
「今日は勉強は教えねぇぞ。というかするなよ」
 ローがそう投げかけると、青年はえっと驚いた顔をした。教えてもらうつもりだったのか、と呆れた。
「その代わり、慰労会だ。と言っても、ここじゃ飲み物ぐらいしか奢ってやれないが」
 それは、剣道部に所属していた時の慣例だった。結果がどうであれ、それまでの努力と健闘を労う。ローは特段前のめりではなかったが、次の活力を得るために、その時間は有意義だったと思っている。今だって、洗濯機が空くのを待つのにちょうどいい。
 ローの提案が意外だったのか、コビーは数度瞬いた。
「座ってろ。前みたいにコーヒーでいいか?」
 問いかけると、彼は出会った時のことを思い出したらしい。なぜか、視線を彷徨わせ始める。理由はすぐに分かった。
「あ、の……コーヒー以外で、お願い、します。ぼくまだ、苦手で……
………フッ」
「わ、笑わないでくださいよ」
 無茶を言う。ローは堪えてやる気なんてなくて、クツクツと声を漏らして笑った。


✴︎ 砲丸投げの名選手=ガープさん、です

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