山城まつり
2025-05-04 16:54:43
30145文字
Public シャルラッハロートの診療録
 

シャルラッハロートの診療録|Ep.9【完結】

最終章:ベリル・ザ・ブレイブ
エピローグ:ヒーローの解

シャルラッハロートの診療録(初稿)、一応、完結です~~~~~~~~!!!!!!
めちゃくちゃ長くなりました 付き合ってくださった方、ありがとうございました!!!
めちゃくちゃ頑張ったので感想くださると嬉しいでs((((すみません))))
翠達を取り巻く事件もいよいよクライマックス。なんとか盛り上がりっぽくできていたら幸いです。語彙力、もう尽きました。もう何も出ないよ カサカサだよ

前回:シャルラッハロートの診療録|Ep.8 https://privatter.me/page/6810a45f9d11c

シリーズ:https://privatter.me/user/YamashiroMatsuri?category=70961

本シリーズには医療の描写を含みますが、作者は医療従事者ではありません。論文、医学書、ホームページなどを参考に執筆しておりますが、現実の医療と異なる可能性があります。ご了承ください。

それでは、皆様にとって良い時間になりますように。


ベリル・ザ・ブレイブ



────広島空港、午後六時半。
折り鶴型に構成された天井、そこに埋め込まれた照明。それはいつもよりどこか暗く、冷たい光を床に散らしている。硝子張りの壁を打つ雨は世界との隔絶を強調するよう絶え間なく降り続け、遥か彼方で遠雷が光る。空気は重く湿り、足元にまで意思をもつイキモノのように、ぴったりと纏わりついていた。

そのロビーの一角、雑踏の中。静かに立ち尽くす二つの影があった。
一人は、深く彫られた顔立ちの男。眼窩に宿る影は過去の過ちを背負っているものの、その瞳が宿しているのは彼なりの正義であった。向かい合う女を咎めようとする意志は強く……しかしそこには迷いがあって。一方、対峙する彼女の眼差しは鋭い。それは冷酷な光を帯び、何よりも悲しみに満ちていた。

……悲劇を、これ以上生んではならない」

雨音が響く静寂を破り、そう口を開いたのは男だった。けれども女は、静かにかぶりを振って緩く唇を持ち上げる。

「そうは言っても、それが貴方の望んだ事だった筈よ」
「違う。私はただ────」
「もう遅いわ」

ぴしゃりと打ち返すような語調だった。それだけを告げた女の視線がゆっくりとロビーを見渡す。幾何学的な天井に置かれた人工照明の下、旅客たちがスマートフォンを見つめながらアナウンスに耳を傾けている。誰も気付かない。今此処で、国家医療の根底を揺るがす告白が交わされている事など。

『────十九時十分発、682便の機内へのご案内時刻は……

その機械的な女声に従って、女は一度スーツケースを転がし視線を逸らした。しかし男は依然としてその場を動かない。それを見遣った女は至極冷静に、そして冷ややかな声音で彼に真実を突き付けた。

……既にこの国の大多数がそれを身に投じている。そしてそれは、これから、世界に広まる。患者が増えるのも時間の問題なのかもしれない……けれど私達は、あの一件で痛感した筈よ。魔法医療の限界を。そしてそれを超えるためには、悪魔の力をも借りなければならないと。悪魔に魂を、捧げなければならないと」
「失敗だと、認めないつもりか」
「勿論。たかだか百人にも足らない犠牲で、この偉大な成果を諦めると?犠牲者は全て、最初のバージョンを投与したからでしょう。そんなものを失敗だなど、私は認めない」

男の肩が小さく揺れる。その手は固く、握られていた。拳の中に、震えを抱いて。

「ならば、仕方がない……貴女には、死を持って償ってもらう。これ以上、誰かが傷つくなど……

彼の声は低く、まるで鐘を打つように厳かだった。女はただ鼻で笑い、横目でロビーを映す。人がまばらに佇む公共の場である事を確認し、それをまざまざと彼に見せつけ────そして冷たい視線を投げかけた。

「私が死んだところで何も変わらない。それを生み出そうと言い始めた貴方が、それを実際に大勢に投与した貴方が、よくも裁けると思ったものよ。裁かれるべきは貴方でなくて?本当にそれの完成を願っていたのは、本当にそれを広めようと思っていたのは」
……ッ」
「私達は共犯なのよ。緋色の戒に囚われた、哀れな────」

その言葉を遮るように、複数の足跡が近付いてくる。女ははっとしてそちらを見上げ、男は地面に視線を縫い留めた。全ての罪が、暴かれようとしていた。
魔法医療の特異点に立つ彼が、円環を解きに来たのだから。

……ひすいには、最初から胸の奥に嫌な予感があった。それは初めて魔法抗体の論文を読んだあの日から、ずっと胸の奥でちらついていた疑念。曰く、体の中の「悪」を喰らうのだと。曰く、体には何の害も示さないのだと。あまりに理想的で、あまりに人間離れしたその成果に、どうしても違和感が拭い取れなかった。
目の前で向かい合う二人の姿を見て、その違和感が確信に変わる。背筋が凍るような想いを胸中に抱き、唇を結んだ。信じていたのに。信じようと、していたのに。その想いが背骨に走る氷結を促して、それが刺すように、痛くて。その痛みは冷静ではなく、怒りの火種を内に含んでいた。冷たい炎が、胸元からほとばしっていた。

……やっぱり、そういう事だったんだな」

掠れた声が自分のものだと気付くのに、数秒を要した。呆れや軽蔑では足りない、深い怒りが喉の奥を焦がしている。

「俺の推理が、最悪な暴論であって欲しかったよ」

唇から漏れたその言葉に、女が微かに瞳を伏せる。男は何も言わなかった。だが、その沈黙こそが全てであると、雄弁に物語っている。
背後に、れい伊織いおり、メディとサナが控えていた。二人の犯人を焙り出した仲間達は、静かに、静かに彼等の告白を待つ。人々のざわめきが背後に薄く聞こえる、完全な静寂でない沈黙の末────怜がゆっくりと、翠に続いた。

……本当に、貴方達がやったと言うのですか」

その声は、震えていた。
誰よりも医療を信じ、命を信じてきた人々の筈なのに。
彼の「信頼」という地盤がぐらぐらと揺れている。信じてきた。信じていたかった。それは自分だけでなく、目の前の彼も同じことだ。全てを語る沈黙に「全てを語らせている事」が許せなくて、一歩踏み込む。視線を彼等のもとに向け、溢れんばかりの敵意を持って睨みつけた。

「黙秘か?なぁ────仙田芳子せんだよしこと、櫻田玄真さくらだくろまさ

雷が落ちた。
まるで、真実が剥き出しにされた瞬間を奉祝ほうしゅくするかのように。空港の天井が一瞬白く照らされ、二人の人間の横顔を暴き出す。それは、紛れもなく、疑いようもなく、そして間違う筈もなく────仙田と、玄真その人であった。

「全ては、あんた達の過ちだったんだ」

絞り出した声が、空気を震わせる。
押さえ込んでいたものが、胸の中で風船のように弾けた。喉の奥がじりじりとほむらに灼かれる。声帯を通じて溢れてくる言葉の一つ一つは、肉を切り裂くような鋭い刃物と化して彼等に投げられた。

「魔法抗体を過信したんだ。異界の因子を取り込み、制御できると信じた……でも、それはただの幻想だった。あれは人にとって、呪いになる。ほうりであると共に、存在すら書き換える呪いに」

仙田は目を細め、それを一身に浴びている。傍観者のつもりかよ……彼女の冷たい視線に怒りさえ憶える。そんな翠を一瞥して、怜がゆっくりと一歩を踏み出した。その額には薄く汗が滲んでいたが、その声はいつも通り淡々とした一定のトーンを奏でている。……感情的になるな。そんな意図を汲み取って唇を噛み、彼の紡ぐ真実に耳を傾けた。

……魔法抗体は、悪魔の細胞。それは稀に患者の体内で異常増殖し、細胞の構造を悪魔由来のものに『書き換える』作用を持っています。異常細胞や損傷細胞すらも『悪』と認識し、暴走を起こす……いわば、自己細胞の『概念』を、外的な呪いで塗り替えてしまうのでしょう。悪魔の概念の刻印────即ち、人体に悪魔という概念を刻み込む」

伊織が静かに続ける。その言葉は優しく穏やかだが、微弱な震えを孕んでいた。瞳が、ほんの少しだけ揺れている。自身の体で「それ」が起こっていた事……その事実が彼を恐怖の底に突き落とそうと嘲っていた。けれど、それには怯まない。伊織はしっかりと二人の犯人を見据えて、ゆっくりと真実を口にする。

「悪魔は、白魔法と相性が悪い。白魔法による治療を行えば、悪魔細胞は自らを守るために魔法因子を大量放出する。その結果、局所的な高圧が形成され、血が噴き出す。原因不明の出血事例……これがその真相、なんですよね」

翠が最後に、熱を帯びた口調で突き付ける。
空港の喧騒が、遠のいていく感覚さえ憶える。それは自身の内側の世界が静かに、しかし確実に崩れ落ちていく事の暗示であった。

「その事を、あんた達は分かっていた筈だ!臨床データを見て、分からない筈がないだろ!……なのにあんた達は手を打たず、挙句の果てに患者を隠蔽し、無かった事にしようとした……何が目的だ!」

叫びは、もう既に怒りを超えていた。内側に巣食う悲嘆が暴れ回り、翠の理性を引き千切る。吐き出すように問い掛けた声が残響し、沈黙がその場の全てを呑み込んだ。雨の音が、硝子を叩く乾いたリズムを刻んでいる。もう一度落雷が耳をつんざき、その音は空港の天蓋てんがいにぶつかって跳ね返る。
仙田が口を開いたのは、その直後だった。スーツケースの取っ手を握る右手が、僅かに震えている。

……私はただ、彼の思想に感銘を受けただけよ」

その声は酷く静かで、そして酷く厳かだった。硬さの中に、ひびの入ったグラスのような不安定さを宿している。小さく細く、息が吐き出される。ルージュを塗られた唇がゆっくりと開かれ、揺れを抱いた声が綴られる。

「彼に責任転嫁をするつもりはないけれど……その思想は、素晴らしいものだった。魔法で命を救う姿勢に、私は心を奪われたの。治験段階から協力してくれた紀美のりみ……いぬい教授もそうだった。私達は、この抗体の紡ぐ未来に、希望があると信じてた────そう、本気で」

その視線が玄真に注がれ、僅かな沈黙が降りる。彼は、まるでそれを受け止めきれないように俯いた。
……父さん……?」そう、翠の口から自然と問いが零れる。違うなら、違うと言ってくれよ。幼稚な推理だなと笑い飛ばしてくれよ。そんな悲愴な願いを抱いても、彼は何も答えてはくれなかった。ただ口唇こうしんを僅かに震わせ、ひとつ呼吸を吐いてからぽつりと落とす。

…………救いたかったんだ。だから、魔法抗体を作った。それを続けた。ひいろの命を、犠牲にして」

翠の思考が、停止した。
今自分の耳に届いた言葉が、何を意味しているのか分からない。
────緋の命を犠牲にした?
そんな筈はない。緋を殺したのは自分だ。彼女の人格を悪魔に喰わせたのは「櫻田翠さくらだひすい」であり、「櫻田玄真」ではない筈だ。彼はただひたむきに、彼女を救おうと糸を繋いだ。彼女を救おうと、全力を尽くした。それを翠は知っている。だって、あの時、ずっと見ていたのだから!
目の前のこの男は、手術台の上で緋の命を繋ぎ止めた筈なのだ。そう、確かに、あの時!

……どういう、事だよ……

玄真は滑らかな石材で造られた地面だけを見つめながら、静かに告げる。
そこに、偽りの音は重なってはいなかった。

「────緋は、魔法抗体を接種した最初の患者なのだ」

翠の背中に、冷たいものが走った。

「十五年前……お前達が事故に遭う少し前。私は彼女に魔法抗体を投与した。それが未来を、人々の未来を守ると思ったからだ。だが……プロトタイプの魔法抗体は、彼女の体内で暴走した。あらゆる細胞が『悪』と判断され、気付いた時には全身細胞が……喰われ始めていたのだ」

視界が、揺れる。
彼は残酷に、冷酷に続けた。

……私は彼女に氷結魔法を掛け、その進行を封じた。今もなお、彼女は魔法省の管轄のもとで眠り続けている。……お前の知る『緋の事故』は全てが虚構であり、治療の見通しも立っていないのが事実だ」
「じゃあ……じゃあ、俺と事故に遭った緋は、誰だったんだよ……!?」

叫んだ声が、裏返った。
その時、後方から声が響く。それは柔らかく、優しく────そして致命的な音色を従えて。

「それはボクだよ、おにーさん」
「メディ、」

信じたくもない歪んだ真実。それが徐々に、現実味を帯びていく。やめろ。もう、聞きたくない。けれど真相を急かす内なる自分が一言一句を聞き漏らさまいと耳を立てている。喉がからからに乾いて、心臓が飛び出しそうなほど煩く拍動していた。

「魔法抗体の細胞は、ボクの細胞だ。だから、『ボクが彼女を喰べた』っていうのは、何も間違いじゃない。……ボクが、ヒイロを殺したんだ」

思考が、混濁する。
分からない。訳が、分からない。
────あの時、共に事故に遭ったのは、メディ?
マフラーに顔を埋めていたのも、白い水蒸気を吐き出す薄い唇も、優しく細められた黒い瞳も、紅潮した柔らかな頬も、血溜まりも、鉄の臭いも、掠れた声も、あの赤色も全部……メディだった?

じゃあ緋は?
いつから?
どうして?
いつから緋は『死んで』いた?

目の前の彼が、殺したのか?
自分の父親が?
自分の、家族が?
家族だった筈の、人間が────?

翠は拳を強く握り締めた。骨が軋む音が、鼓膜に刻まれるほどに。怒りが血流を焼いた。憎悪が、精神を破った。彼を赦してはならないと、内なる自分が叫んでいる。
緋は、父親の実験で命を落とした。冷たく氷漬けにされ、幸せに生きられる筈だった運命を狂わされた。……人々の未来を守るため?そのためにコイツは、家族を見捨てたのか?
何が、正義だ。
何が、希望だ。
何が、何が、何が────!

……ひす、」

玄真が口を開いたその瞬間、翠の声が遮った。

「────メディ、殺せ」

その声音は、静謐せいひつを帯びていた。
けれど、その言葉の意味はあまりに激烈だった。
怜と伊織は息を呑む。サナがその剣幕に、体を跳ねさせる。
誰もが唖然とした。あれほど命を尊んでいた、あれほど天道を生きようと努力してきた彼の口から、死の宣告が告げられようなど……

「え……
「この悪鬼を殺せ。殺せ、殺せよッ!!」

捲し立て、喉が枯れるほど叫ぶ。びくりと、目の前の小さな悪魔の体が震えるのを見た。今だけは、そんな彼女に同情する余裕は無かった。ただ「殺せ」と、契約によって禁じられた悪魔のさがに訴える。
……赦せない。赦してなど、おけない。身を焦がす憎悪の炎が心の臓を焼き払って、もう溢れる思いを止める事など出来なかった。

「人でなし!あんたが悪魔だッ!!殺せ、殺せ、殺せよォッ!!」
「おにーさ……
「────そうかよ、ああいい、俺がやる!俺がこの手で殺してやる!よくも緋を、よくもッ!!」
「櫻田、ッ!」
「五月蠅い怜!退けよッ!殺す、殺す、殺してやる────!」

────それに呼応するように、風が唸った。黒雲がとぐろを巻き、硝子を叩く雨の音が、抱いた決意を助長するように響いた。
どこかで、硝子が割れる音がした。
翠の身体の中心に、魔法因子が暴力的に練り上げられていく。

足元に、黒い魔法陣が現れる。魔力の渦が、空港の空間に異音を響かせ轟く。人々が何事かと狼狽え、足を止めた。

……*〈虚空に刻まれし終焉よ、名を奪われし哀れなるものよ〉*!」

導入句。
怜と伊織が目を見開く。
翠の唇が、確かに「それ」を紡いでいた。
人を殺め、破滅に導くために編まれた────禁忌の呪文穿禍魔法を。

「*〈汝、宿命を捻じ曲げる戒を抱き、あがむ力を授かりし印なり〉*」
「まさか、この呪文は……ッ!やめろ、やめろ櫻田!!」

怜が叫び、翠の白衣を掴みかかる。しかし翠は一切動じなかった。華奢な身体に見合わぬ力で彼を突き放し、「駄目だ」と叫ぶ伊織の静止をも振り払う。
その目には、闇と緋色の光だけが宿っていた。
その眼には、もう「敵」しか映ってはいなかった。
父。そして、この世界。
全てを貫いて壊すべき、怨念の核。

「*〈この手に宿りし刻印の禍よ、理を穿ち、魂を堕とせ────〉*」

誰もが、もう駄目だと思った。
もう、止められないのだと思った。
此岸から彼岸へと、天道から奈落へと一線を超えようとする彼。それを繋ぎ止める手は全て振り解かれ、翠は既に一歩を踏み出していた。
窓の外は荒れ、睨みつけた先に小さな黒い点が、白紙に墨汁を堕としたように生み落とされていた。

────爆ぜる。
世界が、彼等が、そう悟る。
それを感じ取った誰よりも早く、メディが小さく呟いた。

……ヒイロと、約束したんだ。おにーさんを、『守る』って」

世界が、黒く染まった。

「────〈呑噬どんぜい〉ッッ!!」

その命を受けて。
黒が、それよりも濃い緋色に呑まれた。

彼女の声と同時に、黒く凝縮された一滴の墨は跡形もなく雲散した。翠の陣は消え、力の奔流は虚空へとゆらり、融けてゆく。練り上げられた魔法の力はまるでジョークでしたと笑うように行き場を失い、風となってロビーの空気を僅かに揺らして。
頬を撫でる旋風に、翠はただ唖然とする。
何が起きた?確かに自分は発動した。殺すつもりだった。父を、仙田教授を、この世界の全てを、壊すつもりで。
けれど────誰も、死ななかった。何も、起こらなかった。

どこか、既視感デジャヴを憶えていた。紡いだ言の葉が効果を成さず、呆然とした事に憶えがある。そこには「彼女」が居た。そして今も、彼の前には……

「メ……ディ……?」

思わず名を呼ぶ。振り絞った声は、驚くほど小さくて。
視線の先で、彼女は腹部を強く抱いてよろめいている。
無防備な身体、幼い顔立ち。そこに、翠への恐怖は無い。翠への嫌悪は無い。いつもの日常のワンシーンのように、彼女は悪戯な笑みを浮かべてそこに居た。
一つ、「いつも」と違う点を上げるなら。
……腹を押さえる彼女の手が、震えていた事であろう。

「おにー、さん……駄目、だよぉ……。その一線は……超えちゃ、いけないんだ」

その声が、あまりに柔らかくて。あまりに優しくて、残酷だった。
……彼女は今、何をした?何を、成した?答えを見つけるより先に、心臓が再び煩く吼え始める。目の前にいつも通り居る彼女が、儚く散ってしまう予感がして。

「おま……え、まさか……
「ボク、契約した時に言ったでしょぉ……?『ヒスイ』の呪いを、喰べるのが条件だって」

彼女の唇から、一筋の赤が伝った。咳と共に飛沫が散り、白い看護服を紅に染めていく。彼女の内に眠る妹の色を、彼女に刻みつけるように。
────呑噬どんぜい
それは、概念を喰らう彼女の特権。それは時を喰らう。記憶を喰らう。彼女の寿命を代償に、全てを喰らう深淵の魔法。
けれど、今喰らった概念は、どれほどの対価を払えば消化が出来るのだろうか。どれほど巨大なものだったのだろうか。メディは力なく笑った。その瞳が、痛みに揺れている。

彼女の体の中心から、ぼこ、と小さくそう聞こえた。それは魔法の発動ではなく、生命の音である事を翠は知る。臓器が、組織が、血管が、命が、彼女を構成する全てが破滅する崩落の音。

【呑噬】は【穿禍せんか】の概念を無理矢理咀嚼した。けれど消化は及ばず、【穿禍】の存在意義に従って巨大な穴が穿たれた。衣服さえも綻び、穴をこしらえ、肌を溶かして赤がじんわりと広がっていく。肉が裂け、骨が砕け、血がほとばしる。魔法でも医術でも、即座に対処できない死の予兆がそこにはあった。
誰かが「警察を」と叫んだ声が反響した。けれどその言葉は意味を成さず、次の瞬間からそれ以上に翠達に意識を向ける人間は後を絶つ。誰も、彼等がそこに居る事を認めない。当然であろう。メディが無言でその「概念」を喰らったのだから。
故に、彼等は空気と化した。
叫んでも、願っても、誰も助けてはくれない。誰も、救ってはくれない────脳内にあの雪の日が、フラッシュバックする。自責と罪の意識が頸に環を通して、思わず一歩後退る。

「め、でぃ、……

かくん、と膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。肩が震えた。息が上手く、出来なかった。彼女が何をしたのか、自分が何をしたのかが理解わかってしまったから。
メディは紅い絨毯を拵えながらも、一歩ずつ翠に歩みを進める。微弱に詰められつつある距離を、濃くなる血の匂いが教えている。

「ちがう、んだ……ちがうんだよ……。ヒスイ……ヒスイ……どうか、恨まないで……キミの大切な存在を、恨まないで……

彼女は、呪われた存在である自分の、唯一の味方であった筈なのに。共に罪を背負う、唯一の対等存在であった筈なのに。それを俺は、この手で────。
血が、ぽたぽたと床を染める。彼女の身体は応急の再生を試みるも、傷の大きさに追い付かず、「治癒」の概念のロードに悩んでいる。開いた腹部からは破れた肝臓の一部が覗いていた。意識を飛ばすほどの、痛みであろう。心停止もおかしくない状態であろう。なのに彼女は、それでも彼女は……翠の手を取って、瞳を見て語る。
……何が、お前をそこまでさせてるんだよ。泣きそうになるのを堪えながら、彼女の言葉に耳を傾けた。

「クロマサは……ヒイロを、救おうとしたんだ……。ヒイロは……刻印遺呪こくいんいしゅを、受け継いでいたから……
「刻印……遺呪……?」

見知らぬワードに思考が搔き混ぜられる。それは初めて聞く言葉であった。緋が、それを受け継いでいた?それが、この事件と何の関係が?
メディが翠の後ろに一度視線を投げ、「やっぱり、ちゃんと言わなきゃ、ダメだよ、クロマサ、ヨシコ……」と笑いかけたのを見た。
ちゃんと言わなきゃ?彼等はまだ、何かを隠しているのか────?
濁った思考の中で、別の声が響く。

「貴方の母親────和葉かずはから、受け継いだ呪いよ」

仙田教授だった。彼女はロビーの床を見つめ、足を並べ直しながら掠れた声で語る。

「彼女は人間でありながら『概念』を操る、情報法則を使いこなす力を持っていた。……故に現界の『異界に接続する』魔法出力の仕方は、彼女の力を強めてしまった」

突如出てきた母の名に、翠の動きが止まる。何かが繋がろうとしていた。全てのピースが、糸で結ばれていく。仙田の声だけが、遠くで反響しているような錯覚に陥った。彼の知らない、隠されてきた真実のパンドラがゆっくりと開かれている。

……和葉のそれを懸念した魔法省が……当時臨床医だった私が、彼女の魔法感受体を切除したの。それが、全ての始まりだった……そうよね、櫻田教授」
「嗚呼……

視線が、玄真に向けられる。彼は幾つか言葉を選んだ後に、小さく、細く言葉を絞り出した。

……感受体切除により出力出来なくなった魔法因子は、体内に蓄積された。そして変質し、概念の塊になった。最期に和葉は『死』そのものの概念と化して、世界から消滅した。お前達に、『同じ呪い』を遺して」
「じゃあ、つまり、緋も………体が概念に書き換えられていた……?」
「そう……。そしてそれは、キミも……同じだ、ヒスイ。だからクロマサは、魔法抗体を作った。そして……ボクと契約した。概念を喰う、ボクの力なら……概念化が進む子供達を、救えるかもしれないと、信じて」

言葉が、出なかった。

『────魔法っていうものはね、異界……天使や悪魔が住んでいる世界の理を、現実に持ってくるものなのよ。考えた事を、そのまま現実にする力。脳が異界に繋がって、対応する信号を連れてくる。その信号をわたしたちは打ち出して、ものに伝わって、魔法が起きる。お母さんは、その脳の仕組みを失っちゃったけれど。
魔法は、科学。魔法は、愛。────翠、緋。わたしの可愛いこどもたち。お母さんは、あなたたちに……愛という魔法を、ずっと送り続けるからね。
そう────。
ずっと、ずぅっと、ね────』

幼き日の母親の記憶が、鮮明に蘇る。母は自分に、魔法というものを教えてくれた。愛していると、言ってくれた。ずっと愛し続けると、そう。
それは、祝福であり呪いでもあったのだ。彼女は最期まで、子供達を愛した。そしてその愛は皮肉にも、呪いという形で遺された。

「そんな、事って、」

父を、敵だと恨んだ。世界が不条理だと、非難した。
ああ、けれど違ったのだ。自分が世界に嫌われていると思っていただけで、世界は、こんなにも。こんなにも静かに、見守ってくれていたというのか。呪いは、愛だった。縛りもまた、愛だった。彼女が紡ぐ続きを耳にして、翠はそう気付く。

……キミにも、刻印遺呪は、受け継がれている……キミはいずれ、概念の存在になる。その時キミの意思は、全てが……魔法として、現実に反映される。……だからボクは、ヒイロを演じた。事故に遭って、キミの魔法が失敗して、僕が……生まれたと思わせたら……もう、魔法なんて使いたくないって、思うと、信じて。それが、概念化が進むキミに出来る、唯一の……応急処置だったから」

メディの声は、もう殆どが吐息だった。それでも、確かに届いた。確かに響いた。泣きそうになった翠を見下ろして、彼女はふにゃりと微笑んだ。

「共に生きる事で、魔法を、封じられるように。キミの呪いを、食べ続けるように……キミを、守るために」

その言葉と共に、彼女の膝が崩れ落ちた。目の前で、地面に肉が零れ落ちる。魔法の再生も間に合わない。止血さえ、追い付いてはいない。なのに彼女は、血塗れの腕で、なおも翠に手を伸ばす。抱き締めようとするように。慰めようとするように。震えるその手は、彼の肩に僅かに触れ────。

「メディ………

彼女の名を呼ぶ声が、枯れていた。心の中で、何かが潰れて、痛くて、痛くて。

「ヒスイ……恨まないで……呪わないで……。世界は、キミが思うほど、意地悪じゃない……。みんな、キミを、愛しているんだ……望んでいるんだ……だから……だか…………

その声が、途切れる。
手が、肩から滑り落ちた。
彼女の腕がだらりと地面に落ち、瞼がゆっくりと双眸を隠して。
脳裏が、真っ白になる。喉が、掠れる。何か言わなければと思っても、声にならない。何かしなくてはと思っても、体が動かない。震えたままの指先は、彼女に触れる事すら出来なかった。触れてしまえば、彼女の「死」が現実になってしまうと、それが怖くて、怖くて、怖くて……ッ!

「あ……あぁ、メディ…………

────また、殺した。
妹を。今度は、彼女を。俺は、二度も……
絶望が心臓を握り潰した。誰も助けない。誰も救わない。誰も彼等を、見ようともしない。
……違う。これはメディの優しさで、彼女を殺したのは自分だ。誰を恨むべきでもない。誰を咎めるべきでもない。世界は、決して意地悪ではない。意地悪に見せていたのは、意地悪だと決めつけていたのは、幼い自分なのだから。
分かっている。分かっている、けれど……けれど、あまりにも痛い。あまりにも、苦しい。酸欠になった頭の中いっぱいに彼女の名を満たして、混沌のままに声を上げようとして────。

────刹那、誰かの指が彼女の首筋に触れた。

「脈はある。まだ、救える」
「れ、い……

怜だった。彼は視線だけで此方を見据えてくる。
その瞳は、怒ってもいなければ責めてもいなかった。ただ真っ直ぐに翠を映し、次いでその視線が横に向けられる。そこに光が宿っているのを、翠は強く感じていた。

綾瀬あやせ、麻酔投与。人工組織で置換して止血!内臓損傷も確認する!」
「分かった!サナ!」
「ご主人さま、お任せください!」

サナの魔術回路が立ち上がり、式が刻まれる。コードが空間に展開し、そこから術衣が形成されるのを見た。

……むりだ、もう……

声が、震える。それは医者ではなく、ただの弱い人間の悲嘆だった。
伊織が翠の肩を掴んだ。優しい顔立ちに凛とした覚悟が浮かんでいる。強く、真っ直ぐに掴み、彼は翠の本心に訴えた。……信じているよ。君なら出来る────そう強く、強く、真摯に。

「ヒスイ────今は嘆いてる場合じゃないよ。僕達は、唯一医療行為が認可されている、医者なんだから」
「おれは、俺は……ッ。俺は、人殺しだ……!医者、なんかじゃ、」
「────医者だ。お前は医者だ」

術衣を纏った怜の言葉が、刃のように響く。お前は医者だから、救わなければならないのだと。救う「責務」があり、命から逃げてはならないのだと。鋭利な言葉が、心に突き刺さる。けれどそれは確かに翠の中枢で響き、閉ざしかけた心に光をもたらした。

「今までその指で、何人の命を繋いできた?何人の患者に『助かった』と言われてきた?」

その声は、真っ直ぐに未来を見据えていた。そしてそれは確かに、翠に希望を与えた。

……お前なら出来る。翠────俺が見染めた、天才なら」

まだ、視界が揺れている。目の奥が熱くて、心が裂けるように痛い。
今此処にある命。奪いかけた命。でも────。

……まだ、救える命だ。

翠は立ち上がった。ふらついた足元を、怜と伊織が支えてくれる。それを悟った瞬間、仲間が傍に居る事を、仲間に支えられている事を、初めて心の底から感じた。
声を、振り絞る。取り繕うんじゃない。いい自分を見せるための嘘じゃない。
本心から、出た言葉であった。
嘘だらけの「櫻田翠」が紡ぐ、救済の誓いであった。

……っ分かった。絶対に、絶対に救う」

その言葉を受け取って、目の前に一人の男が立つ。……父だった。常盤ときわ色の瞳が、我が子に向けて────否、一人の医師に向けて、信頼の眼差しを向けている。

……メディヴァは緋の肉体をコピーしている。血液型はB型、Rhマイナス。……あの時、手術中に知った事だ」

彼は、自らの袖をたくし上げる。健康、とは言い難い骨ばった腕には青い血管が浮いていた。それを見せ、彼は厳かに言葉を紡ぐ。

「私の血を使え。……家族なんだ。拒絶反応もなかろう」
「父さん……

その言葉が、胸を刺す。
今更、救うというのか。今更、手を貸すというのか。
十五年間ずっと、真実を隠しておいて、今更────。

……それも、もういいだろう、俺。彼だって、ずっと悩んできたのだ。苦しんできたのだ。それでも翠に真実を伝えられなかったのは、彼が人間だからだ。完璧じゃない、嫌われるのを恐れた、脆い人間だからだ。
父を赦せた訳じゃない。でも────。

でも、今この瞬間だけは、彼の胸が心強かった。

……ああ」

莫迦ね、と背後で仙田教授が零す声が聞こえた。「あんな事を言っておいて、たかが数人、誰が死のうと関係ないと言っておいて……見知った顔が苦痛に歪んでいたら、苦しくなってしまうものね」と躊躇いがちに、しかしはっきりと告げた声を聞いた。
彼女は静かに歩み寄る。一線を退き、傍観者を気取っていた彼女は再び舞台に舞い戻る。天井から落ちる光が、スポットライトのように彼女を照らした。
細い指先が、胸元のロケットペンダントに触れている。
ロケットの中には、一枚の写真。若き日の彼女と、和葉と、乾。彼女達は、友であった。子供を巡る苦痛も幸福も共有できる、心の友であった。

……和葉。貴女の命を救えなかった私は、臨床から退いた。……でも、もう一度────矢面に立つ事を、許してくれるかしら」

柔らかな声で、呪文が紡がれる。静かに。敬虔に。荘厳に。まるで、祈りのように。

……*〈混沌の理よ、未だ形亡き力を紡ぎ、新たな法則を生み出すものよ。汝、未知の魔を織り、可能性の門を開く叡智なり。下す我が命のままに、真理を編め────創魔〉*」

瞬間、空港ロビーの空間が銀に染まる。とばりが降りるように上空から大地に向かい白銀はくだり、ドーム状の無菌室が展開される。宙にバイタルモニターが浮かび上がり、その細き管がメディの脈を刻み込む。天球には人工の太陽が高々と掲げられ、青白い光が空間内を満たす。それは慈愛と、安寧と、希望の光だった。生命を照らす、道標みちしるべだった。

……白魔法が使えるのは、ここまで。あとは任せるわ────翠くん」

深く、頷く。
「分かった」と応えたその声には、ひとつの希望の星が宿っている。
白衣を翻し、生成された術衣に袖を通し、マスクを掛ける。手袋を填めた薄水色の両の手は、もう震えてはいなかった。
手術台の前に立つ。
血に塗れてなお、命を繋ぐために。
罪を背負ってなお、奇跡を起こすために。

「────Die Operation Beginnt手術開始だ.」

手術オペラツィオンが、始まろうとしていた。