かいえ
2025-03-17 22:14:16
15913文字
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【灰武】続灰谷村

「灰谷村」https://privatter.me/page/67d6d893ac3f4 の続編
人外灰谷兄弟×人間武道
15,902文字
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第八幕


 それは唐突で、予想外のことだった。
 いつもと同じように目を覚まし、用意された食事を離れで食べたあと、竜胆から「今から出かけるから」と、伝えられたのだ。
時折、竜胆は武道を屋敷の外へドライブに連れ出してくれることがあったので、今回もそうなのだと思っていた。けれども、武道が身に着ける服を指定されて面食らった。武道の為に用意された服は、今まで着たこともないような上等なものだったからだ。生まれてこの方一度も手に取ったことのないハイブランドのマークが入っていてギョッとする。
「竜胆君、一体何処に行くんですか?」
 武道の問いかけに、竜胆は「内緒」としか答えてくれなかった。武道は行き先が分からないまま、渡された真新しい服に袖を通した。
 竜胆の後に続いて離れを出て駐車場に向かうと、そこには蘭がいて、武道はびっくりしてしまった。ドライブには、竜胆としか行ったことがなかったし、蘭がこの屋敷から出るところも見たことがなかったのだ。
「蘭君も行くんですか?」
「そうだけど。変か?」
 なんとなく、蘭はこの場から離れることが出来ないような気がしていたのだ。よくよく考えれば、竜胆が車で出かけられるなら、蘭だって出かけられる筈なのに、どうして自分がそう思ったのか、段々おかしな気持ちになってきた。
「竜胆と二人っきりで行きたかった?」
「そ、そんなんじゃないです」
 ぶんぶんと首を振って否定する武道を、蘭はニヤニヤした顔で見下ろしている。
「兄貴、からかうなよ。タケミチが困ってるじゃん」
「悪い。タケミチはからかいがいがあるから、ついな。ほら、武道は助手席に乗れ」
 蘭が指さしたのは、いつも竜胆が乗っている、セージグリーンのMINI CrossoverのALL4TRIMではなく、駐車場の片隅に置かれていたGクラスのメルセデスベンツの黒いSUVだった。正面のボンネットの下のフロントグリルの中央でシルバーに輝く、スリーポインテッド・スターが眩しい。いつも乗せてもらっている車はツーシーターだから、三人で行くから車を変えるのだと武道は理解した。
 SUVは左ハンドルだったので、回り込んで右側の助手席のフロントドアを開けた。乗り込もうとした瞬間、後ろを着いて来た蘭の手が武道の頤を掴み、そのまま唇を塞がれた。いつもは見上げないと見えない蘭の顔が、車高が高いせいで真正面にある。背の高い蘭と目の高さが同じというのは、不思議な感じがした。
「蘭君、突然なんですか?」
「おはようのキス。まだしていなかっただろ?」
「でも、こんなところで」
 きょろきょろと辺りを見回す武道に「ダイジョウブ。誰も見てねぇよ」と、蘭は笑いながら後部座席に座った。蘭は入って直ぐ真ん中にある肘掛けを上げて、クッションを頭の下に入れると、二列目のシートを全て使って寝転んでしまった。多分、武道がいなくて二人で出かけるのだとしても、蘭は運転をせずに、今みたいに後部座席で寝そべっているのだろうと容易に想像出来た。
 助手席に座った武道がシートベルトを嵌めて正面に顔を向けると、すぐ傍に竜胆の顔があって、それに驚く間もなく唇を奪われた。「オレも、おはようのキス忘れてたわ」と、悪戯っ子のように竜胆が笑う。「竜胆君まで!」と、顔を真っ赤にした武道に、蘭も竜胆も笑った。
 竜胆が運転する車は、敷地から道路に出て、そのまま長閑な景色の中を、砂利を跳ねながら進んで行った。田んぼの真ん中の道は舗装されておらず、小さな小石が車体の下に当たる音が継続的に聴こえる。
「竜胆君、窓を開けても良いですか?」
「いいよ。でも、顔は出すなよ、危ねぇからな」
 武道が素直に頷くと、竜胆は後部座席の窓を半分下げてくれた。武道は窓に顔を近づけて、久しぶりの外の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。その姿を後部座席で見ていた蘭は「犬みてぇだな」と揶揄った。
 車は舗装された道路に入り、川にかけられた鉄橋を渡ると県道に合流した。随分先を赤い軽自動車が走っているのが見える。それが灰谷村の住人ではない人間が運転している車だと思うと、結界の外に出られたのだと、武道は窓の外の景色を眺めながらドキドキしていた。
 川沿いの一車線の道路は快適で、新緑の山々の間をうねるように続いていた。道路と並行するように青緑に輝く清流あり、道路沿いに植えられた木々の隙間から時折顔を出した。陽光が水面を白く輝かせていて、新緑の緑と重なると清々しさを感じた。
 次第に周囲を走る車が増え、道路は道幅の広い幹線道路に変わった。二車線ある幹線道路は見覚えがあった。あの日、仲間たちと一緒にツーリングで走った道路だった。
 そういえば、あの時乗っていたバイクはどうなったのだろうかと、武道は急に思い出した。ぬかるんだ畦道の片隅に停めたままにしてしまったバイクのことを、今まで忘れていたことに驚く。あんなに大切に乗っていたのにと。
 屋敷の車庫には置かれていなかったから、もしかしたら、二人が処分してしまったのだろうか思い至り悲しくなる。今の武道にはバイクなど無用の長物なのだから、気にしても仕方がないのだけれど、あれは、大切な友人から譲り受けて、大事に乗っていた特別なバイクだから、どうにも気にかかる。
 そっと後部座席を伺うと、蘭は目を閉じていて、眠っているように見えた。竜胆になら、バイクの行方を聞いても怒られないかもしれない。最初の出会いが怖かったせいで、武道はどちらかといえば竜胆に甘えた。今の蘭は武道に優しいし甘いのだけれど、始めに植え付けられた印象が強くて、何でも聞けるのは自ずと竜胆の方になる。
 けれども、何故だかバイクのことを聞くのは良く無いことのように思えて口に出せなかった。
 話すきっかけを模索しながら窓の外を見ていると、幹線道路の両脇には、徐々に店舗が目立つようになってきた。ファミレスやチェーンのラーメン店、ショッピングモールにガソリンスタンドと、以前なら良く目にしたものばかりが目に入った。そして、武道が一番良く利用したハンバーガーショップの店名である。頭文字のMのマークを目にした時、思わず「あっ!」と、大きな声を上げていた。
「どうした、タケミチ?」
 運転していた竜胆が、武道の上げた声に驚いて声をかけてくる。
「あ、その、ハンバーガー屋があって……
 たかがそれくらいで大きな声を出し、竜胆を驚かせてしまったことに恥ずかしさを覚える。
「なんだ、ハンバーガーが食べたいのかよ?」
「いえ、そんなんじゃ」
 本当は食べたくて仕方がなかったけれど、朝ご飯を食べたばかりだから言い出しにくい。
「嘘つくなよ。顔に『食いたい』って書いてあるし」
「え! 嘘!」
「嘘だって。ハハ、タケミチは本当にカワイイな」
 竜胆は次の交差点でUターンをした。驚いた武道が「そこまでしてくれなくても」と言うと「なんで? 食いてぇんだろ? 折角外に出たんだ。タケミチが好きなもんをいっぱい食わせてやるよ」と返されて「あ……ありがとうございます」と、お礼を言うしかない。
 竜胆はハンバーガーショップを通り越した最初の交差点でもう一度Uターンをして、店舗のドライブスルーに入った。そして、注文をしている車の後につけて車は停まる。
 ハンバーガーは武道の大好物だった。昔は週に何回も食べていたくらいだ。
「タケミチ、何が食べたいんだ?」
 竜胆に尋ねられて、武道は「えっと……フツーのやつで!」と慌てて返事をする。
「フツーってなんだよ」
「えっと、フツーのハンバーガー?」
 前の車が進んだので、ドライブスルーのメニューの看板の前で停めった。そこには、武道の好きなものがずらりと並んでいたので、武道の目は期待でいっぱいになる。「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ」と言う女性の声がスピーカーから聴こえて、本当にハンバーガーを食べられるのだと、胸がいっぱいになった。あの村がこの世界と続いているのは分かっていたけれど、あれから一度もあの村から出たことがなかったので、その存在を忘れてきていた。
「チーズは無くて良いのかよ?」
「え、チーズ! チーズ食べたいです!」
「じゃあ、チーズバーガーな。飲み物は?」
「コーラ!」
「パテが2枚のもあるじゃん。それにするか?」
「まさかのビックマック!」
「折角だから、こっちにしたら? 好きなんだろ?」
「ええ、良いんですか?」
「なに、遠慮してんだよ」
 竜胆はそう言って、期待に目を輝かせて助手席に座る武道の前髪をくしゃりと撫でた。
 武道はビックマックセットを頼み、竜胆は飲み物のみを注文した。会計の窓口で渡された紙製のトレイの左右のドリンクホルダーに飲み物が刺してあり、真ん中にビックマックとポテトフライのLサイズが置かれている。武道は竜胆のアイスカフェラテを座席の間のドリンクホルダーにセットした。竜胆の運転する車は再び幹線道路に戻った。
 武道は紙製のトレイを膝の上に置いて、飲みものにストローを刺して一口飲んだ。口の中でコーラがしゅわしゅわと音を立てて盛大に弾ける。久し振りの感覚に痛いとすら思う刺激にびっくりした。そして、口いっぱいに人工の甘味が広がり、コーラだとは認識できたものの、こんなにも甘い飲み物であっただろうかと思った。灰谷村で生活するうちに、味覚がリセットされていたようだと武道は驚いた。次にハンバーガーに手を伸ばし包み紙を剥がすと、通常のハンバーガーの倍はあるビックマックが現れた。焼いた挽肉の良い匂いが鼻腔を擽り、食べる前から唾液が舌の下に溜まる。武道は堪らなくなり、大きな口でハンバーガーを頬張った。村の食事は和食なので、さっぱりした食べものが多く物足りなさを感じていたのだ。その点、今食べているハンバーガーは、味が濃く脂肪分たっぷりの食べ物で、まだ若い武道の胃袋を喚起させるに十分だった。パンを食べるのも久し振りで、一口食べたら止まらなくなり、あっという間に武道は完食してしまった。
 最後にポテトフライに手を伸ばした。竜胆がセットのMサイズからLサイズに変えてくれたので、箱から紙のトレイにあふれるほどの量がある。揚げたてのポテトはさくさくとして旨く、複数本掴んでは口に入れていたら、瞬く間に無くなってしまった。ハンバーガーのサイズは当初の予定より大きいものにされたし、こんなに食べられるのかと心配になっていたのだが、今となっては全くの杞憂であった。塩と油で汚れた指の先を舐めて、紙ナプキンで拭き取るその煩わしささえ幸せを感じる。数年ぶりに食べたからなのか、以前より塩気を強く感じたが、それでも美味しいものは美味しいと思う。
「旨かったぁ……
 食べ終わると武道は放心状態のようになってぼそっと呟いた。思わず漏れた本音を聞かれ、蘭と竜胆がクックッと笑うので、武道は恥ずかしくなった。
「そんなにハンバーガーが好きなんだな。また連れて来てやるよ」
「マジですか?」
 竜胆からの提案は到底信じられないもので、武道は驚いてしまった。
「嘘なんかつかねぇって」
「オレ、ラーメンも好きっス!」
 武道が急いで付け足すと竜胆はゲラゲラ笑った。今日の竜胆はとても上機嫌だ。今ならバイクのことを聞けそうな気がした。
「竜胆君」
「ん?」
「あの、オレのバイクって、どうなったか知っていますか?」
「バイク?」
 竜胆が怪訝そうな声を出した。
「ほら、最初に竜胆君に会った時に、オレが乗っていたバイクです。ホンダのCB250Tなんですけど」
「ああ……あれ? どうしたっけな……兄貴に聞かないと分からねぇわ」
「あ、そうなんですね」
 武道はがっかりした。竜胆が知らないのであれば、バイクの行方は分からずじまいだ。
「それ、重要?」
「じゅっ、重要じゃないです。竜胆君が知らないなら良いです。そういえばどうしたんだろう? って、ちょっと思い出しただけなんで……
 これ以上の詮索は危険な気がして、武道はさっさと話しを終わらせた。竜胆もそれ以上追及する気は無いようだったので、武道はほっと胸を撫で下ろした。
 前方に視線を戻すと、青い案内標識の進行方向の矢印の先に東京の二文字が見えて目を見開く。どこに向かっているかは教えてもらえなかったが、少なくとも東京方面だということが知れたのだ。
 武道の心臓がどくりと跳ねる。
 武道があの村にいたのは、蘭の張った結界の外に自力で出られなかったからだ。それが今、東京に向かう車に武道は乗っていて、車さえ止まれば逃げ出すことも可能になったということなのだ。今まで当たり前だと思っていたことが、当たり前だと思えなくなる感覚に陥り、蘭と竜胆と一緒に車に乗っていることが、おかしいという気すらしてきていた。
 さっきはドライブスルーだったけれど、例えば、トイレに行きたいと言ったら、竜胆はコンビニに寄ってくれるのではないかと思ったのだ。そうしたら、コンビニの店員とか、客の誰かに助けてもらえるかもしれない。その場で直ぐに解決することはムリでも、伝言とかメモを渡して、実家とか仲間に、自分の現状を伝えることが可能かもしれない。若しくは、自分の足でその場から逃走してみたらどうだろうか? と武道は考えた。もう少し都心に近付けば、電車の駅もあるだろうし、助けを求めやすい交番や警察署とか、公的な施設が増えるだろう。
 そこまで考えて、ハッと我に返った。逃げ出すとはどういうことだろうと思う自分もいたからだ。蘭と竜胆から離れたいと思うのと同様に、離れたくないとも思うのだ。
 武道は蘭と竜胆の×××であり、「縁付きの儀」も自ら強請ってしてもらったのだ。蘭と竜胆に求愛されて、手を伸ばしたのは武道の方だったりする。新月の夜に孕み、満月の夜に彼らの子を産み落とした。「縁付きの儀」以外でも毎晩のように蘭か竜胆に抱かれた。昨夜だって竜胆と躰を重ね、その余韻が腰の奥に残っているほどで。それなのに、二人から逃げようと思った自分が変だと思った。
 けれども、何とかして逃げなくてはという衝動が、徐々に強くなってくる。この機を逃しては、二度と元の世界に戻れない気がした。
 車が屋敷を出た後から気付いていたのだけれど、灰谷村を出て遠ざかる程、頭の中がクリアになっていくのを武道は密かに感じていた。それは、電灯も無い暗闇の中を最寄りの駅に向かって逃亡を図った時にも感じたものと同じだ。自分はいつから二人の傍から逃げようとしなくなったのだろうかと考えて、背筋がゾッとする。そもそも、自ら望んであの村に行ったわけではない。仲間とツーリングしていたのに、いつの間にか皆とはぐれてしまい、あの村に迷い込んでしまっただけなのだ。バイクが動かなくなって畦道で困っているところを、たまたま車で通りかかった竜胆に助けてもらい、親切な優しい人だと思ったのに裏切られた。睡眠薬を盛られ胎内に蟲という子宮の代わりになるものを仕込まれたのだ。胎内を這いずり回る蟲の、その悍ましさに気が狂いそうになったのを思い出す。
 二人の隙を付いて、命からがら逃げ出し、峠で振り返った時に見えた村人たちが持つ松明の灯かりに肝を冷やしたことや、夜通し早歩きした駅までの山道の険しさと、随分前に廃線になっていたことを知らず、始発の電車を追手に怯えながら待った恐怖がまざまざと蘇ってくる。
 結局、蘭と竜胆によって連れ戻された武道は、幾度も子を孕まされた。こんなに酷いことをされたのに、今の今まで忘れていたことに、武道は驚愕するしかない。
武道は二人に気付かれないように、ごくりと喉を鳴らした。足先から頭の天辺に向かって震えが走り、どうしてこの二人と一緒にいるのが当たり前だと思っているのだろうかと思い、そんな風に思った自分が怖くなるのだ。
 頭の中がクリアになるのに比例して、村での記憶に段々霞が掛かって、自分が何人の子を生んだかも思い出せなくなってきていた。自分がこんな状態であるということを、蘭と 竜胆に知られてはいけないと、武道の生存本能が訴えてくる。幸い、蘭は後部座席で寝ていて、竜胆は運転を楽しんでいるから、武道の変化がばれていないのが救いだった。
 そうして、車はどんどん東京に近付いて行き、武道も見慣れた街並みが車窓の向こうに現れるようになった。時折、知らないビルや別の店舗になっている場所もあったが、概ね最後に見た時とほとんど変わらなくて、懐かしさが溢れ出てくる。
 青い案内標識に、渋谷の二文字が見えて胸が苦しくなった。この辺りになると、毎日通っていた場所になる。
 両親や友人たちは元気にやっているのだろうかと、窓の外を眺めながら想いを馳せるしかない。
 あの日、突然消えた武道はきっと行方不明者になっている筈だ。それから何年か経過している筈だから、もしかすると、既に死亡届を出されているかもしれない。
 渋谷を通り過ぎ、六本木のとあるマンションの駐車場で車は停まった。
「ここは?」
 武道が尋ねると、竜胆が「六本木のオレらのマンション」とあっさり答えたから、武道は驚いてしまった。
「六本木にも家があったんですね……
 蘭と竜胆の拠点が六本木という自分が住んでいた場所から近い距離にあったことに愕然としていた。情報が増えて頭の中が混乱する。
「昔、まだガキの頃だけど、たまに、来てたんだ。だから、今回来たのは、すげぇ久し振りだけどな」
「ほら、行くぞ」
 後部座席で寝ていた蘭がいつの間にか起きていて、竜胆と武道に車から出るように促した。
 蘭の瞳の色は、竜胆より赤味が強い紫色だ。竜胆と同じ瞳の形をしているのに、蘭の瞳には表情がまるで無い。何を考えているのか分からなくて、見つめられるとヒヤリとした。
 その蘭の瞳に、今は驚いた表情が浮かんでいる。それは、黒い革のソファーに腰を下ろしてすぐに、キスしてこようとした蘭の唇を、武道が手の平で覆い押し戻しているからだろう。
「あの、蘭君! 今夜は疲れちゃって」
「こんなことされたの、オレ、ハジメテなんだけど」
 蘭が不本意だとばかりに片眉を上げた。
「兄貴、今夜は寝かせてやろうぜ。ずっと車に乗っていたから疲れたんだよ」
 武道を蘭と挟むように座った竜胆が助け舟を出してくれるとは思わなくて、武道は内心驚いていた。
「それだけか?」
 蘭の言葉にドキリとする。
 キスするのがイヤだと思っていることに、気づかれたのかもしれないと、武道は生きた心地がしない。蘭と竜胆とは、キスなんて数えきれないくらいしてきたのだけれど、今の武道にとってはファーストキスに近い感覚まで戻っていたのだ。元々、色恋沙汰に縁がなく、中学生の時に付き合っていた彼女に、キスしてもらったくらいの経験しかないのだ。息を吸うようにキスしてくるような蘭と竜胆とは、真逆の位置にいたのが武道だった。
 疑り深い蘭にじっと目の奥を覗かれて、武道は蛇に睨まれたカエルのような心境になる。
「わりぃ、兄貴。昨夜、タケミチに結構無茶させたかも」
 竜胆の言葉に、蘭は呆れた目で「ふーん」と言い「じゃあ。風呂入って来るわ」と、ようやく納得して離れていってくれたので、武道はそっと胸を撫で下ろした。
「腹が減ったよな? 今デリバリー頼んでいるから、もう少し待ってろ」
 今日は外には行かないのだとがっかりした。マンションに着いたのは夕方だったので、もしかしたら、夕食の為に外出するのではないかと、武道は密かに期待していたのだ。
 村と違って、ここは一歩外を出れば飲食店で溢れている。車や電車に乗らなくても、徒歩で行ける範囲に飲食店が山ほどある。そして、六本木であれば、実家のある渋谷までは徒歩でも戻れた。寂れた村と違い、人ごみに身を隠すことも容易だ。
 だったら、蘭と竜胆が寝た後に逃げればと考えたが、このマンションは二人が持っている家の鍵が無ければ、エレベーターにも乗れない。非常階段もあるみたいだけれど、そこも家の鍵がいるようだ。そういう訳で、この部屋から一人で抜け出すのは不可能で、そのせいか、二人は武道から目を離すことが多い。今だって、武道をリビングのソファーに座らせたまま、二人は武道に視線の届かないところにいる。
 この状況で逃げ出せないことに、じりじりと焦る気持ちがあったが、何日このマンションに滞在するのか分からないけれど、焦ったらダメだと、武道は自分に言い聞かせた。
 都内にいるのだ。きっと、どこかでチャンスがある筈なのだ。従って、それまでは、蘭と竜胆に疑われないように従順にしていなくてはいけないと武道は思った。
 今夜はキスもセックスも避けられたけれど、明日以降はムリだろう。だから、明日の昼間に逃げ出せたら良いのにと、武道は祈るような気持ちで願った。