ねぶくろ
2025-03-26 19:01:59
11615文字
Public 一次創作
 

昇れ、明星。

ハイパーウルトラなハッピーエンドの短編です。



「大丈夫だよ、おかあさん」
 自分の声が耳朶を打つ。今より幼い声を疑問に思って顔を上げれば、そこに悲しそうな顔をする母がいた。彼女に向けて、過去の自分が無邪気で明るい言葉を手渡す。

 一人で待ってる。お留守番は任せて。
 お出かけはいつでもできるから、気にしないで。
 授業参観には来れない家も多いから問題ないよ。

 それでも、母の表情は冴えなかった。物思いに沈み、遣り切れないように目を伏せる彼女の顔を見るのがつらい。悲しみが体の芯まで浸透するより先に、慌ててその視界に割り込んで、笑みを見せた。満開の、向日葵みたいに圧倒的で眩しい笑みを。
「だから大丈夫! 行ってらっしゃい!」
 『大丈夫』のサンドイッチを作って、母に届ける。俺はそうして生きてきた。


 目を覚まして、行方ゆくえ──もとい、行方奏多 なめかたかなたはベッドの上で寝返りを打った。しとしとという静かな音が鼓膜を揺らしている。雨が降っているのだろう。気が滅入るな、と布団にくるまった姿勢で息を吐き、ベッドサイドを探って充電していたスマートフォンを引っ張り寄せた。
 ノールックでロックを解除して画面を操作する。通知を見れば、津釣から催促のメールが来ていた。無断で締め切りを破っているのだから当然だ。内容を確認せずに通知を消去し、息を吐く。覚醒した体を引きずるように起き上がった。重力が鉛のように肩に圧し掛かる。はぁ、とため息を吐き、静かに戸を開けて廊下に出れば、家じゅうがしんと静まり返っていた。母はまだ帰っていないらしい。
 そのまま洗面所へ向かって顔を洗い、寝癖を直した。居間に向かって、三枚残った食パンの内、二枚をトースターに入れる。待っている間に戸棚からコップを取り出し、牛乳を注いで一息に飲み干した。朝が来た実感が体の内側を滑り落ちていく。
 トースターの音が鳴ったのを確認して、戸棚から皿を取り出す。その上にこんがりと焼きめの付いたパンを重ねて、奏多は両の手を合わせた。「いただきます」という声が誰もいない食卓に零れ落ちる。その言葉を拾い上げないままトースターにかじりつき、ぼんやりと正面の空席を眺める。
 行方家は、俗に言う母子家庭だ。父は物心ついた時には『家族』の中に存在しなかった。離婚したのか、死別したのか、そのほかのわけがあるのか、それすらも知らされていない。
 水溜まりの雨水を跳ね上げる車の音が鼓膜を震わせる。静かで、うっすらと青い闇に包まれた一室は、寂しい安寧に包まれていた。誰の目もない食卓でもそもそと食パンを咀嚼し、嚥下する。今日は水曜日だ。学校に行き、放課後には今日こそプロットを仕上げてメールを送らなければいけない。
 食事を終えて両手を合わせる、口の中で小さく「ごちそうさまでした」と呟いて、皿をシンクに置いた。時計を見上げて、身支度のために部屋に戻る。制服に身を包んで、ふと机の上に鎮座するノートパソコンに目を向けた。
 高校に合格した時、お祝いにと買ってもらったそれの表面を撫でて、息を吐く。
 津釣と短い打ち合わせを終えたあと、奏多は一文字も作業を進められていなかった。パソコンを開き、アプリケーションを立ち上げても、指が重たくて動かない。頭に靄がかかったように思考がぼやけ、焦りのままにキーボードを叩いても、連なる文字は大した意味を持たずに画面を埋めるばかりだ。曖昧で散漫な文章を前にして、奏多は絶望に頭を抱えた。
 それから、五日。奏多は未だに、ショートショートのプロットを修正できていない。
 ため息を吐いてスクールバックを手に取る。奏多はそのまま、無言で準備を整え一人の家を後にした。

***

 結末と書かれた項目に書かれた文字には、取り消し線が引かれていた。その下段には、テキストカーソルが明滅している。それを打ちひしがれた表情で眺めながら、奏多は静かに呼吸を繰り返していた。
 キーボードの上に置かれた指は全く動かず、焦点の結ばれていない眼差しは茫漠としている。感情の抜け落ちた顔をして、奏多はゆっくりと瞬きをした。見つめ続けたプロットを見てみても、そこに並んだ文字の何が誤りであるのか理解できない。直すべき個所が把握できず、ただ呆けた顔で目を瞬いた。
 津釣さんは、なんて言ってたっけ。
 少し考え、彼の聞き取りづらい声を思い出す。
 ハッピーエンドすぎる。薄っぺらい。地に足つけた終わり方にしませんか。
 並んだ言葉が脳裏に散らばり、奏多はますます体が重たくなるのを感じた。津釣の読みたいものがわからない。どこを修正したら、彼の思う、「地に足ついた」、「薄っぺらくない」話になるのか、見当がつかない。
……どうしよう」
 このまま一生書けなかったらどうしよう。そんなことより、無断で締め切りを破っているから、クビになるかもしれない。ものすごく怒られるだろうし、今だって迷惑をかけている。早く連絡をして、謝って、プロットを提出しなければいけない。
 焦れば焦るほど思考は空転を重ねて、アイデアなどひとつも生まれないまま時間だけが過ぎていく。奏多が石のように固くなってノートパソコンに向き合っていれば、ドアの向こうから控えめに声がかかった。
「奏多……?」
 「ただいま。お母さんだけど、」とノックの音に言葉が重なる。奏多ははっと息を吸い込んで、口角を持ち上げた。笑みを繕って、いつものようにはきはきとした声を送り出す。
「おかえり! どうかした?」
 席を立って、ドアを開ける。そこには、いつの間にか見下ろす大きさになった母が立っていた。奏多の肩に届くか届かないかという背丈の彼女は、「ご飯できたよ」と奏多を見上げて、──ふと、その表情を曇らせた。
……顔色悪いよ? 大丈夫?」
 お夕飯、食べられる? と、案じるように彼女が手を伸ばした。わずかに身を引いてその手を回避し、心配そうに眉根を寄せる母に向けて「大丈夫だよ」と笑みを向ける。
「元気だし、ご飯も食べれるよ。心配しないで、大丈夫だから! マジで!」
 溌溂と言葉を重ねれば、彼女はほんの少しだけ唇を噛んで、眉根を寄せた。何かを堪えるように強張った眉間を眺めて、当惑に目を瞬く。奏多が言葉を探してまごついていれば、彼女がぐっと顔を上げて、「奏多」と名前を呼んだ。
「ごめんね。お母さんの聞き方が悪かったね」
「え、……いや、なにが? 俺全然大丈夫だし、母さんは何も悪くないでしょ」
 謝んないでよ、と答えた声がわずかに揺れる。マズい、と奏多は目を伏せて唇を引き結んだ。母が、「熱、測ろうか」と静かに告げて奏多を促した。部屋の電気を消して、彼女の後についていく。
 食卓の椅子に座って、差し出された体温計を受け取った。小さな表示板を眺めて、硬直する。奏多がそうして黙り込んでいれば、彼女は正面の席に腰を下ろして、「奏多」と幼い頃と変わらない声音でこちらを呼んだ。するりと視線が持ち上がって、彼女と視線が交わる。
 母は、「心配だから、熱があるか確かめさせて」と穏やかに促した。すとんと頷いて、体温計を脇に挟む。二人の食卓に無音が落ちて、視線を何ともなしに木目へ逃がした。心臓の音が耳朶を打つ。じわじわと頬に熱が集中して、緊張に思考が燃えていた。
 奏多が身を強張らせていれば、母がゆったりと波が打ち寄せるような速度で話し出した。
「私、いつも『大丈夫?』って聞いてるでしょう」
……。気にしたことなかった」
 小さな嘘を差し出す。彼女はそれに答えず、「聞き方が悪いよね」と自嘲するように言葉を続けた。
「大丈夫か聞かれたら、大丈夫って答えちゃうよ。……そういう答えを待ってるって、分かるもの」
…………
 そういうものだろうか。鈍い頭が彼女の言葉を咀嚼して、飲み下す。そうやって答えてほしそうだったから、大丈夫のサンドイッチを作ったのだろうか。おぼろげな記憶を手繰り寄せて、幼かった頃の自分を思い返す。
 悲しそうで、申し訳なさそうな母の顔。ごめんね、と重なる言葉。
 じわりと湧き出すような悲しみが体を襲って、その冷たさが体の芯まで染みこまないようにと明るい声を発する。
「大丈夫」
 奏多ははっきりと輪郭を持った声を押し出して、顔を上げた。驚いたような母の双眸を見返して、強がりではなく口角を持ち上げる。奏多は、「大丈夫だよ、母さん」と言葉を重ねて、笑みを深めた。
「俺、無理して言ってるわけじゃないよ。今も、これまでも、ずっと。全部、ホントにちゃんと大丈夫だったよ」
 何か言おうと口を動かす彼女を制するように頭を振って、言葉を続ける。
「大丈夫って言ったら、何でも大丈夫になるから。……俺は、その力をちゃんと貰って来たから。だから、マジで大丈夫」
 ピピピッと、体温計が計測の終わりを告げる。平熱を示した表示を見せつけ、奏多は晴れやかな笑顔で母を見返した。
「心配してくれてありがと」
 ご飯にしよっかと声をかければ、彼女は目を伏せ、手で顔を覆いながら大きく頷いた。