コビロ|ミッドナイト・ランドリー・ブギー

250517更新/現パロ:深夜のコインランドリーで出会うコビーくんとローさんのお話



❷ Nice to meet you

 相手の存在に、先に気がついたのはローの方だった。誰か先客がいるな、とは思っていた。だが、店内に入るまでそれが『あの日の青年』だとは気付けなかった。視界の隅に映り込んだ桃色が、一気に記憶を呼び起こしたのである。
「あ、」
 おまえは……、とまでは続けなかったが、つい声を漏らしていた。その音につられて、相手は視線をこちらを向ける。
 彼は前回とは違い、メガネをかけていた。夜色の瞳が、そのレンズの奥からローのことを捉えると、軽く見開かれる。そのため、電灯の輝きを取り込んで、一握の星が散ったのが分かった。
 彼もローに思い出したようで、ぺこりと頭を下げて返す。つむじの渦がはっきりと見えた。そこから飛び出した毛が、ふわふわと揺れた。
 ローは洗濯機にいつもの如く溜め込んでいた衣服を入れ、すばやくアプリの連携と設定を済ませる。スタートボタンを押せば、洗濯機は水を轟々と流し、衣類を洗うために張り切って動き出した。
 いつもならそこまで見届けて一度家に帰るのだが、今日はそのルーティンを少し変えた。青年と間を一つ空け、カウンターテーブルに座り、一呼吸置いて、青年に声をかける。このランドリーで、自分から誰かに話しかけるなんて、初めてのことだった。
……この間は助かった。ありがとう」
 あの日、洗い終わった洗濯物を取りに戻った頃には、青年の姿は既になかった。また会うことができたら、しっかりと伝えそびれてしまった礼を今度こそ言わねば、と心の奥底で考えていたのだ。
 ローの言葉を聞いた青年は、缶コーヒーと缶ジュースを見た時のように目を丸くした。すぐさま意味を理解したようで、首と手を横に振る。
「いえいえ、そんな! たいしたことでもなかったのに、こちらこそご馳走さまでした」
 彼が言う「大したことのないこと」を、さらりとできる人間の稀有さを、彼自身は分かっていないようだった。少なくとも、ローはできないタイプだと自認している。何より、あの時のローは間違いなく彼のおかげで助かったのだ。
 だと言うのに。謝辞を受け取るどころか礼を返してくる謙虚さに、とことん善い人間もいるものだ、と感心した。
……ああ、悪い。勉強中だったのか」
 よくよく見ると、彼はテーブルの上にテキストを広げていた。歳若いとは思っていたが、どうやら学生らしい。
 邪魔をしたな、と言うと、苦笑いが返ってきた。
「開く時間がなかったので持って来たんですけど、なかなか捗ってないんです。気にしないでください」
 気にするなと言われて気にしない、ということができないのがローである。そうか、と返しながらも、気になって開かれているページを覗いてみた。並んでいる用語は、どれも覚えがあるものばかりだ。
「内容は、生理学っぽいが……
「え、分かるんですか!」
「一応、医者をやっているんでな」
「お医者様なんですね。ああ、だからこんなに遅い時間に、ここに来るのか」
 青年は一人納得したように頷く。
 対するローは、じっとテキストを見た。生理学だが、医学部で学んだ人体生理学とは少々異なる内容が散見されて、気になったのだ。
 疑問を抱いている様子に気がついたのか、青年はテキストの表紙を掲げて見せてくれる。
「ぼくのこれは、正確には『運動生理学』です。医学部ではなくて体育大学に通っています」
「なるほど。通りでおれが覚えている内容とは違いがあるわけだ」
 運動生理学は、運動している際の身体の反応や変化についてを主に学ぶものだ。人体生理学を細分化した学問と言える。なので、知識として似通う部分があるのだろう。
 ローが学生時代に学んだことをぼんやりと思い出していると、青年がおずおずとした口調で尋ねてきた。それは、お願いでもあった。
……失礼を承知でお願いするんですけれど、分からないところがあって……少し聞いてもいいでしょうか?」
 ローは一瞬対応に悩んだが、今更自宅に戻るのも面倒だったし、テキストを読んでみたい気持ちが勝った。
 何より、まっすぐな人間を無碍にできない性分である。
 分かる範囲でいいなら、という答えに、青年はあからさまな安堵の笑みを浮かべてみせた。
 ローは、青年との間に一人分空けていた席を詰める。その方が教えやすいと思ったから。
 そして、わからないところを聞こうと口を開いて、それよりも先に聞かねばならなかったことを思い出した。
「そういえば、名前は?」
 当然のように会話を重ねていたが、まだ二人は顔見知りでしかなかった。このままだと「おまえ」と読んでしまいかねない。それは流石によくないだろう。
 ローの質問に、青年は少しポカンとした。自分のことだと理解できなかったのだろう。その丸い目を見ていると、なんだが愉快な気持ちになってくる。
……あ、コビー! コビーと言います」
「コビー、ね。おれはローだ」
「ローさん、ですね。よろしくお願いします」
 コビーは頭を下げた。つむじから飛び出した毛がまた揺れた。
 教えながら会話をしてみると、陸上競技をやっているらしかった。大学での講義を受けた後に練習に直行、そして家に帰ってくると、なかなか家事まで手が回らないのだという。だから、学友に教えてもらったこのコインランドリーを、時折利用することにしたらしい。
 少し、というはずだったが、教えるローも興が乗ってしまい、気がつけば青年の洗濯は終わりを迎えていた。
「ありがとうございました。おかげで授業にもついていけそうです」
「いや、おれとしてもいい復習になった」
 乾燥して温もりを帯びた洗濯物をランドリーバッグに入れて抱えながら礼を述べるコビーに、ローはそう返した。運動生理学はリハビリのための運動療法につながるところがあるので、悪い時間ではなかったのである。
「それじゃあ、また」
 コビーはそう言って、会釈をして、静かな街の中へと消えた。ローは「またな」と言いながら、職場以外でそのような挨拶をしたのはいつぶりだったか、と思った。形式的な言葉だが、それは、再び会うことを意識した意味を持つ。
 悪いと思うどころか、楽しんでいたのか。
 久しぶりの感覚に気づいた時、ローの洗濯機は終了の合図を出して、止まった。