桜霞
2023-08-21 01:50:37
70875文字
Public 【twst夢】フライパンは無敵
 

監督生も、俺が守る(フライパンを担ぎながら)

お久しぶりです、こんばちは。どうも、桜霞です。

久しぶりのフライパンシリーズメイン更新です。年単位で滞ってしまったぶん頑張るぞと意気込んだら、なんと6万字を越えてしまいました。Oh……

まあ何がやりたかったかってーと、ツイステでアンブリッジ撃退がやりたかったんです。
相変わらずキャメロットなフライパンが活躍しております。随所に小ネタも仕込んでおりますので、気付いたものがあったらコメントやマシュマロなどで是非教えてください。

頑張ってラストまで書き切りたいです。これからもどうぞ暖かい目で見守ってやってください。









 クロウリーは賢者の島に着いたかと思いきや、慌ただしくステッキを振り回し、自分の荷物を纏めた後、学園に寄らずに再び黎明の国の首都へと戻って行った。どうやら学園長への取り調べはまだまだ続くようである。
 リンは「御愁傷様です」と頭を下げて、自分はさっさと学園へ戻った。早く煙草を吸って一息つきたかった。
 はあやれやれ、ただいま住めば都、とオンボロ寮へと続く道へ辿り着いたリンは、唖然とした。

「───なあにこれ」

 傍には誰もいないので、リンの素っ頓狂な声に返ってくるものは何もない。
 リンはあらあらまあまあと言う気力すら湧かず、衝撃を受け流せないまま、呆然として、ふらふらと寮の前庭へと足を踏み入れた。
 奥の庭から談話室へと続く大きな窓が、見るも無惨に割れている。見上げてみれば天井はほとんど崩れていて、穴が開くどころではなく欠けていた。建物の中の暖炉から火を取り出した瞬間に全て音を立てて壊れてしまいそうなくらい、オンボロ寮はボロボロだった。
……ユウー? ……グリムー?」
 まさかこんなところにはいないでくれと思いながら、建物の中に向かって呼びかける。人の気配はしなかったがしかし、リンの声に何かがゴソゴソと動く気配がした。少し間を置いて、ニョキ、と半透明の人間が建物から生える。ゴーストだった。
「リン!!」
「リンだ!!」
「リンが帰ってきた!!」
 わーい!! ゴーストたちが大盛り上がりでリンの周囲を飛び回る。こんなに大歓迎されるとは思わず、リンはちょっとだけ目を白黒させた。
「リン!! おかえり!!」
「クルーウェル先生からカローンに連れて行かれたって聞いて、気が気じゃなかったんだよォ」
「あぁ、そうなの。心配かけたわね、ごめんね。ユウとグリムは?」
「二人なら、今頃、職員室にいるんじゃないかな。さっき帰ってきたから」
……ん?」

 さっき、帰ってきた。

 ゴーストの言葉に、リンは瞬きし、首を傾げ、ひとまず職員室へ向かうことにした。
 オンボロ寮がどうしてこんなことになってしまったかのかについては、ゴーストたちが道中簡潔に説明してくれた。
 オンボロ寮の談話室でNRCトライブのメンバーが集まって反省会をしていたこと。そこへカローンの襲撃があり、ヴィルとジャミル、そしてグリムが抵抗空しく連れ去られてしまったこと。怪我人は保健室へ運ばれて、残された寮長と副寮長が教員の指導のもと学園内を仕切り、一応の落ち着きは見せたが、ルーク、エペル、ユウが行方不明になり、つい今しがた、カローンに攫われた他の生徒と共に戻ってきたこと。
 リンは「やっぱり抵抗したんだな……」と遙か遠くを見張るかした。ユウたちが学園内から飛び出して行った先も、推測できないわけでもない。おそらくは攫われたグリムたちを探しに、カローンを追いかけたのだろう。まぁ無事に戻って来ているようだし、過ぎたことである。全くもうユウさんたら、相変わらずいざという時の行動力が頭一つ飛び抜けてるんだから、とリンはいっそ気軽に職員室へ繋がる事務室に顔を出した。
「おっ、おかえりリンさん」
「ただいまでーす。どうもご迷惑おかけしまして」
「いやいや、カローンに捕まるなんざ、災難だったな」
「捕まってないやい、ただの事情聴取ですー」
 かなり容疑者寄りだったがな、とリンは内心で付け足した。口を尖らせるリンに、特に変わったところはないと見受けて、スタッフたちは揃って肩から力を抜いた。
「リンさん、オンボロ寮見た?」
「見た見た、やべーことになってんの、もうドア開けるだけで潰れそう。生徒たちが下敷きになってなくて良かったですよ」
「あぁ、そういえば、ユウとグリムなら、保健室だよ」
「おっ、アザース。先に見て来ますね」
「そうしてやりな」
「リンさん、荷物のこととかあるだろうし、明日も休みでいいからね」
「ありがとうございます」
 室長にきっちり頭を下げて、リンは職員室を後にした。
 できるだけ考えないようにしていたが、そう、荷物である。はてどうしよう、とリンは腕を組んだ。
 たかが半年、されど半年。ユウとリンの部屋には細々したものが増えていた。とはいえあんな今にも倒壊寸前の建物に、命を懸けて荷物回収に行けるかと言うと、それはまた別の話である。ユウとグリムにはもちろんさせられないし、リンだって我が身は可愛い。
「ちょっとあんたたち、明日からちょっと服とか回収するの手伝ってくれる」
「おぉ勿論だとも」
「一応、二人の服や荷物は、ほとんど無事だったよ」
「ただ、浮遊魔法で取り出しても、どこに置いたものか困ってしまってね」
 今回の騒ぎで、とうとう雨風凌げる場所さえ無くなってしまったので、ゴーストたちも迂闊に手が出せなかったらしい。下手に人目に触れられるところで女性用の衣服など放り出されていても困るので、リンも「仮宿が決まってからにしよう」と頷いた。
 そうこうしているうちに、保健室へ到着した。失礼しまーす、とリンが扉に手をかけた瞬間、

「───大馬鹿者が!!」

 凄まじい、雷が、落ちた。

「リンが浮かばれん!! お前のためにあの若い遊び盛りの娘がどれだけ心身を削っていると思っている!!」
 落雷は一度では終わらなかった。自分の名前が出て来ても、リンはピャッと飛び上がった姿勢から微塵も動けなかった。
「先生、ここは保健室ですから」
「いいや関係ない」
「で、でも、先生、」
「でもも何もない」
 ぴしゃり、生徒の抵抗が叩き落とされる。
「魔法を使えないお前がその場にいたことに何かしらの意味があったとして、それがリンの献身を裏切ることと同義であることは、心に留め置いておくように」
 ルーク・ハント、エペル・フェルミエ両名も同様だ。わかっているな。
 遠雷が、やがて霞んで消えていく。代わりにコツコツと勢いのある靴の音が聞こえて、ハッと我に返ったリンは慌てて物陰に身を潜めた。身を潜めてから、どうして隠れちまったんだろう、と更に冷静さを取り戻した。
 保健室から一見いつも通りに現れたのはトレインだった。トレインは物陰に隠れたリンに気付くことなく職員室の方へ行ったようだった。
 後に残されたのは、ただならぬ雰囲気が漂う保健室だった。リンは半端に開けっぱなしになった扉からそっと中の様子を窺った。
「っ……え、っく…………
「あーあーもー泣くなって……
 エースがしゃがみ込み、ベッドに座っているユウの顔を覗き込む。グリムもユウの膝の上でボロボロ泣いているようだった。隣に座ったデュースが肩を抱くようにして腕をさすってやっている。
「わ、っわたし、だって、……っでも、でも……っ! グリム、おかしくなった日から、リンさん、っ……、すっごく、こわいかお、してて……! ぐっ、ぐりむ、が、す、っ捨てられるんじゃ、ないかって……!!」
「ふな……!? お、おれさま、すてられるんだゾ……!?」
「んなわけねーでしょ!! 落ち着けよ、ほら顔拭け、」
「ふ、っう、ううぅ……
 顔を手で覆って、何度も涙を拭きながら、それでも丸まった背が震える。うずくまったユウの背に、一つ息を落としたのは、トレインに叱り役を取られたクルーウェルだった。
「顔を上げろ、ユウ。グリムも」
「ひ……っ、」
……くるーうぇる……
「先生をつけろ」
 せんせえ……、情けないダミ声が、か細く響く。
「ばかもの。これくらいのことで、リンがお前たちを見捨てるはずがないだろう」
「で……でも……、リンさん、おこってるかも……連絡、なにも入れてない……
 ぐす、ユウの鼻が鳴る。大粒の涙は後から後から流れてきて、とどまるところを知らないようだった。
 嗚咽ばかりが響く保健室に、クルーウェルの静かな声は、やけにはっきりと形を持った。
「よく聞け、仔犬。お前たちの向こう見ずで無鉄砲な行動を裏切りだと嗜め、叱り、反省を促すのが大人ならば」
「ん……
 長い指が、眦を拭う。くしゃりと毛並みを掻き回す。
「お前たちのそれを受け入れて、許すのも、また大人だ。それができないリンではない。リンがどういう結論を選ぶにせよ、お前たちがきちんと誠意を示せば、リンとて鬼にはなるまい」
「っ……!!」
 せんせえ、再び気弱な声が響く。ユウはひっしとクルーウェルの服の裾を握っていた。
「いっしょについてきてぇ……
「はぁ、仕方ないな。今回だけだぞ」
 うぅーっ、ユウが唸る。グリムはずっとえんえん泣いている。どうやら相当、トレインからの雷が堪えたらしかった。
「では、善は急げとも言う」
 不意に、クルーウェルの声音が変わった。ぴしり、愛用の教鞭がしなる。
 ん? なんだか嫌な予感、とリンが身じろいだ直後、ガラリと保健室の扉が開いて、リンは不可視の何かにぐいんと体を引っ張り上げられた。
「うぉうわちょちょちょちょちょちょ!!」
 ちょっと待って、と言わせてもらう前に、ぼすり、ベットに落とされる。ポカンとしている生徒たちの視線を目一杯浴びて、リンはなんと言ったものか、「えーと……」盛大に言葉に迷った。
……た、……ただいま……?」
「うむ。よく無事に戻ったな、リン。カローンに連行された時は、どうなることかと思ったぞ」
……え」
 クルーウェルの言葉に、誰もが目を見開いた、その瞬間、リンは己の耳を塞いだ。
「ええええええ!!?!」
「はぁああぁぁ!!?!」
 …………高校男児の大音声が、保健室に轟いた。





 かくかくしかじか、うんぬんかんぬん。
 リンがカローンに連行されて、黎明の国の教育省指導部で事情聴取を受けたことを簡潔に話すと、生徒たちは揃いも揃って「なるほどな」という顔をした。
「どーりでレオナさんがどっか行っちゃった後に鬼電しても出てくれなかった筈っスね」
「んなことしとったんかお前」
 呆れた表情を隠しもしないレオナとリンに、ラギーはぐわりと牙を剥いた。
「あったりまえでしょーが!! レオナさんいなくなったらリンさん以外にどこ頼ればいいんスか!!」
「そこにいらっしゃるでしょ」
 クルーウェルを指したリンがすぱんとラギーの訴えを叩き落とす。
「いやでも、俺たちも、ユウが行方不明になったって、リンさんに連絡したんすよ」
「俺も、オンボロ寮がボロボロになっちまったって連絡入れたぞ!」
 エースとデュースが声を上げ、カリムが元気に手を挙げる。俺も、僕も、とそこかしこから次々と報告が上がり、リンは思わず感嘆した。
「おぉー……いやすまんな、スマホ没収されててさ」
「まー確かに、寮があんなことになってんのに、新人ちゃんやけに大人しいなーとは思ってたんだよねえ」
「いやほんとあれどうしような。どうするんだろう。どうするユウ、グリム。これからしばらくここで暮らすか?」
「へっ、」
 ひく、とユウの肩が跳ねる。二人揃ってまさか声が掛けられるとは思わなかったとばかりに、ぽへ、とした顔をしていたので、リンは思わず小さく吹き出して相合を崩した。
「トレイン先生にじゅうぶん叱られて、クルーウェル先生にじゅうぶん諭してもらっただろ。お説教のターンはおーしーまーい、」
 そう言えばまだ言ってなかったね、とリンは腕を広げた。
「おかえり、二人とも。よく、生きて戻ったね」
「っ───!!」
 音を立てて、一人と一匹がリンに飛び込んだ。
「た、だいま、ですっ……!!」
「おーよしよし、グリムおめーもう何言ってっか分からんぞ」
 ふな゛ぁあ、獣の鳴き声がこれでもかと響く。あんまりにも情けなくて可愛らしい様子に、どこからともなく笑顔が溢れて広がって行った。





 流石に住環境の体を成していないとして、オンボロ寮は大規模なリフォーム修繕が決定した。修繕費はヴィルが用意したNRCトライブの報酬のおおよそ三分の二以上と聞いて、リンはおったまげた。
「いやこれは学園の施設だから学園側に支払わせるべきじゃない!?」
「学園側の判断なら間違いなく取り壊しになるわよ」
「そりゃそう!!」
 オンボロ寮改築のための様々な打ち合わせに訪れたポムフィオーレのツートップを前に、リンは年甲斐もなく唸り声を上げて頭を抱えた。
 住居について、二人と一匹ならまだなんとかやりようは無いでもない。教員が宿泊する用の館もあるわけだし、寧ろリンはもうほとんど寮は取り壊されるだろう心算だったのだ。
「ナイトレイブンカレッジなら取り壊しになるだろうけど、ゴーストが取り憑いている建物は、繰り返し修繕して使うことが多いんだ。下手に壊すとゴーストの逆恨みで大変なことになる場合があるからね」
「薔薇の国なら、ゴーストが取り憑いている物件の方が不動産価値高いって話よ」
「へーそう……それまたどうして……
「さあ、お国柄ってヤツじゃないかしら」
「へー……
 あ、そう……、リンは深く考えることを辞めた。
「だから一旦、学園に寄付の形を取りたいの。一番税金がかからないのよ」
「その後は、学園の教育的プログラムとして、建築志望の学生を募って、専門業者と共にリフォームを進める計画を立てている。既に建築系や空間インテリア系の企業などにインターンシップに行っている4年生に声を掛けていて、嬉しいことに、皆色良い返事をくれているよ!」
「賢いねェあんた達……
 リンはほとほと感心した。ルークは笑顔で色良い返事などと言っているが、この男ならば相手に是と言わせるまで粘り切るだろう確信がリンにはあった。
「いいのよ、どうせ単位のために何かしら成果が必要なんだから」
「おーおーそんなこったろうとは思っとったがもうなんでもいいよ、好きになさいな、ホレハンコ」
 ペター、とクロウリーのサインが捺印される。
「そう言えば、学園長はまだ戻ってきてないの?」
「おー、元々はオーバーブロットと普段の教育プログラムのヒアリング調査だったのが、今回の嘆きの島での色々も相俟って、帰るのが更に伸びたってよ」
 私がいない間、生徒たちをこれまで以上にしっかり頼みましたよ、と電話口でカアカアうるさかったのを思い出す。クロウリーは本当に早くさっさと帰りたそうだったが、リンはこの際こってり絞られてしまえとさえ思っていた。
 リンとユウ、グリムのことは教育省も承知しているらしかったが、その生活環境について、教育省は何も言及しては来なかった。自分たちは教育過程についてが仕事で、生活環境については専門外ですので、と言わんばかりの空気だった。寮生活を強いるなら学園内での生活環境も管轄だろうがよ、と暴れそうになったが、リンとて早く帰りたかったので、そこはグッと堪えたのだった。
「作業開始は……私たちの荷物は全て運び出したから、あとでユウにサインさせよう。明日から始められるよ」
「荷物はどこに置いてるのよ」
「当面の着替えとか勉強道具だけ保健室のベッドの下に置いて、あとは教員寮の使ってない部屋に置かせてもらってる」
 ゴーストたちに浮遊魔法などで荷物を取り出してもらっている間に、リンとユウは安いスーツケースを買った。一週間分の着替えなどをそこに入れて、必要になったら教員寮で洗濯したり、荷物を詰め替えたりする予定だ。
 リンの話を聞いたヴィルとルークは、一度だけ顔を見合わせて、「ねえ、リン」居住まいを直してリンと向かい合った。
「、はい、なんでしょ」
「あなた達さえよければ、ウチに泊まらない?」
「あらまあ」
 素直に驚いて、リンは瞠目した。
「保健室に寝泊まりなんて、気が休まらないでしょう。ハーツラビュルは部屋が開いてない、サバナクローは相変わらず物置小屋、しかもあいつらお行儀が良いからね」
「あぁ……そういやそれでレオナの部屋に転がり込んだことあったな……
「うちはアズールみたいに対価だのなんだの吹っかけたりしないわ。多少、食事の用意は頼むかもしれないけど」
「それは全然構わんけど……そこまでお上品なの出せないよ」
「承知の上よ。でも、私もしばらく休養するように言われてるの。あなたの食事の方がいいわ」
「おやまあ、随分と買って頂いて」
 優しく破顔して、リンは「わかった」と頷いた。
「ユウにも話して、問題ないようだったら世話になろう」
「ちなみに、私たちの中では黄金の君も立候補したんだが、毎日宴を開催しそうな勢いでね」
「ああ、ジャミルが可哀想だ、やめとこう。私らも毎日上げ膳下げ膳はな……
「グリムは喜びそうだけどね」
「ポムフィオーレでみっちり鍛えてやってくれ」
「任されたわ」
 ヴィルとリンが、がっちり握手を交わす。ルークは素晴らしいねと満面の笑顔でそれを見守った。
 ポムフィオーレから話をするのが筋だろう、と言うことで、ユウとグリムにはヴィルとルークから宿泊の話などが伝えられた。保健室でオンボロ寮の管理人として様々な書類にサインをしたユウは、「こういうこともやりやすくなりそうですし、願ったり叶ったりです。お世話になります」とすぐさま自分たちとリンの荷物を持って、その日からポムフィオーレにお邪魔することにした。仕切りのカーテンだけでは、他の生徒たちの気配をどうしても感じてしまって、やっぱりちょっと、心許なかったのである。


 ポムフィオーレの寮生たちは、エペルを筆頭に、こぞって二人を歓迎してくれた。歓迎会まで開いてくれて、グリムはともかく、ユウとリンはちょっと恐縮してしまった。二人は遠慮して寮の備品などをあまり使わないようにしようとしたが、しかし、そうはヴィルが卸さなかった。オンボロ寮で使っていたアメニティ類はほとんどダメになってしまったから、街で入手した試供品の安いのを使っている、とユウがエペルに話しているのを聞き咎めた瞬間、ヴィルは目の色を変えたのだ。ガッとリンの肩を掴み、空いた手にはコスメアイテムが握られていた。
「私の寮に泊まる限りは、相応に美しくいてもらうわよ……!!」
「おっ……とォ……?」
「わ、わすれてた、ヴィル先輩こんな人でした……!!」
「ふな゛ーッ! シャンプーだけでいいんだゾーッ、めんどくせーっ!!」
「ごめんね、三人とも、諦めてね……
 かくしてにっぴきは朝晩のスキンケアに始まり、ストレッチ、健康的な食事等々、ポムフィオーレらしい美しさのための生活を余儀なくされることになったのだった。
 翌日、ユウたちから話を聞いたエースとデュースは面白がるでも揶揄うでもなく、大変だなと苦笑した。
「合宿でやってたことは大変だったけど、おかげで肌の調子とかもよくなったし、僕たちもちょっとは続けてるんだよな」
「まー、ヴィル先輩らのと比べてやっすいのだけどね。美容液は外した、めんどくせーから」
「でも、泊まるところが決まって良かった。学園内は安全だろうけど、最近、島の海の辺りが治安悪いらしいからな」
「え、そうなの?」
 初めて聞く話だ。ユウとグリムは目を丸くした。たまに二人と街へ降りていたが、島の治安など、そんな話は聞いたことがなかった。
「あそこらへん、安くて美味いレストランが結構あるだろ。よく行く連中の間で話題になってんだよ。なんでも、警察沙汰になったとかでさ」
「へー……
「ユウ、グリム、これからしばらく、出かける時は僕に声かけろよ。自慢じゃないけど、やべえ場所とか、大体わかるから」
「うん、わかった」
「流石元ヤン。頼りになるねえ」
「元ヤン言うな」
 リンさんにも伝えなきゃな、と考えて、しかし、リンさんならもう知っているかな……、と、ユウはスマホを取り出すのをやめてしまった。





     ◆     ◆     ◆





 ポムフィオーレに泊まり始めてから数日が経った頃だった。興が乗ってしまったヴィルの手によって頭のてっぺんから爪先までプロデュースされて、見違えるように綺麗にされることへ、とうとう抵抗を諦めたリンが、「もうどうにでもなーれ」と言って出勤するのを、達成感とやり切った感で満足気なポムフィオーレ生たちと一緒に見送った日だった。
 いつも通り、朝のホームルームが終わったと思ったら、クルーウェルが「これから大講堂で集会を行う。お行儀よくしているように」と指示を出した。生徒たちは揃って「集会? なんで? なんかあったっけ?」という顔をしたが、クルーウェルが鞭を鳴らすと聞き分けのいい仔犬よろしく廊下に出て大講堂へ移動した。
 こういう時にいちいち整列して行かなくていいのは楽だよなあ、とユウは思っている。日本なら名前順であるとか、背の順であるとかとにかく何かにつけて整列して移動しなければならなかった。
 大講堂は予想通りざわついていた。ここもとにかく空いている場所に座れればいいので、生徒たちはこぞって真ん中より後ろの席へ座りたがった。グリムは高さが足りないので、机に座ることになった。
「よう、お前ら」
「ジャック、エペルも」
「珍しいね、何かあったのかな」
「お前ら何か聞いてるか?」
「なーんにも」
「その様子だと、ジャックたちも何も知らないのか」
 大講堂は似たような会話で溢れていた。どうやら上級生たちも何も聞かされていないようで、街で事件があったからじゃないかとか、学園長がいないことと何か関係があるのでは無いかとか、色々と推測が飛び交っていた。
「この時期に何かイベントごと?」
「文化祭終わったばっかだぞ。無い無い」
 やがて壇上にトレインが現れる。大講堂はさざなみが引いていくように静かになっていった。
「全員揃ったようなので、全校集会を始める。まず、急な集会に対応いただいた先生方に感謝を。本日の集会は、現在不在の学園長に変わって私が取り仕切る」
 トレインは淡々と進行を続けた。
「本日はとある方を生徒諸君、並びに先生方へご紹介するために時間を設けていただいた。ミス・ヴィオレッタ、どうぞ前へ」

 ───瞬間、大講堂の雰囲気が変わったのを、ユウは感じた。

 こつ、こつ、と柔らかいヒールがやけに耳につく。藍色とも紺色とも取れる髪と、足先まで隠すワンピースの裾が揺蕩うたびに視線を奪われる。トレインに促されてステージに立った美しい女性に、生徒たちは視線も、呼吸も奪われた。
 ふんわりした唇が、優しく弧を描く。傍目には成熟した大人の女性であるのに、彼女の纏う雰囲気はどこか儚げで、突けば壊れてしまいそうで、庇護欲を掻き立てるいとけなささえあった。
「教育省からいらっしゃったミス・エオス・ヴィオレッタだ。これから二週間ほど我が学園に滞在し、視察を行っていただく。これは黎明の国で行われている定期、および随時視察の一環であり、昨今何かと話題になっている事象とは関係ない。我が学園の生徒諸君に限って有り得ないとは思うが、過度な憶測、噂などをこぞって口にしないように」
 奇妙なほどに、誰もが口を開かなかった。少しくらいざわついても良かろうものを、トレインの威厳以上に、生徒たちはヴィオレッタの存在に誰もが言葉を失っていた。
「ただいまご紹介に預かりました、エオス・ヴィオレッタと申します」
 甘くて優しい、耳障りのいい、可愛らしい声だった。こんなにも揃った人が存在するのか、とユウは信じられない面持ちで壇上の方を見遣っていた。
「世界中で有名な学園の視察ができるなんて、大変光栄ですわ。いろいろご迷惑をおかけしますが、これから二週間ほど、みなさんどうぞよろしくお願いいたしますね」
 にこり、ヴィオレッタが微笑む。はい、こちらこそ、という返事の代わりに、大講堂に盛大な拍手が鳴り響いた。
「ミス・ヴィオレッタはいくつかの授業を参観する予定だ。生徒諸君、並びに先生方におかれましては、くれぐれも失礼の無いように。以上、本日の集会はここまで。解散して、講義に戻りなさい」
 いつもなら以上、という言葉が出てきた時点で席を立つような生徒たちが、今日はこぞって誰もが最後まで席に座っていた。どこからか、がたがたという音がして、ようやく生徒たちが動き出す。ざわめきはあっという間に大きくなった。
「いやーすっげえ美人だったな」
「ああ、驚いた。にしても、どうして急に視察なんか……
「そりゃこんだけオーバーブロット騒ぎが続けばね。今までなかったのがおかしいくらいっしょ。つーかあんな美人が公務員とか、勿体なさすぎじゃね? 絶対突貫するバカ出てくるだろ」
「流石に無いだろ……
 すごく美人だった、ワンチャンある? ねーよバカ、胸どんくらいあるんだろう 俺前の席だったけどめっちゃいい匂いした、声だけで勃つ、おっぱいやばすぎ、………………
……はあ」
 そういえばここ、男子校だったな、とユウは改めて思い出した。
 誰も彼もがミス・ヴィオレッタについて話している。興奮冷めやらぬものから、下世話なものまで。ユウは意識してそういうものをシャットアウトし、グリムに甘えるようにしてぬいぐるみよろしく抱え込んだ。グリムは子分がこういうことをするときはどうも甘えたい時だとわかっていたので、子分を慰めてやるのも親分の役目だと、黙ってされるがままになってやっていた。





 ミス・ヴィオレッタは、あっという間にナイトレイブンカレッジの生徒のほとんどを虜にした。
 授業に参加すればちょこちょこと生徒たちに混じり、これはどういうふうになっているの、それはなあにといろ色々聞いた。
 ヴィオレッタが「学生だったのなんて思い出せないくらい昔だから、全部が懐かしいわ」と言えばちょっと馬鹿なところが可愛い、と話題になり、「男の子ともね、恥ずかしくって、全然喋れなかったの。でもここの皆は優しいでしょう? だからすごく嬉しいし、楽しいわ」と言えば、皆が揃って俺には下心なんてありませんという風体を装うようになった。いつだって数人の生徒がヴィオレッタの周りを囲んで、親衛隊なんて呼ばれていたし、自称してもいた。ヴィオレッタが何かを望めば、生徒たちは喜んで走り回った。
 そんな雰囲気の学園がなんだか嫌になって、ユウは放課後を、オンボロ寮の前庭で過ごすようになった。グリムもそれに付き合ってやっていた。モンスターに人間の美醜など、どうでも良いことだった。今日、リンとヴィルにどれだけツナ缶をもらえるかの方が大問題だ。
「はー……落ち着くなー……
 トンテン、カンテン、ギュイイイン、バチン、ドカン。
 賑やかな音を立てながら、オンボロ寮は少しずつその形を取り戻そうとしていた。一週間前なんて、中途半端に残しても仕方がないから、という理由で、屋根と壁がほとんど取り払われていて、骨組みだけしか残っていないような有様だった。
「ユウー、ここわかんねーんだゾ。また作業員の誰かに聞くか?」
「だめだよ、お仕事の邪魔しちゃ」
 作業員の中にはカレッジの卒業生もいて、作業と作業の合間の休憩時間にユウとグリムを構ってくれることもあった。大人たちは、ユウとグリムだけがレジャーシートを敷いて前庭で過ごしていることに、特に何も触れないでいてくれた。オンボロ寮の監督生だということを知っていても、どうして監督生をやることになったのかや、ユウが女子であることなど、深くは訊ねなかった。たまに、どういう部屋がいいか、どういう機能があって欲しいか、ヒアリングされることはあったが、それだけだった。
 学園とバイトが休みの日も、ユウはなんとなくオンボロ寮の前庭で過ごした。何もしないで日がな一日過ごすのも申し訳ないので、午前中にたくさんのサンドイッチと混ぜご飯のおにぎり、卵焼きを作って、お昼にはちょっと早い時間に作業場へお邪魔した。
 いつもお疲れ様です、と差し入れをすると、作業員たちは喜んでラップに包まれたサンドイッチとおにぎりを食べた。お手拭きと飲み物は、なんだかんだ手伝ってくれたグリムが器用にみんなへ配った。
「これ、全部ユウちゃんが作ったの? すごいわねえ」
「おにぎりなんて、初めて食べたよ。このタマゴヤキ? ってやつも、優しい味がして美味しいよ」
「ユウが料理をするなら、キッチンを少し見直してもいいかもしれないな」
「そうね、端材を使って、何かもう一工夫してみましょう」
 ただの雑談が、設計や仕様の話にまで飛んでしまう。ユウはこれが仕事をしている大人か、と眩しい気持ちで作業員たちを見つめた。
 ゴミを片付けると、グリムは壮年の設計士と共に、何やら遊びながら作業を手伝うことになったようだった。設計士はこどもの扱いに長けているらしく、けれども決してグリムを五歳児のように扱うことはしなかった。
 楽しそうにはしゃぐグリムを見ていると、なんだかこちらまで元気になるような気がする。爽やかな風を感じながら、休むってこういうことなのかもしれない、とユウはゆっくりと課題を進めていた。
 少しすると、遊び疲れたのか、手伝いが終わったのか、グリムが満足げな表情で戻ってきて、「俺さま、疲れたから、ちょっと寝るんだゾ! おやつの時間になったら起こせよ」とユウのあぐらの中で丸まって、すよすよと寝息を立て始めた。ユウがはいはい、と言う暇もなかった。私もちょっと筆休め、とペンを置いて後ろ手をつく。
 確かにそろそろおやつの時間だ。寮に戻って何か探そうか、それともサムさんの店で、ちょっとだけ無駄遣いしちゃおうか、と考えていると、「こーえびちゃーん」間延びした声が、前庭に届いた。
「はーあーいー」
 振り返ると、前庭に続く門のところで、こちらに向かって手を振っているフロイドと、何かの包みを抱えたエースとデュースが立っていた。
「やーもう、ほんっとやる気でねー」
 レジャーシートに辿り着くなり、フロイドが大の字になろうとしたので、ユウは慌てて、小さめに折って使っていたレジャーシートを大きく広げて敷き直した。ありがとねえ、とフロイドが遠慮なく大の字になる。
「これ、ウチからのおやつ。グリム寝てんの? とっとくか、後でうるせーし」
「さっきまで、あっちの作業手伝っててね。楽しそうだったよ」
「ほー、こいつが」
 珍しい、と男三人が寝ているグリムをツンツンつつく。グリムはむにゃむにゃと何事か言った後、ころんと丸くなって転がった。
「そういや、なんで小エビちゃんここにいんの? 管理者っつっても、立ち会い責任無いっしょ? ゴーストいるし」
 フロイドに突っ込まれて、う、とユウは固まった。
 本来のリフォームであれば、建物、および土地の所有者が定期的に作業監督を行わなければならないが、オンボロ寮は学園の敷地内にある。また、今回のプロジェクトは学生が主導しているのもあって、カリムとヴィルが手を回し、リフォームを依頼した側の人間が常に作業に参加するようにシフトが組まれていた。
 普段からオンボロ寮の管理を任されているユウとグリムが、常に寮に居る必要はない。フロイドの言う通り、ゴーストもいるし。
「えっと……
 言いにくそうにしているユウに、三人は顔を見合わせた。
「ポムフィオーレに居にくいとか?」
「誰かになんか言われたのか?」
「嫌な奴いるの? 締めてあげよっか?」
「いやいやいやいやそういうわけじゃないです!」ユウは慌てて手を振って全力で否定した。「ポムフィオーレの皆さんには本当に良くしてもらってます!! エペルもいるし、本当に大丈夫。……ヴィル先輩は厳しいけど……どこからともなく現れるルーク先輩にはいつまで経っても慣れないけど……
「あぁ、まぁ、うん」
「それはな……どうしようもないな……
 遠い目をするハーツラビュルの後輩たちに、フロイドはけたけた笑った。
「ま、そうじゃねーならいっか。新人ちゃんもいるし、大事にはなんねーっしょ」
「あ……そう、ですね……
 フロイドの新人ちゃん、がリンを指すことは、ここにいる後輩たちはみんな承知だ。またしても歯切れの悪いユウに、男三人は再び顔を見合わせた。
「なに、喧嘩でもしたの」
「ううん……ただ、その……全然話せてなくて」
 ヴィオレッタが来てからというもの、職員、主に事務方は、輪をかけて忙しくなったらしい。中でもリンはヴィオレッタ直々に世話役に指名されたらしく、最近は朝早くに寮を出て、夜遅くに帰ってきている。食事は摂っているらしいが、昼間にヴィオレッタが食堂にいても、リンはその側でヴィオレッタの世話を焼かされているか、教員に使われているかのどちらかで、今までのように気軽に声をかけられる雰囲気ではなくなっていた。
……トレイン先生に怒られたこと、気にしてるのか?」
「、」
 それは違う、と言いかけて、しかし、ユウは口を噤んだ。
 今でも、ユウたちの面倒を見るのにリンがどれだけ心身を犠牲にしているかというトレインの叱声が、色濃く耳奥に残っている。
 確かに、今まで、こういう、何か少しでも嫌なことがあったら、すぐにリンさんに愚痴っていたかもしれない、とユウは今までのことを思い出した。リンはそれを面白そうに、興味深そうに聞いてくれて、何か作業をしていていたときだって、しっかり耳を傾けてくれていた。
……気に、してるのかも…………リンさんの、私がいるから頑張れるって言葉は、嘘じゃないと思う、でも、……
 一緒に頑張ろうね、というリンの言葉に、ユウが甘えていたのは、事実だ。
……今のリンさんに、これ以上、迷惑かけたくないし、……負担になりたくない……
 響かずに消えたユウの言葉に、誰もすぐに言葉を返さなかった。エースにデュース、フロイドだって、リンが懐深く受け入れるから、甘えていた自覚はある。
 トレインの叱声は、エースに自分の兄を思い起こさせた。リンと大して歳の違わない兄は、働いてこそいるが、それ以外の時間は気ままなものだ。家族に割く時間以外は、すべて自分の自由に使っている。
 それが普通なんだよな、とエースは思い出した。リンが当たり前のように、至極自然に、自分の時間をユウやエース達に割いてくれるから、すっかり忘れていた。
 リンは、ベビーシッターを生業にしているわけではないのだ。
……なんにせよ」
 ぽすん、とフロイドが自分のハットをユウに被せた。
「小エビちゃんは、新人ちゃんと、なんでもいーからお話しな」
……でも」
「でもも何もねーよ。今日ね。今晩。はいけってー。明日聞くからね」
 お話できてなかったらぎゅーって絞めちゃうから。
 ハット越しに頭をぐりぐりされて、ユウはぐらぐら揺れながら、どうにかこうにか、はい、と返事をした。こうなったフロイドは、はいかYesの返事を貰えるまでぐりぐりをやめないのだ。
……なにをお話したらいいですか?」
「え、しらねー。寮のことでも話しとけば?」
………………そですね」
 果たしてリンを捕まえられるだろうか。ユウはなんだか今から気まずかった。
 そんなユウを現実に引き戻したのは、作業員たちの「おーーーい」という呼び声だった。ぞろぞろと連れ立って、生徒達に近付いてくる。
「あれ、なんか増えてる」
「気にしない気にしない! おやつパーティだよー!!」
「ふなっ、おやつ!!」
 ぽん、と毬、ではなく毛玉、でもなくグリムが飛び起きる。作業員たちはそんなグリムに明るく笑って見せた。
「ほら、ボスが言ってたドーナツだよ」
「んまそーーーなんだゾ!!」
「ちょっ、グリム、作業員さんたちのことなんだと思ってるの!? すみません、グリムがワガママ言って……
「違う違う!!」
 グリムのことをボスと呼んで可愛がっていた作業員が手を振って否定した。
「俺たち、いつもこの時間には街から何か買ってきて休憩してるからさ。いい店はないかって、ボスに聞いただけだよ」
「そーそー、オレ様、別にドーナツ食べたかったわけじゃねーんだゾ!!」
 ふんぞり返ったグリムは、すぐさま「いっただっきまーす!」とドーナツに手を伸ばした。
「もおー、グリムったら……
「みんなのぶんもあるから、好きなの食べな」
「いーんすか? ラッキー! あざまーす!!」
「これ、ウチの寮で作ったタルトです。良かったら皆さんで食べてください」
「じゃー俺、飲みもの入れたげるー」
 パーティとなれば行動が早いツイステッドワンダーランドの住人達は、あっという間にドーナツパーティを始めてしまった。ユウも促されるままドーナツを口にして、口の中に広がる甘さに、ちょっと気まずいのが薄まった心地だった。
「そーいや、なんでフロイドとエース達がここにいるんだゾ? ユウが呼んだのか?」
「ううん。言われてみれば……
 あれ、とユウはフロイドを見やった。フロイドはあくまで自然にユウから視線を逸らした。
……フロイド先輩」
……なあに? 小エビちゃん」
「フロイド先輩……今日、モストロラウンジのシフト入ってませんでした?」
…………
 にっこり! フロイドが端正な顔を笑みの形にする。あ、サボったんだな、とその場にいる全員が察した。
「まあ、あー、あれだろ。サボりじゃなくて、長めの休憩だろ」
「そーそー! さっすがー、話が分かるじゃん」
 大人の内のひとりが言った言葉に、フロイドはすかさず飛びついた。長めの休憩ね、まぁそういう事もあるわよね、午後休とか午前休ってやつね、大人たちは揃ってふざけて笑いあった。
「もー……アズール先輩に怒られても知りませんよ」
「休むって言ったもーん」
 いいよとは言われてないけど。フロイドは内心で付け足して舌を出した。
「にしても、なんかやな事でもあったのか?」
「あー、まーね。最近、嫌な客が増えてさぁ」
 俺のとこ、ちょっとしたカフェレストランみてーなのやってんだけど、と軽い説明をしながら、フロイドはもしゃりとドーナツを食べた。ドーナツはその一口で半月になった。
「嫌な客って、どんな客?」
「クレーマーとか?」
「んー。やべーやつ」
 やべーやつ、と皆が顔を見合わせる。フロイドは、ほわんほわんふろふろ〜、と回想を始めることにした。




 学生が自主的にカフェを経営して学業とも両立させているなんて素晴らしいことです、是非お邪魔したいわ、とヴィオレッタに言われて、アズールは二つ返事で「是非お越しください」と笑顔を浮かべた。
 ヴィオレッタの美貌にやられて、というわけではない。彼女が店にいる、と聞いた生徒たちがこぞって店にやってくるだろうと踏んだからである。アズールにとって、目上の誰かを撒き餌にすることは、特段恥じるべきことでもなかった。来店したヴィオレッタを紳士的にエスコートし、チャキチャキとマジカメに写真をアップする許可を取り、十数分後にはヴィオレッタ目当ての客がどっとラウンジに押し寄せた。
「店が混み始めましたので、テーブルの回転率を上げましょう。今から入店するお客様に対しては時間制を設けます。一度回転したら、それ以前より席に座っていらっしゃるお客様に退店を促す。いいですね」
 アズールの指示に、バイト達はいつものように従順に従った───ように見えた。
「ミス・ヴィオレッタ、こちらは召し上がられましたか?」
「お冷、失礼しますね」
「お身体は冷えていらっしゃいませんか? ストールなどもお持ちしますが」
「空いているお皿、お下げしますね」
 次から次へと、入れ替わり立ち替わり、ヴィオレッタのテーブルへと給仕に行く生徒が後を絶たない。果てにはヴィオレッタが「とても素敵なお店ね。少し聴きたいのだけれど、あれはなあに?」とウェイターの一人を捕まえてしまうと、あっという間に2、3人がテーブルについて、まるでどこぞの風俗店のようだった。
 これでは店が回らない。アズールは会話の邪魔にならないように何度か生徒に声をかけて他のテーブルへ回るよ宇指示を出したが、少し目を離した隙に、またヴィオレッタの周りに生徒が群がっている光景が蘇ってしまう。とうとう堪忍袋の尾が切れそうなフロイドが「あいつら絞める」と言い出したのを「お客様の前ですよ!」と潜めた声で諌めていると、不意に、アズールの耳に、「あら、わたくしとしたことが」柔らかな声が滑り込んだ。
「ごめんなさいね、皆さんのお仕事の邪魔をしてしまったかしら……
「いえ! いえ、とんでもない」
「お目汚しを、失礼しました。すぐに片付けますので」
 ヴィオレッタを取り巻いていた生徒たちの中から数人がフロアホールを動き出した。
「皆さんのお話が楽しくって、つい……
「光栄です」
「どうぞご迷惑だと思わないでくださいね。またお手隙になりましたら来てくださる? 興味深いものばかりで……
「もちろんです!」
「いつでもお呼びください」
 ウェイター達が接客に戻る。一気に閑散としたテーブルで、ヴィオレッタは生徒の話を聞くためにテーブルの外側に立たせていたリンを呼び戻し、あれこれと話を聞いているようだった。
……お客様に言われて仕事のやり残しに気付くなど、とんだ醜態です。スタッフの教育を見直さねばなりませんね。フロイド、ホールはしばらく頼みましたよ」
 アズールは険しい顔で、厨房の方を取り仕切っているジェイドを呼びにバックヤードへ下がって行った。ボスがいなくなったホールの空気が緩まないようにスタッフへ睨みを利かせながら、フロイドはなんだかちょっとモヤモヤしたものを感じながら、キリのいいところまで、なんとか仕事を続けたのだった。




……ってわけ。その後も2、3人はずっとキープしててさあ。なんかそいつの周りだけフーゾクみてーになっててちょーウケた」
「ウケたって顔じゃねえなあ」
 フロイドの顔はどこかしらけていて、感情が読み取りにくかったが、いつもとは違う居心地の自分の居場所に嫌悪感を抱いているには違いなかった。
「あくまでもスタッフが自主的にやってるように聞こえるところがタチ悪いな」
「それで俺、気分じゃなくなったんだよねえ」
「だからって、お仕事サボっちゃダメですよ……
「やあだ」
 今度こそ、べ、と舌を出したフロイドに、ユウは呆れて嘆息した。
「ま、そのミスなんとかも、初めての店だから、ちょっとテンション上がっちゃっただけなのかもしれないし……
「んー……そうかなあ」
……いや、……そうじゃねーかもしれねーっすね……
 声を上げたのは、フロイドの話を聞いて、思わず顔を見合わせていたエースとデュースだった。
 二人はモストロラウンジがどうなろうが知ったこっちゃなかったが、他ならぬユウのバイト先が荒れるのは偲びなかったので、フロイド経由でアズールにこの話が伝わらねえかな、と情報共有をすることにしたのだった。
「実は、似たようなことが、うちでもあったんスよ」
 ほわんほわんハーツラビュル〜、と二人の回想が始まった。





 ナイトレイブンカレッジにおいて特色のあるものは是非紹介して頂きたいの、とヴィオレッタに言われている、と事務室から通達を受け取ったリドル達は、なにかしらの圧を感じ、ヴィオレッタを何でもない日のお茶会に招待することになった。ハートの女王のルールとはいえ、何も知らないご婦人のティーポットにハリネズミがいるのは驚かれるだろう、とリドルが気を回し、彼女のテーブルには普通のお茶会セットが用意された。
 パーティが始まると、実際はこんな感じですよ、とリドルとトレイの案内で生徒たちのテーブルを順繰りに巡り、赤と白に塗られた庭の薔薇や、ジャムを鼻に塗った眠りネズミを紹介した。ヴィオレッタは紹介された全てを面白がって、まるでこどものようにはしゃいでいた。
 テーブルについてからは何度か席替えがされ、その度に同じテーブルになったトランプ兵達がヴィオレッタの世話を焼いた。リドル達はいつものように、お茶とケーキを頂いた後は、他のトランプ兵に指示を出したり、代わるがわるヴィオレッタへの案内を請け負った。
「このハーツラビュルは、今となってはおかしなルールばかりなのね」
 トランプ兵達は、揃って苦笑した。
「やっぱり変ですよね」
「ああ、いいえ、違うのよ、面白いと思ったのよ。でも、これをきちんと毎日守るのは大変そうね」
「今はだいぶマシですよ、寮長がオーバーブロットする前はもっと大変で」
「でも、今はちょっと緩くなったんですよね。守り方が柔軟になったというか」
「えー、でもやっぱ大変だって。やりたい奴とやりたくない奴で分けて欲しい、せめて」
「つっても、ハーツラビュルの伝統だしな……
 寮生達の話に、リドルは少しだけ片眉を跳ねさせた。個人的な圧政を話題にされる気まずさは別として、招待客がいる前で、軽々に寮の内情を話題にするべきではない。もう少しマシな、この場に相応しい話題があるはずだと、リドル嗜めようとしたときだった。
「ええ、でも、そうね、何かが失われるときは一瞬だけど、伝え繋いでいくことはとても大変なことよ。皆さんの努力には敬服するわ。大変かもしれないけれど、皆さん素晴らしいことを成し遂げてらっしゃるのよ。是非これからも続けてくださいね」
……はい」
「ミス・ヴィオレッタが言うなら……まぁ……
「確かに、こういうのって、世界中探しても、ちゃんとやってるの、俺たちくらいだろうな」
 きゃいきゃいと盛り上がるテーブルに、リドルはとうとう、口を挟む機会を失ってしまったのだった。






……って感じで」
「こーいうのって、寮長か、副寮長がやるべきことじゃねーかなって思うんスけどね」
「ああ……カシラ……寮長じゃなくて、ミス・ヴィオレッタの言葉に従うって感じだった。あの雰囲気は、僕もちょっとおかしいと思ったんだ」
 大人達は顔を見合わせた。どう思う、と皆で探り合っているようだった。
 やがて、一人が口火を切った。
……ま、外部の人間に指摘されて、自分たちの文化や生活が、世界的に見てとても珍しいものだと自覚する、ってことは、往々にしてよくあるよな」
「ああ、俺の故郷も、星空がスッゲー綺麗なんだけど、観光客に指摘されて、夜間用の都市開発に待ったがかかったからな」
「無形文化遺産ってやつね。これを残すのは本当に難しいのよ。あなた達は本当によくやってると思う」
 なるほど、ヴィオレッタの言うことに一理はあったのか、とデュースはひとまず納得した。しかし、エースは眉を寄せる。それを見逃す大人達ではなかった。
「でも、エース達の言いたいことは、またちょっと別だろ」
「そーなんスよ」
 言葉にしにくいんスけど、とエースが唸る。その様子を見て、一人がユウに水を向けた。
「ユウちゃんは、どう思う?」
「え……わたし、ですか」
 突然指名されたユウは、小さく瞠目した。まさか自分の意見を求められるとは思わなかったのだ。
 正直な感想を知りたいな、とユウに話しかけた一人が優しく微笑む。それに後押しされるようにして、ユウは「……本当に正直に言いますけど……」ぽそぽそと自分の所感を初めて口にした。
……怖いな、って思いました。あんまり……近付かない方がいいんじゃないかって……
「ンー……
「そうね。その感覚は大事にすべきね」
 けど、と別の大人が反論する。
「対話の努力を怠るべきではないだろ」
「でも、危ないと感じた時にすぐに助けを求められる環境を用意しなきゃいけないわ」
「それはその通りだな。頼れる大人はいるかい?」
「、……はい、……でも………………頼って、いいんでしょうか……
 俯きがちに、どうにか言葉を紡いだユウに、大人達は一斉に「当たり前だよ」と口々に言い募った。その勢いは、寧ろユウの方が驚いて目を丸くしてしまうほどだった。
「頼るべきだよ。君にはその権利がある。なぜなら君はまだ未成年で、学生だからだ」
「そして、大人はそれを助けなきゃいけない。これも権利なの」
「けんり」
………………?」
 義務ではなく。大人達は、権利と言った。権利という言葉が選ばれた感覚がわからなくて、生徒達が顔を見合わせる。
「今はまだ分からなくても、いつか分かる時がくるわ」
「僕は今まさに感じてるよ。いいかい、何かあったら何とかしてここまで逃げてくるんだ。日のある時間帯なら、まず誰かいるから」
「私たちみんな、あなたの味方よ。忘れないでね」
……はい。ありがとう、ございます」
「君たちもだよ。ま、ちょっと作業を手伝ってもらうことになるかもしれないけどね」
 えぇー、とエースがわざとらしくブーイングする。働かざる者食うべからずだ、とエースからドーナツが没収されそうになって、エースは慌てて「嘘ウソ、ジョーダン!!」とドーナツを口の中に収めた。あはは、と笑い声が木霊する。
 ユウはなんだかちょっとだけ、リンと話すことについて、前向きになれたような気がした。





 草木も眠る頃に、ポムフィオーレの城へ人影が現れる。暗がりの中でも疲労を色濃く滲ませたリンである。
 城の中───寮内は既に消灯時間を過ぎているため、シン、と静まり返っていた。いっそ耳鳴りさえしそうである。リンはできるだけ静かに廊下を進んだが、今日も一日酷使されたリンの体は既に限界を迎えていた。
 ユウとグリム、そしてリンにはそれぞれ一部屋ずつが当てがわれた。リンがカバンを投げるように置く。どさりという音が響いたが、そんなことよりもベッドに飛び込まないようにするのに、リンは必死だった。
 何かに追い立てられるように服を脱ぎ、ランドリーバックに適当に突っ込む。誰ぞの気遣いか、バスタブには既に湯が張られていた。リンが入ると、ひとりでに泡がもこもこと生まれ、リンの全身を包み込んだ。
「はー……
 程よい浮遊感が、張り詰めた精神をほぐしてくれる。息がしやすくなって、リンはゆるりと瞬いた。
 この間は、このまますっかり気を抜いてしまって、気付けば朝方に差し掛かろうとしていた。
 風呂場での眠りは気絶なのだという。リンは意識を失わないように、気がつけば閉じる瞼を意識して開けていた。
 魔法のバスタブで体を洗い、泡を流し、ヴィルに指示された通りに髪も顔も手入れしたリンが、やれやれと風呂場から出る頃に、控えめにドアがノックされる。
「開いてるわよ」
 気だるげなリンの声にドアを開けたのは、その手に治療キットとカメラを用意したルークだった。


 タンクトップとホットパンツから伸びるリンの手足には、大小様々な痣があった。ごく稀にみみず腫れのようなものが走っている。グリムにつけられた傷など目立たないくらいに、リンは怪我を負っていた。
……また怪我が増えているね」
「そう?」
 新しい傷の写真を撮り、すぐに現像する。一連の作業を終えると、ルークは塗り薬を患部に広げた。
「今度は何が理由だったんだい」
「とうとう魔法を使えないことで怒られたよ」
 Oh lala、思わず零したルークはどうしたものかと言いたげに肩を竦めた。
 ヴィオレッタがリンに暴力を振い始めたのは、リンを自分の側付きに指名してからすぐだった。指名と言っても、「年が近くて、できれば同性で、生徒達に話を聞くために、彼らに顔の広い人物がいい」と事務室長に希望しただけだ。ヴィオレッタから何かしらの圧を感じた彼は、すまんと無言で謝りながらリンをヴィオレッタに紹介した。
 あくまでも学園側から当てがわれたリンが魔法を使えないと知って、ヴィオレッタは驚いていたが、すぐに慈悲深い笑みを浮かべた。

 ───日々ご苦労なさっているのね。わたくし、きっとあなたの助けになりますわ。何かあったら、わたくしに助けを求めてくださいね

 ───……お心遣い、感謝します、ミス・ヴィオレッタ

 どうやらヴィオレッタの中で、魔法が使えない一般人は日々の生活に大変苦労する人々らしかった。科学の力ってすげーんだぜってことを、どうやら彼女は知らなかったらしかった。
 ヴィオレッタはまず、リンの服装を指摘した。

 ───少し、肌を出しすぎでは無いかしら。もう少し、襟を詰めるべきね。スカートのラインも体の線が出過ぎているから、生徒達を刺激しすぎないように、パンツスタイルにしましょうね。

 ───色も、職場に着てくるには少し派手ね。白、黒、灰色、もしくはベージュにしましょう

 春らしい淡いグリーンのトップスが、あっという間に白いワイシャツに変えられる。これでは寒いかしらとベージュのカーディガンが着せられ、リンの体にぴたりとそっていた黒いスカートはそのままスラックスに変えられてしまった。自分の襟ぐりの深いフレアワンピースのことを棚に上げて、さあこれでいいわ、相応しい姿になったわねと上機嫌のヴィオレッタの背後でクルーウェルが鬼の形相になっているのを、リンは全力で見なかったことにした。
 次にヴィオレッタの気に触ったのは、リンの立ち位置だった。ヴィオレッタを案内するために先導していたリンに、「異世界では異なるのかもしれませんが、一応わたくしはあなたより目上の立場ですから……心苦しいのですけれど、あなたのためを思って、お教えいたしますね」と自分の後をついてくるように指示をした。
 リンは大人しくこれらの言葉に従っていたが、ヴィオレッタのこれは時を経るごとにエスカレートした。
 ついに言葉だけではなくなって、魔法で暴力を振るわれたきっかけはなんだったか───確か、ヴィオレッタのためにリンから用事を言いつけられた生徒が、リンに頼まれた物を渡して、ヴィオレッタへの挨拶もそこそこに、急いで授業へ戻ってしまったからだったような気がする───どうでもよくなるくらいほんの些細なことで、ヴィオレッタは必要以上にリンを責めた。
 リンの怪我は本来ならば保健室で治療すべきものだし、リンも今度ばかりはそうするつもりだったが、ヴィオレッタはいつも保健室が閉まる時間になってからリンを解放する。日中も、リンが保健室などに行く暇を与えない。あれこれと用事を言いつけて、リンが断ったり他の者が代わったりしようとすると、「彼女がひとり抜けようと、業務に支障は無いようにできると仰っておられましたよね?」「もしよろしければ上層部に訴えて、環境改善のお手伝いをすることもできますが……」と半ば脅しのような文句を言って、スタッフや教員がリンを助ける手段を潰し、どこまでもリンを自分のいいようにして扱った。
 少しでも自分の意に染まなければ、すぐに仕置きと称して、言葉で、暴力で、リンを責め立てる。やれ生徒との距離が近すぎるだの、やれ教員に色目を使っただの、虚偽を吹聴しようとしただの、重箱の隅を突いて、自分がリンを罰するに相応しい大義名分を作り出す手腕は見事としか言いようがなかった。
 多くの生徒達にとってはそうではないかもしれないが、学園で働く大人達にとって、ヴィオレッタは厄介以外の何者でもなかった。
 一通りの治療を終えて、リンは煙管を咥えた。流れるようにルークが火をかざす。遠火で火をつけて、リンは煙を吐きながら言った。
「助かるよ。すまんね」
「お安い御用さ、Mademoiselle」
 しかし、とルークは撮りためられた写真を見やった。
「これだけあれば証拠としてはじゅうぶんだろう? どうしてまだ何も言わないんだい」
「しょうがねえよ、今の私は『レ・ミゼラブル』だからな」
「、そんな……ことは、ご自分で仰るものではないだろう」
「まともに取り合われねえさ。まずは、あいつの味方を、味方でいられなくさせなきゃな」
 ルークは反論しかけて、しかし嘆息した。そんなことはない、と言ってしまうのは簡単だが、持っている情報量が確実にリンより劣っているのに、気休めにしかならない言葉をリンにかけるのは、どうも何かが違う気がした。
 こういう時は、いっそ何の事情も知らない身内の、取るに足らない言葉が救いになることだってある、とそこまで考えて、とある生徒の顔がルークの脳裏に浮かぶ。
……そう言えば、トリックスターが会いたがっていたよ。寝る前に、部屋を訪ねてやってくれないか」
「あぁ……、まだ起きてるかな……ありがとう、そうするよ」





 日付が変わろうか、という時間帯だったがしかし、ユウはまだ起きていた。グリムはすっかり寝てしまっていたが、今からでもリンが戻ってきているか、部屋を訪おうとして、しかしヴィルに「夜はちゃんと寝なさい」と釘を刺されたことを思い出してしまい、うろうろ迷っているところだった。
 部屋の扉がノックされて、ユウは一瞬飛び上がるほど驚いたが、すぐに聞こえた「ユウ、起きてる」という声に、意識して肩の力を抜いた。ほ、と安堵の息が溢れる。
 部屋に招かれたリンは苦笑した。
「まだ起きてたの」
「はい、……その、眠れなくって」
「じゃ、寝られるまで傍にいてあげよう」
 静かで深い、穏やかなリンの声に、はい、とユウも自然に返した。自然な会話ができていることに気付いて、それにもホッとする。
 グリムを起こさないようにベッドに入り、ふんわりとした分厚いブランケットをかけてもらって、ユウはふわふわの枕に顔を埋めた。
……リンさん」
「ん?」
……なんだか、久しぶりな気がします。こうやって、ちゃんと話すの」
「そうだね」
 ユウとは、朝晩の食事を共にするのが当たり前だった。こうしてほとんど一日顔を合わせない日が続くのは、今までなかったことだった。
「ご飯、ちゃんと食べれてますか」
「それが、あんまり。ユウは? ちゃんと食べてる?」
「はい。今日は、キーマカレーを作りました。お豆と、野菜たっぷりの、ドライカレーです」
「あら、美味しそう」
「最近、おとなしめの味が続いてたので……大好評でした」
 ふふん、とユウが自慢げにする。グリムが起きないように潜められた声で交わす会話が可愛くて、リンもゆるりと相合を崩した。
「頑張ってるね。……無理してない?」
「、……
 はい、と言いかけて、ユウは一度、きゅむりと口を噤んだ。
「無理、してるのは……リンさんじゃないですか」
……はは、そりゃその通りだね」
 リンが苦笑する。ユウは、ぐ、と奥歯を噛み締めて、息を吸った。
「私、は。リンさんの、負担、ですか」
 案外、はっきりとした形を持ったそれに、ユウが深く呼吸する。リンは瞬いて、しかし、変わらない声音で続けた。
……負担に思わない、と言えば、嘘にはなる。私にとって、この世界に、来たくもなかったのに来てしまってから起こったこと、ほとんど全てが、私にとって理不尽なことばかりだからね」
 でも、とリンが静かに言葉を続けた。
「ユウとふたりぽっちだと気付いたときに、私は、あんたを五体満足でご家族の元に返すと決めた。ユウが、元の世界で得られるはずだった経験をさせて、必要な知識を身につけられるような選択肢を用意しなければならないと思った。万が一のことがあったら、頭を下げるだけじゃすまないだろうことも、覚悟してる」
 静かな声が、しんしんと降り積もる。リンの声以外の音が、聞こえなくなったかのようだった。
「だからね、ユウ。あなたが、そんな小難しいことを気にしないで、あなたらしく日々を生きてくれるのが、私の譲れないこと。私の誇り」
「───」

 ユウは、言葉を失った。

「あんたが嫌がっても、あんたがひとりで生きてけるようになるまで、あんたの保護者は私。分かった?」
…………はい」
 いやじゃないです。いやじゃないんです、リンさん。
 ちゃんと言った方がいいと思った。ちゃんと言いたかった。心は全力で叫んでいた。
 でも、ユウには、シーツをギュッと握りしめることしかできなかった。