足元を覆い尽くす夥しい多種多様な骸から放たれる鼻が曲がるだけで済めば御の字の腐臭に顔を顰める事無くマウイは握りしめた釣り針に神力を巡らせ、澱んだ空気を払い除ける澄み渡った空と海が幾重にも積み重なった屍を物理的に押し退け道を開いた。
数回足の裏に伝わる不快感と危険性が大分抑えられた感触を確かめ「こんなもんか」と顎を撫で擦り、歪で果てのない地平線を剣呑な目でねめつけ、陰鬱な気配をねじ伏せる鯨波を上げた。数多の人間達の声に匹敵する半神マウイの雄叫び。高揚するマウイに増幅した神力が神々から賜った釣り針をより力強く光り輝かせ青白い残光を数秒その場に留まらせた。
間髪置かずに轟く衝撃波が豪快に血肉がこびり付いている骸を左右に吹き飛ばし、漸く収まった頃にはマウイの正面に一本の整備された道が誇らしげに作成者とその同行者を見上げていた。まさに神懸った職人芸である。
「よしよし。瘴気の噴出を抑え込めてるな」
意図も容易く肉の体を傷付ける破断した鋭利な骨もさることながら、最も注意すべきはここいら一帯に充満している神すら脅かす深く澱んだ瘴気だった。この脅威を知らぬ者がこの地域に迷い込んだが最後、不安と焦燥感に駆られ当てもなく逃げ惑っていればそこかしこから噴き出す煙霧に体を蝕まれ、徐々に視界が霞み息苦しさを覚えた頃には骸の中に蹲り長い後悔の時間を過ごし──。
「その次に迷い込んだ無知な者を招き誘う一部になり果てる」
「へ、へえ…」
「だが、生に執着している骸と瘴気さえ対処出来ればそこら辺の砂浜と大差ない。趣味偏りまくりの、な」
その身をもって安全性を示すマウイの巨大な足が出来たてほやほやの道を踏み締め「いい仕事しただろ?」と大仰に両手を広げ振り返ればオールを後生大事抱き締めているモアナが不安げな眼差しを太陽や月、星々のない灰色の陰鬱な空を見上げていた。
マウイの視線に気付いてか、曇天から戻したモアナの目が彼の目とかち合った途端、抱えていたオールが活きのいい魚の如く彼女の腕の中で跳ねまわる。何度か手から逃げ掛けるオールを捕まえ取り繕った笑みを浮かべるモアナに若干の違和感を覚えたが、瘴気を神力で抑え込んでいる道は生憎長生きしない儚い命である。
「さて、潮が満ちる前に渡りきっちまうか」
「うんうん。そうしましょっ」
やや食い気味に先を急ぐモアナだったが、マウイ作の道に一歩踏み入れるや否や両端から這い上がる呻き声にオールの先端を忙しなく向け臨戦態勢を保ったまま歩き出し、マウイもまたその彼女の後ろに続いた。
「ねえ…ここってラロタイやモトゥフェトゥの近くまで行ける神々の通り道と大分雰囲気が違うみたいだけど…」
肩に担いだ釣り針に終始神力を走らせ周囲の瘴気濃度を薄めていたマウイの耳がモアナの問い掛けを拾う。
「そりゃあ、此処は神が創った代物じゃないからな」
その言葉に余程驚いたらしい。勢いよく振り返ったモアナの丸い目に予想以上のいいリアクションをしてくれて喜んでいる半神半人の英雄が映り込む。
「この抜け道は魔物が創ったのさ。──ま、その魔物がどこの誰でどんな奴だったのか俺も知らん。真っ当な神はこんな穢れた道を通る事自体憚るが、残念ながらナロの裏をかくにはもってこいな道って訳だ」
溜めて言い放った割におどけた態度で話すマウイだったが、モアナの強張った表情を解す力を持ち合わせていなかったようだ。愛想笑いもしないで絶えず周囲の警戒を怠らない、もとい過敏に反応する様はまるで暗がりを怯え怖がる子供そのもの。
「大丈夫か?」
「大丈夫!って言いたいけど無理かも…」
案の定と言うべきか。頼りなく下がった眉と不安げな上目遣いが彼女の心情を物語る。
ならば伝統航海術の師であり親友、固い絆で結ばれた相棒。そして、先輩半神としてやる事は分かり切っている。
「素直で結構。そんな怖がりなお姫様に俺が一肌脱ごうじゃないか。お手をど、」
恭しく差し出した手を通り越して腕にしがみ付くモアナにマウイは言い掛けた言葉を唾と共に飲み込んだ。マウイから見れば細くしなやかなモアナの腕が自分の腕に巻き付き、まろい頬が押し付けられている柔さに見開いた目を数回瞬かせた。
つうと言えばかあ。モアナがお姫様ワードに突っ込むのを信じて疑わなかった弊害でマウイは顔に然程出さないものの動揺を隠し切れていない。小さな破裂音を奏で不規則な明滅を繰り返している釣り針が何よりの証拠。
モアナの意外な一面を垣間見てたマウイに揶揄う暇や余裕、気持ちなぞ欠片も産まれやしない。それどころか俗に言う少女らしい仕草に庇護欲を掻き立てられる。
「生きるため他の生き物の命に感謝して食べるとは真逆…、此処に漂う悪戯に命を弄び蔑ろにしてせせら笑う雰囲気が薄気味悪くて……」
モアナの言葉にマウイが地から離れかけた足をしっかり地に踏み締め、巻き付いている細い腕を緩く解き微かに震えている肩を抱き寄せた。
齢20にも満たない半神になったばかりのモアナと3000年の時を生きてきた半神のマウイとでは明らかにくぐってきた修羅場の数が段違い且つ経験の差に置いては天と地ほどある。
「そうだな、俺も麻痺して忘れかけていた。此処は恐ろしく穢れた場所だ」
怖がって当たり前だ。随分小さく感じるモアナの背中を安心させるように手で擦った。手のひらにすっぽり隠れる背中と幾らか安堵したモアナの表情にマウイも顔を和らぎ──。
突如周囲の屍が地響きに合わせカタカタと嗤い出した。
目配せをした二人が警戒態勢に入り互いの背中を預け正体不明の轟音に神経を尖らせる。五感を研ぎ澄ませ一定の距離を保ち隙を窺っているようにも思える不気味な気配を追う。
それぞれ釣り針とオールを構え死角が出来ぬよう周囲を警戒する息の合った姿。そう易々と崩せない堅牢な牙城を値踏みする双眸が嬉々として三日月を象る。
『モアナ』
抑揚のない熱が消えた声音。
されど、確かに背を預けたマウイの声にモアナは反応してしまい彼の名前を呼ぶべく薄く開いた色味の濃い唇から零れ落ちる言葉の残骸が骸の仲間入りを果たした。
見えない力が無理やりモアナの瞳を引き寄せ、限界まで窄まった瞳孔を嘲笑い彼女の視界いっぱいに巨大な鋏のシルエットで覆い尽くした。
「モアナッ!!」
今度こそ本物の声を太陽に愛された目で追う。浮遊感と緩慢な時の流れが支配する無音の世界に響き渡る甲高い耳鳴り。おかしいかな、モアナの耳には必死に叫ぶマウイの声が、固く乾いた骸たちの断末魔が、遥か頭上高くに登っていき、伸ばされた手を掴もうと伸ばした手は違うモノに囚われ伸ばす事叶わなかった。
跡形もなく塞がってしまった大穴を力任せに釣り針で抉り殴るマウイの背中を無数の蝙蝠の鳴き声が撫ぜる。
「ごめんなさいね」
いつ時か単騎で乗り込んだ状況と間違い探しをするのであれば、それは激情に彩られた英雄らしからぬ面貌であろう。こめかみに血管が浮かび上がり、奥歯が鈍く軋むまで食い縛った口が紫苑の瞳を持つ半神半人の名を叫び、襲い掛かる黒い蝙蝠の津波を青い稲妻を纏わせた釣り針で薙ぎ払う。
「代わり映えしない対戦カードだけど、楽しみましょ」
マウイの雄叫びが骸たちを震え上がらせるも、瘴気が戻り始めた空に漂う妖艶な女性は涼しげな顔を変えずに蝙蝠の翼のマントを広げ黒い津波を再び引き起こした。
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