柳堂知羽@一次創作
2025-02-11 22:55:37
7304文字
Public ⬛︎みえナい
 

どうにも今日もみえナい【サンプル:通販あります】

気付いたときには遅い。水辺の向こうから呼ぶ声。冬の街で一度だけ命の綱が揺れた。



「そうそう、ハヤテ君、こんな話って知ってる?」
先輩が言った通り、どうやら業務の谷間に入ったようだ。ここまでくれば先ほどまでの鬼のような忙しい時間はこないであろう。そのことにほっとしていると、キッチンの主もとい、業務を教えてくれる先輩がハヤテに声をかけた。この人はこの店、というよりはこの業界がそこそこ長いと言っていた。そんな人ではあるがとても物静かかつ穏やかな人で、ハヤテは顔合わせの時にこっそりほっとしたことを覚えている。あのハヤテですら騒がしいと思った仕事先の知り合いが紹介する人だ、もしかしたらもしかするのでは、と内心では思っていたのだ。
ちなみにこの先輩は、見た目から年齢を当てることがなかなか難しい。顔には皺がなく肌艶があり、それなのに髪には多少の白いものが混じっている。とはいえ、動きはキビキビしているし、重い段ボールを躊躇なく持ち上げては運んでいる。初めて顔を合わせた際にハヤテはそれとなく聞いてみたがはぐらかされてしまったから、それ以上突っ込むことは止めたため、いまだにいくつなのか分からないでいる。
だからといって関係が悪くなることもなければ、業務上でトラブルも起きない。この先輩、口数は多くないが、適切に無駄のない仕事をする。しかも良くも悪くも主張が激しくない性格のお陰か、なかなかにスリリングなメンバーの多いこの店で上手いこと、のらりくらりと仕事をしている。それだけ分かればハヤテにしてみれば大分面白く、また共に働くことが出来る機会にありつけたことにこっそりと感謝するほどであった。
そんな先輩が、水分補給をするハヤテに話しかけるのはなかなかに珍しい。普段、必要以上の会話はしない人だ。そもそも、業界が長いという話も、最初にこの店に挨拶に来た時に少しだけ雑談した際に聞いたことで、それ以外の情報を何も知らないし話すこともない。もしかして作業中に何かミスをしてしまったのかもしれない、とかしこまるハヤテへ先輩はのんびり笑う。どうやら仕事の話ではなく雑談のようだ。
なんと、珍しい、なんてつい思ってしまった。そのせいか、ハヤテは多少の緊張を滲ませての話を聞く体勢をとってしまったのだ。そして、そんなハヤテの様子に先輩は穏やかに笑う。その笑みは優しげだが、少しばかり生気に欠けるものだが、ハヤテは気にすることはなかった。
「あくまで噂の話だけど、ここら辺では前から有名な話でね」
そう言いながら、男の目は笑みを象って細くなる。どこかで見たような気がするような笑みだが思い出せない。だがそんなことよりも、ハヤテは噂という単語に胸が高鳴ったのを感じる。きっとそんなハヤテの表情の変化に気付いたのだろう。淡々とした男の声音に少しばかりの喜色が混じった。
―― 曰く、この辺りで終電後にとある屋台ラーメン屋が現れるという。そこのラーメン屋では、なんと出汁に人間の手首が使われている、なんて噂がこの辺りにある夜の店の人間らの間で出回っているらしい。
らしい、と言っているのは、話には聞くが実際に食べた者がいない上に、屋台ラーメン屋なんてここ十数年、目にしない者ばかりだからだ。そもそも終電後なんて、この一帯の店は全部しまっているし、屋台なんて来ない。道端にいるのは同業者もしくは家がない者、そして「色々な意味」で近づいてはいけない者達だけである。そこに飲食に関連する者は一人だっていない。それはハヤテがこの仕事をする前から知っていた事実であった。
「最近はおでんの屋台すら見ませんもんね」
「おや、ハヤテ君はおでんの屋台の経験があるのかい?」
まさかこの人からこんな噂話が出てくるだなんて思いもしなかった。何となくではあったが、この人はその手の話に一切の興味がないと思っていたのだ。では何に興味があるのだろうと言われると困るのだが、少なくとも噂話をバカバカしいと内心で切っているような人のような気がしていた。実際、ボーイらのくだらない雑談には少しも反応しないし、話しかけもしない。仕事が終わればさっさと帰ってしまう。こんな人だからこそ、ハヤテは目を丸くしてしまった。
もしかしたら少し前にちらりと話した動画制作やブログの内容のことを覚えていて、わざわざ聞いたことがある話をしてくれた可能性だってある。なに、先輩の語り口調からも、この話を信じているとは思えないのだ。真偽のほどは定かではないにしろ、この話はなかなかに面白い。正直、そこまで胸のセンサーには引っかからないものの、この街に長くいる人の話だ。もしかすると、もしかするかもしれないし、もしかしないかもしれない。今日の仕事帰りに、多少の危険は承知で歩き回ってみるのも面白いだろう。
なんて考えていたら、ホールからボーイがやってきてアルコールのオーダーを飛ばしてきた。まったく、まだ飲むのかなんてことは言わない。ハヤテは先輩に話を振ってくれたお礼を言いながらウイスキーの瓶を取りに向かう。ハイボールくらいならハヤテだって作れるのだ。
だからハヤテは気付くことができなかった。表情が抜け落ちさせた顔で、その後ろ姿を見つめているじっと先輩の姿に。そしてその目はまるでガラス玉のように空虚だったことに。