逆髪
2025-05-05 22:32:17
4342文字
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2024/05/04スパコミの新刊の全文です。武新の小話3本、ぜんぶハピエン

『果実』

赤子の頭ほどの大きさの丸い柑橘を横倒しにし、へたの方から七分ほど切り落とす。よく研がれた小刀はいとも簡単にさくりとその身に入っていった。そして、ひっくり返して尻の部分も同じくらい切り落とす。
刃を通す感触は果実と手に馴染んでしまったそれとでは大きく違うものだ。新兵衛はふとそんなことを思った。
少し果肉が削がれてしまったが仕方がない。あとで厨房の英霊にこの皮を渡せば、煮付けてジャムとやらにしてくれるかもしれない。
この文旦という柑橘は分厚い果皮が特徴で、剥き方には少しコツがいる。文旦の切断面から切断面へ、十字型になるよう、縦方向に切れ目を入れていく。親指をへたのあった部分に突っ込み、少しだけ力を入れて、わしりとその身を半分、さらに半分に割った。
ふわりと爽やかな香りが漂った。食べるにはちょうど良い頃合いだろう。
房を少し切ってぺりぺりと薄皮を剥いでいく。皮の白いワタの部分もきれいに剥けて、少し気分が良い。案外多い種をちまちまと取り、チラシで適当に作った紙箱に薄皮と共に捨てた。
こうしてようやく文旦を食べられるのだ。皮が厚い、剥きにくい、種も多いと苦労ばかり。すっかり手もベタついているが、その労も報われるくらいに美味であることを新兵衛はよく知っていた。爽やかな甘さと酸味を思い出し、口の中に唾液が滲む。
一房くらいなら食べてもいいだろうか。つやつやと輝く身を眺めていると、ふと欲望が湧いてしまう。だがこれは己のものではないのだ。新兵衛は理性でそれをぐっと押さえつけ、果実を小皿に置いた。
「入るぞ 」
部屋の前で声がした。そして返事をするよりも先に扉が開いた。
奥から現れたのは、義兄である武市であった。座卓から立ち上がろうとしたところを手で制され、新兵衛はその場で頭を下げた。
「先生、お待ちしていました」
「ああ。ん、それは?」
「文旦です。良いものが入ったので、ぜひ食べていただきたく」
そういう理由で彼を呼んだのであった。どうぞ、卓につくように促すと、向かい側ではなく、武市は新兵衛の方へやってきた。そして、そのままごろりと寝転がり、胡座をかいていた新兵衛の足の上に頭を置いた。
「食べさせてくれるか?」
「はい」
予想外のことに動揺するが、新兵衛はそれを努めて表には出さず、果実を剥くことに専念しようとした。
近頃の武市はこういう戯れのようなことをよくやってくる。新兵衛はいつも戸惑うばかりだが、嬉しさと気恥ずかしさを天秤にかけてみると、少しばかり嬉しさの方に傾いているのを自覚していた。
先刻と同じように薄皮を剥ぎ、種をとる。顕になった輝く身を、親鳥が雛にそうしてやるように彼の口元に運ぶ。果実を含むと、彼の表情が緩むのがわかった。
「美味いな」
「何よりです」
黙々とそれを繰り返す。すっかり手は果汁で濡れ、強い香りが食欲を刺激する一方で、その欲が満たされることはない。だが、潮が次第に満ちていくように、それ以外の部分が充足しているのを感じる。
武市のために己の手を汚す。それが人を斬ることであれ、厚い文旦の皮を剥くことであれ、新兵衛にとっては何ら変わらないことであった。たとえその思いが他人に理解されずとも、それは新兵衛にとって喜びであった。
「君も少しは食べなさい」
彼に促されて、はじめに剥いてそのままになっていた一房を口に運んだ。
「どうだ?」
「ええ、美味しいです」
甘く酸っぱく、そして少しだけほろ苦い。まるで今こうして過ごす束の間の幸せのようだった。