riririnf
2025-04-05 11:06:19
23595文字
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とある晴れた秋の日に~リプライズ~

ヌヴィフリ逃亡書いてみた⑦
エピローグ



 鍾離に別れを告げた後のこと。
 フリーナは船に揺られていた。
 行く先は璃月の海を越えた先、我が愛しのフォンテーヌ。フリーナの生まれた地。
 それはヌヴィレットと今後を話し合う為で、今朝突然に決まった、事前準備もなにもないことだった。
 つまりは一時帰国に過ぎないが、それでもフリーナの胸は弾んでいる。三年前、自分勝手に国を出て、その後徹底的に避け続けたというのに、まったく現金なことである。
 けれども大体の人にとって故郷とは特別なものだというのだし、それも仕方がないではないか。
 そう己を正当化しながらも、同時に少しの寂しさも感じていた。フリーナは遠ざかっていく璃月の景色を見つめる。
 たった一週間の別れだというのに、なんとも不思議なことだけれども、やっぱりこれも仕方がない。だって、鍾離が「寂しくなるな」だなんて、そんな湿っぽいことを言ってくるから。
「わ……っ」
 突然、船がぐらりと揺れる。大波にあおられたのだろう。バランスを崩してよろめいたフリーナを、ヌヴィレットが支えてくれた。
「大丈夫か?」
「う、うん、ありがとう」
 おかげで転ぶことは回避出来たので、フリーナは素直にお礼を言った。腰にまわった存外に逞しい腕が落ち着かない気持ちにさせてくるけれど、努めて雑念を追い払った。……だというのに。
……ちょっと、ヌヴィレット?そろそろ離してくれないかい?」
 腰に巻き付く腕が離れない。フリーナは真上にじとりとした目を向ける。
「それは出来ない。また同じように揺れた際に、転倒の危険がある」
 淡々と言い放ったヌヴィレットは、あろうことか、その腕にぐっと力を込めてくる。
「そんなに心配してくれなくても、大丈夫だよ……
 なんと過保護な水龍か。フリーナは眉を顰めた。そんなことよりも、こうして密着していることの方が、よっぽど危ないと思う。──主にフリーナの心臓が。
 ここは甲板の上。今他の乗客の気配はないが、青空の下である以上、意識せずにはいられない。
 そんな危機感から軽く彼の胸を押し返してみるが、案の定びくともしない。
「だが君は、腰を痛めているだろう」
「ん゙ッ」
 しまった、変な声が出た。いや、この場合、悲鳴をあげなかっただけ褒めてやるべきか。
 確かにヌヴィレットの指摘は事実であり、こっそりとコルセットを巻いていたりもするけれど。
「昨夜、私が無理をさせてしまったことが原因だとも」
「う、ううん……
 言った。言ったとも。けれども、どう返したらよいか判断がつかず、もにょもにょと口篭る。
 そもそもこのやり取りは客観的に見て、大丈夫なんだろうか。もうそんな判断もつかない。
 だって彼の存外に広い胸板に押し付けられているこの状態。服越しに伝わる彼の体温。こんなの、思い出してしまう。昨夜の、所謂──…………
「すまない。昨夜の君は美しく、可愛らしく、そして大変に蠱惑的だった為、自己を抑えることが出来なかった」
「それは駄目だっ!!」
 またも淡々と発せられた台詞に、今度こそ即答出来た。これは駄目だ。考えるまでもなく、完全にアウトだ。
「君の魅力を語ることが、何故『駄目』になるのだ?」
 しかしそんな自覚など露ともない彼は、僅かに首を傾げるのみ。その端麗な美貌は揺るがない。
「そ、それは……
 真正面から問いかけられて、フリーナは言葉に詰まる。
 説明しなければならないのだろうか。今の台詞は、昨夜何があったのか、周りに教えているも同然で。
 そんなことをしていたから、話し合う時間が足りなくなって、今朝になってフリーナが一時帰国しなければならなくなったと、つまりはそういう事情なのだと……
「ああ、もう!とにかく駄目なものは駄目なのっ!」
 やっぱり駄目だ。こんなこと、説明できる訳がない!
「それは答えになっていないと思うのだが……
 ヌヴィレットは形の良い眉を寄せながらも、それ以上追求してくることはしなかった。しかし代わりにと言わんばかりに腕の拘束が強まり、いよいよ脱出不可能が確定となる。
 絡まる腕。添えられた掌。煩い鼓動に高まる体温。
…………
 船が波を切る音に身を委ねる振りをして、フリーナは視線を泳がせる。
 これはきっと考えすぎなのだ。だって冷静に考えて。ちょっとだけ違うけれど、ダンスのポジションだってそう、男性側の手はこの位置。その筈。その筈なのに。
 今は全く違う連想をしてしまう。昨日、この大きな手が、僕の……
 ……わあ!だめだめ!何を考えているんだ!
 自ら考えたことなのに、一際大きく鼓動が跳ねた。全身がかっかする。船の上で浴びる璃月の秋風は寒いくらいな筈なのに、この火照った身体には効果がない。
 こんなことでは密着する部位からフリーナの熱さが伝わって、彼にバレてはしまわないだろうか。ヌヴィレットは水龍だから、ただでさえフリーナよりも体温が低いのに。
 おそるおそる見上げるも、怜悧な美貌は全く変わらない……と思いきや。ぱちり、と目が合った瞬間、ふ、と鋭い龍の瞳が和らいだ。
……っ!」
 もはや言葉なんていらない。この龍はついに視線だけでフリーナを仕留められるのだ。
 フリーナはパッと目を逸らし、またも海へと視線を戻す。秋風、どうか少しは仕事をしてほしい。熱くて熱くて堪らない。
 ……どうして僕ばっかり、こんなに慌てているんだい……!?
 璃月港から遺瓏埠に向かう道中もそうだった。彼はフリーナを間に挟んで隣を歩く鍾離を睨みつけ、何かにつけては突っかかり。
 元カレと今カレ(なお浮気相手)に挟まれたフリーナの気まずさと言ったらなかった。フリーナが何度諌めても、ヌヴィレットはどこ吹く風でそっぽを向くだけ。
 鍾離が『出来た人』だったから事なきを得たけれど、フリーナはそれはもう、ハラハラドキドキが止まらなかった。
 普段のヌヴィレットは老若男女、どんな身分の人間(犯罪者や敵対者は勿論除く)にも丁寧に接する、立派なフォンテーヌ紳士だというのに、そうあるべしと数百年に渡りフリーナの教えをきちんと守ってくれていたというのに、一体どうしてしまったのか。
 昨日、郡玉閣で散々に追い詰められたあの時から、彼が変わったとは感じていたが、鍾離への接し方はまた違うものがある。なんというか……敵愾心?
 確かに鍾離は立派で素敵で格好のよい人だけれど、ヌヴィレットだって負けていないのに。五百年の時により培われたフリーナの審美眼に照らし合わせても、最上位の美男子だ。なんなら国家元首という最大級の権力だってあるのだし、一体何を張り合うことがあるのだろうか。
 いっそ鍾離の何が気に入らないのか、単刀直入に聞いてみるのもよいかもしれない。仲良くしてほしいとまでは高望みでも、せめてヌヴィレットが鍾離に突っかからなくなるような糸口が掴めれば。
 今度こそ、目を逸らさない。負けるなフリーナ。
 そんな決意の元にもう一度視線を上げれば、またも龍の瞳と目が合った。縦長の瞳孔がきゅう、と細まって、薄い唇が開く。
……寒くはないか?」
 そう、静かな声が落ちてくる。流石は水の龍王と言うべきか、波音と風音に満ちる空間においても、その声ははっきりとフリーナの鼓膜を揺らす。
 ……やっぱり、だめだなぁ……
 フリーナは目を細めた。ついさっき固めたばかりの決意が、ぐずぐすに溶けていくのを感じて、それでも抵抗する気も起きなかった。
……大丈夫」
 短く答え、肩の力を抜いた。そのままヌヴィレットにもたれかかる。瞬間、ヌヴィレットの身体が少しだけ硬直した気もしたが、すぐに巻きつく腕の位置が直されて、ぴたりと彼の懐に落ち着いた。まるでフリーナのためのオートクチュール。
 ……ああ、僕ってば意志薄弱。
 そう思いもするけれど、やっぱりそれも仕方ない。だってヌヴィレットの腕の中が、この穏やかな空気が、とてもとても、心地いいから。
 ……もう少し、このままで。
 フリーナはそっと目を閉じた。どうせフォンテーヌに着いたなら、こんな風に気軽に触れ合うことなど、そう出来はしないのだ。
 フォンテーヌは紳士淑女の国だから、婚前の男女には、節度ある清きお付き合いを求める傾向にある。近年はそんな“お硬さ”も幾らか薄れてきたようではあるが、それでも上流階級においては変わらない。その種の価値観は権力層になればなるほど、そう簡単には廃れないものだ。
 そして璃月とは違い、フォンテーヌではフリーナもヌヴィレットも、知らぬ者などいない有名人だ。しかも、今はもう一般市民であるフリーナとは違い、彼には最高審判官という貴き身分まである。
 今更身分違いだなんだと騒ぐつもりはないけれど、彼との間にそんなどうにもならない壁があるのも、また事実。
 フリーナにはもう、恋に恋して夢を見る、能天気な心はない。だからこそ、そんな現実を冷静に見つめることだって出来るのだ。
 ……大丈夫。
 フリーナは目を開ける。置かれた状況を悲観するつもりはない。そんな程度の覚悟で、彼の手を取ってはいない。これからの脚本は二人で。そう決めたから。
……皆、どうしてるかな」
 気づけば言葉が零れていた。流れ落ちる純水が、いよいよ近づいてきたからかもしれない。
 三年前、水神の座を降りてから初めて出来た友人達すらも、フリーナは置いてきた。行先こそ伝えたものの、それから音信不通を貫いていた。
 三日前に手紙でも書こうか、なんて思い立ったりもしたけれど、結局書いては消してを繰り返して、くしゃくしゃになった便箋が積み重なるだけの結果に終わっている。
 五百年に及ぶ生の中で友人なんて作ったこともなかったから、考えれば考えるほど、仲直りの仕方が分からなくなっていた。
「皆、元気にしている」
 ふわりと包まれるような優しい声。じわ、と目尻が熱くなる。
……会いたいな」
 クロリンデ、ナヴィア、絆を紡いだ沢山の人たち。……皆に、会いたい。
「ああ。皆、君を待っている」
 力強い肯定が、そっと背中を押してくれる。
……うん」
 勇気を出そう。何を今更と怒られそうで少し怖いけれど、会ってみないことには始まらない。
「不安ならば、私も付き添おう」
「もう……!そんなに心配してくれなくたって、僕だって友人に会うくらい一人で出来るよ」
 フリーナは頬を膨らませ、軽くヌヴィレットの胸を叩く。折角の再会に付き添い付きだなんて、そんなの格好がつかないではないか。
「しかし……
「なんだい、心配性だね。もしかして、なんなかんのと理由をつけて、僕から離れたくないだけじゃあないだろうね?」
 にやりと口の端を吊り上げる。昨日から振り回されっぱなしだったから、仕返しだ。
「その通りだ。此度の滞在は一週間しかないのだから、寸暇を惜しむのは当然のことだろう」
「~~~~ッ!」
 結果は返り討ち。そんなに素直に頷くなんて、なんの張り合いもない。少しくらい慌ててくれてもいいじゃないか。
「ふ、ふん、そうかい……
 縺れそうになる口を必死に取り繕う。負けたくない。主導権を握られっぱなしは嫌だ。フリーナが目指すのは、ずうっと追いかけ続けてもらえる、所謂魔性の女なのだから、簡単に捕まる訳にはいかない。
「でもパレ・メルモニアに戻ったら、キミには山のように仕事が待ち構えているんじゃないのかい?四六時中、僕に張り付いている訳にもいかないだろう」
…………
 ヌヴィレットが眉を寄せて黙り込む。図星だ。
 フリーナは母国の情報について三年の空白があるが、それでも国の仕組みがそんな期間で劇的に変わりはしないことも知っている。
 なにしろ我が国の決済の殆どは──それこそ共律庭がタイプライターのキーキャップ一つ買うのにすら、最高審判官の目が入る程なのだ。彼の忙しさは察するに余りある。
 フリーナは過去、度々彼に休暇を勧め、数日休んだところでパレ・メルモニアは回るのだと説いてみたりもしていたが、実際八日間ともなると、今頃彼の執務机の上がどれほど悲惨なことになっているのか、考えるのも恐ろしい。
…………君がフォンテーヌに滞在している間は、定時に上がるようにするつもりだ」
 苦虫を噛み潰したような顔が、フリーナの予想を裏付ける。
「僕が璃月に戻った後は残業三昧だと、白状しているようなものじゃないか」
 フリーナは苦笑を返した。
「あまり無理をしてはいけないよ。君は人間よりも余程頑強ではあるけれど、それでも疲れないという訳ではないのだから」
…………
 腰にまわっている手の甲に、自身の手をそっと重ねる。これは本気の忠告だ。
 フリーナは三年前、ヌヴィレットにも疲労という概念があることを知っていながら、それでも自分の心の傷だけに目を向けて、自分勝手に逃げ出した。彼に二人の関係の責任も、母国のことも、その全てを押し付けた。
 もう同じ失敗を繰り返したりはしない。どちらか一方に負担をかける関係ではいたくない。
 ヌヴィレットにもフリーナの真剣さが伝わったのだろう。薄い紫色の瞳が細められ、ただじっと、こちらを見つめてくる。……今なら、言えるかもしれない。
「それにね、節度というものも守らなければならない。フォンテーヌに着いたら、こんな風にくっついたり、何処彼構わず熱烈な言葉を吐くのも駄目だ」
 言っていて少し恥ずかしい。でもここで挫けてはいけない。
「僕はもう一般市民だし、しかも三年も国を留守にした身だ。対してキミは最高審判官。フォンテーヌの頂点として、民の模範となるべき立場なのだから」
 これは彼の将来に関わることだ。数百年かけて築き上げた信頼を、恋愛ゴシップなんかで失わせる訳にはいかない。
……立場、か」
 ヌヴィレットの呟きが、秋風にさらわれていく。銀の髪が揺られて、長い前髪が彼の美貌にかすかに影を作った。
 ……ああ、やっぱりキミはとっても綺麗。
 だからこそ、守りたいのだ。今この瞬間、彼が傷ついた顔をしていることには、気付かない振りをして。
 滑稽で救いようのないことだけれど、仕方がない。だって自分は、ずるい女だから。
「ならば互いの立場を、公然かつ平等のものにしてしまえばいいのではないだろうか」
「え?」
 腰に巻き付いていた拘束が離れていく。途端に秋風が身体に吹きつけて、少し寒い。
 カツン、とヒール音が耳に響く。目の前のヌヴィレットが一歩、二歩と遠ざかり──そして、片膝をつく。
 自然とフリーナが見下ろす形になり、見上げてくるヌヴィレットの端正な顔立ちを、風に揺れる銀の髪が彩る。その間、薄い紫色の瞳は一度も逸らされず、ただ真っ直ぐにフリーナを見つめたまま。
 先程までフリーナの腰に触れていたその手が差し出される。流れるような一連の動きは、まるでスローモーションのように見えた。

「婚姻を結ぶのはどうだろう。夫が妻に愛を囁き、尽くし、何においても優先することは、当然のことだ。誰にも口を挟む権利はない」

 ヌヴィレットはまるで判決を伝える時のように、滔々と言葉を綴った。
 だからだろうか。まるで現実味がない。……今、なんて言われた?
 ぽかん、と口を開けるフリーナに構うことなく、ヌヴィレットは更に言葉を重ねてくる。
「式もあげよう。仔細は君の意向に従うが、出来る限り盛大なものにしたい」
「盛大?意外だね?」
 フリーズしかけていた頭が、ヌヴィレットらしからぬ単語を拾う。彼は基本的に緊張とは無縁で、悪意なき視線に関しては寧ろ鈍感だから、目立つことを厭わない。とはいえ、わざわざ目立ちにいく性分でもない。なのに、どうして。
「私が君のものであるのだと、国内外に大々的に知らしめたいのだ。──君は優しいから、そうすればもう逃げられないだろう?」
 そう語る唇は弧を描き、誇らしささえ滲ませる。甘く漂う囁きに、フリーナもやっと、何を言われているのかを理解した。

 ──これは、脅しだ。フリーナは脅されているのだ。

 彼は最高審判官。フォンテーヌの頂点に立つ者としての立場がある。
 そんな彼を『妻に逃げられた男』にする訳にはいかない。ひとたび結婚してしまえば、フリーナはもう逃げられない。彼のそばから離れられない。
 ならば、結婚しなければいいだろうって?そんな簡単な話なら、苦労はしない。
 フリーナは昨日、ヌヴィレットのしつこさを散々に味わった。だから分かるのだ。例えばここで『プロポーズなら、もっとロマンティックなロケーションにしろ。突然すぎる。指輪すらないじゃないか』なんて駆け引きを持ち出したとする。
 今この瞬間は、彼も引き下がってくれるかもしれない。だが、そのあとどうなる?
 ヌヴィレットはきっと──いや、確実に、フリーナがフォンテーヌに滞在している間に勝負をつけようとする。時間も場所も構わずに、数打ちゃ当たると言わんばかりにプロポーズを繰り返すに違いないのだ。
 それこそ手段を問わず、シグウィンを始めとするメリュジーヌ達、クロリンデやナヴィア、果てはリオセスリまでも巻き込むかもしれない。
 スチームバード新聞に『期限はあと〇日、最高審判官、本日の求婚回数、またその方法をここにご紹介』なんて記事が出たら嫌すぎる。
 その時点でヌヴィレットの面子も何も無くなるし、フリーナにとっても公開処刑だ。
 そして最も嫌なのは、こういった熱烈な方法を、フォンテーヌの民は嫌いでは無い……というよりも、むしろ大好物!……ということだ。
 歌劇の国とも称されるフォンテーヌ。その地に住まう愛しの民の性分を、フリーナは五百年の統治の中で、十二分に理解している。
 ……やられた……
 フリーナは唇を噛んだ。要するに、最初にプロポーズの隙を与えてしまった時点で、フリーナはもう詰んでいるのだ。
 ついさっき、簡単には捕まらない、なんて意気込んでいたのに、なんと呆気ない結末か。
 悔しい。負けたくない。そう思う。
 ……でも……
 同時に思う。やっぱり彼は、なんて綺麗なんだろうって。
 陽光を受けてキラキラと輝く海を背景に従え、秋風にそよがれて。殆ど反応を返さないフリーナに跪き、ずっと手を差し出し続けてくれている。
 ずるい。ずるすぎる。なんでそんなに格好いいの。真っ直ぐにこっちを見てくるの。熱のこもった眼差しで、なのに健気に“待て”をして。
 ──そんなの、嬉しいに決まっているじゃないか。
 フリーナは口元を両手で覆った。そうしないと、意味のないことを叫び出してしまいそうだった。
 これは敗北だ。巻き返しなど起こりようもない、徹底的な敗北。
 でも、仕方がないじゃないか。フリーナはずるい女だけれど、ヌヴィレットはもっともっと、とんでもなくずるい男なのだから!
…………
 フリーナはゆっくりと息を吐きだした。そして口元から手を離し、そろりと片手を伸ばす。
 そして差し出された手を──指を取る。手袋越しの彼の指。細くて長くて、それでもフリーナよりは余程しっかりとしていて、思わず手が跳ねそうになる。
 けれども、それを必死に押し込めて、フリーナは、ぎゅ、と彼の指をまとめて握った。
……指輪は一緒に選びに行こう?」
 今身につけている夜泊石のネックレスは、昨日食事処に向かう途中に、半ば無理やり買われたものだ。あの時は早く行かなければ席が埋まってしまうのと、店の前で問答するのが申し訳なかったので、うっかり流されてしまった。
 それに、彼がやたらと贈ると拘る髪飾りも、あしらう宝石から吟味して、最高のものを用意する、とフリーナの意思なんてそっちのけで張り切っている。
 だからせめて、指輪くらい。
 フリーナだって、考えたい。彼のこの指に、どんなデザインが似合うのか。どんな彩りを添えたいのか。……お揃いを、身につけたい。
 これはフリーナの精一杯の反撃だ。果たして、彼の回答は。
「わ……っ!?」
 突然、身体がふわりと浮いた。
 足が甲板から離れて、空を蹴る。
 視界が高くなる。ヌヴィレットがフリーナを抱き上げ、立ち上がったのだ。
 力強い両腕に包まれて、胸の高さまで持ち上げられている。咄嗟に彼の両肩に手を添えた。
 ヌヴィレットよりも高い視界。それを景色を楽しむだとかに使えればよかったけれど、そんな移り気は起こらない。
 依然、フリーナよりも低い位置にある薄い紫色の瞳が、海の輝きも、空の青さも何かも、どんな宝石よりも美しく煌めいている。
「──承知した」
 視線の下、端麗な顔が微笑んだ。その表情は、やっぱりとってもずるかった。
 水龍にとっての至高の空間、水の中。そこを自由に泳ぎまわっているかような。──そんな顔、反則だ。
 ざあ、と秋の風が吹く。その風はどこか涼やかで、ついに愛しのフォンテーヌが目前なのだと教えてくれる。
 そんな懐かしい風が、瞳から溢れ続ける水滴を流してくれる。
 まだまだ止まる気配はないけれど、もうさっきまでの葛藤はどこへやら。すでに綺麗さっぱり、涼やかな気分になっているから、これでいいのだ。
……ヌヴィレット」
 ゆるやかに手を伸ばす。触れる彼の頬は滑らかで、風にそよがれ少しだけ冷えていた。
 そんな些細な現象が何故だかとても愛おしくて、もっともっと堪能したくて仕方がない。
 フリーナは背を屈め、美しい薄紫を覗き込む。お互いの前髪が絡まりあって、頬に触れる銀糸が少しくすぐったい。
 涼やかな秋風の中、零れる彼の息遣いだけが熱く感じる。
 二人の吐息が触れ合う僅かな距離を、フリーナはそっと唇で埋めた。

 二人の男女の門出に相応しい、とある晴れた秋の日のこと。
 今この瞬間、世界という舞台の主役は自分達だと錯覚してしまいそうな、そんな秋晴れの日のこと。
 二人は永遠の誓いを交わした。

 ──ずっと捕まえていてね?僕の水龍!