山城まつり
2025-05-04 16:54:43
30145文字
Public シャルラッハロートの診療録
 

シャルラッハロートの診療録|Ep.9【完結】

最終章:ベリル・ザ・ブレイブ
エピローグ:ヒーローの解

シャルラッハロートの診療録(初稿)、一応、完結です~~~~~~~~!!!!!!
めちゃくちゃ長くなりました 付き合ってくださった方、ありがとうございました!!!
めちゃくちゃ頑張ったので感想くださると嬉しいでs((((すみません))))
翠達を取り巻く事件もいよいよクライマックス。なんとか盛り上がりっぽくできていたら幸いです。語彙力、もう尽きました。もう何も出ないよ カサカサだよ

前回:シャルラッハロートの診療録|Ep.8 https://privatter.me/page/6810a45f9d11c

シリーズ:https://privatter.me/user/YamashiroMatsuri?category=70961

本シリーズには医療の描写を含みますが、作者は医療従事者ではありません。論文、医学書、ホームページなどを参考に執筆しておりますが、現実の医療と異なる可能性があります。ご了承ください。

それでは、皆様にとって良い時間になりますように。


静寂の中、バイタルモニターの電子音だけが響いている。宙に浮いた無影灯が照らすメディの胸腹部には、まるで空が落ちてきたような風穴がひとつ、穿たれていた。泣きそうになるのを堪えて口を引き結ぶ。皮膚も骨も肉も、魔法因子と共に「概念」ごと抉り取られている。それでも、命の灯火はまだ消えてはいなかった。

「心拍44、血圧測定不能。サチュレーションは70切ってる。レイ先生、まずは────」
「焦るな、綾瀬。まずは舞台を整える。……魔術展開で、器具の生成は可能か?」

怜の問いに、翠は一抹の不安を憶える。ゼロから物体を生み出すのは、殆ど奇跡に近い魔術だ。容易く出来るようなものではない。しかし、伊織は強い光の下で力強く微笑み返した。

……勿論。サナ、いけるよね?」
「勿論ですっ!お任せください!……回路を顕現します!」

足元に、薄紅の陣が浮かぶ。何も描かれていない二重の円環が、対照的な方向を向いて静かに回転していた。
伊織が指先で紋様を描きながらコードを唱える。空に描かれた図は決して人間が理解できるものではない。まるで機械に命令を入力するように、彼が作り上げた独自の形態を、独自の規則を緩やかに紡ぎ出す。

「医科魔術・幽玄回路構築。コード【構術こうじゅつ】、魔術式入力────[CTR-λ:SUR/TOO-352::OS-CST]“空白の掌よ、癒しの意志を掬い、救済の器を成せ”……出力を求む!」
「事象変換回路構築、完了。コード【構術】を検知────認証。医科魔術を出力いたします!」

高らかな宣言と共に、足元の陣に英数列が刻まれ眩く光る。円の中央に五芒星が編まれ、回転し、ゼロとイチから成る光の粒子が手元に収束する。翠はそれを掴んだ。握られたそれ、剪刃せんとうはまるで氷のように透き通り、純粋な輝きを従えて彼を見上げている。それは、「救う」という概念から生まれた手術器具。魔術が生み出す、医のための道具。
僅かに頷き、伊織を見遣る。彼は相変わらずにこやかに、そして凛々しく笑っていた。

……サンキュ。絶対に、救うからな」
「力を入れすぎるなよ、櫻田。頼れるものは頼れ。例え、お前が嫌う魔法医療であってもな」
「分かってる。輸血も足りない、出血は最小限に抑えねぇとメディが持たない。……切開は全部、黒魔法による【剔抉てっけつ】で行く。【剔抉】なら出血はしない。黒魔法なら、悪魔の体でも適応する────怜」
「分かっている」

怜が前に出て、言葉もなく指先を変形させた。鋭利な刃と化した手刀が、「切開」という概念を宿す。彼はその刃を携え、皮膚の上空をなぞるように振り下ろした。

「虚無の刃よ、穿て────【剔抉てっけつ】」

それは、空間を切り裂き対象を消去する魔法。空気が裂け、果物をナイフで割るように、胸と腹が滑らかに開いた。そこからの出血は無い。赤には染まらない。だが、内側には彫られた彫像のように削げた肝臓、穿たれた横隔膜、剥き出しの血管の端々が覗いている。
翠はそれらを鋭く睨み、思考を組み立てる。

「ガーゼ」
「ああ」

即座に白い布地が傷口へと滑り込む。胸腔きょうくう腹腔ふくくうに手際よく詰め込まれたガーゼの白を、赤がじわりと穢していく。魔法因子を抉る【穿禍せんか】の概念は、組織を局所的に灼き焦がしており、その焦げた匂いが空気に滲んで鼻腔を突く。

肝左葉かんさよう、破裂してるな。腹腔内に────1.5リットルは血が溜まってる。横隔膜おうかくまくも裂けてる、……心膜も穴空いてるじゃん」

冷静な分析を下した次の瞬間、翠は右手を伸ばす。開創器、と唇が言葉を紡ぎ出すのと同時に、魔術式から生成された透明な器具が手渡される。それをメディの体内へと挿入し、傷口を展開する。視野を確保しながら、繊細な彼の腕は忙しなく動いて追加のガーゼを詰めていた。傷を開くのと同時進行で圧迫止血。そうでもしねぇと、術野が赤に溺れる。
背後では、サナが無言のまま輸血器具を構築していた。静かに父の腕へ針を刺せば、Rhマイナスの血液がサクションを通じて流れ始める。輸血の開始を知った翠はもう一度、手順を洗い直す。
……順番的には、肝臓、動脈吻合、横隔膜、心膜。四つの同時施術だ。難易度は高い────けど、俺ならやれる。それを反芻しながら腹部中枢……風穴の中心へと目を向ける。

「左葉、裂傷端が壊死しかけてる。怜、【剔抉】でトリミングして。俺が縫う」
「言われなくとも」

二人の動きは、予め編まれた舞のように正確で優雅だった。翠が肝臓を引き、露出した小枝状の血管に、怜が無言で魔力の刃を滑らせる。無駄な組織が削除され、そこに翠の針が入って、引いて、縫い留める。銀の糸がてのひらで踊り、裂けた肝実質が縫い合わされていく。それはひと繋ぎに術野を泳ぐが、次の瞬間、彼の手にはステープラーが握られていた。
ばつん、と刃が噛み合う。壊死部が一括で除去され、以前よりすっきりとした肝臓がそこにはあった。焼灼し、止血膜を当てながら確認すれば、腸間膜ちょうかんまくの血管までもが破断していると分かる。……次、動脈吻合ね。翠は唇を舐め、伊織に人工血管を要求する。

「人工血管、だね。サナ!」
「はい……っ!【構術】いたします!」

再び回路が起動する。蒸気にも似た数列を纏った魔術陣から、透明な筒が立ち上がる。彼等のイメージが具現化され、直径、強度、そして柔軟性……その全てを備えた人工血管が、まるで印刷されるように輪郭を帯びた。
それを受け取り、翠はマイクロ鉗子を握る。蜘蛛の巣よりさらに細い100ナイロンの糸が指先で揺れ、手先の震えに応じるように微かに煌めいた。

「────。」

言葉を交わす余裕すら失い、ただ光と命の接続音が静かに空間を満たしていく。血流が繋がるたび、メディの指先が微かに動いたように錯覚する。彼女はまだ、そこに居る。彼女はまだ、生きている。それだけが、翠の心の奥に炎を灯し続けていた。
吻合を終える。繋がれた細い血脈が彼を激励している。
まだ、止まる訳にはいかない。怜が緊迫した雰囲気で呟いたのが眼前に聞こえた。

「横隔膜、下がってきている」
……裂けたままじゃ、やっぱまずいか」

呼吸の要────横隔膜。それが破れてしまえば、胸腔と腹腔が繋がり、呼吸のたびに腹の臓器が肺を押し上げるという事態が起こる。結果、肺は満足に膨らまず、呼吸は破綻する。
……どう考えてもまずいよな、普通に。そこまで考えて、翠は冷静を保ったまま声を上げた。

「横隔膜、先に閉じる。怜、二層縫合するから」
「嗚呼。デブリードマンから入る……綾瀬、補助を頼む」
「分かった!」
「サナちゃん、20ちょーだい」
「は、はい!翠さま!」

怜が壊死組織を丁寧に削る。
揃えられた端から翠が把針器はしんきを取り、2-0の糸を躍らせる。
縫合感覚1cm、縫い代1cm。まるで唇が交わるように、柔らかく、しかし確かに繋ぎ止めていく。一針ごとに命が編まれ、現世にそれを呼び止めていく。

「ヒスイ先生、保護膜。……呼吸器系は応力分散が必要、だよね?」
「よく分かってんじゃん、伊織。……もらうな」

破れたシャツをただ縫うだけでは、再び裂けてしまう。だからその上に布を重ねて補強する────それは、医療でも同じ事。横隔膜は動く組織。縫合部が裂ければ全てが台無しだ。
幻想の保護膜が陣から浮かび上がる。それを縫い目に重ね、翠は再び針を手に取った。死を迎える過程を逆再生するかのように、命が着々と繋がれていく。肝臓が切離された。血管が塞がった。そしてようやく、肺の動きが戻ってきた。サナがサチュレーションの回復を喜ぶ。それを一瞥し、最後の処置に手を伸ばす。

……次、心膜。伊織」
……分かった。サナ、大丈夫?」
「だいじょう……ぶ、です……パッチ作れま────」

そう口にした彼女の声が、途中で掠れた。その異変に最初に振り向いたのは伊織だ。彼女の名を叫ぶ声が影の落ちぬ聖域の中に響き、絶望が室内に散った。

「サナッ!?」

少女の華奢な身体が、とさりと軽い音を立てて崩れ落ちる。電子音では測れないもう一つの衰弱が、死の匂いが、密室に立ち込め始めていた。

……すみま、せん、ご主人、さま……これ、以上は……

翠がひとつ、そちらに視線を送る。

……魔法因子欠乏か」

サナの唇は紫色に染まり、翼は垂れていた。限界だった。素材創出と器具生成、その全てを一身に担っていたのだから。
……奇跡に近いような魔術を頻出していれば、因子が尽きる事は分かりきっていた筈だった。それでも、彼女は闘った。素性も知れぬ「友」を救うために、己の身体を犠牲にしてまで。

「サナちゃん、ちょっと休んでな。あとは俺に任せてよ。……伊織も彼女についてやって。大丈夫」

口を突いて出た言葉は静かで、けれど確かに強い意志を帯びていた。伊織が頷く。それを確認して、目の前のもう一人の助手に手を伸ばす。

「怜、30」
……パッチでなく縫合だと、新たな亀裂が生じる恐れもあるのだぞ」
「分かってるよ。でも────」

怜も、理解していた。翠の決意を、誰よりも。
それを感じながら、彼を信じながら、自信を匂わせて口角を持ち上げる。

「縫うしかないだろ。コイツメディは、そんなにやわじゃない」
……そうか」

糸が、渡される。
手に取った針と糸は微かに震え、銀の光を撒き散らした。けれど、その震えは迷いではない。その震えは恐れではなかった。
心膜の裂け目に、静かに針を通す。慎重に、しかし確実に。丁寧に、丁寧に、一針ずつ組織に糸を繋ぐ。縁を寄せ、一針、また一針。彼の瞳には、いささかかの曇りも、翳りすらもなかった。
信じていた。そして、信じている。今も、これからも、ずっと。
あの聖夜、彼女が伸ばしていた手を、掴むように。
────救う。救う、救う、救う。絶対に、死なせやしない。もし自分が概念の存在に成るというなら、この世界の神に成るというなら、彼女だけは、絶対に。
もう、泣かせたりしない。
雨も、雪も、互いにもう、懲り懲りなのだから。

「帰って来いよ、メディ」

糸を引く。銀が閃く。
唇が、静かに祈るように開いた。優しい約束を、言祝ことほいでいた。

「また、フレンチトースト焼いてやるから。遊びにだって、連れてってやるから。もう、誰も恨んでない。誰も憎んでない。だから────」



「  あはっ、聞いちゃったぁ  」



刹那、そんな掠れたこえが聞こえた。
春の終わりの風のような聲だった。
耳に届いた筈なのに、心の奥で鳴っていた。耳慣れた音、ふざけるような語尾。呼びかけるようで、揶揄うようで、けれど何よりも懐かしい声音が……確かに、翠の胸の内を震わせた。
縫合を止めて、顔を上げる。彼女の深紅の瞳は開かれていた。薄く柔らかな瞼の奥から、呑噬の悪魔が此方を見つめている。

……お前、」

かろうじて、それだけを紡ぎ出したその瞬間。彼女の胸元から、光が立ち上がった。
それは、魔法陣だった。誰の詠唱も聞こえない、誰の周波も感じない夢幻の陣。術式もコードも存在しない、概念の独唱。空中に浮かぶ金色の糸────それが幾重にも交錯し、円を描き、文字を織りなして中心に五芒星を結ぶ。
言葉のない魔法。
それは魔法の一言に表しても良いのだろうか。
そう思うほどに神々しい、まさしく「救済」の詩であった。

「光……?」

伊織が呟き、目を見開く。奇跡の顕現に、怜が釘付けにされている。
翠の眼前で、命が目に見える形で繋ぎ止められていく。あの日越しの光が、彼女の一身に注がれていた。

光は、糸となって彼女の体内へ落ちていく。血の滲む朱い傷口に、一文字ずつ、静かに吸い込まれていく。まるで、その欠損を埋めるように。まるで、その悲しみを塞ぐように。シームが溶けて消えていく。赤が、白き肌に置き換わっていく。

糸は、接続を謳っているのではない。
糸は、再構築であった。

「概念」をも抉られた肉体に、再び存在の輪郭が縫い直されていく。器官の形が、筋繊維の織りが、魔法因子の流路が、物語をなぞるように再生されていく。翠が繋いだ命をもう一度、確実なものとして定義するように。

「  二度、救いを希った、
     おにーさんのために  」

柔らかな声が二重になって降り注ぐ。ソプラノの音の中に、妹の面影を抱いた。

癒しではない。
修復でも、回復でもない。
この概念は、「救済」だ。
彼女の内に残された、彼女を此処に繋ぎ止める、たった一つの祈りだった。

────*もうおにーちゃんが、泣かずに済みますように*。

その想いは、奇跡となった。
その想いは、現実となった。
翠と同じ力を持つ者の、幻想を抱く少女の祈りが魔法となり、世界の傷を縫っている。

……ひい、ろ?」

絞り出した声は、情けないほど震えていた。シャルラッハロートの枷で囚われ続けていたのだと思っていた。救えなかった、何も成せなかった、寧ろ、壊してしまったのだと、そう信じていた。
違うんだよ、と微笑むように。
メディの身体が、音もなく浮き上がる。

金糸がなおも宙に舞い、彼女の背へと収束してゆく。束ねられ、繋がれ、重なって────やがて光は、三対の巨大な羽を形作った。その姿は翠の識る「悪魔」ではない。悲しみも、呪いも、怒りさえも抱き締めてなお立つ、ひとりの強き存在であった。

……ヒーローは遅れて登場する、って……おにーさんが言ったんだよぉ」

ふわりと解けた髪が舞う。彼女は静かに、翠に歩み寄った。

「ボク独りじゃ、戻ってはこられなかった。おにーさんが、助けてくれたんだよ」

その声は涙を滲ませている。震えた泣き笑いだったが、確かにあたたかくて。言いたい言葉を呑み込んで、ぐちゃぐちゃの頭の中で反芻して、ようやく振り絞ったのは、後悔するほど幼稚な言葉だ。

「莫迦。ちがう。俺が、殺しかけたんだ。莫迦なのは、ずっと俺で────」
「おにーさんは、誰も殺してない。誰も、悪くないんだ。誰も、恨まなくていいんだ。自分自身すらも」
……っ、」

もう、何も言えなかった。雫が目頭から溢れ出て、無秩序に頬を伝った。それが「涙」だという事を、数十秒の後に知る。止まらなかった。抑えられなかった。呪われるべきだと思って生きてきたのに、嫌われるべきだと思って生きてきたのに、目の前の彼女は、そんな穢れた想いすらも────喰らって受け入れてしまったのだから。

「ありがとう、おにーさん。一度目は、キミを庇って死にかけた時。二度目は、キミに真実を告げられなくて死にかけた時。……ボクを救ってきれたのは、いつだってキミだった。ありがとう。本当に、そう思ってるんだよ」
……ばか。ばかメディ」

震える声で、掠れる声で、そう紡ぐ。彼女がそっと、彼を抱き締める。その胸の中で翠は泣いた。あたたかくて、やさしくて、ああ、自分も赦されていいのだと、初めてそう思って。

「いつもふざけてばっかのくせに……っ。こんなときだけ、ありがとうなんて、言うなよ……っ」
「ふふ。だってボク……悪魔だから」
「きらいだ。お前なんか、大嫌いだ────」

素直になれないその台詞が穏やかな響きを従えている事は、最早疑いようもない。
血と肉と、言葉と想いがひとつの命を編み上げた。それは、魔法でも医学でもない。そして同時に、魔法でも医学でもある。
人が人を想う、その行為が────「奇跡」と呼ばれる所以であった。

緋色の戒を読み解いたヒーローは思う。
これが、自分達の導き出した答えなのだと。

術後の空気が、余熱のように温かく残る。その柔らかな空気に対し懺悔をするように、背後でぽつりと女性の声がした。

……本当は私、意地になっていただけなのかもしれない。和葉を救えなくて、怖くて。だって彼女を呪いの塊にしたのも、翠くんと緋ちゃんにそれを受け継がせたのも、私なのだから」

仙田教授だった。いつもの理性的な調子とは違う、もう一人の弱い彼女……本心の彼女がそう、零していて。思わず顔を向けると、彼女は生成された術室の隅で玄真に背を向けたまま、細く、細く語っていた。
翠は言葉を挟まず、ただそれを聞いた。父と、そしてかつての母の友人との間に流れる、赦しにも似た音色を。
玄真が静かに、どこか懐かしんでいる色を含めて彼女に返す。

「そうでもない。仙田教授、和葉はずっと……貴女を友だと言っていた。貴女に、人間にしてもらえたと喜んでいた。……貴女は、何も間違ってはいなかった」

その言葉に、仙田の肩がほんの僅かだけ震えた気がした。
……けれど」と、少しだけ間を置いて玄真は続ける。

「魔法抗体は、塵に返すべきだ。あれはまだ、世に出すには幼すぎた」

その言葉を受けて、仙田の頬から雫が伝う。肩が再び震え、指先がペンダントを握り締める。彼女の足から力が抜け、そのまま地面に跪いて。ぽたぽたと、零す雨が石造りの床を濡らしていく。ひとつの罪を、彼女は認めようとしていた。

「そう、ね……そうよね……。少し、私達は、焦りすぎたのかもしれないわ。焦らなくとも、傷は、ゆっくりと癒えていくというのに。ごめんね……ごめんね、和葉────」

────無菌室の帳が、シャボン玉が割れるように弾ける。宙に浮かぶバイタルモニターも、器具も、手術があったという「事実」が、「証拠」が弾けて消える。けれど確かに、そこには命の営みがあった。誰もがそれを、記憶している。
翠は黙ったまま、そのやり取りを見ていた。赦すでも、裁くでもなく……ただ見つめていた。それは、自分が赦す罪ではない。誰かが容易く裁ける罪ではない。そこにあるのは緋色に囚われた「愛」なのだ。誰もが誰かを、強く想っている。故にすれ違い、傷つけ、咎を背負う。
それを、共に慰めていく。共に、受け入れていく。
空気の奥に沈殿していた長い長い年月の悔恨が、僅かに和らいだように思えた。

仙田を見つめていた玄真が、ふと此方に歩み寄る。翠の隣には、ハグを交わしたばかりのメディが居る。衣服の腹部は裂かれているが、そこに覗いているのは白い肌で、赤は一滴たりとも認められない。彼女が視線を持ち上げ、父を見上げた。
その視線を、翠は見ていた。

……君は、変わってはいないね、メディヴァ。緋を助けたいと縋った時から、何一つ」

玄真の声は、どこか遠くを思い出すような色を含んでいた。
メディは微かに笑った。柔らかに、そして悪戯に。

「変わったさ。今は、ボク一人の力で救おうとは思わない。……魔法じゃ癒せないきずは、在るのだから」
……まったくだ」

その言葉が、翠の胸に染みた。魔法では届かない疵。魔法では、癒せない痕。だからこそ自分はメスを選んだのだ。人の力で、傷ついた誰かに寄り添うために。
父が、メディを真っ直ぐに見据えた。

「メディヴァ。私からの────最後の頼みだ」

彼女は首を傾げなかった。その言葉だけで、何をするべきか悟っているのだろう。この悪魔はどうしようもなく我儘で、身勝手で、マイペースで……けれど優しくて、穏やかで、聡明である事を翠はよく知っている。
メディは小さく頷いた。その瞳には、父と同じくらいの決意が滲んでいる。

「分かっているとも。……いいんだね?キミの研究の全てを、塵に還しても」
「構わない。……例えこの世界から『魔法抗体』の概念が消え去っても。私はまた、最初から始めよう。愛する者を、救うために」

その言葉に、翠はふっと息を漏らした。
父の口から「愛する者」という言葉が飛び出た事が不思議で、そして少しだけ、嬉しかったから。
「慰めにしかならないけど」とメディが続ける。

「キミの功績を憶えている人間は存在する。……ヒスイは、きっと忘れない。概念をその身に刻む、彼ならば」

翠は肩を竦めて、唇の端を持ち上げた。
口下手で、仕事熱心で、そして家族を愛する彼の紡いだ武勇伝。絶対に、忘れてたまるかよ────そんな想いを切に込めて。

……親父の大失態、一生語り継いでやるよ」

それを聞いて、父が……玄真が眉を下げて笑った。「それは頼もしい」と応えたその口調は穏やかで、どこか安堵しているようなニュアンスを含んでいる。

メディが両手を空へと掲げた。
窓の外では、まだ黒雲が広がっている。雨は小降りになっているが、空はまだ、笑みを取り戻す事を赦してはいなかった。

「────さぁ、始めよう」

その声はやさしく、それでいて凛としていて。
これから起こる奇跡を、確かに期待させていた。

「魔法社会の基盤を書き換える、呑噬の時間だ」

言葉と共に、世界が軋む音がした。
空と大地に、巨大な魔法陣が展開される。幾重にもなった円環に紋様が刻まれ、歯車のように術式が回転し、天空から柔らかな粒子が降り注いだ。
その光の一つ一つが、光の文字列を形作っていく。
翠の足元にも、陣が広がる。何かが揺れていた。脳の奥、魂の中核で、ぐらぐらと。メディが両腕を突き出し、ゆっくりと近付ける。その中心にある「核」が、翠には見えていた。まるで星が膨張していくような、巨大な熱と光の渦、そして希望と、確かな愛。それらが陣と陣をひとつに繋ぎ、身を寄せ合い────そして、重なった。
瞬間、紅の光が爆ぜる。

ぱきん、と鋭い金属音がした。
人々の胸に掛けられていた名札が、砕けて外れるような音。
人々の心を縫い留めていた針が、割れて落ちるような音。
世界から、何かが失われた。人々の記憶が解けていく。鎖が文字へと変わり、空気に溶け、何もなかったのように消えていく。
……けれど、翠には分かった。
今この瞬間、「魔法抗体」という存在が世界から消えていったのだという事を。
気付いているのは、自身と────彼女だけなのだ、という事を。

「もう一度聞こうか、クロマサ」

光が溶け、糸が宙に消えた静寂を払って、メディがわざとらしく首を傾げる。

「魔法抗体って、知ってる?」

玄真は一瞬だけ虚空を見つめ……そして、僅かに眉を顰めて唇を開いた。

……魔法、抗体……?」
「うんうん、完璧ぃ!」

メディは笑った。まるで、世界が何も変わらなかったかのように、無邪気に。その笑顔は残酷だ。全ての人の記憶を、概念を喰らい、無かったことに変えて……その上で、それを「最初から無かったんだよ」と言い聞かせる彼女は、残酷だ。けれど、その奥には確かな優しさがある。コイツは、そういう存在だ。翠は息を吐き、くすりと小さく微笑んだ。

……あーぁ、なんだかお腹壊しそう……。おにーさん、おかゆ作ってぇ」
「はいはい、卵がゆにしてやるよ」
「やけに優しいねぇ。うれしいねぇ」
……別に。ただの気まぐれですぅ~」

再来した日常に、緊張の糸が緩んでいく。どうでもいいようなやり取りに思わず吹き出しそうになって……けれど、笑わなかった。弧を描いた口元は小さく震えていて、目の奥に溜まっていた何かが、熱に変わっていく。さっき、泣いただろ。二度も涙を見せてたまるかよ。そんな微弱な反抗心と共に、翠は静かに瞳を閉じる。
メディがふわりと、その胸元に頬を寄せた。とくん、とくんと心拍が一定のリズムを刻んでいる。呼吸は温かくて、生きている「証拠」がそこにはある。

……ヒイロとね、約束したんだ」

彼女が紡ぐ声は、とても穏やかだった。その言葉を聞いて瞼を持ち上げれば、声音に見合う優しい笑顔を浮かべた悪魔が、此方を見上げていた。

「────『おにーちゃんを頼むよ』って。だからボクは、ずっと傍に居るよ。キミを呪うためじゃなく、キミを支えるために」

翠は長い瞬きを一度だけしてから、そっと目を伏せた。
どこか安堵するような笑い声が、喉から漏れた。

……ふは、なんだよ……。俺は……最初からずっと、守られていたんだな」

雨は、止んでいた。
空の雲が薄らぎ、初夏の夜が世界を優しく包んでいく。山際を薄く染めるは紫。藍。そして、緋色。その色に、恐怖は感じない。過去の亡霊の幻など見ない。翠は真っ直ぐ、月が昇る方を見遣る。
そこにはもう、呪いも絶望も無かった。
ただ静かな拍動と、互いに寄り添うひとつの約束だけが、余韻を連れて残っていた。