珍しいことに今日、先輩と墓のとゲタ吉は、三人で出かけている。といってももめ事の類ではない。以前解決した相談事の関係者が、改めて礼をしたいという理由で、宴席の招待状を寄越したからだった。やや遠方だった為に朝から出発せざるを得ず、寝ぼけ眼でカラスの迎えに乗った先輩が、今更のように気になった。……まさか途中で落っこちる、なんてことはないとは思うけど。
ともあれ今日は、僕はちいさいのと留守番だ。
居間の座卓の定位置で、昨日墓のに教わった術の復習をしようとノートを開くと、ちいさいのも一緒に自分のノートを開いた。学んでいることはほぼ一緒だ。
霊力の扱いだけなら、僕にはそこそこ経験がある。でも、ソレを一つの系として学んだことは、今まで一度もなかった。知らなくても困らなかったからだ。
でも、先輩と自由に会う方法を確保する為に、僕は術の扱いを覚えなくてはいけなくなった。先輩が地獄の鍵を抱えている以上、先輩が僕を追いかけるのは不可能だから、僕がしがみつくしかないんだ。
ちいさいのが勉強をする理由も、少し似たところがある。ご先祖様の守りを持たず、父さんも水木さんも失って、身一つで墓のの世界の住人になったちいさいのは、いつかゲタ吉を守れるくらいに強くなりたい、と願っているから。……ゲタ吉が痛い目にあってばかりいるのは自分のせいだ、と塞ぎ込むちいさいのに、僕は『いつかゲタ吉を守れるくらいに強くなったらいい』と提案した。
そして、術の扱いを覚えることとは、何よりも己の力の扱い方を学ぶことだ――と、僕らの教師役でもある墓のは言った。まだ力の制御が未熟なちいさいのにとっては、何より必要な知識だろう。
ちいさいのがノートを見返す目は、真剣だ。
僕が同じくらいの年だったころ、こんなに何かに熱中したことはあっただろうか。……それだけ本気で、強くなりたいんだろう。
二人でノートの中身を確認しあっていたら、午前中はあっという間に過ぎていた。お昼にしようか、と言ったら、ちいさいのはあまり気が進まない風だったけれど、こくりとうなずく。……ちいさいのにとって、食べることは、そんなに楽しくないんだ。おそらくは、元の世界から引き剥がされたショックが、まだ残り続けているせいで。
ゲタ吉がいなければ尚のこと、食欲は湧かないだろう。
無理に食べなくてもいいけど、と言ったら、ちいさいのはふるりと首を横に振った。
「たべない、と、つよく、なれない」
「……そうだね。じゃあちいさいの、お茶、入れてくれるかな」
「うん」
理由がなんであれ、食べられるのは良いことだ。
ちいさいのがお茶を淹れている間に、僕はお昼の用意をする。寺の厨の冷蔵庫から、朝飯の残りのご飯で作ったおにぎりを取り出し、漬物を切って盛り付け、豆腐と油揚げがたっぷり入ったお味噌汁を温める。質素なメニューだけど、僕はこういうのが一番おちつく。水木さんと暮らしていた頃と似たようなメニュー――この寺で、日々の食卓がこんな感じになるのは、ゲタ吉がちいさいのの為に、できるだけ安心できる暮らしを構築してやりたいと願った結果でもある。ゲタ吉の元にある記憶もやっぱり、ちいさいのと僕と『同じ』だから、それは必然的に、かつての水木さんとの暮らしと似たようなものになってくる。この世界に飛ばされてきて、僕もあのころの暮らしを、鮮明に思い出すことになった。
準備を済ませて、改めて卓についたら、僕とちいさいのは全く同じ動きをした。
「いただきます」
「いただきます」
食事の前には、手を合わせて。……水木さんが教えてくれたことだ。こういう細かいことほど、忘れない。
「あれ、……いつも、と、ちがう?」
そうして味噌汁を一口飲んだちいさいのが、軽く首を傾げる――僕はあまり気に留めていなかったけど、ちいさいのには気になるのか。
「ああ。今朝から味噌を変えたんだ」
「すこし、あまい……の、かな? でも、あまく、ない、しょっぱい……んん?」
「前のよりちょっとだけ、甘い感じの匂いがするよね」
「におい……で、あじ、かわる、おなじ、なのに……ふしぎ」
何やら難しい顔で、ちいさいのはちびちびと味噌汁を飲んでいる。おいしい、というのはちょっと違うらしい、と分かってしまうのは、やっぱり僕が元々『同じ』だからだろう。
「匂いが変わると、味も引っ張られて、変わったように感じるんだよ」
僕は湯呑みのお茶を一口含んで、呑みこむ。
これはいつもの番茶の香りだ。
「味そのものは変わってなくても、匂いが違うと、別物みたいになるよね」
「そう……なんだ」
難しい顔のまま、やがてちいさいのは味噌汁の器を空にした。
「じゃあ、沢にいさん、ときどき、高にいさん、みたいな、あじ、になる?」
「……ど、どうして?」
ちいさいのの質問の意味がよく分からず、問い返したら、しばらくちいさいのは沈黙して考え込んだ。僕も奇妙に緊張してしまい、ごまかすようにお茶を口に含む。
そこを狙い澄ました訳でもないだろうけど、やがて口を開いたちいさいのは、とんでもない一撃を繰り出してくれた。
「だって、ときどき、……沢にいさん、から、高にいさん、の、におい、する」
僕は口に含んだ番茶を危うく噴出しかかった。
ちいさいのは味噌汁の器を見つめたままなので、僕の様子には気づいていない。
「ま、えは、そんな……こと、なかった、けど。あの、かわら、から……かえって、きて、から……とき、どき」
何とかこらえて呑みこんで――心当たりはある。ありすぎるくらいにある。
術で結界を張る方法を覚えてから、その、ちょっと我慢がきかなくなってたのも本当だ。
「き、きっとそれは……同じ部屋で暮らしてるから、だよ。ほら、自分の匂いって自分では分からないから、多分、だけど……」
「じゃ、あ、ぼく、と、ゲタ吉にいさん、も、いっしょの、におい?」
ちいさいのが味噌汁の器から顔を上げて、こてん、と首を傾げる。
その動きからも、声からも、何の他意もないことは分かる。事実そのままを口にして、疑問に思ったことを重ねてみた、というだけの。
……そう、僕が一方的にやましい気持ちになってるだけだ。
「そう、なんじゃないかな、味が変わるかは……確かめたこと、ないけど」
「うん……そっか。ゲタ吉にいさんも、高にいさんも、たべもの、じゃ、ないもん、ね」
そっか、と繰り返してちいさいのは何やらうなずいているけど――確かに、食べ物じゃない。ないけど。
「かじっ、たら……ゲタ吉にいさん、いたい。高にいさん、も、いたい。それはだめ、だめ……」
無邪気だった頃の僕そのままの顔と声で、正面からそう言われてしまうと、僕の動揺は更に深くなる。だって、先輩の味を、僕は知っているから。
甘くて痛い、黒くてとろけそうに熱い。
……そんな恋情を、ちいさいのはまだ知らない。
知るには早すぎるだろう。いくらなんでも。
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