Hizuki
2025-03-13 22:42:48
6910文字
Public あんスタ[零薫他]
 

Oblivion

【あんスタ】零薫。とある記憶がない薫の話。アイドルをしているものの、別世界観でのパロ話なので、P.1に簡単な説明あります。やや暗め。何でも大丈夫な方向けかも。覚えていたくても、忘れられたくなくても。




薫くんが自身の部屋に来たのは日が傾いてきた頃だった。『午後に用事があるから、それが済んだら行く』と聞いていて、もう少し遅い時間になるかと思っていたから嬉しい誤算だった。

「いらっしゃい」
「お邪魔しま~す」

部屋のインターフォンの音が聞こえて、出迎えれば一般的な挨拶が返ってくる。そんな言葉を交わすものの、互いの部屋を行き来するのはよくあることだった。泊まることもしょっちゅうになって、必要なものを買い足すうちに私物を双方の部屋に置き合うようになった。もう挨拶は『おかえり』と『ただいま』でもいいのかもしれない。
手洗いとうがいのために薫くんが洗面所に入っていくのを見てから、電子ケトルに水を入れてスイッチを押した。揃いで買ったマグカップを食器棚から出し、合わせてコーヒーを淹れる用意をする。

「そうそう。零くん、これおみやげ」

ケトルの水がこぽこぽと音を立て始めた頃、そう言って薫くんは手にしていた紙袋をこちらに掲げて見せた。以前差し入れとしてもらったこともある、有名な洋菓子店の紙袋だった。

「おお、どうしたんじゃ?」
「今日の用事と繋がるんだけど、前にちょっと人助けした時のお礼でもらったんだ」

そのまま薫くんはダイニングテーブルの方に回り、そこに紙袋を置いた。ドリッパーにフィルターを敷いて、2杯分の粉を計って入れる。

「流石に俺一人じゃ食べ切れなさそうだからさ、一緒に食べよ?」

中身が何かにもよるところではあるものの、確かにこの袋の大きさでは一人でというには多いように思える。確かここは焼き菓子が有名で、おそらく個包装になっていたはず。優しい薫くんのことだから、きっと後輩達や自分以外の親しい者達にも少しずつ分けて持っていくのだろう。

「それはありがたい話じゃのう。一体何をしたんじゃ?」
ん~と、道で事故に遭いそうな子を助けたんだよね」
もしや、この間の包帯はその時のものかえ?」

薫くんの言葉と少し前の彼の様子がようやく繋がった。先日薫くんが待ち合わせの場所に自分より遅く現れた時があった。珍しいこともあるものだ、程度に思ってはいたが、同時に袖の端からちらりと見えていた左腕の包帯が気にならなかった訳ではない。

「あ、それそれ。気付いてたんだね」
「我輩が気付かぬ訳がなかろう?」
「ごめんね。大した怪我じゃなかったから、わざわざ言わなくてもいいかなって」

そう言いながら薫くんは自身の側に戻ってきた。助けた子と共に向かった病院で手当てを受けてから来た、といったところか。支障があるのならきっと先に申し出てくれるだろうとも思ったから、敢えてこちらからは何も聞かずにいた。実際、特に何もなく、数日経った頃にはもう包帯は外されていた。

「俺が間に合わなかったら大変なことになってたかも」
薫くん、それは『ちょっと』の人助けとは言わぬよ」

何でもない、というようにさらりと薫くんは言う。『大変なこと』が何を意味するのか、考えるまでもない。思わず苦笑してしまう。

「何にせよお手柄じゃったのう。相棒の勇気に我輩も誇らしいぞい」
「ありがと、零くん」

それを吹聴することもなく、普段通りに過ごしている。自身を顧みずに人助けをしたその心は、自分の相棒として誇らしく思う。僅かに照れた様子を滲ませつつ、薫くんが笑った。
カチ、とケトルが小さな音を鳴らした。湯が沸いたようだ。ゆっくりとドリッパーにそれを注ぎ、2つのマグカップに同じようにコーヒーを落としていく。

「それにしても、家族揃ってお礼に来るなんて思わなかったなぁ。特にお母さんがずっと頭下げっぱなしでさ、何か俺の方が申し訳なくなっちゃうくらいだった」

そう言いながら薫くんは上げた手を見ながら指を折っていく。今日薫くんの元を訪ねた人数なのだろう。そのまま指を開いていくのを見て、内心首を傾げる。助けた子と、両親、兄弟にしては数が多いような気がするが、詳細までは分からない。何にせよ、片手の指を折っただけで数え切れない大所帯でとなれば驚くのも自然なことだ。

「それだけのことをしたということじゃよ。母親にとっては大事な子供じゃろうから」
母親、か」

母親にとってだけではなく、家族全員にとって大事だということは大前提として。小さく聞こえた薫くんの声は、何故か少し遠くに感じられた。

「うむ。そういえば、薫くんのお母様はどんな方なんじゃ?」
「う~ん

自分の手元に視線を戻し、再び湯を注いだ。コーヒーの良い香りがふわりと漂う。それを吸い込みながら尋ねれば、薫くんの返事は歯切れが悪かった。今の自分達を取り巻く環境に至るまでに、家族で多少の話し合いがあったとは聞いた記憶があるが、家族仲が悪いとまでは聞いたことがなかったと思う。何か差し障りがあるのなら申し訳なく思うものの、口に出した言葉は戻せない。無理には聞かぬよ、と続けようとした、その時。

何も思い出せない、分からない、ってことは、きっと『そういうこと』なんだろうね」

最後の一滴が吸い込まれてケトルを置いたのと、薫くんの声が聞こえたのはほとんど同時だった。寂しそうな、哀しそうな声に、思わず顔を上げて彼の方を見る。

「もう、そんな顔しないの」

こちらの視線に気付くと困った顔はすぐに消え、あまり見ないぎこちない笑みを浮かべた。自分は一体どんな顔をしているのだろう。伸ばされた手は頬に添えられ、そのまま緩く輪郭をなぞる。

すまぬ。踏み込みすぎてしまったのう」
「ううん、気にしないで。世界が『そういう風』にできてるんだから、仕方ないよ」

謝罪の言葉を告げれば、すぐに薫くんは首を横に振った。
『そういう風』に、というのはこの世界の『理』のこと。自分達を含め、人々が穏やかに暮らしている都市は障壁で護られており、その障壁の外では常に争いが起きていた。有限の資源を巡って、遥か古代から続いてきた争い。戦い続ける者達に古の神はとある『理』を与えた。

『死者の記憶を生者の記憶から消し去る』か」

悲しむ時を与えず、進む足を、武器を振り上げる手を、戦う心を止めさせないためのもの。呪いにも似た理は、争いをより苛烈なものへと変化させた。戦いが激しくなれば、人々の不安は膨らんでいく。
ある時、偶然発見された素材を通した音が人間の心に作用することが分かると、軍はそれを加工し、広く行き渡らせようとした。不安を宥めるため、争いから目を逸らさせるため、歌と舞で人目を惹き付ける偶像集団アイドルユニットを仕立て上げた。同時に偶像の歌は戦場に新たな加護をもたらし、軍から同行を要請されるようになった。自分と薫くんもまた、その偶像集団のうちの一つに揃って属していた。
争いが終結する気配は未だに見えず、当然理を廃する方法もない。例えどれだけ親しく、愛していた者であったとしても、家族でも、恋人でも、命が尽きれば、命を落とせば、その瞬間に全ての記憶は失われてしまうのだ。
『最初から存在していなかった』かのように。

「でも、多分名前は海の生き物の本で見たことがあるんだ。きっと素敵な人だったんだと思うよ」

そっと目を伏せて、静かにそう言った。記憶はなくとも、自身の姓と同じというところに結び付けたのだろう。それを確かめる術は、もうどこにも存在しないのだけれど。

「さ、せっかくもらったんだから食べよっか!」

パンと薫くんが手を打ち合わせた。部屋に広がりつつあった重い空気を断ち切るような音だった。少し無理をしたような明るい声は、これ以上この話を引きずらないようにしようという薫くんの気遣いだ。

「零くんがコーヒーも淹れてくれたんだし」
夕食前じゃが、いいのかえ?」
「ちょっとだけならいいでしょ?」
「ふふ、そうじゃな」

それに応えるように頷くと、マグカップに乗せたままになっていたドリッパーを外した。薫くんが目の前のマグカップを持っていく。薫くんの言う通り、ちょっとなら問題はない。フィルターをごみ箱に捨ててシンクの中に静かに置くと、彼の背を追った。

薫くんは、間違いなく自身の『相棒』と呼べる存在だった。同時に別の関係でもあり、それを一般的な名称で呼ぶのならば『恋人』というのが相応しい。そして、互いの部屋を訪れる時は、『相棒』ではなく『恋人』の顔でそのドアを開けるのだ。