Privatter+
Font
Serif
Sans Serif
Color
Light
Dark
auto
Font size
Large
Medium
Small
Language
Japanese
English
Sign in with Google
Sign in with ID and password
Account ID
Password
Sign in
Forgot password?
Create account
山城まつり
2025-05-04 16:54:43
30145文字
Public
シャルラッハロートの診療録
Clear cache
シャルラッハロートの診療録|Ep.9【完結】
最終章:ベリル・ザ・ブレイブ
エピローグ:ヒーローの解
シャルラッハロートの診療録(初稿)、一応、完結です~~~~~~~~!!!!!!
めちゃくちゃ長くなりました 付き合ってくださった方、ありがとうございました!!!
めちゃくちゃ頑張ったので感想くださると嬉しいでs((((すみません))))
翠達を取り巻く事件もいよいよクライマックス。なんとか盛り上がりっぽくできていたら幸いです。語彙力、もう尽きました。もう何も出ないよ カサカサだよ
前回:シャルラッハロートの診療録|Ep.8
https://privatter.me/page/6810a45f9d11c
シリーズ:
https://privatter.me/user/YamashiroMatsuri?category=70961
本シリーズには医療の描写を含みますが、作者は医療従事者ではありません。論文、医学書、ホームページなどを参考に執筆しておりますが、現実の医療と異なる可能性があります。ご了承ください。
それでは、皆様にとって良い時間になりますように。
1
2
3
4
5
静寂の中、バイタルモニターの電子音だけが響いている。宙に浮いた無影灯が照らすメディの胸腹部には、まるで空が落ちてきたような風穴がひとつ、穿たれていた。泣きそうになるのを堪えて口を引き結ぶ。皮膚も骨も肉も、魔法因子と共に「概念」ごと抉り取られている。それでも、命の灯火はまだ消えてはいなかった。
「心拍44、血圧測定不能。サチュレーションは70切ってる。レイ先生、まずは────」
「焦るな、綾瀬。まずは舞台を整える。
……
魔術展開で、器具の生成は可能か?」
怜の問いに、翠は一抹の不安を憶える。ゼロから物体を生み出すのは、殆ど奇跡に近い魔術だ。容易く出来るようなものではない。しかし、伊織は強い光の下で力強く微笑み返した。
「
……
勿論。サナ、いけるよね?」
「勿論ですっ!お任せください!
……
回路を顕現します!」
足元に、薄紅の陣が浮かぶ。何も描かれていない二重の円環が、対照的な方向を向いて静かに回転していた。
伊織が指先で紋様を描きながらコードを唱える。空に描かれた図は決して人間が理解できるものではない。まるで機械に命令を入力するように、彼が作り上げた独自の形態を、独自の規則を緩やかに紡ぎ出す。
「医科魔術・幽玄回路構築。コード【
構術
こうじゅつ
】、魔術式入力────
[CTR-λ:SUR/TOO-352::OS-CST]
“空白の掌よ、癒しの意志を掬い、救済の器を成せ”
……
出力を求む!」
「事象変換回路構築、完了。コード【構術】を検知────認証。医科魔術を出力いたします!」
高らかな宣言と共に、足元の陣に英数列が刻まれ眩く光る。円の中央に五芒星が編まれ、回転し、ゼロとイチから成る光の粒子が手元に収束する。翠はそれを掴んだ。握られたそれ、
剪刃
せんとう
はまるで氷のように透き通り、純粋な輝きを従えて彼を見上げている。それは、「救う」という概念から生まれた手術器具。魔術が生み出す、医のための道具。
僅かに頷き、伊織を見遣る。彼は相変わらずにこやかに、そして凛々しく笑っていた。
「
……
サンキュ。絶対に、救うからな」
「力を入れすぎるなよ、櫻田。頼れるものは頼れ。例え、お前が嫌う魔法医療であってもな」
「分かってる。輸血も足りない、出血は最小限に抑えねぇとメディが持たない。
……
切開は全部、黒魔法による【
剔抉
てっけつ
】で行く。【剔抉】なら出血はしない。黒魔法なら、悪魔の体でも適応する────怜」
「分かっている」
怜が前に出て、言葉もなく指先を変形させた。鋭利な刃と化した手刀が、「切開」という概念を宿す。彼はその刃を携え、皮膚の上空をなぞるように振り下ろした。
「虚無の刃よ、穿て────【
剔抉
てっけつ
】」
それは、空間を切り裂き対象を消去する魔法。空気が裂け、果物をナイフで割るように、胸と腹が滑らかに開いた。そこからの出血は無い。赤には染まらない。だが、内側には彫られた彫像のように削げた肝臓、穿たれた横隔膜、剥き出しの血管の端々が覗いている。
翠はそれらを鋭く睨み、思考を組み立てる。
「ガーゼ」
「ああ」
即座に白い布地が傷口へと滑り込む。
胸腔
きょうくう
と
腹腔
ふくくう
に手際よく詰め込まれたガーゼの白を、赤がじわりと穢していく。魔法因子を抉る【
穿禍
せんか
】の概念は、組織を局所的に灼き焦がしており、その焦げた匂いが空気に滲んで鼻腔を突く。
「
肝左葉
かんさよう
、破裂してるな。腹腔内に────1.5リットルは血が溜まってる。
横隔膜
おうかくまく
も裂けてる、
……
心膜も穴空いてるじゃん」
冷静な分析を下した次の瞬間、翠は右手を伸ばす。開創器、と唇が言葉を紡ぎ出すのと同時に、魔術式から生成された透明な器具が手渡される。それをメディの体内へと挿入し、傷口を展開する。視野を確保しながら、繊細な彼の腕は忙しなく動いて追加のガーゼを詰めていた。傷を開くのと同時進行で圧迫止血。そうでもしねぇと、術野が赤に溺れる。
背後では、サナが無言のまま輸血器具を構築していた。静かに父の腕へ針を刺せば、Rhマイナスの血液がサクションを通じて流れ始める。輸血の開始を知った翠はもう一度、手順を洗い直す。
……
順番的には、肝臓、動脈吻合、横隔膜、心膜。四つの同時施術だ。難易度は高い────けど、俺ならやれる。それを反芻しながら腹部中枢
……
風穴の中心へと目を向ける。
「左葉、裂傷端が壊死しかけてる。怜、【剔抉】でトリミングして。俺が縫う」
「言われなくとも」
二人の動きは、予め編まれた舞のように正確で優雅だった。翠が肝臓を引き、露出した小枝状の血管に、怜が無言で魔力の刃を滑らせる。無駄な組織が削除され、そこに翠の針が入って、引いて、縫い留める。銀の糸が
掌
てのひら
で踊り、裂けた肝実質が縫い合わされていく。それはひと繋ぎに術野を泳ぐが、次の瞬間、彼の手にはステープラーが握られていた。
ばつん、と刃が噛み合う。壊死部が一括で除去され、以前よりすっきりとした肝臓がそこにはあった。焼灼し、止血膜を当てながら確認すれば、
腸間膜
ちょうかんまく
の血管までもが破断していると分かる。
……
次、動脈吻合ね。翠は唇を舐め、伊織に人工血管を要求する。
「人工血管、だね。サナ!」
「はい
……
っ!【構術】いたします!」
再び回路が起動する。蒸気にも似た数列を纏った魔術陣から、透明な筒が立ち上がる。彼等のイメージが具現化され、直径、強度、そして柔軟性
……
その全てを備えた人工血管が、まるで印刷されるように輪郭を帯びた。
それを受け取り、翠はマイクロ鉗子を握る。蜘蛛の巣よりさらに細い10
―
0ナイロンの糸が指先で揺れ、手先の震えに応じるように微かに煌めいた。
「────。」
言葉を交わす余裕すら失い、ただ光と命の接続音が静かに空間を満たしていく。血流が繋がるたび、メディの指先が微かに動いたように錯覚する。彼女はまだ、そこに居る。彼女はまだ、生きている。それだけが、翠の心の奥に炎を灯し続けていた。
吻合を終える。繋がれた細い血脈が彼を激励している。
まだ、止まる訳にはいかない。怜が緊迫した雰囲気で呟いたのが眼前に聞こえた。
「横隔膜、下がってきている」
「
……
裂けたままじゃ、やっぱまずいか」
呼吸の要────横隔膜。それが破れてしまえば、胸腔と腹腔が繋がり、呼吸のたびに腹の臓器が肺を押し上げるという事態が起こる。結果、肺は満足に膨らまず、呼吸は破綻する。
……
どう考えてもまずいよな、普通に。そこまで考えて、翠は冷静を保ったまま声を上げた。
「横隔膜、先に閉じる。怜、二層縫合するから」
「嗚呼。デブリードマンから入る
……
綾瀬、補助を頼む」
「分かった!」
「サナちゃん、2
―
0ちょーだい」
「は、はい!翠さま!」
怜が壊死組織を丁寧に削る。
揃えられた端から翠が
把針器
はしんき
を取り、2-0の糸を躍らせる。
縫合感覚1cm、縫い代1cm。まるで唇が交わるように、柔らかく、しかし確かに繋ぎ止めていく。一針ごとに命が編まれ、現世にそれを呼び止めていく。
「ヒスイ先生、保護膜。
……
呼吸器系は応力分散が必要、だよね?」
「よく分かってんじゃん、伊織。
……
もらうな」
破れたシャツをただ縫うだけでは、再び裂けてしまう。だからその上に布を重ねて補強する────それは、医療でも同じ事。横隔膜は動く組織。縫合部が裂ければ全てが台無しだ。
幻想の保護膜が陣から浮かび上がる。それを縫い目に重ね、翠は再び針を手に取った。死を迎える過程を逆再生するかのように、命が着々と繋がれていく。肝臓が切離された。血管が塞がった。そしてようやく、肺の動きが戻ってきた。サナがサチュレーションの回復を喜ぶ。それを一瞥し、最後の処置に手を伸ばす。
「
……
次、心膜。伊織」
「
……
分かった。サナ、大丈夫?」
「だいじょう
……
ぶ、です
……
パッチ作れま────」
そう口にした彼女の声が、途中で掠れた。その異変に最初に振り向いたのは伊織だ。彼女の名を叫ぶ声が影の落ちぬ聖域の中に響き、絶望が室内に散った。
「サナッ!?」
少女の華奢な身体が、とさりと軽い音を立てて崩れ落ちる。電子音では測れないもう一つの衰弱が、死の匂いが、密室に立ち込め始めていた。
「
……
すみま、せん、ご主人、さま
……
これ、以上は
……
」
翠がひとつ、そちらに視線を送る。
「
……
魔法因子欠乏か」
サナの唇は紫色に染まり、翼は垂れていた。限界だった。素材創出と器具生成、その全てを一身に担っていたのだから。
……
奇跡に近いような魔術を頻出していれば、因子が尽きる事は分かりきっていた筈だった。それでも、彼女は闘った。素性も知れぬ「友」を救うために、己の身体を犠牲にしてまで。
「サナちゃん、ちょっと休んでな。あとは俺に任せてよ。
……
伊織も彼女についてやって。大丈夫」
口を突いて出た言葉は静かで、けれど確かに強い意志を帯びていた。伊織が頷く。それを確認して、目の前のもう一人の助手に手を伸ばす。
「怜、3
―
0」
「
……
パッチでなく縫合だと、新たな亀裂が生じる恐れもあるのだぞ」
「分かってるよ。でも────」
怜も、理解していた。翠の決意を、誰よりも。
それを感じながら、彼を信じながら、自信を匂わせて口角を持ち上げる。
「縫うしかないだろ。
コイツ
メディ
は、そんなにやわじゃない」
「
……
そうか」
糸が、渡される。
手に取った針と糸は微かに震え、銀の光を撒き散らした。けれど、その震えは迷いではない。その震えは恐れではなかった。
心膜の裂け目に、静かに針を通す。慎重に、しかし確実に。丁寧に、丁寧に、一針ずつ組織に糸を繋ぐ。縁を寄せ、一針、また一針。彼の瞳には、
些
いささか
かの曇りも、翳りすらもなかった。
信じていた。そして、信じている。今も、これからも、ずっと。
あの聖夜、彼女が伸ばしていた手を、掴むように。
────救う。救う、救う、救う。絶対に、死なせやしない。もし自分が概念の存在に成るというなら、この世界の神に成るというなら、彼女だけは、絶対に。
もう、泣かせたりしない。
雨も、雪も、互いにもう、懲り懲りなのだから。
「帰って来いよ、メディ」
糸を引く。銀が閃く。
唇が、静かに祈るように開いた。優しい約束を、
言祝
ことほ
いでいた。
「また、フレンチトースト焼いてやるから。遊びにだって、連れてってやるから。もう、誰も恨んでない。誰も憎んでない。だから────」
「 あはっ、聞いちゃったぁ 」
刹那、そんな掠れた
聲
こえ
が聞こえた。
春の終わりの風のような聲だった。
耳に届いた筈なのに、心の奥で鳴っていた。耳慣れた音、ふざけるような語尾。呼びかけるようで、揶揄うようで、けれど何よりも懐かしい声音が
……
確かに、翠の胸の内を震わせた。
縫合を止めて、顔を上げる。彼女の深紅の瞳は開かれていた。薄く柔らかな瞼の奥から、呑噬の悪魔が此方を見つめている。
「
……
お前、」
かろうじて、それだけを紡ぎ出したその瞬間。彼女の胸元から、光が立ち上がった。
それは、魔法陣だった。誰の詠唱も聞こえない、誰の周波も感じない夢幻の陣。術式もコードも存在しない、概念の独唱。空中に浮かぶ金色の糸────それが幾重にも交錯し、円を描き、文字を織りなして中心に五芒星を結ぶ。
言葉のない魔法。
それは魔法の一言に表しても良いのだろうか。
そう思うほどに神々しい、まさしく「救済」の詩であった。
「光
……
?」
伊織が呟き、目を見開く。奇跡の顕現に、怜が釘付けにされている。
翠の眼前で、命が目に見える形で繋ぎ止められていく。あの日越しの光が、彼女の一身に注がれていた。
光は、糸となって彼女の体内へ落ちていく。血の滲む朱い傷口に、一文字ずつ、静かに吸い込まれていく。まるで、その欠損を埋めるように。まるで、その悲しみを塞ぐように。シームが溶けて消えていく。赤が、白き肌に置き換わっていく。
糸は、接続を謳っているのではない。
糸は、再構築であった。
「概念」をも抉られた肉体に、再び存在の輪郭が縫い直されていく。器官の形が、筋繊維の織りが、魔法因子の流路が、物語をなぞるように再生されていく。翠が繋いだ命をもう一度、確実なものとして定義するように。
「 二度、救いを希った、
おにーさんのために 」
柔らかな声が二重になって降り注ぐ。ソプラノの音の中に、妹の面影を抱いた。
癒しではない。
修復でも、回復でもない。
この概念は、「救済」だ。
彼女の内に残された、彼女を此処に繋ぎ止める、たった一つの祈りだった。
────*もうおにーちゃんが、泣かずに済みますように*。
その想いは、奇跡となった。
その想いは、現実となった。
翠と同じ力を持つ者の、幻想を抱く少女の祈りが魔法となり、世界の傷を縫っている。
「
……
ひい、ろ?」
絞り出した声は、情けないほど震えていた。シャルラッハロートの枷で囚われ続けていたのだと思っていた。救えなかった、何も成せなかった、寧ろ、壊してしまったのだと、そう信じていた。
違うんだよ、と微笑むように。
メディの身体が、音もなく浮き上がる。
金糸がなおも宙に舞い、彼女の背へと収束してゆく。束ねられ、繋がれ、重なって────やがて光は、三対の巨大な羽を形作った。その姿は翠の識る「悪魔」ではない。悲しみも、呪いも、怒りさえも抱き締めてなお立つ、ひとりの強き存在であった。
「
……
ヒーローは遅れて登場する、って
……
おにーさんが言ったんだよぉ」
ふわりと解けた髪が舞う。彼女は静かに、翠に歩み寄った。
「ボク独りじゃ、戻ってはこられなかった。おにーさんが、助けてくれたんだよ」
その声は涙を滲ませている。震えた泣き笑いだったが、確かにあたたかくて。言いたい言葉を呑み込んで、ぐちゃぐちゃの頭の中で反芻して、ようやく振り絞ったのは、後悔するほど幼稚な言葉だ。
「莫迦。ちがう。俺が、殺しかけたんだ。莫迦なのは、ずっと俺で────」
「おにーさんは、誰も殺してない。誰も、悪くないんだ。誰も、恨まなくていいんだ。自分自身すらも」
「
……
っ、」
もう、何も言えなかった。雫が目頭から溢れ出て、無秩序に頬を伝った。それが「涙」だという事を、数十秒の後に知る。止まらなかった。抑えられなかった。呪われるべきだと思って生きてきたのに、嫌われるべきだと思って生きてきたのに、目の前の彼女は、そんな穢れた想いすらも────喰らって受け入れてしまったのだから。
「ありがとう、おにーさん。一度目は、キミを庇って死にかけた時。二度目は、キミに真実を告げられなくて死にかけた時。
……
ボクを救ってきれたのは、いつだってキミだった。ありがとう。本当に、そう思ってるんだよ」
「
……
ばか。ばかメディ」
震える声で、掠れる声で、そう紡ぐ。彼女がそっと、彼を抱き締める。その胸の中で翠は泣いた。あたたかくて、やさしくて、ああ、自分も赦されていいのだと、初めてそう思って。
「いつもふざけてばっかのくせに
……
っ。こんなときだけ、ありがとうなんて、言うなよ
……
っ」
「ふふ。だってボク
……
悪魔だから」
「きらいだ。お前なんか、大嫌いだ────」
素直になれないその台詞が穏やかな響きを従えている事は、最早疑いようもない。
血と肉と、言葉と想いがひとつの命を編み上げた。それは、魔法でも医学でもない。そして同時に、魔法でも医学でもある。
人が人を想う、その行為が────「奇跡」と呼ばれる所以であった。
緋色の戒を読み解いたヒーローは思う。
これが、自分達の導き出した答えなのだと。
術後の空気が、余熱のように温かく残る。その柔らかな空気に対し懺悔をするように、背後でぽつりと女性の声がした。
「
……
本当は私、意地になっていただけなのかもしれない。和葉を救えなくて、怖くて。だって彼女を呪いの塊にしたのも、翠くんと緋ちゃんにそれを受け継がせたのも、私なのだから」
仙田教授だった。いつもの理性的な調子とは違う、もう一人の弱い彼女
……
本心の彼女がそう、零していて。思わず顔を向けると、彼女は生成された術室の隅で玄真に背を向けたまま、細く、細く語っていた。
翠は言葉を挟まず、ただそれを聞いた。父と、そしてかつての母の友人との間に流れる、赦しにも似た音色を。
玄真が静かに、どこか懐かしんでいる色を含めて彼女に返す。
「そうでもない。仙田教授、和葉はずっと
……
貴女を友だと言っていた。貴女に、人間にしてもらえたと喜んでいた。
……
貴女は、何も間違ってはいなかった」
その言葉に、仙田の肩がほんの僅かだけ震えた気がした。
「
……
けれど」と、少しだけ間を置いて玄真は続ける。
「魔法抗体は、塵に返すべきだ。あれはまだ、世に出すには幼すぎた」
その言葉を受けて、仙田の頬から雫が伝う。肩が再び震え、指先がペンダントを握り締める。彼女の足から力が抜け、そのまま地面に跪いて。ぽたぽたと、零す雨が石造りの床を濡らしていく。ひとつの罪を、彼女は認めようとしていた。
「そう、ね
……
そうよね
……
。少し、私達は、焦りすぎたのかもしれないわ。焦らなくとも、傷は、ゆっくりと癒えていくというのに。ごめんね
……
ごめんね、和葉────」
────無菌室の帳が、シャボン玉が割れるように弾ける。宙に浮かぶバイタルモニターも、器具も、手術があったという「事実」が、「証拠」が弾けて消える。けれど確かに、そこには命の営みがあった。誰もがそれを、記憶している。
翠は黙ったまま、そのやり取りを見ていた。赦すでも、裁くでもなく
……
ただ見つめていた。それは、自分が赦す罪ではない。誰かが容易く裁ける罪ではない。そこにあるのは緋色に囚われた「愛」なのだ。誰もが誰かを、強く想っている。故にすれ違い、傷つけ、咎を背負う。
それを、共に慰めていく。共に、受け入れていく。
空気の奥に沈殿していた長い長い年月の悔恨が、僅かに和らいだように思えた。
仙田を見つめていた玄真が、ふと此方に歩み寄る。翠の隣には、ハグを交わしたばかりのメディが居る。衣服の腹部は裂かれているが、そこに覗いているのは白い肌で、赤は一滴たりとも認められない。彼女が視線を持ち上げ、父を見上げた。
その視線を、翠は見ていた。
「
……
君は、変わってはいないね、メディヴァ。緋を助けたいと縋った時から、何一つ」
玄真の声は、どこか遠くを思い出すような色を含んでいた。
メディは微かに笑った。柔らかに、そして悪戯に。
「変わったさ。今は、ボク一人の力で救おうとは思わない。
……
魔法じゃ癒せない
疵
きず
は、在るのだから」
「
……
まったくだ」
その言葉が、翠の胸に染みた。魔法では届かない疵。魔法では、癒せない痕。だからこそ自分はメスを選んだのだ。人の力で、傷ついた誰かに寄り添うために。
父が、メディを真っ直ぐに見据えた。
「メディヴァ。私からの────最後の頼みだ」
彼女は首を傾げなかった。その言葉だけで、何をするべきか悟っているのだろう。この悪魔はどうしようもなく我儘で、身勝手で、マイペースで
……
けれど優しくて、穏やかで、聡明である事を翠はよく知っている。
メディは小さく頷いた。その瞳には、父と同じくらいの決意が滲んでいる。
「分かっているとも。
……
いいんだね?キミの研究の全てを、塵に還しても」
「構わない。
……
例えこの世界から『魔法抗体』の概念が消え去っても。私はまた、最初から始めよう。愛する者を、救うために」
その言葉に、翠はふっと息を漏らした。
父の口から「愛する者」という言葉が飛び出た事が不思議で、そして少しだけ、嬉しかったから。
「慰めにしかならないけど」とメディが続ける。
「キミの功績を憶えている人間は存在する。
……
ヒスイは、きっと忘れない。概念をその身に刻む、彼ならば」
翠は肩を竦めて、唇の端を持ち上げた。
口下手で、仕事熱心で、そして家族を愛する彼の紡いだ武勇伝。絶対に、忘れてたまるかよ────そんな想いを切に込めて。
「
……
親父の大失態、一生語り継いでやるよ」
それを聞いて、父が
……
玄真が眉を下げて笑った。「それは頼もしい」と応えたその口調は穏やかで、どこか安堵しているようなニュアンスを含んでいる。
メディが両手を空へと掲げた。
窓の外では、まだ黒雲が広がっている。雨は小降りになっているが、空はまだ、笑みを取り戻す事を赦してはいなかった。
「────さぁ、始めよう」
その声はやさしく、それでいて凛としていて。
これから起こる奇跡を、確かに期待させていた。
「魔法社会の基盤を書き換える、呑噬の時間だ」
言葉と共に、世界が軋む音がした。
空と大地に、巨大な魔法陣が展開される。幾重にもなった円環に紋様が刻まれ、歯車のように術式が回転し、天空から柔らかな粒子が降り注いだ。
その光の一つ一つが、光の文字列を形作っていく。
翠の足元にも、陣が広がる。何かが揺れていた。脳の奥、魂の中核で、ぐらぐらと。メディが両腕を突き出し、ゆっくりと近付ける。その中心にある「核」が、翠には見えていた。まるで星が膨張していくような、巨大な熱と光の渦、そして希望と、確かな愛。それらが陣と陣をひとつに繋ぎ、身を寄せ合い────そして、重なった。
瞬間、紅の光が爆ぜる。
ぱきん、と鋭い金属音がした。
人々の胸に掛けられていた名札が、砕けて外れるような音。
人々の心を縫い留めていた針が、割れて落ちるような音。
世界から、何かが失われた。人々の記憶が解けていく。鎖が文字へと変わり、空気に溶け、何もなかったのように消えていく。
……
けれど、翠には分かった。
今この瞬間、「魔法抗体」という存在が世界から消えていったのだという事を。
気付いているのは、自身と────彼女だけなのだ、という事を。
「もう一度聞こうか、クロマサ」
光が溶け、糸が宙に消えた静寂を払って、メディがわざとらしく首を傾げる。
「魔法抗体って、知ってる?」
玄真は一瞬だけ虚空を見つめ
……
そして、僅かに眉を顰めて唇を開いた。
「
……
魔法、抗体
……
?」
「うんうん、完璧ぃ!」
メディは笑った。まるで、世界が何も変わらなかったかのように、無邪気に。その笑顔は残酷だ。全ての人の記憶を、概念を喰らい、無かったことに変えて
……
その上で、それを「最初から無かったんだよ」と言い聞かせる彼女は、残酷だ。けれど、その奥には確かな優しさがある。コイツは、そういう存在だ。翠は息を吐き、くすりと小さく微笑んだ。
「
……
あーぁ、なんだかお腹壊しそう
……
。おにーさん、おかゆ作ってぇ」
「はいはい、卵がゆにしてやるよ」
「やけに優しいねぇ。うれしいねぇ」
「
……
別に。ただの気まぐれですぅ~」
再来した日常に、緊張の糸が緩んでいく。どうでもいいようなやり取りに思わず吹き出しそうになって
……
けれど、笑わなかった。弧を描いた口元は小さく震えていて、目の奥に溜まっていた何かが、熱に変わっていく。さっき、泣いただろ。二度も涙を見せてたまるかよ。そんな微弱な反抗心と共に、翠は静かに瞳を閉じる。
メディがふわりと、その胸元に頬を寄せた。とくん、とくんと心拍が一定のリズムを刻んでいる。呼吸は温かくて、生きている「証拠」がそこにはある。
「
……
ヒイロとね、約束したんだ」
彼女が紡ぐ声は、とても穏やかだった。その言葉を聞いて瞼を持ち上げれば、声音に見合う優しい笑顔を浮かべた悪魔が、此方を見上げていた。
「────『おにーちゃんを頼むよ』って。だからボクは、ずっと傍に居るよ。キミを呪うためじゃなく、キミを支えるために」
翠は長い瞬きを一度だけしてから、そっと目を伏せた。
どこか安堵するような笑い声が、喉から漏れた。
「
……
ふは、なんだよ
……
。俺は
……
最初からずっと、守られていたんだな」
雨は、止んでいた。
空の雲が薄らぎ、初夏の夜が世界を優しく包んでいく。山際を薄く染めるは紫。藍。そして、緋色。その色に、恐怖は感じない。過去の亡霊の幻など見ない。翠は真っ直ぐ、月が昇る方を見遣る。
そこにはもう、呪いも絶望も無かった。
ただ静かな拍動と、互いに寄り添うひとつの約束だけが、余韻を連れて残っていた。
1
2
3
4
5
Reaction
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.
Custom color
Reset color
広告非表示プランのご案内