ひよこ豆
2025-02-06 23:36:42
23546文字
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焦がれる鷲獅子

概要:自創作の二次創作をやったらハチャメチャになった
わからん、かなり本編の話をしているのでこれ二次創作って言うか外伝みたいな雰囲気になってない?でも主人公はジャンじゃないので……

 空気の澄んだ早朝の空に、ばさりと翼の音が響いた。
 青空を背景に、黒褐色の翼と白い冠羽のコントラストが目を引く。大きな鷲の体に獅子の後ろ脚を持つ幻獣――グリフォンが一頭、巧みに風をとらえて滑空していた。やがてグリフォンは美しい軌道を描き、王都の広場へと舞い降りる。
 鷲の足が広場の石畳を軽く叩いて音を立てる。獅子の後ろ脚は静かにブレーキをかけた。羽根と毛皮に覆われた巨躯が煙のようにほどけ、若い男の姿となって像を結ぶ。獅子の後ろ脚はすらりとした二足歩行の足に。大きく広げた翼は空の青に透けるようにして消えた。ごうと風が渦巻き、若者の短髪が日の光にきらめく。真っ白な頭髪はグリフォンのときとそっくりだ。一見すると耳の短いエルフのような容姿でありながら、明らかな人外の気配をまとってもいる。
 男は軍服の襟元をただし、軽く身だしなみを整えた。顔を上げれば、金と黒の特徴的な目が現れる。その鋭い眼光も元の種族の印象を強く残している。
 広場は飛行可能な種族の玄関口として広く利用されており、グリフォン以外にも何名かの有翼種が飛び交っている。そのほとんどがそもそも変身をしないか、あるいは悪戦苦闘してようやく変身する中、彼はまるで上着を脱ぐくらいの気軽さで姿を変えた。周囲の衛兵が駆け寄ってきたので、男は敬礼した。
「ジャン=クロード・リヴィエール大尉、東の砦よりただいま到着いたしました」
「はっ。長旅お疲れ様でした」
 衛兵たちが敬礼した。いずれもジャンにとっては懐かしい顔ぶれだった。
「大尉、おかえりなさい。それにしてもいつ見てもお見事な変身ですね」
「王都にお戻りになると聞いて、みんな待ってたんですよ」
 早朝にもかかわらず職務をほったらかして集まってきた衛兵たちに、ジャンの口から苦笑交じりのため息が漏れた。みないいやつなのだが、陽気にサボり始めるのが玉に瑕だ。
 広場の端には露店が立ち並び、季節外れの花が舞っている。ある獣人族は果物の箱を運び、あるエルフは軒先で怪しげな薬を売っている。イカれているのが正常な花妖精たちは噴水の周りに集い、なにか歌いながら踊っていた。活気ある――若干ぎょっとする部分もある――王都の雰囲気に、ジャンは懐かしさを覚えた。前に来たときはそれどころではなかったので、この「王都らしさ」を味わうのも久々なのだ。
「大尉が東に異動になって何年でしたっけ」
「もう百年以上だろう? 後任がマイニッツ補佐官だった」
「そういや東だいぶ立て直し進んでるって聞きました。昔はそりゃあもうガタガタでしたよね」
 このまま宴会にでも行きそうな顔の衛兵たちに、ジャンは釘を刺した。
「またあとで兵舎に顔を出す。お前たちもさっさと仕事に戻れ」
 ついでに目立たないよう土産を押し付ければ、衛兵たちはしぶしぶ引き下がった。だが中身を察してかすぐ明るい表情になる。妖精・エルフ族に人気の高い蜜漬けナッツと、幻獣・亜人族に好まれる熟成干し肉のセットだ。食べ物は腹に収まれば証拠が残らないため、ジャンはよくこういったものを選ぶ。
「俺たち下っ端にも優しいのは大尉くらいですよぉ」
「私が出て行ったときからずっと下っ端のままなのか?」
 揶揄するように聞けば、衛兵は鼻の下を擦って「一階級昇進しました」と笑った。百余年でそれだけはなかなかのツワモノである。周囲も「自慢することじゃねーぞ」と笑った。
「では早く下っ端を卒業して、私の下でこき使えそうなポジションまで来てくれ」
「いいように使う気じゃないですか!」
「当然だ。では失礼する。職務に励むように」
 衛兵たちと別れ、ジャンは王都の大通りを歩きだした。こちらも多くの種族が行き交い賑わっている。ジャンと同じように、エルフもどきに化けているものも多い。これは人口の多い町では顕著な傾向だ。もともとが大型の竜種、一部の幻獣族などは、尻尾の一振りで妖精や亜人の住処を破壊しかねない。そういったトラブルを低減させるという点では、民が平均的なサイズに収まることは大きな利益となる。ただ、己の本当の種族を隠すことは、今でも激しい議論の対象となっている。
 偉大な王を戴いたこの国にも、種族的差別は根強く残っており、外見によって嫌な思いをするものは多い。エルフもどきの姿をとることは、そういった抑圧からの解放が見込める。けれど一方で、己の種族の誇りを汚されたと感じる者もいるし、あるいはこの術を詐欺などの悪事に利用せんとする者もいる。革新的な技術は、常に正と負の両面をもって現れるのだ。
 パン屋の軒先で、大柄な亜人族が華奢な女に絡んでいる。女は白皙の頬に淡い色の金髪、ほっそりとした美人だ。亜人のほうは堅い鱗肌の戦士風である。いかにも威圧感のある風貌だが、ジャンからすると、女のほうがよほど強い上位の幻獣族に見える。ジャンも幻獣の同胞なので、うっすらと匂いでわかるのだ。男は身の程知らずな誘いをかけた代償を払うことになるだろう。
「おうさま、みてる」
 木っ端妖精がジャンの耳元でささやいた。そしてひらひらと宙を飛んでいく。自我すらあいまいそうな、おぼろげな存在だった。
 妖精族はこのヘネの大地において、もっとも世界とのつながりが強く、「現象」に近い存在である。多くが繁殖を必要とせず、世界にとって適切な数がどこからともなく現れる。木っ端妖精はその呼称こそ木っ端扱いだが、その実は世界の渦から剥がれ落ちた力の断片だ。
…………
 ジャンは城の方角を見た。
 王都中心にそびえる宮殿は白を基調としており、否が応でも王の存在を思い起こさせる。彼が「言葉」によって治めたこの地は、すべて彼の認識内だ。きっとジャンが戻ってきたことも、とっくに気づいているのだろう。
 不敵に笑う竜王の顔を思い出し、ジャンは少しだけ憂鬱になった。

 軍の中央司令部は、宮殿からほど近い場所にある。初めて見た者はやや緊張感を覚えるかもしれないが、王都においては建国以来変わらぬ光景だ。なにせ軍のトップは王の騎士と兼任である。
 ジャンも以前はここに出入りしていたし、時には上官を呼びに宮殿まで出向くこともあった。昔を思い出しながら中央司令部の正門を見る。多少建て替えた痕跡はあるが、大枠は百年前とほとんど変わっていなかった。眠そうな様子の門番はジャンの軍服をしげしげと眺めたあと、所属と名前を求めた。ジャンが名乗ると、フーンと興味なさそうな顔をした。
「中に用事ですか? おひとりで?」
「はい。こちらに異動になったので、ご挨拶に」
 胡乱げな目で見られ、ジャンは「確かに一人で来たのはよくなかったな」と考えた。単独行動をしないのは軍属の基本である。諜報員でもない限りは複数名での行動が推奨される。ジャンも部下にはそう指導してきた。
 なぜ今回に限って一人で行動しているのかと言えば、それはまあ――ジャンが同行者の調整を待たずに飛び出したせいである。
「おいリヴィエール!!」
 馬鹿でかい声で名前を呼ばれ、ジャンは思わず肩を跳ねさせた。門番は飛び上がって何事かと周囲を見回している。
 ちょうど宮殿の方角から大柄な女が歩いてくるところだった。大きくカーブした牛の角が特徴的な亜人族だ。ニカッと笑った顔は豪気な雰囲気を感じさせる。そして何より特筆すべきはその体格だろう。すべてがデカい。三メートルはあろうかという肉体は、たくましい筋肉で覆われている。鍛え上げられた肩回り、腹筋、ふくらはぎ――すべてが戦士の威厳を見せつけている。やたら露出の多い特注の鎧を身にまとっているが、これは通常の鎧では肉体の頑健さに耐えられないためだという。それでいて女性らしい柔らかさも残しており、歩き方には品があるのだから不思議だった。健康美という言葉がこれ以上ないほどに似合う女である。
 門番が固まっているのをよそに、女はことさらデカい笑い声を響かせた。地面がかすかに揺れた気さえした。
「おいおいおい、もう着いたのか! 早いな、ええ?」
「ご壮健そうで何よりです、騎士オルテガ」
 モロクの女――オルテガは片眉を上げてジャンを見た。豊かな亜麻色の髪がふわりと風になびく。
「お前は相変わらずお堅いな、リヴィエール。シュヴァイツァーに会いに来たのか?」
「はい」
「会ったら一発殴ってやれ」
 だっはっは!とオルテガの笑い声が響く。門番はすっかり腰を抜かしていた。ジャンは頭痛がしてきそうなのを抑え、オルテガを見上げる。
「閣下はこちらに?」
「いーや。例の処分の件で今は宮殿に留め置かれてる。まあ陛下が決めた以上、議会が追求できることなんて何もありゃしないが」
 しゃあねえな!とオルテガはまた笑った。そろそろどこかの壁にヒビが入っていてもおかしくない。
 オルテガは宮殿へ続く道を開けた。どうせこっちに行くんだろう、という顔である。見るからに生命力あふれる女だが、頭の回転もいいのだ。超パワータイプで戦術家という、一見相反する属性を持っているのも彼女の特異性だ。だからこそ「黄金」の称号を受けている。
 ジャンが一礼して通り過ぎようとしたそのとき、オルテガは急に声のトーンを落とした。それまでの爆音が嘘のように落ち着いた声音だった。
「陛下に意地悪されたらあたしやシュヴァイツァーに言うんだぞ」
……騎士オルテガ、子供じゃないんですから大丈夫です」
「四百歳なんてまだガキさ」
 あたしにも、シュヴァイツァーにとっても、とオルテガは小さく笑った。その横顔は、有事には優秀な指揮官になる女のものだった。
 オルテガは腰を抜かした門番の肩をわっしとつかみ、立ち上がらせて――なんなら宙に浮く勢いで持ち上げたあと下ろした――バシンバシンと肩を叩いた。門番の足は間違いなく地面にめり込んだ。折れなかっただけマシである。
 ジャンは宮殿へ急いだ。若干逃げるような歩調になってしまったのは致し方のないことだろう。出来ることなら飛んで離脱を図りたいくらいだったが、いきなり宮殿に飛び込んでいくのは許されない。王の結界によって「入口があるんだからそこから入れ」を強制される。
 整備された広い歩道を行けば、ほどなくして宮殿の門にたどり着く。ここは常に開かれている。よほどのことがなければ閉じることはない。保安上の懸念があるようにも思えるが、民からすればもはや「開いているのが普通」だ。王がしばしば広場に下りてきて民と話したり、くだらない遊びを思いついて大会をやったり、新しい魔法の試し撃ちをしたり、いろいろと好き勝手に使っている。千年ものあいだ、ずっとそうやって使われてきた。
 広場に足を踏み入れた途端、ジャンは気が重くなった。広場の奥で、妖精族と話している国王の姿を見つけたからだ。
 オルテガの言葉を聞いてまだ十分と経っていない。今思えば予言めいたアドバイスだった。しかし王はそれすら知っているのだろう。
 目の前に現れた以上、避けては通れない。そういうものなのだ。ジャンは息を吸い、ゆっくりと広場を進んだ。まだ朝早いため人影はまばらだが、楽しそうな狼系の亜人族、酔っぱらっている大型の猫妖精、何かもめているエルフ――ジャンが近づいていくと、王のそばにいた妖精たちはいつの間にかいなくなっていた。まるで示し合わせていたかのようなタイミングだ。
「クラウス陛下」
 夏の晴れ空を思わせる色の瞳がジャンを見た。白銀の髪は朝陽を受けてきらきらと輝いて見える。
 古びた木箱に行儀悪く座り、髪はぼさぼさ、上等なローブもくしゃくしゃにしながら、ヘネの王はそこにいた。本来の姿――竜としての姿は久しく見せていない。理由はシンプルに「せっかく作った城が壊れるから」だ。
「リヴィエール、おかえり。百年かかったな」
 クラウスは涼しく笑い、頬杖をついた。周囲の音が急に遠くなる。ジャンは唇が渇くのを感じた。
「それにしてもずいぶん急いで来たな。アーデンスが面白いくらい焦っていたぞ」
 ジャンは沈黙で答えた。アーデンスはジャンの上司――今となっては「元上司」だ。東の砦を預かる立場のアイギパーンで、有能ではないものの有害でもないという凡庸さを持つ。
 放任主義のアーデンスのもとで、ジャンはさまざまな人事改革をしてきた。それこそ中央では絶対に通らないような策もシレッと通し、若い世代の育成には特に注力した。当然、アーデンスの耳に余計なことが入らないよう逐一操縦もしていた。そのためいつの間にかアーデンスは「リヴィエールに任せとけばいいや」になってしまい、現在大混乱というわけだ。
 クラウスはジャンの反応をじっくり見たあと、「別に怒っちゃいないんだ」と笑った。その落ち着いた声は、聞くものの魂に直接触れる。
「今回はどう見たってアーデンスが悪いだろう。部下になんでも丸投げしてりゃ、いつかしっぺ返しを食うのは当然だ。責任者ってのはそういうものだからな。今回のはいい薬になるだろう」
……よろしかったのですか?」
 口を突いて出た問いに、ジャンは一瞬で「間違った」と感じた。絶対に言うべきではなかった。
 クラウスは眉毛をぴくりとさせ、それからゆっくり立ち上がった。とりわけ背が高いわけではないが、クラウスはほかの誰とも違う空気をまとっている。それが女神の神託によるものなのか、王という肩書がそうさせるのか、ジャンには判別がつかなかった。ただその青空のような瞳は、どこまでも澄んでいた。クラウスはその目を眇め、ジャンを見る。
「ふむ。自分で過ちに気付けるなら、俺から言うことはないな」
「寛大な御心に感謝します」
 ジャンがほんの少し安堵した瞬間、クラウスは急に砕けた口調で問いかけた。
「逆に聞くけどなぁ、お前これで『やっぱり東が大変だから戻ってくれ』って言われたら戻るのか? ここまで条件が整うことなんてもう向こう二百年ねえんだぞ」
 そんな待ってたらお前退役しちまうだろ、とクラウスは首をすくめてみせた。白銀の髪がきらりと輝く。
 今回ジャンが百年ぶりに王都へ戻ることになったのは、ある事件――さまざまな不運と幸運が重なってのことだ。それがなければきっとジャンは東の砦の副官としてずっと過ごしていただろう。いつかの夢と忘れえぬ誓いを胸に抱いたまま。
「供もつけずに即日飛んでくるほどあいつに会いたかったくせに、余計な気を回すんじゃない」
……はい」
 手厳しい指摘をしたあと、クラウスはゆっくりと歩き出した。ジャンは数歩遅れてその後ろをついていく。周りにいるはずの民の姿も、声も、霧のようにすり抜けていった。
 クラウスのまとうローブが風を含んでやわらかく揺れた。先ほどまで乱雑に尻の下に押し込められ、くしゃくしゃにされていたはずなのに、今は皺ひとつなかった。ジャンは一瞬自分の軍服の裾を確認した。乱れていないはずだが、なんとなく気になった。
 周囲の景色が変わり、気付けば二人は宮殿内の廊下を歩いていた。ジャンは周囲を見渡し、現在地の見当をつける。大広間からは少し離れた――中庭に面した西側の棟だ。距離的制約などはこの王の前では無意味だ。クラウスは歩きながらぼやく。
「やれやれ。年を取ると若者にあれこれ口を出したくなる。本当に嫌になる」
「多くの若者にとって、陛下のお言葉はありがたいものかと思いますが」
「世辞はよせ」
 王はさらりと返したが、その言葉には「次はない」というニュアンスがこもっていた。
 クラウスが立ち止まり、ジャンを振り返る。その一瞬、左のこめかみあたりにある傷跡が見えた。爪でえぐられた痕のような深い傷が、銀の髪から時折のぞくのだ。ジャンの反応を見て、クラウスは目を瞬いた。
……あー」
 シュルシュルと左の前髪が編み込まれ、数本のピンで耳元に固定される。呪文も杖もない、ただ自然に行われる魔法だった。王は古傷をいつもこうしてアレンジでごまかしている。常なら周りの世話係がやっているはずだ。
 ジャンはふと、クラウスが今ここにいることに疑問を持った。クラウス王は『曙光』や『黎明』といった二つ名を持ちながら、朝に弱く、寝起きが悪いことで知られる。今はまだ早朝と言っていい時間だ。普段なら寝ているだろう。それがどうやら世話係に支度させることもなく、わざわざ広場に出向き、ジャンに小言を言っているのは――
「わざわざ寝床を抜け出していらっしゃったのですか」
 クラウスがとうとう口元を引きつらせ、「オメーがこんな早い時間に来るからだろうが」と恨みがましい目でジャンを見た。
 威厳ある王の顔を取り繕うのはやめたらしい。限りなく普段の――やや機嫌の悪いときのクラウスだ。久しぶりに見るその一面に、ジャンは「そういえばこんな方だったな」と妙な納得があった。彼は間違いなく偉大な王だが、別に神のごとき存在ではなく、良くも悪くも話しやすい竜なのである。
 クラウスは空色の目を伏せ、深いため息をつきながらぶつぶつと言った。
「お前……本当にお前な……変なところであいつに似やがって……
 許されるならたっぷり半日は説教してやる、とクラウスは奥歯をギリギリさせた。ジャンは言いようのない気まずさと、おそらく今後降ってくるであろう無茶苦茶な勅命の数々に思いをはせた。ジャンにとって、今の直接の雇用主はこの王ということになるのだ。
 ジャンはかつて王都にいたころ、クラウスに嫌われているのではないかと思うことがしばしばあった。誰にでも気軽に接することで知られる王が、ジャンに対しては多少棘のある言動をするのだ。大っぴらに冷遇されることこそなかったが、時折呼び止められて「言いたいことがあるならちゃんと言え」だの「敬愛と妄信は違う」だの、よくわからない叱責を数度受けた。今回も同じ流れと言っていい。クラウスはいつもなら寝ている時間にわざわざ出てきてまで、ジャンに説教をしている。ただひとつ確かなのは、悪意に由来するものではないのだ。それが余計にややこしい。
 苦虫を噛み潰したような顔で、クラウスは「お前が現れてからずっとこれだ」と言った。確かにクラウスはジャンが軍に入ったころからずっと一貫してこの態度だ。ジャンの複雑な身の上を理解し、そのうえで平等に接すると宣言し――なぜか小言をぶつけるようになった。不思議なものである。
 互いになんともしがたい葛藤を感じながら、竜とグリフォンはお互いを見た。どちらかといえば当事者であるジャンがもっとも悩むべきことなのだが、彼はこのことに関してだけは察しが悪く、頑ななところがあった。クラウスは半ば悟りの境地に達した顔で言う。
「今回お前に命令を与えたのはこの俺だ。あいつが何と言おうと王の言葉は覆せない。だがここで俺の求める成果が出せなければ、お前を東に戻さなきゃならなくなる」
「至らぬ点があるのは重々承知しておりますが、最大限務めさせていただきます」
 ああもう、とクラウスが頭を掻く。
「いいか、ジャン=クロード・リヴィエール。勇敢なグリフォンの血を引くものよ」
「は、はい」
「百年前、東に異動になったときに何を思った? しかも推薦したのはあいつだぞ? 大体お前はなんのためにここまで務めてきた? 今でも死ぬときはあいつのそばで死にたいって思ってるか?」
 矢継ぎ早の質問に、ジャンは面食らった。どれもこの百年、王都を離れているあいだに思い悩んだことばかりだ。
 当時は辞令が下ってしばらく何も手につかなかったし、なぜと問いただしたい気持ちもあった。だが結局何もしないまま、ジャンは命令に従い、職務を遂行することだけを考えるようになった。それを望まれたのだから、働きで応えるしかない。それでも許されるなら、最後はせめて――
「いいか? 今お前の頭に浮かんだことは、あいつにはなーんにも伝わってねえからな。お前が言わなきゃずっとこのままだ。わかったら《話し合いをしろ》」
 最後は低くうなるような声色だった。竜が「言葉」で呪いをかけたことをジャンは直感した。なぜそこまでするのか釈然としなかったものの、この流れで王の行動に異を唱えるのも難しい。
 クラウスが廊下の先を示す。
「行け。俺に会ったことは黙っていろ」
 突き当たりの扉は薄暗く、物音ひとつ聞こえてこない。ジャンが数歩進み、振り返ったとき、王はもうそこにはいなかった。
 ジャンは扉のほうに向きなおり、ノックできる距離まで進み出た。相変わらず静かだ。耳をすませば、どこか遠くから朝食に向かう者たちの足音やざわめきが聞こえるのに、この部屋からは音がしない。だが王が「行け」と言ったからには、この部屋で間違いない。それでもジャンがためらったのを察したのか、扉の向こうから声がした。
――入れ」
 かつては毎日のように聞いていた声だ。けれど今は懐かしさのようなもので胸が締め付けられる。
 重い扉を押し開ける。窓から差し込む朝陽とルームランプのおかげで、部屋はそれなりに明るかった。
 美しい調度品に囲まれた部屋の中に、シンプルなつくりの椅子が一脚ある。そこに、扉に背を向けるようにしてひとりの男が座っていた。
「リヴィエール」
 波打つ長髪がさらりと揺れる。上質な葡萄酒のような色合いのそれは、かの人の代名詞であった。
 「深紅」の称号を拝する騎士はゆっくりと振り返り、ジャンを見据えた。前髪がひと房はらりと額にかかる。生粋の戦士でありながら、どこか貴族然とした雰囲気のある男だった。整えられた口髭がかすかに動き、笑みをかたどる。
「先日は世話になったな。お前の背に乗ったのは何年ぶりだったか」
「百十年程度でしょうか。お供できて光栄でした、ナイトハルト卿」
 王都は少し前に『魔女』の襲撃を受けた。それは七百年前にクラウス王が打ち払った悪炎の残り火だった。
 最初、東の砦でその一報を受けたジャンは、どうせこの「深紅」が敵を斬り伏せると思っていた。だが『魔女』の策謀によって「深紅」は捕らえられ、この王都は初めて陥落――賊による占領を許した。ジャンが王都に戻ることになったのも、もとはと言えばこの事件の余波である。
 いろいろあって王が冬眠、もとい休眠を中断して戻ったため、王都はすっかり元通りになったものの、占領下は本当にひどい有様だった。多くの兵が傷つき、長らく平和を享受してきた民は震え上がった。王が「言葉」によって治めなければ、おそらく国を揺るがす事態となっただろう。
 ナイトハルト卿、ゲルト・シュヴァイツァーは現在その責任を問われている。王の眠りを預かり、千年この国を守って来た騎士が犯した大きな失態に、議会は大きな戸惑いと怒りを向けた。最終的に悪炎の邪竜の首級を上げたのは彼だが、それだけで差し引きゼロとはいかない。
 結局のところ、ナイトハルト卿の処分は主君であるクラウスの一声で決まった。
『我が騎士、我が友よ。お前の忠義、お前の信念、お前の剣を奪おう。一年のあいだ、軍を離れよ。そして剣を抜くことを禁じる』
 長きを生きる彼らからすれば、痛くもかゆくもない甘い裁定に見えるだろう。だがそこには、千年を共に生きて来た主従にしかわからない重みがあった。
――監視役については追って伝える。心せよ』
 そうしてクラウスが指名したのが、ジャン=クロード・リヴィエールである。