
❶ Good midnight
月も星も見えぬ曇天の下、やっと帰宅したローは思い出した。己の惰性と連日の雨のせいで、洗濯物が大量に溜まっていることを。
医者という仕事柄、多忙を迫られる男の帰宅が夜遅いのはいつものことである。休みの日こそ立派な洗濯機で事を済ませるのだが、夜分遅くに回すことは憚られ(或いは洗濯を干すことを面倒に思う気持ちが勝り)、コインランドリーを利用することが多い。短時間で洗いから乾燥まで済ませられるというのは、生活時間が限られてしまうローにとって、メリットが大きいのだった。
しかし、ここ数日は大雨が続いた。せっかく帰宅したというのに、洗濯物を抱えて再び外に出ることを億劫がった。
その結果、手を洗うために洗面台に立った時、視界の端に映り込んだランドリーバッグの中に、如何ともし難い大きさの山が出来上がっているのが現状である。
はぁ、とため息をつくが、山がなくなるわけでもない。何より、このままでは着るものもなくなってしまう。特に下着がないのは致命的だ。明日は遅番。少しだけ、余裕はある。
ローはすでに濡らしてしまった両手をハンドタオルで拭うと、ランドリーバッグとサイフ、スマホを持って、玄関を出ることにした。
男が住むマンションから数分に位置する愛用のコインランドリーは、アプリで事前に空きを確認することができる。エレベーターを待つ間にアプリを開き、マイ店舗のアイコンをタップした。すぐさま店舗情報のページと共に稼働状況の結果が出る。こんな時間でも利用者は多いようで(むしろこんな時間だからこそ、というべきか)空いている洗濯機は残り一台という結果だ。その上、利用されている機器の運転時間も、早くても十数分残っている。利用者のアプリでドアにロックをかけることができるので、終了時刻ちょうどに来ない客も多い。ローも、待ち時間に買い物へと行くことがあるので、そんな利用をしてしまう客のよく気持ちが分かった。分かるからこそ、予想ができる。
ローは待ちぼうけの可能性を想像して、つい貧乏ゆすりをし始めていた。遅番とはいえ、明日も仕事があることに変わりない。とっととシャワーを浴び、ベッドで休みたいのに
…─。革靴のソールがコンクリート床を打ち鳴らす音が、通路に響いた。そうやって威嚇したって、エレベーターの速度は変わらない。男に合わせて、ランドリーバッグが小刻みに揺れるだけ。
いつもより遅く到着した気がするエレベーターに飛び込むと、次は電光板を睨んだ。職場に近く利便性もいい、と当時は満足して選んだマンションだ。けれど、このように出かけを急ぎたいときだけは、上層階寄りに住んでいることが悔やまれてくる。
なんとも贅沢な悩みすぎて、古馴染みたちには聞かせられない。非難されること必死である。分かってはいるが、住まいに完璧など、そうそうありはしないのだ。
ポーン、と軽やかな音を響かせ、エレベーターの扉が地上への到着を示す。ゆったりと開いた隙間からすり抜ける猫のように踊り出たローは、一歩一歩をこれでもかと大股で踏みしめ、ランドリーを目指した。
湿気を多く含んだ外気が肌に絡みつく。それを振り払うように歩き進んだ。住宅が多いエリアなので、街灯の明かりはどこか控えめである。そんな中で一等煌々とした光を大きな窓ガラスから溢しているのが、ローが愛用しているコインランドリー。狭い立地に収まる、コンパクトでシックな外観は、イマドキなカフェと言われてもおかしくはない。
徐々に建物へ近づくと、窓の向こうに人の影がポツリと見えた。済んだ洗濯を取りに来た客であれ、と願う。しかし自動ドアを潜り抜けたとき、その先客は今から洗い物をしようとしていると気がついた。その影が抱えている衣類はへたっていて、どう見たって洗う前の様相をしている。立っているのは、先ほどスマホで確認した番号がふられた洗濯機の前だった。
愕然とした。しかし、公共の場であることを思い出して、項垂れなかっただけえらいはずだ。ローは、奥歯を軽く噛み、いやな声を漏らすことを堪えた。それでも唇の隙間から漏れた吐息に色がついているなら、灰色に染まっていただろう。視線をうつろわせ、次に空きそうな台に目星をつけて、待つことにする。荷物を抱えて再び上階の自宅へ戻る気力はなかった。狭いので、座れるスペースはあるのはカウンタータイプのテーブルだけである。先客の後ろをすり抜けて、そちらを目指そうとする。
すると、その影はローの方を見た。チラリとではなく、グルリと。あの、と声をかけられた。一瞬、自分に対しての声掛けだと分からなかった。
「先に、使いますか?」
少年のようにあどけなさを残した顔つきの、しかし体躯は立派な青年である──先客は、ローに向かって、自分の前にある空の洗濯機を指差して言った。突然のことに、ローが咄嗟に固辞して返すよりも先に「急いでますよね」ときっぱり付け足して。隠したつもりだったのだがバレていたのかと思うと、気恥ずかしさはあった。けれど、ありがたくもある。
「いいのか? 待つことになるかもしれないぞ」
「はい。このランドリーを利用するのは初めてで、アプリが必要だとか分かっていませんでしたから
……。だったら先に使ってもらったほうが、効率もいいと思いますし」
眉尻を下げながら、洗濯物を抱えた腕とは反対の手で頭を掻く。彼の温和な印象を際立たせる、桃色の頭髪がくしゃっと乱れた。真っ白なLEDライトが、その表面にうっすらと光の輪を映し出していた。日中電子カルテを睨んでいた疲れ目にはひどく眩しい。
青年の厚意に、素直に甘えた。悪いな、と溢すと、いえと彼が一歩退く。互いの位置を入れ替わるように動いて、ローは溜め込んでいた洗濯物を全てそのドラムの中にぶち込んだ。そして扉を閉め、本体についているタッチパネルに表示されたQRコードを、アプリで読み取って、洗濯機との連携を済ませる。あとはいつも通りの洗濯メニューを設定し、スタートボタンを押した。
丸い窓の向こうで、水が投入される音が響き出す。これでひと段落と思うと、さっきは堪えた息が安堵を孕んで吐き出された。水音に、それは全て掻き消される。
ふと青年の方を見る。カウンターテーブルに腰をかけ、スマホを睨んでいた。恐らく、アプリをダウンロードしているのだと思われる。その背中を見て、ローは外へと出た。目指したのは数十メートルほど戻ったところにある自動販売機。少しだけ悩んで、缶コーヒーと缶コーラを買った。それを手に、再びランドリーへと戻る。
「
……どっちがいい?」
ローに変わって待ちぼうけをする青年に、二つ差し出した。彼は丸い目をさらに丸くして、ローの顔と二つの缶を見る。いきなり渡すのは不審だったな、と反省した。思っているより疲れているのかもしれない。そう結論づけながら、言葉を付け足す。
「先を譲ってもらった礼だ。どっちがいい」
そこまで言うと、青年も納得したようだった。おずおずと伸びた手は、缶コーヒーを選んだ。少し意外だったが、選択肢を用意しておいてよかったと思う。
「お気遣いいただいて、ありがとうございます」
「たいしたことじゃない。
……アプリは?」
「大丈夫そうです」
「そうか。ならいい」
チラリと並んだ洗濯機を見やれば、もう少しで乾燥も終わりそうな機器があった。大きな窓から見える外には、歩く人影も。真っ直ぐこちらへ歩を進めて来る様子から察するに、時間を守るタイプの客が使用していたようだった。
「じゃあ」
「あ、はい」
何も言わずに立ち去るのはどうかと思って、軽い一言をかけて外へ出た。あ、はい──気の抜けた青年の声が水音と混ざって、耳の奥に残っている。
家に戻るまでの間に、残った缶コーラを飲んだ。曇天模様を忘れさせるような炭酸の清涼感が、久しぶりに体の中を突き抜けた。
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